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二村 一夫

亀戸事件小論

一、自由法曹団の調書と『種蒔き雑記』

 今年は関東大震災の45周年にあたっている。関東大震災の45周年は、同時に数千人の朝鮮人虐殺事件の45周年であり、また大杉事件、亀戸事件の45周年でもある。小論は、これら3事件のうち研究がもっともおくれている亀戸事件について、主要関係資料の紹介をかねて問題点を整理し、検討を加えたいと思う。
 事件後45年をへた今日においても、これら大震災下におこったいまわしい諸事件の全容は充分に明らかにされてはいない。権力犯罪の常として犯行はひたかくしにかくされ、証拠は念入りに消し去られ、事件に関する調査・報道にはさまざまな圧迫が加えられたからである。もっとも3事件のうち、大杉事件については軍と警察との対立により比較的早く事実が暴露され、まがりなりにも軍法会議が開かれたため、事実関係は比較的明らかになつている。淀橋警察署長らが大杉殺害を依頼したか否か、軍の上層部から大杉殺害命令が出されていたのではないかなど、重大な疑問は残るが、犠牲者が大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人であることは確実であり、大杉、伊藤の下手人が憲兵大尉甘粕正彦であること、宗一少年に直接手を下したのは鴨志田安五郎、本多重雄の両上等兵であること、犯行全体に憲兵曹長森慶次郎が干与していることなどはほゞ確かである。
 これに対し、朝鮮人虐殺事件は、その数があまりにも多く、事件当時、その調査、報道が厳重に制限されたため、いまだに犠牲者の人数さえ正確にはわかっていない。最近、姜徳相、琴秉洞、松尾尊兊、今井清一の諸氏によって多くの資料が発掘紹介され、研究が進んだとはいえ、事件の全貌を明らかにするにはほど遠い状態である。
 この朝鮮人虐殺事件にくらべれば、亀戸事件については、はるかに多くの事実がわかっている。9月3日夜に犠牲者たちが検束されたすぐ後から、彼等の家族や南葛労働会の同志たちが文字通り「決死の覚悟」で事件の真相追求に動いたからである。また、山崎今朝弥、布施辰治ら自由法曹団の弁護士、総同盟や造機船工労組合などの労働組合もこの活動に加わり、事件の真相究明とその責任追求をおこなったからでもある。とりわけ自由法曹団がはたした役割は大きかった。布施辰治、山崎今朝弥らは、警察が事件を公表する以前から活動を開始し、各方面から情報を蒐集して虐殺の事実をつきとめ、亀戸署はもちろん、警視庁、検察当局や憲兵隊にまでのりこんで、事件の公開と司法権の発動を要求した。この布施らの活躍がなければ、亀戸事件はまったく闇にほうむられたままで終ったかもしれない。
 1923年10月10日、事件発生後1ヵ月以上たってから警視庁は亀戸署内で10人の労働運動者と4人の自警団員が殺された事実を認めた。同日、労働総同盟は正式に自由法曹団に対し事件の調査と証拠の蒐集を依頼した。また犠牲者の遺族も南葛労働会を通じて自由法曹団に事件を依頼した。自由法曹団の弁護士たち、山崎今朝弥、布施辰治をはじめ松谷与二郎、黒田寿男、三輪寿壮、細野三千雄、片山哲、宮島次郎、東海林民蔵、牧野充安、田坂貞雄、吉田三市郎、和光米房、沢田清兵衛、藤田玖平、飯塚友一郎らは分担して、家族や友人から犠牲者の震災後の動静、検束当時の状況などについて聞き、聴取書を作成した。ここに資料として収録した『亀戸労働者殺害事件調書』がそれである。
 この自由法曹団の調書は、鈴木文治が「亀戸事件の真相」(『改造』1923年11月号)で、また森戸辰男が「震災と社会思想と反動勢力」(『我等』第6巻第1号、のち森戸辰男『思想と闘争』に収録)で用いたほか、金子洋文がこれを抜粋したものを作成した。「亀戸の殉難者を哀悼するために」との副題をつけ、1924年1月、種蒔き社から出版された『種蒔き雑記』がそれである。『種蒔き雑記』は亀戸事件の真相をつたえる記録として広く知られ、これまで3回ほど復刻されているが、『雑記』のもとになった『調書』の方は、これまで発表されていない。
 『種蒔き雑記』がこの自由法曹団の『亀戸労働者殺害事件調書』に全面的に依拠していることは、両者を読みくらべていただけばすぐわかることだが、『雑記』についての誤った、あるいは正確を欠く解説が流布しているので、念のため、次のことを指摘しておこう。一つは『雑記』の編輯後記である。そこには「この記録は総同盟でつくった(亀戸労働者事件調査)から抜粋したものである。総同盟はやがて全文を発表するであろう」と記されている。また『雑記』の筆者、金子洋文氏も『種まく人』についての回想記で「資料は小牧と洋文が総同盟を訪ねて加藤勘十君の手から直接得たもので、それをもとにして洋文が執筆した」(東京大学新聞、1961年3月1日)と述べている、また、小牧近江『ある現代史』にも同様の記述がある。しかし『種蒔く人』の同人であった今野賢三氏が『秋田県労農運動史』のなかで『種蒔き雑記』について次のように述べているのは、この間の事情を誤ってつたえるおそれがある。
 「『この記録は総同盟でつくった、亀戸労働者事件の調査から抜粋したものである』とことわっているが、実は『平沢計七君の靴』以下の小品はなんら筆者(金子洋文)の主観を交えない、にくらしいほど冷静な創作である。」
 このほか、渡部義通、塩田庄兵衛編『日本社会主義文献解説』、山田清三郎『プロレタリア文学史』などが『雑記』は種蒔き社の小牧、金子、松本、今野らが直接調査したものであると解説しているのは訂正の要があろう。
 だからといって、『種蒔き雑記』があの厳しい時代に、勇気をもつて亀戸事件の真実を世に伝えた功績は少しもそこなわれるものではない。また筆者自身は「調査の抜粋」とひかえ目ないい方をされているが金子洋文の筆は『雑記』を単なる抜粋には終わらせず、ひとつの文学的創作の名に値するものとしていることも、また疑いない。

 

二、警察発表と政府の答弁書

 亀戸事件の調書が検察官や裁判官によってでなく自由法曹団の弁護士によって作成されたのは、いうまでもなく当局が事件を不問に付したためである。警察の発表が事件の真相を全く伝えていない、事実をゆがめていると考えられたからである。そこで調書の意義を明らかにするためにもまず当局の事件についての発表を見ておく必要がある。
 大正12年10月11日付の各新聞は、そろって前日の亀戸事件に関する警察発表を大きく報道した。いま、東京朝日、東京日日、報知、時事、大阪毎日の各紙が亀戸警察署長古森繁高、警視庁官房主事正力松太郎らの談話として報ずるところを見ると、細部ではかなりのくいちがいがあるが、次の点ではほゞ一致している。
 1.9月4日夜、亀戸警察署内で、木村丈四郎、岩本久米雄、鈴木金之助、秋山藤四郎の四名は、田村春吉少尉のひきいる騎兵第13聯隊の兵士によって刺殺された。彼らは、いずれも南葛飾郡砂町久左衛門町の住民で、4日早朝、自警団として立番中に制服の巡査に暴行を加えたため逮捕されていたものである。殺された理由は、留置場内で騒ぎ立てて警官の手におえず、来援の軍隊が留置場外につれだして制止しようとしたところ、傍にあった薪をふるって反抗したためである。
 2.その後、9月4日深夜から5日早朝にかけて平沢計七、川合義虎、山岸実司、北島吉蔵、鈴木直一、近藤広造、加藤高寿、吉村光治、佐藤欣治、中筋宇八の10名の労働運動者は、亀戸署の演武場横の広場で習志野騎兵第13聯隊の兵士によって殺害された。彼らは、震災後おれ達の世がきたと革命歌をうたい、「朝鮮人が毒薬を井戸に入れた」など流言を放っていると附近の者が密告してきたため3日夜検束した。彼等は留置場内でも革命歌をうたい、多数の留置人を煽動して手がつけられないので、軍隊に制止方を依頼したところ、更に反抗したため殺されたものである。
 3.死体は附近の空地にはこび出し、他の多数の死体とともに石油をかけて焼いてしまった。家族からの問い合わせには「既に釈放した」と答えさせた。事実を言えば一層騒ぎが大きくなると考えたからである。
 4.軍隊の処置は衛戌勤務令第12によつた適法のものであると認めた。
 なお、この年の末に開かれた第47帝国議会において、衆議院議員横山勝太郎は亀戸事件について質問書を提出し、12月20日、内務大臣後藤新平、陸軍大臣田中義一の連名で答弁書が発表された。内容的には重複する点が多いが、いわばこの事件に対する政府の公式見解ともいうべきものであるから、ここで全文を紹介しておこう。

 衆議院議員横山勝太郎君提出労働者刺殺ニ関スル質問ニ対スル答辯書
一、大正十二年九月三日亀戸警察署ニ於テ労働者平沢計七等九人ヲ検束シタルハ震火災ニ依ル人心動揺ノ際或ハ革命歌ヲ高唱シ或ハ流言蜚語ヲ放ツ等当時ノ状況ニ徴シ頗ル不穏ノ言動アリシヲ以テ公安保持上其ノ必要アリト認メタルニ因ル
二、右被検束者ハ検束後ト雖モ盛ニ革命歌ヲ高唱シ喧騒ヲ極メ警察官ノ命ニ服セサルノミナラス他ノ検束者ヲ煽動シ警察官ノミニテハ到底其ノ警護ヲ完ウシ能ハサリシヲ以テ当該警察署長ヨリ同付近ニアリタル警備隊ニ其ノ応援ヲ求メタリ依テ該部隊ハ直ニ之ニ赴キ警察官ト共ニ平沢計七外八名ノ者ヲ監房外ニ離隔シタルモ彼等ハ尚鎮静セス甚シク抵抗シ暴挙遂ニ同署内ニ収容セル約七百六十名ノ収容者ニ波及セムトシ事態頗ル重大ナルヲ認メ兵器ヲ用ウルニアラサレハ到底拾収シ能ハサルニ到リタルヲ以テ当該部隊指揮官ハ衛戌勤務令第十二ニ基キ部下ヲシテ彼等ヲ刺殺セシメタリ
三、右被害者ノ屍体ヲ直ニ遺族ニ引渡スニ於テハ一般人心ノ動揺ヲ惹起スル虞アリシヲ以テ治安維持ノ必要上之ヲ遺族ニ通スルコト能ハス而シテ屍体ハ腐敗ニ傾ケル為メ亀戸警察署ハ行旅死亡人取扱ノ例ニ依リ之ヲ吾嬬役場ニ引渡シタルニ同町役場ハ之ヲ火葬ニ付シタリ
四、前記ノ事実ヲ大正十二年十月十日迄公表セサリシハ当時人心尚安定セス治安維持ノ必要上未タ其ノ時期ニアラスト認メタルニ因ル
 右答辯候也(『官報号外』大正十二年十二月二十一日──第四十七帝国議会衆議院議事速記録第七号)

 三、警察発表の検討

 つぎには、警察発表や政府の答辯書の内容を検討しておこう。問題となるのは次の3点である。(1)平沢らの検束理由 (2)殺害の理由 (3)事件を1ヵ月余も公表しなかった理由。

1.検束の理由

 政府の答弁書では、検束理由は「革命歌ヲ高唱シ或ハ流言蜚語ヲ放ツ等当時ノ状況ニ徴シ頗ル不穏ノ言動アリシヲ以テ公安保持上其ノ必要アリト認メタルニ因ル」となっている。10月10日の古森亀戸署長談として各紙が伝えたところもまた革命歌であり、流言輩語である。しかし、注目すべきことは、警察は平沢らが革命歌をうたったり、流言を放つていることを直接確認してはいないのである。
 「附近のものが密告してきたのでおどろいて引っ張って来た」(東京日日)のであり、「頗りに流言蜚語を放ち住民を煽動したため益々町民の激昂を買ひ亀戸署に1日以来の彼等の行動を訴へ取締方を願出たので、…検束した」(報知)のである。
 「附近の住民」とか「町民」といってその氏名を明らかにしていないのは、密告の性質上当然かも知れないが、警察の主張の信頼性を弱めていることは否定できない。さらに考えてみると、「附近の住民」が、「鮮人が井戸に毒を入れた」「鮮人が押寄せる」と平沢らが云っているのを「流言蜚語を放つもの」として激昂して取締方を願出たと云うのもはなはだ奇妙である。9月3日の時点では、少くとも一般民衆にとって「鮮人襲来」は決して流言蜚語ではなく事実だと考えられていたのではないか。だからこそ自警団が組織され、大勢の朝鮮人が虐殺されたのではなかったか。
 これに対し、自由法曹団の聴取書で家族や友人が犠牲者の検束までの行動について証言しているところは、きわめて具体的でリアリティーがある。ここで私が一人一人の言動について述べるより、直接聴取書を見ていただく方がよいだろう。彼らに「不穏の行動」などまったくなかったことが確信されるにちがいない。なお、古森亀戸署長が、家族に対しては検束は保護検束であった」と新聞報道とは異った弁明をしている事実も注意する必要がある。(〔15〕南喜一聴取書)

2.殺害の理由

 政府の答弁書によると、平沢らの殺害理由は彼等が検束後も革命歌を高唱し、多数の収容者を煽動し軍の制止に対しても反抗したためであるという。またその法的根拠は衛戌勤務令第十二であるとしている。
 川合らが革命歌を高唱したり、収容者を煽動して「名状すべからざる混乱」をひきおこしていたとの主張に対する有力な反証は〔20〕全虎岩(立花春吉)の聴取書である。
 全は1921年、苦学するために日本に渡った朝鮮人で、亀戸町の福島ヤスリ工場に工員として働いていた。南葛労働会の会員である。『労働組合』第1巻第1号の組合会報欄には、1923年のメーデーで南葛労働会員10名が検束されたなかに全の名がみえるが、おそらく同一人物であろう。ちなみにこの時全は殺された北島や、この直後第一次共産党事件で検挙された渡辺とともに外神田署に検束されている。震災のときは、工場の友人十数人にまもられて自ら亀戸署に保護を求め3日午後から6日朝まで亀戸署内にあって、当時の署内の状況について知る数少い証人の一人である。他の検束者や収容者が後難をおそれて証人になりたがらなかったなかで、彼は犠牲者の遺族に裁判の証人になってほしいと希望されたため、帰国の予定を中止して、この証言をのこしたのである。なお、朝鮮大学校の朝鮮に関する研究資料第9集『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実体」のなかに、同氏の体験記がある。
 話をもとにもどそう。かりに、川合らが革命歌をうたい、収容者を煽動したことが事実であるとしよう。だが、それが彼等全員を殺害する正当な理由となるであろうか。殺害の法的根拠として主張された衛戌勤務令第十二は次のとおりである。

 衛戌勤務ニ服スル者ハ、左ニ記スル場合ニ非ザレバ、兵器ヲ用ユルコトヲ得ズ
一、暴行ヲ受ケ、自衛ノ為止ムヲ得サルトキ
一、多数聚合シテ暴行ヲ為スニ当リ、兵器ヲ用ユルニ非ザレバ鎮圧スルノ手段ナキトキ
一、人及土地、其他ノ物件ヲ防衛スルニ、兵器ヲ用ユルニ非ザレバ他ニ手段ナキトキ
衛戌勤務ニ服スル者、兵器ヲ用ヰタルトキハ、直ニ衛戌司令官ニ報告シ、衛戌司令官ハ之ヲ陸軍大臣ニ報告スベシ(後略)

 まず、衛戌勤務令第十二は兵器を使用しうる条件を規定しているのであって、人を殺すことを認めているのではないことを確認しておこう。
 ところで、新聞報道でも政府の答弁書でも、平沢らが軍と警察の力で一旦監房外に連れ出され、他の収容者とは隔離された上で殺されていることは明かである。もしかりに、彼等が収容者を煽動し「名状すべからざる混乱」をひきおこしていたことが事実であるとしても、ひとたび他の収容者から切り離されてしまえば、その力は武装した軍人や警官にとっておそるるに足りないものであったろう。とすれば、彼等を房外につれだすことだけで、鎮圧の目的は達しえたはずである。また、一部の新聞(東京日日)が伝えるように、彼等が房外につれだされたとき、傍の薪をもって抵抗したことが事実だとしても、武装した兵隊にとって、彼等全員を殺す以外にこれを鎮圧しえず、また自衛しえなかったとはとうてい考えられない。さらに注目すべきは、労働組合員が殺された僅か数時間前に、自警団員4人が殺されていることである。彼らが殺された理由は、薪をもって抵抗したためであると発表されている。薪がそれほど危険なものであるなら、当然、自警団員を殺害した後で、これを他の収容者の手のとどかない場所に移す措置がとられてしかるべきであったろう。平沢らが薪で抵抗したとの説は疑わしい。

3.事件を一ヵ月余も隠蔽した理由

 第3の問題は9月4日から5日にかけておこった事件が、10月10日まで隠蔽されてきたことである。しかもその間、何人もの家族や友人が犠牲者の安否をたずねているのに対し、「本庁へ送った」とか「釈放した」などと事実をいつわり、この間に遺体を勝手に焼却してしまっている。もし殺害が警察の云うごとく正当な理由のあるものならば、なぜすぐに死体や遺留品を遺族に引き渡さなかったのか。
この警察の行為は明かに死体遺棄罪ではないかなどの批判は、事件発生当時からかなり強かった。
(たとえば『東京朝日』10月12日付参照)
 これに対して警察当局および政府の弁明は、事件を直ちに発表した場合は人心の動揺を惹起し、公安を害するおそれがあったと云うのである。しかしこれを正当な弁明と認めることはできない。そのことは遺体処理の方法をとつてみるだけで明らかである。もし、警察に事件を隠蔽する意図がなかつたのであれば、なぜ各人の死体について検視あるいは検証調書を作成しなかったのか。また、どうして死体の焼却にあたって各人を区別せず、遺骨が誰の者かまったくわからない状態にしてしまったのか。これでは、警察が意識的に証拠の湮滅をはかったものとみられてもしかたがないだろう。
 ついでながら、事件が発表された10月10日は、当局にとってそれほど好ましい時期ではなかったと思われる。なぜなら、前々日の10月8日は大杉事件の第一回公判の開かれた日であり、新聞は毎日「甘粕事件」と、その公判廷の様子を詳しく報道していた。そのさなかに公表された亀戸事件は、「第二の甘粕事件」として大々的に報じられた。軍や警察への信頼を失わせるような事件を相ついで発表することは、当局にとつて決して得策ではなかつたと思われる。
 では、なぜそんな時期に発表したのか。どうせ1ヵ月余も隠しつづけてきたのだから、もうしばらくふせておくことも出来たのではないか。
 この謎をとく鍵は大杉事件にある。大杉事件は9月20日には時事の号外によつて報じられたが、これは直ちに発禁になり、事件に関する記事差止が解除されたのは、公判がはじまった10月8日のことであった。この記事差止解除と同時に、つぎのような注意が発せられた。

 「甘粕事件ニ関シ第二回被告調書中森慶次郎陳述ノ『隊内ニテ主義者ヲヤツツケタホウガイイトイウ話ハ毎日ノヨウニ云々』オヨビ該人訊問調書中小山介蔵陳述ノ『一日夜云々』ヲ掲載シタル時ハ場合ニヨリ禁止処分ニ付セラルル趣ニツキ左様御了知相成リタシ」(美土路昌一『明治大正史−言論篇』)

 時事新報はこの注意を無視して号外を出した。問題の箇所は次のところである。

 「問 尚、今月〔9月〕十日前頃のことであるが被告は憲兵隊にて甘粕大尉に向ひ、淀橋署にては、大杉を遣付けたい意向であるとのことだが、四谷憲兵分遣所よりの特報に出てゐると云ふことを話さざりしゃ。
答 私は話したことはありませぬが、他の者が話したかも知れませぬ。…併し隊内では主義者を遣付けた方がよいといふやうな話は、毎日のやうに皆が雑談して居りました。又、亀戸警察署では八名計りを遣付けたと言ふやうな話も、皆が致して居りましたやうな状態でした」(傍点引用者)

 なお、この10月8日の時事新報の号外の完全なものを見ることができないでいるので、この引用は森戸辰男「震災と社会思想と反動勢力」(前出)からの重引である。東大明治新聞雑誌文庫所蔵のものは、該当部分だけが伏字になつている。この森訊問調書の内容は、時事の号外が出る前に山崎今朝弥を通じて南葛労働会にも伝わっていた。
南葛労働会「亀戸事件日誌」(『社会運動通信』1924.1.1、『解放』1925年10月号に再録)の10月5日の項には「山崎氏より甘粕の調書中に八人やつつけたとあるのは、誰と誰が知り度しとの手紙来る。」とあり、さらにそれより先9月25日の項には「山崎今朝弥氏の端書により愈々虐殺の事実なるを知りますます運動を進む」とある。9月24日には大杉事件が一部発表になっているのでおそらく、この時に山崎はどこからかこの調書の内容を知ったものであろう。
 後掲の〔7〕加藤たみ聴取書によれば、10月7日に警視庁は宇都宮署を通じてのたみの問い合わせに対し「この事件は解決が長びく」と回答している。おそらく、この時点では事件の公表はもっと先のことと考えていたのであろう。ところが、10月9日には、各新聞社の記者が南谷検察正に亀戸署での自警団員殺害のうわさを問いただしたのに対し、検事正は次のように答えている。

「明日中に該事件に関する憲兵の報告がある筈になっているから当局としては其の報告をまって後方針を決める積りだ」(「自警団員殺害事件に付当局者に質す」『法律新聞』第2171号)

 7日から9日の間で急に方針が変ったとすれば、やはり8日の時事の号外で虐殺の事実がおゝやけになったため、急遽、警察は軍と打合わせて公表にふみきったものと考えるのが自然であろう。

四、事実に関する異説の検討

 以上、警察発表の疑問点を検討し、その内容が矛盾と混乱にみちていることを明らかにしえたと思う。しかし、これで亀戸事件の真相が明らかになったとはいえない。亀戸事件の問題点は、何よりも肝心の殺害に関する具体的事実がはなはだ漠然としていることである。すなわち、何時、何処で、誰が、誰を、どのようにして殺したのかといつたことが、一応わかっているようでいながら、案外はっきりしていないのである。これまで亀戸事件を論じたそれほど多いともいえない文献の間でも、これらの事実についてかなり異った見解がみられる。45年も前のことで.しかも物的証拠が完全に湮滅されてしまつた事件だけに、これらの事実を確認することはほとんど不可能と思われる。さしあたって、こゝでは、いくつかの異説について整理し、若干の検討をこころみたい。

1.殺害者は誰か

 警察発表その他では、殺害者は田村春吉少尉のひきいる習志野騎兵第十三聯隊の兵士であるとされている。これに対し、南葛労働会員であった杉浦文太郎氏は、刺殺者は騎兵隊の後ではいってきた宇都宮の兵隊であったかも知れないとされ、(『労働運動史研究』36号)また同じ南葛労働会員であった湊七良氏は、「宇都宮歩兵隊がほんとうのこと」と断言されている(『労働運動史研究』37号)。また志賀義雄氏も「関東大震災の犠牲著にさゝげる」(『日本革命運動史の人々』1948年、所収)で川合ら8名が「カメイド警察署でウツノミヤからきた部隊の一小隊にわたされ放水路附近で銃殺された」と述べている。しかし、志賀氏は、のちにこの部分を「習志野からきた騎兵部隊の一小隊にわたされ放水路附近で虐殺された」と改めておられる(『日本革命運動の群像』1956年)。
 宇都宮説が何を根拠に主張されているのか不明だが、調べた限りでは宇都宮説を裏づける資料は見出せなかった。かりに、裏づけ資料があったとしても、今度は宇都宮の第14師団がなぜ習志野騎兵第13聯隊に責任を転嫁しなければならなかったのか、また習志野側がそれを甘受した理由についても明らかにしなければなるまい。やはり、殺害者は習志野騎兵第13聯隊の兵士であったとみるべきであろう。

 しかし殺害者の氏名となると、指揮官の田村春吉少尉のほかには一人としてわかっていない。その田村少尉にしても経歴などの詳細は不明である。もっとも、南葛労働会の「亀戸事件日誌」の10月21日の項には、「習志野に刺殺責任者の身元調査に行く。(田村と云ふ奴は極悪無道できらわれ者だ)」とあるので、南葛労働会の関係者にきけば田村少尉についてはもう少しわかるかもしれない。
 また、これが平沢らの殺害者の一人かどうか不明だが、当時亀戸署にいたことが確かな兵士の名がわかっている。勤労者として表彰されているのである。習志野説を裏づける資料でもあるので、その勲功具状を引用しておこう。

「 騎兵第一三聯隊第四中隊
      陸軍騎兵二等卒 郡司初太郎
                外一名
 右は今回の大震災に際し東京救援の為出動したる騎兵第十三聯隊の亀戸付近警備中大正一二年十月四日午後七時亀戸署内に於て衛兵服務中、暴漢が突然鉄拳を以て飛付き暴行するや、沈着克く事を処し以て、騒擾を未然に防止し得たるは、服務の方法機宜に適せり。其の行動は衆の模範とするに足る。」(『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人』133ページ)

 問題は亀戸警察署員である。彼等が虐殺に直接手をかしたか否かである。古森亀戸署長、正力警視庁官房主事はその談話のなかで、警察は留置場からひきずり出すのを手伝っただけで手は下していないことを強調している。甘粕事件の公判において、淀橋警察署員が大杉殺害を依頼したか否かで軍と警察との間にかなり激しい対立をひきおこしていた時だけに、この言い分は認めてもいゝかも知れない。しかし、甘粕事件は公判廷という公の場に引き出されたために対立が表面化したのであり、亀戸事件の場合は衛戌勤務令第12で片づけることに警察と軍とで打合せのうえ発表しており、かりに対立があっても裏で取りひきされてしまったことも充分考えられる。
 だが、かりに古森らの云い分を認めたとしても、警察が殺害を軍隊に依頼したのではないかとの疑問は残る。この点では古森署長はじめ亀戸署員、なかでも安島、北見、蜂須賀、小林、稲垣、深沢ら高等係刑事、伊藤巡査部長らはシロとは、云い難いと思う。はつきりした言葉で殺害を依頼しないまでも、彼らが特定の人間を選んでこれを「鎮圧」あるいは「制止」することを軍に依頼したにちがいないからである。7〜800名もいた在監者のなかから、平沢や南葛労働会員を選び出すことは習志野から来たばかりの軍人に出来るはずはない。
 いずれにせよ、警察が平沢らの殺害を制止しなかったことは明白である。そればかりか、報知新聞(10月11日付)によれば、「警察側から『銃殺は音が立って困るから剣で刺殺して貰いたい』と申し出」ているのである。
 鈴木文治は、この事件において亀戸警察署が果した役割を考える上で重要な指摘をしている。

 「私の想像するところでは、平沢君等と亀戸署員とは、平素決して親善の間柄ではない。否、或は却って犬猿も啻ならざる間柄ではなかったか。さうした平素の事情がアノ際あのドサクサの際かかる結果に導いたものではないか。
 亀戸の署長古森君は、以前警視庁の労働係長を勤めた人で、労働運動の実情には精通してゐる人である。そこで係の高等刑事等は労働運動の取調や取締について屡々その不成績を詰責されたと伝へられる。」(前出「亀戸事件の真相」)。

 不成績を詰責されていたかどうかは別として、亀戸署員と犠牲者たちが「犬猿も啻ならざる間柄」であったことは事実である。平沢、中筋を除く8人が属した南葛労働会は、周知のように、渡辺政之輔を指導者とし、暁民会系の川合、北島、吉村らをはじめ数十人の先進的労働者が結集した思想団体的色彩のこい労働組合であった。南葛労働会は悪法反対運動、メーデーなどの示威運動で警察と対立していた。また震災当時は広瀬自転車製作所で工場閉鎖をめぐって争議中であったが、これには亀戸署高等係が介入していた。さらに、この年の6月、第一次共産党事件で渡辺政之輔が逮捕されたことも、この対立関係を一層きびしいものにしていた。
 平沢、中筋の所属した純労働者組合もまた日本鋳鋼争議、大島製鋼争議などで亀戸署と対立していた。とくに1922年の大島製鋼争議では、亀戸署長のひきいる警官隊と激しい乱闘を演じ、120余人が検束され、うち63人が騒擾罪で起訴され、13名が拘留されている。ついでに言えば、この大島製鋼争議では、布施辰治ら自由法曹団は亀戸署の人権蹂躙、不法拘引を問題としてたたかつている。(南葛労働会、純労働者組合については『労働運動史研究』第36号、第37号を参照、資料としては『新組織』『労働組合』『労働週報』『労働新聞』などがある。
 このような警察との緊張した関係が、震災下にどのような状況をひきおこしたかは、6号に収録した調書の附録「官憲ノ検束者ニ対スル暴状」を見ていただきたい。これまで震災下の諸事件といえば虐殺事件だけが注目されているが、このような不法な官憲の人権蹂躙の問題も究明される必要がある。亀戸署に検束された南厳氏は、高等係主任安島から「今晩はおまえの死刑執行だ」と云われてリンチを加えられたことを述べているが(「南葛労働会と亀戸事件」労働運動史研究37号)、検束者に対する警官のこのような言動が虐殺につながったことは否定し難い。直接手を下した殺害者は習志野第13聯隊の兵士だけであるとしても、亀戸署員らが共犯者であつた事実を消し去ることはできない。

2. 何時殺されたか

 殺害日時は、古森亀戸署長談として各紙が伝えるところでは、自警団員4人は9月4日午後9〜10時、労働組合員10人は5日午前3〜4時である。しかし、報知新聞だけは労働運動者の殺害は9月3日夜におこなわれたと報じている。この点については、自由法曹団調書のなかにも両説ある。
 4日説は殺された北島と広瀬自転車製作所の同僚であった庵沢義夫の聴取書である。庵沢の証言によれば、彼は10月15日、工場長の妻から「九月五日早朝刑事カ来テ北島君ハ四日晩ニヤッタカラ手当ヲヤル必要ハナイモウ交渉ニモ来ナイト主人ニ小声デ話シテ行キマシタ」と聞いたというのである。
 一方、3日説は八島京一、全虎岩の聴取書である。八島京一は「私ノ考ヘデハ平沢君ハ3日ニ連レテ行カレルト其夜ノ中ニ殺サレタモノト考ヘラレマス」として、その理由をあげている。それは、9月4日朝、知り合いの巡査から「昨夜ハ主義者モ八人殺シタ」と聞き、死体を焼いたと思われる場所に行ったところ平沢のものとおぼしき靴を発見した事実である。全虎岩聴取書は、4日夜、亀戸署内において立番中の巡査から「昨夜ハ日本人七八名、鮮人共十六名殺サレタ」と聞いたことを述べている。なお、『種蒔き雑記』はこれを5日に聞いたこととしている。全虎岩聴取書では、この点について必ずしも明確でないが前後の関係からすると4日夜に聞いているととるのが正しいと思う。直接聴取書にあたって検討していただきたい。
 最近、亀戸事件について論じた文献では、4日夜(正しくは5日未明)説をとっているものが多い。しかし私は3日夜(4日未明も含める)説をとるべきだと考える。その理由は次のとおりである。
 第一は、庵沢聴取書と八島および全聴取書をくらべた場合、後者により高い信頼度があると考えるからである。庵沢証言は伝聞である。これに対し八島、全の両証言はいずれも本人の直接の体験にもとづいている。しかも、一方は犠牲者と直接関係のない工場長の妻が、40日も前に聞いたことの記億であり、一方は友人の安否を気づかつている八島、あるいは何時殺されるかと恐怖におののいていた全が、事件直後に自ら見聞したことを内容としている。その記憶の鮮明さには大きなちがいがある。しかも八島証言には平沢の靴という「物的証拠」がある。
 第二の理由は、亀戸署員が9月4日午前中に、夫の安否をきづかつて来た加藤たみに「本庁へ送った」と答え、また5日正午、平沢への差し入れをたのんだ八島に「平沢君ハ三日晩ニ帰シタ」と答えていることである。もちろん、まだ検束中の者について、「もう帰した」と答える可能性もある。しかし、人が言い逃れをするときに、まったくの嘘だけでなく、一部の真実をおりまぜて語ることが往々にしてある。「三日ノ晩ニ殺シタ」というべきところを「三日ノ晩ニ帰シタ」と答えた可能性はかなり高いと思う。しかも、これと同じ云い方を自警団員の妻にもしているのである。木村丈四郎の妻は5日朝、亀戸署長代理に「アノ木村かあれは昨夜の九時に放免した」と聞かされている。(『法律新聞』)。あとで自警団員が殺されたのは9月4日午後9時頃と発表されたのである。
 第3の理由。かりに、3日夜に殺されたのが事実とすれば、なぜ亀戸署はその事実をいつわったのか。亀戸署にその必要があったのであろうか。あったと思う。3日夜に殺したということは、検束してきてすぐに殺したということである。殺すために検束してきたということである。警察が殺害の事実を発表せざるを得なくなったとき、この事実を隠したいと考えたのは当然であろう。そこで事件をまる一日後にずらせたのではないだろうか。また、4日夜には自警団員4人が留置場内で騒ぎ、房外へつれ出されたときにも薪をもって抵抗したため殺される事件があった。そこでこの筋書きを川合たちの殺害理由にも流用したのではないか。このやり方も、嘘を本当らしく見せかけるときに、しばしば用いられる公式の一つである。

3.殺された場所・方法

 労働運動者10人の殺された場所、あるいは殺し方についてもいくつかの異説がある。警察発表では亀戸署内演武場右手の広場で兵士の銃剣により刺殺されたことになっている。だが、これには反証がある。
 その一つは〔21〕川崎甚一聴取書である。彼は亀戸町水神森の自転車商諸岡から聞いた話として次のように供述している。
 9月3日午前一2時頃(午後12時の誤りではないか。川合らが検束されたのは3日夜のことである)諸岡は5発の銃声を聞き、亀戸署から2丁ほど離れた第四小学校南の塵介埋立地の現場にかけつけたところ4人の銃殺死体があり、亀戸署の伊藤巡査部長は「これは社会主義者だ」と言い、「まだあと二人殺さなければならない」とも言つたという。その後しばらくして警察の方で二発の銃声が聞こえたという。川崎はこの4人のうち二人は服装などから北島と加藤であると推定している。また〔10〕庵沢義夫聴取書にも小島一郎方でこれとよく似た話を聞いた事実が述べられている。ただし、場所は第一小学校裏、人数は6人となっている。
 警察発表に対する第二の反証は、志賀義雄『日本革命運動の群像』ではじめて発表された二葉の写真である。この写真があることは山崎今朝弥の平沼にあてた公開状のなかで述べられており、鈴木茂三郎氏もこれと同じものと思われる写真の原版を所蔵していたことがあるという(同氏『ある社会主義者の半生』)。
 この写真は1枚は平沢計七の首と胴とが切り離されたもの、もう1枚は北島と鑑定される首がすえてあるものである。写真にはそれぞれ三体の死体が写っており、いずれもまったく衣服をつけていない。死体には刺したあとも見られるが、生きているうちに首を斬った証拠に傷口がめくれていると志賀氏は推論されている。また場所は当時の荒川放水路であるとも推定されている。江口喚氏は、この写真は仲間を殺された自警団員がとったなかにたまたま写っていたものだとして、次のような事実を述べている。亀戸署内で殺しきれなかった者は荒川放水路にはこばれ、軽機関銃の標的にされた。死にきれない者が出ると1人1人軍刀で首を切ったが、その中に平沢、北島がいたのだ。(関東大震災と社会主義者、朝鮮人の大虐殺『関東大震災と亀戸事件』刀江書院、1963年所収)また、江口氏は、川合だけは連行される途上で補助憲兵に殺されたのが事実らしいとも言われている(大震災とファシズムXの失敗『戦旗』第3巻第15号)。
 以上の材料だけで、殺された場所や方法を確定することは困難だが、平沢の首の写真を見れば警察発表が事実に反していることだけは確実だと思われる。

4.殺された人の数

 最後に犠牲者の数について考えてみたい。3日説をとる証言で注目されるのは、いずれも同夜殺された「主義者」の数を8人としていることである。この事実は、さきにふれた大杉事件の森調書が「亀戸では八人ばかりやっつけた」としているのとも合致する。とすると、10人は一緒に殺されたのではなく、3日夜に8人、あとの二人は別の時に殺されたものと思われる。8人は誰であり、二人は誰であるのか。あえて推論すれば、8人の方は3日夜警官隊によって検束された平沢、川合、加藤、北島、山岸、近藤、鈴木、吉村であり、二人の方はそれより先に亀戸町香取神社のあたりで捕えられた佐藤、中筋ではないだろうか。なお、中筋については「組合の者では無い」(東京朝日)とされ、自由法曹団の調査の対象にもなっていない。このため従来の文献では、亀戸事件の犠牲者を中筋をのぞく9人としているものが圧倒的に多い。しかし、中筋宇八が平沢と同じ純労働者組合の組合員であったことは同組合理事長だった戸沢仁三郎氏の証書があり(『労働運動史研究』第36号)、訂正の要がある。なおつけくわえれば、1924年2月17日におこなわれた亀戸事件の労働組合葬には、労働運動の闘士として中筋も名をつらねている(『労働』第13巻第3号)。
 また、山崎今朝弥によれば亀戸事件の犠牲者はこのほかにもあったという。彼は亀戸事件について平沼司法大臣にあてた痛烈な公開状を発しているが、(『地震憲兵火事巡査』に収録」)そこで塚本労技会幹事、寺島の柔道師範が殺されたことは「動かす可からざる確証ある」ものと論じている。日本労技会は日本車両会社などに組織をもち機械労働組合聯合会に加わっていた労働組合である。「請地ノ柔道ノ先生」が殺されたことは南厳聴取書などにも出ている。
 しかし、実際には亀戸事件の犠犠者はこれにとどまらないのである。警察も軍も政府もこれについては口を閉じて一切語らないのであるが、9月3日から5日にかけて多数の朝鮮人が亀戸署内で殺されているのである。その正確な人員は不明であるが、吉野作造が朝鮮罹災同胞慰問班から聞いた数字として書きのこしているところによれば87人、金承学調査によれば36人である(姜徳相「大震災下の朝鮮人被害者数の調査」労働運動史研究第37号)。また全虎厳(岩?)氏の体験記(前出)によれば、亀戸署内の死者は同氏が実見しただけでも50〜60人はあったという。このことは、事実として知られていない訳ではないのだが、これまで亀戸事件を論じた文献ではほとんど無視されている。しかし、亀戸事件を単に平沢、川合ら10人の労働運動者が殺されたことだけに限っては、事件の全容は明らかにならない。亀戸事件の犠牲者としてはこの他にも、4人の自警団員、塚本労技会幹事、柔道の先生、多数の朝鮮人そしておそらくは何人かの中国人の虐殺をも含め、そしてまた殺されこそしなかつたが藤沼栄四郎、南厳、村田兄弟らに対する不法なリンチをも含めて考えられなければならない。また、江東地区は自警団などによる朝鮮人の虐殺が特に多かった地域の一つである。このことと亀戸事件とは相互に深いつながりがあるのではないか。この点は、今後さらに検討を要する問題だと思う。


初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』138号(1968年3月)。その後、『自由法曹団団報』第49号(1968年7月)、および『歴史評論』第281号(1973年10月)に再録








Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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