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食 の 自 分 史

鯉(コイ)

(34) コイ(鯉)

 小学校5年から中学1年までを過ごした長野県は佐久平で、忘れることの出来ない食材がある。「佐久ゴイ」として知られた「鯉」である。むろん日常普段に食べるものではなかった。冠婚葬祭や年末年始など、ハレの日の特別なご馳走として振る舞われる魚だった。鯉料理といっても、当時、実際に食べた記憶があるのは「鯉こく」だけである。それも、近ごろの川魚料理店で供されるような、ブツ切りの厚い切り身が椀から溢れんばかりに盛られているような、見栄えを重視した料理ではなかった。切り身をさらに四つ切り程度に切り分け、長い時間をかけて味噌で煮込んだ汁だった。戦中戦後の、蛋白質に飢えていた子供だったからでもあろうが、こんな美味い味噌汁があろうかと思って食べたものだ。

 鯉料理には、「こいこく」の他にも、刺し身の一種である「洗い」が有名である。だが、子供時代に食べた記憶はない。もともと、この「鯉の洗い」を調理するには、かなりの熟練が必要である。大型魚をさばく機会のない、山村の主婦の手に負えるような料理ではなかった。鯉料理は、何の料理であれ、生きた鯉をさばくことになる。「俎の上の鯉」という言葉から、鯉は俎の上に載せてしまえば観念しておとなしくなると思っている人もいるようだが、そうとは限らない。俎の上に載せたら、手早く頭を叩いて気絶させる必要がある。その上で、まず「わた」を抜く。この時は、「苦玉(にがたま)」つまり胆嚢を潰さずに取り出すことが重要で、もし潰してしまえば苦みが身にまわって、味を損なうからである。ついで、これを三枚におろし、腹骨をとって皮を挽くといった準備作業だけでも手間がかかる。その上で、小骨が気にならないように骨切りをするか、ごく薄く切る。これを50〜60度の温水で手早く洗い、さらに冷水で締めるのである。YouTubeに鯉料理のプロが、1匹の鯉をさばいて「洗い」に仕上げる動画が掲載されている。これを見て、どれほどの技が必要かを、とくとご覧いただきたい。山村で、こうした「鯉の洗い」を調理できたのは、鶴や亀の飾り切りなどもこなす「お料理人さん」だけだった。村に一人か二人は、結婚式の宴席でそうした腕前を披露できる人がいたのである。

今では、日本中どこでも新鮮な海の魚が手に入るようになったから、鯉はあまり人気のある食材ではない。しかし、かつては、内陸で手に入る大型の鮮魚として、鯉は最高級の食材だった。「包丁初め俎開き」の儀式に使われる魚も、多くは鯉である。日本だけでなく、世界中の内陸部で、鯉は珍重されていた。とくに中国では、鯉が瀧を登って龍となるという言い伝えもあってか、鯉は魚のなかでも最高級の食材だった。揚げて甘酢をかけた「糖醋鯉魚」は有名である。東欧でも、クリスマス・イヴに、鯉の唐揚げを食べる習慣があるという。

 もちろん鯉の名産地は佐久だけでない。会津や郡山、霞ヶ浦や琵琶湖、さらに宮崎や福岡など、海から離れた地域には、鯉の産地がある。ただ2003年秋から2004年をピークに数年間、「コイヘルペスウイルス」が各地で猛威を振るい、霞ヶ浦など大打撃を受けたようである。幸い「佐久鯉」はいまだに健在で、名産として知られている。もっとも、今の「佐久ゴイ」は、専業の業者によって、養殖池で生産されている。しかし、私が疎開していた村には養殖業者はおらず、すべて農家の副業、それも販売用というより自家消費のための「水田養鯉」だった。田植えの後に稚魚を放し、秋の刈り取り前に捕獲する。養殖といってもほとんど放し飼い同然だった。雑食性の鯉は、田んぼの雑草や各種の水中生物 ─ 巻き貝や蛙、ドジョウ ─ 、さらにはトンボなどの水辺の昆虫を餌にして大きくなった。養蚕農家では、生糸を挽いた後にでるサナギを餌として撒いていた。秋から春にかけては、屋敷内に設けた小さな池で飼っていた。至るところに清流が流れているから出来ることだったが、2軒に1軒程度の割合で屋敷内に池があった。池に流れ込む水路で米を磨ぎ、野菜や食器も洗った。そこで出る野菜屑などが鯉の餌となる仕組みだった。しかし、1950年代末から60年代にかけて、水田に除草剤が使われるようになったことで「水田養鯉」は消滅した。

 最後に、オマケの豆知識を記しておこう。これは数年前に観た、NHK教育テレビの《サイエンスゼロ》で知ったことだが、世界中の鯉は、形態はちがってもすべて同一種なのだそうである。つまり錦鯉や真鯉、あるいはインドネシアにいる鰭の長いコイなどは、いずれも「種」の下位分類である「品種」の違いに過ぎず、「種」としては同一だという。しかも、Cyprinus carpioを学名とする「コイ」は、コイ目・コイ科・コイ亜科・コイ属に分類される唯一の種、とされてきた。しかし、コイヘルペスウイルスの流行で琵琶湖の「野鯉」が大量死したことで、「ノゴイ」の遺伝子解析がすすみ、日本固有種の「野ゴイ」は、他のコイとは違う新種である可能性が高くなったという。そうなると、コイは単一種ではなく、複数の種が存在することになり、これは大きな発見だった。だがそれと同時に、琵琶湖に僅かに隠れ住む「ノゴイ」は、その生存が危ぶまれる絶滅危惧種になったのである。
〔2017.1.13 記〕



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written and edited by Nimura, Kazuo
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