資料紹介『〔関東大震災時の〕官憲ノ検束者ニ対スル暴状』
〔25〕 中野警察署若クハ淀橋警察署戸塚分署が拘留に対する正式才判申立書と〔を〕破棄したる事実
〇左記九名は大正十二年九月九日夜 近衛騎兵聯隊営倉ニ被検束中、出張して来た淀橋警察戸塚分署長より拘留二十九日に処する旨を同時に言渡された。
現住所岐阜県稲葉郡茜村 森崎源吉
〃 〃 津端チエ
〃 群馬県〔藤岡町〕 町田 篁
〃〔東京府 三宅島 浅沼稲次郎〕
〃 東京四谷区 桜井 紀
〃 水戸市銀杏町寺井方 平野 学
〃 静岡県相良町波津 古川時平
〃 北海道倶知安 稲村順三
〃 東京青山南町四ノ五小野方 北原竜雄
○左の内森崎、津端、古川、北原の四名は中野警察暑に他の五名は戸塚分署に何れも拘留申渡と同時に護送せられました。中野警察署には同じ日に戸塚分署で同じく拘留二十九日に処せられた左の三人〔ママ〕が来てゐました。
山本〔虎三〕
平林たい
〇翌十日早朝 中野署に於ける右の内男子五人は一つの監房に女子二人は その向ひ側なる一つの監房に入れられ 七人全部が談話を交ふることが出来る様になりました。
〇元来この拘留は理由の全然不明なるものにて、騎兵聯隊に検束せられたものの如きは、一回の取調べを受けて居らず北原の如きは拘留申渡の瞬間に姓名と年令とのみを尋ねた程にて 随つて拘留は如何なる法規によつたものかすら告げられて居なかつたのであります。
〇それで上記の七人は相談を重ね十日の夕刻正式才判の申立を為すことに決し 其の旨看守巡査に森崎が通告しました。
〇間もなく警部補の正服を着けた男(姓名は記憶せざるも『自分は警察講習所の講習を受けた 此ノ署では一人だ』などとの本人の談話により容易に其の姓名は知ることが出来ませう)が晋置場(ママ)に入つて来て『正式才判を申立てたつて駄目だよ』と云ふに対し『兎に角要求する。それは七人全部の意志だ』と森崎、北原等の答ふる態度の甚だ強硬なるを見『それでは 手続きをしてやらう』と云つて去りました。
〇間もなく看守巡査の用ゆるらしき テーブルと椅子とが監房の前に置かれ、其の上に硯箱と日本紙と申立書の雛形とが置かれ既に薄暗き時刻となつたのでテーブルの左方に蝋燭が立てられました。
〇それで七人は申立書を書き各署名した上、森崎と津端とは認印を捺し他の五名は拇印を捺しました。申立書は淀橋警察署戸塚分署長に宛てたのでありました。
〇七通を揃へて看守巡査に渡し、北原が念のため、之を戸塚分署に廻付するは何時であるかを主任警察官に問ふてくれと依頼しました。書類を携へて出て行つた巡査は、間もなく監房の前に帰り『主任に手渡した。今夜はもう遅いから、明朝早く廻付するとの事だ』と返事しました。
〇之は午后七時から八時の間のことであります。
〇其の後 就寝後暫く経つて 翌日の午前一時かと思はれる頃『一寸起きてくれ』と呼ぶ者があるので 目を覚ますと 看守巡査の一人が立つてゐて手に前の申立書を持つて居ります。
〇其の時 看守巡査と北原との間の談話の意味は左の如くであります。此の巡査は大寺と云ふ者だと翌朝本人から聞きました。
巡査『司法主任の云ふのに、諸君は明日全部早朝戸塚分署に送ることとなつた。それで正式才判の申立は更めて先方でやることにして貰ひたい。今日差出した書類は一先づ破るからそれを承知するやうに』
北原『それは断じていけない 明日以後のことは俺には判らん 今日差出した書類は談じて返付を受けぬ』
巡査『君等が不承知ならば 破ることも出来ぬから その旨主任に伝へて置かう』
〇巡査は書類を携へて出て行きました
〇翌朝起床後 右の巡査に顔を合した時『昨夜の書類はどうした。今日早く戸塚分署の方へ廻すだらうな』と北原が言ひました。
〇それに対して巡査は左の如く語りました。
『あれは主任に返したらな、主任は困つたなあとコボしてゐたよ。それから本人が承知しなくてもよいから 破つてしまへと言ふんだよ。俺は破つたら問題でしようと云つたらナニ問題になるものかつて言つたが まさか破るわけにも行かんから 主任につき出したら不精無精受取つて机の引出に入れた。まるであの男は俺に文書の破を教唆していやがるんだ』
最後の一句は特に声を小さくしました。之は十一日午前八時前後の事です。巡査は姓を大寺といふ事をたしか此の時に聞いたと思ひます。
〇その後 数時間考へて見るに、書類が完全に取扱はれてゐるかどうか どうも怪しいと思はれましたが、それを此の警察の署長などに問ふた所が無効だと思ひ、午前十時頃と記憶する頃、左の如く看守に要求しました。『署長或は司法主任に面会するやう取計らつて呉れ 要件は昨日差出した申立書が破棄される危険を感ずるので 此の事を警視総監に申告するから其れに必要な手続を要求するためだ。若し留置場に監獄法が適用されてゐるものなら 同じ内容の上願書を司法大臣に差し出したい』
看守巡査は取次に行つた様だつたが 署長は今来客と対談中で主任は不在だと返事しました。
〇その後 二回ほど右の面会を催促しましたが遂に面会は出来ずに終わりました。
〇その中 北原、古川、山本の三人は戸塚分署の留置場に廻されました。
〇十四日 北原は戸塚分署にあつた 他の七人と共に東京監獄に送られ、翌十五日看守より正式才判の申立をした 拘留囚は監獄に収容しない事になつてゐる旨を聞き愈申立書が破棄された事を知りました。
〇一方 九日夜 戸塚分署に送られた浅沼、平野、桜井、稲村町田の五人は正式才判申立の手続きを極力要求したに拘らず 警察は言を左右に托して意に応じなかつた為め、申立が不能に了つたといふ事実もあります。
〔26〕
西巣鴨町堀の内三九
時計工 本沢兼次
年 二十五年
一、地震当時から検束される迄の動静
一日 勤め先の村松時計工場が罷工中だつたのと妻が産前で非常に苦痛を訴へてゐるので その看護に没頭して居ました。正午前地震があつたので 自宅前の空地に畳夜具を持出して避難しました。
二日、前日通りの状態でした。
三日 午後三時頃一先づ空地を引き上げて 自宅に帰りました。畳等を取り入れて終つた午後六時頃深川に居往して居た実父、妹の二人が避難して来ました。その頃から色々な流言が立ちました。夜は八時頃町内の人達から自警団の相談を受けましたので 病床に苦んでゐる妻を実父 妹等に頼んで夜警に出ました。
四日、妻が出産したので その看護等に忙殺されて一日過ぎました。
五日 産後のことで非常に忙しかつたのですが町内の電柱に鮮人襲来の謄写版刷りが張り出された程だので沢山の避難してゐる人達の為めだとも考へたので夜警に出ました。
六日、午前十時頃から友達の否安を気遣ひまして附近の二三の家を訪ねまして皆無事なのを確かめまして 午後一時頃帰宅しました。と二時頃警視庁の労働係の森以下六七名の私服刑事と正服二三人で来て 同行を求めましたから それに応じました。一番先きに玄関に立つた私服は、仕込杖を携へて居ました。時習小学校前に自動車を置いてあつて それに乗りました。そのまゝ二十分程経つと神道久三君が巣鴨署の高等係森田刑事外警視庁の刑事十名程と制服巡査三四名に附き添はれて 同乗しました。それから自動車は池袋の方へ廻つて時計工の青木君の宅へ寄りましたが不在だつたのです。途中から海野君、猪野君が私や神道君と同じ様に多くの制服私服に伴はれて来て乗り合はせました。自動車の中には私等五人と制服私服共二十名許り宛乗つてゐました。
途で建設者同盟の二三の人が徒歩で制私服十五六名の者に物々しく取囲まれて進んでゐるのを見掛けました。午后五時半頃巣鴨署へ着きました。
二、被検束後の署内の状況
巣鴨署に着いた時、私服巡査の一人が高等主任の毛利警部補と『ドウシマセウ』『検束ダ』と云ふ会話をしましたが、私等は何の取調べも受けずすぐ留置場へ連れられました。
○監房は一杯で四十人居た様でしたが 大部分の人達が眼が張れたり、顔や手に負傷してゐるのに驚かされました。玄米の握り飯を二個食事に与へられて、監房の廊下へ毛布一枚で寝ました。監房内の人々は異常に緊張してゐて 全く静かでした。
七日の午後、私は出産したばかりの妻のことが心配ですので最初家を出る時は『一寸』と云ふのだつたのが 署に来ると検束だと云つて居る声を聞きましたので 直ぐ調べがあるだらうと待つて居たものなのですから 看守の巡査に話して 誰れか 高等係の人を呼んで貰ひたいと頼みました。すると 毛利高等主任が蒼い顔して『何奴だ』と怒鳴りながら来ました。私は妻のことを話して早く取調べをして貰ひたいと頼みましたが宛も狂人の様に猛り乍ら、『お前ばかりではない 駄目だ』と云ひ捨て、監房を出て行きました。
八日の夜十二時過ぎ一人の高等係の巡査が監房にゐた自由人社の平岩巖君を呼び出して行きました。間もなく庭の方で『此奴は米村の処へ行つた奴だ』と大きな声が聞えましたが、それに続いて酷く撲る音が聞こゑ 投げ倒す地響が初まり 約四十分間の間 その物音が物凄く聞えましたが 其の間に『こうすると甘くできるのだ』と云ふ 大きな声が聞えました。平岩君が監房へ入つて来たのを見ると 衣服はボロボロに裂け、腕を折られた様子で身体中に負傷して居りました。すると直ぐ石黒鋭一郎君が呼び出され、前同様三四十分の物凄く殴ぐる音に投げ倒す地響きが続きました。石黒君が監房へ入つて来ると 直ぐ私を呼び出しました。もう午前一時過ぎだつたのです。下駄を脱げ、目鏡を外せと云ひまして 庭へ出ました。電燈を消して 庭一杯に制服私服の巡査が居ました。三四人で肩を捉へ乍ら、其の中へ連れ入れましたが『これが村松の親方だ』『此奴のため一ケ月も苦しめられたのだ』『銃剣で差し(ママ)殺してしまへ』『やつつけてしまへ』と云ふ声がしました。すると後方から突然殴りかけたものがありましたが、続いて五六人で殴り始めました。それから七八人で私を立たしたまゝで代る代る殴りました。其の間に横の方で署長が笑つて見て居りました。すると末吉警部補が七八回続いて投げ倒し、それに続いて二十人位が一人五六回宛で投げ倒しました。その間 私は黙つて為すがまゝに任せてゐたのですが、時にうまく投げられなかつた時があると特に酷く投げ倒しました。終に起き上ることも出来なくなつたのですが、それを引起しては投げ倒しました。それも出来なくなると棍棒で滅茶滅茶腰部を殴りました。暫くすると高等主任の毛利警部補『もういゝだらう』と云つて留置場内へ三四人の巡査で抱へて入れました。私は其の時、耳が聞こえなくなり、頭が非常に痛みました。衣服はボロボロに裂けて破れました。次に猪野君が矢張り同様散々殴つたり投げられたりしました。その次に米山君がやられ特にひどくて腰部に多量の出血を見受けました。
九日 多くの人が留置場へ連れ込まれましたので 六十五六名の人数になつてゐました。朝から庭の方で殴ぐる投ぐる音が聞えましたが、新に入つて来る人毎皆、全身に負傷してゐて殆んど正視するに堪えない様子でした。
十日には新たに山川亮君、木部君などの顔を見ました。
十一日 余り耳や腰が痛いので 看守に頼んで医者に診て貰ひました。外の七八人の人達も同様に診察しただけで手当もせず 薬も与へられませんでした。
時々高等係の刑事が見廻りますから 前述通りの家の事情を云つて調べることがあれば早く調べて貰ひたいと頼みましたが、其儘に聞入れませんでした。
二十日の夕方引受人として実父米吉を署に呼び出して私と一緒に高等係に室へ入れて河津巡査部長以下七八名の高等係刑事で取巻いて『罷工に関したことで集会、交渉をしないこと』を条件として河津部長の口から『君は二十日間の拘留になつてゐるが特に帰す』と云ふ話を聞かされて帰宅しました。私は六日から一度の取調べなく何の申渡しも受けないで二十日の拘留だつたのだと 聞かされましたのです
帰宅後近所の人や家族の者に聞きましたのですが六日に私が巣鴨署へ連れて行かれた暫く後に警視庁労働係の森外五十名計りの制服巡査が家を取り巻いて『本沢は居るだらう。留守だと云ふ訳はない』『これから縛つて行くのだ』とか種々の罵倒の言葉を大きな声で喚き立て 愈々居ないのが判つても尚暫く其の状態を続けました。そして態々家族を脅し、近所の人々を脅してゐるのでした。そして私の妻は折柄産後間もなくでしたので、私が帰されないのや巡査達が騒いで脅かした為め、非常に健康を害し凡そ二ケ月の今も猶も病床に就いて居ります。
〔27〕
池袋七六六番地
時計工 菊池藤吉
当二十三年
一、地震当時から検束されるまでの動静
一日から三日まで自宅に居りました。
四日午前八時頃亀戸の親戚へ見舞ひに出かけるべく水を一升びんに入れて持つて出かけました。途中 上野公園を通り 五六個持つて居た握飯を罹災者に頒ちました 亀戸署の前を通る際に習志野騎兵隊が物々しく警戒してゐるのを見受けました。それから焼け跡を廻つて四時半頃帰宅しました。
五日夜警の相談を受けたので 早速出まして駅前の詰所に居ました。夜九時半頃一人の外套の襟を立てた異様の風をした男が来ましたので、それ迄の例によつて其の姓名を糺しました。すると其の男が 其の時一番傍にゐた池袋駅前の島崎洋服店の佐々木君の胴を突いて黙つて行き過ぎやうとしました。で私はすぐ其の男を捉へましたが 其男がまた突き放そうとしました。其の様子を見兼ねた他の人達が、姓名も云はずに遁げ去らうとするのは 何うしたことかと五六人で殴りました。『俺はこういふ者だ』と名刺を投げ出して交番へ馳せつけ 交番の巡査を伴つて来ました。そして『俺は巣鴨署の高等係の鈴木だ。今俺を捉へたのは誰だ、一緒に来い』と云ひますので島峰、佐々木の二人と共に巣鴨署に行きました。するとすぐ『間違つたのなら謝つて帰れ』といふ訳で帰されました。
六日午後三時頃、巣鴨署高等係の河津外二人の私服制服四五人で来て、『小池宗四郎は居ないか』と云ひ乍ら土足で二階へ上らうとしたので、靴を脱ぐ様にと注意し、『病気で保養に田舎へ行つて留守だ』と言ひましたが聞き入れそうもないので二階へ案内しました。確かに居ないので其の儘帰りました。其の夜七時頃 夜警に出てゐますと自動車が一台 私の家の前に来て私服巡査十二三名店前へ押しかけますので 何事だらうと傍迄行きますと『菊地検束だ』とど鳴つて車内に突き入れました。中には三四人は既に乗つてゐました。内一人は赤座久一君の弟でした。途中で『貴様は国賊だ』『これから銃殺するんだ』と頻りに脅かされました。
二、被検束後の署内の状況
署に着くと直ぐ刑事部屋に入れました。すると三人調べられて居ましたが、顔を殴つたり脛を殴つたりされて に留置場に入れられて居ました。私の番になると何にも云はずに頬を七八回殴つて『小池は何処へ行つた』と問ひました。『田舎へ行つた』と返事する間もなく『嘘を云へ』と脛を蹴立てました。散々蹴られて血が流れましたが直ぐ留置場内に連れ入れました。中には五六十人の人が居て 自由人社の人達や本沢兼次君、海野忠一郎君、神道久三君等が居ました。廊下に坐つて一時間ばかり経つと高等係の鈴木といふ刑事が庭へ呼び出しました。そこは暗いのでよくはわかりませんでしたが、庭一杯に正服巡査が居りました。『此奴が俺を殴つたのだ』と云ひまして続けて五六十回起して石黒君、本沢君 狩野君等の人達が散々に殴ぐられて、其外誰一人として殴ぐられぬ人はありませんでした。監房内は常に異常な静かさでした。
九日の午前十一時頃刑事部屋へ引き出され、『言伝を頼まれたり、何か留置場内の様子を外へ知らす者は帰さない』といふ条件づきで帰宅を許されました。私は郷里の栃木の方で十日に点呼があるので午食後直ぐ栃木に向つて出発しました。すると 其の後のことですが十日の朝 巣鴨署の高等係が三人に剣付銃を持つた兵士が二人来て 『菊地は間違つて帰した』『彼奴を殺してしまはなかつたのが残念だ』といふ 言葉を残して引き返したそうです。
神道久三
九月一日
此の日会社側の回答を聞きに行かうと云ふ日だ。池袋村松時計工罷工本部にはもう十数人の人達が集つてゐた。之等の人達と交つて僕も色々、雑談をやつてゐた。と突然激しい動揺を感じた。家財道具類がガラガラと壊れる。物凄い大地の唸りが強く心臓を圧する。殆んど反射的に表へ出た。そこには一瞬間前の世界はなかつた。
地響き壊れる音叫喚、悲鳴之等が一つになつて重苦しさを先づ感じた。一秒二秒自分の身が安全だことを意識する。皆んなの顔がハッキリ意識に映ずる。崩れた屋根、燃上る黒烟
其の内にブルジョワアの妻君らしい婦人が乱髪に足袋ハダシ、ケダシ迄露出して日頃の上品振りもあつたものでない一目散に逃げて来る。
餘震は間断なく襲つて来る。不安は尚ほ続く。市内は猛火に包まれつつある。交通、通信機関は絶えた。〔 〕んなことが誰からとなしに伝はつてくる。争議処ではない。自然お流れとなつた。これが×××××××××××だつたら民衆の幸福の一歩が開けるんだがなあとも思つた。
×
M子と子供が家の直ぐ前の草原に避難してゐた。空地といふ空地は避難者で一杯だ、可愛想だ。老人の手を引いた子供、泣き叫ぶ乳飲児を背負つたお神さんどんどん市内方面から逃げて来る。今××庁が焼ける処だつた。何処は地割だ。死傷者が道路に転がつてゐる。もう悲惨な話ばかりだ。Lが月島から逃げて来る。判然とは判らないが、惨害が未曾有の様だ。友人知己の生死の程も心配であつたがまだそれ処ではない。近所のL君、M君、A君が見舞にやつて来てくれる。Kも来る、地震はもう大丈夫の様だ。家に入つてしこたま腹をこしらへた。屋根は壊れ落ちかけてゐる。戸硝子は外れたり、壊れたり、壁は落ちてゐる。散乱した道具を片つけたり掃除したりして兎に角落ついた。
×
東南の空一面に焼け爛れ、焔は巨大な溶解鑪の様だ。電燈は消えて闇だ。夜中強震があるとのことで一夜を草原で明す。
仝二日
A君が来た。市内に友人もある。親戚もある。姉だけ逃げてきたが一家三人のものはどうなつてゐるかわからん僕も尋ねなければならぬ友人がある。死んで居なをければよいがと云ふのが出かける時の二人の望みだ。
小石川にゐるT・K、両君は無事だだんだん自分の周囲が明るくなつて来るやうだ。
本郷に出るともう舞台が異ふ。神田日本橋方面は見る限り焼け野原だ。崩れ残つた煉瓦がまだ燻つてゐる。焼灰の中に所々立つてゐるのが如何にも廃墟のやうだ。
上野山下は人と荷物で通れない人は右往左往めくら滅法に飛び歩いてゐる。
漸く下谷××町迄来た。焔は山岳のやうに前方に横つてゐる颶風は火を播き散らす、もう煙で空も太陽も見えない。時間もわからない尋ねるA君の叔母の家が焼ける処だ。だが叔母家の者は何処へ行つたか分らぬ。
旋風が襲つて来た。恐ろしい唸りだ、屋根と云はず材木と云はず手当り次第に飛ぶ、怒り立つた焔は海潮のやうに襲つて来る。黒煙がサツと来て目が晦む。火の子が暑い空気と共に躰を打つ 無我夢中で一丁程逃げた。若者は道路に出した荷物を持つてどんどん安全な地へ逃げて行く。其の跡に子供の泣き叫ぶ声 老女の訴へる様 負傷者の唸き、だが 誰も見返へる者すらない。いざとなれば 逃げられる壮者が火事見物として居るに過ぎない。
警官も居るやうだが 不幸にして助けやうとするのも見ない。こゝに二人 あそこに三人ボンヤリと立つてゐる。火が襲つて来れば同じ間隔を明けて退却するだけだ。善良な巡査諸君が多いと云ふのだから こゝは例外であつたかも知れんが、癪に障ることだ。有がたい保ご者を市民は持つてゐる。
『オイ何とかしてやらう』Aが僕を顧みた。だがどうすることも出来なかつた。火に爛れた負傷者、気を失つてボンヤリした老婆、安全な地帯へ運ぶにもAと二人では一寸困つた。『君一寸手伝つて呉れ給へ』だが聞えない振りをして コソコソ若者は去つてしまつた。巡査がゐた。不精無精来て負傷者を一寸見て『オイどうしたんだ歩けないのか』そのまゝ幽霊になつて仕舞つた。
『君これで運ぼう』漸く一枚の戸板を見付けた。途中で二人の巡査に逢つた。心よく手伝つてくれたので一先づ御徒士町辺の安全の場所へ運んだ。其処には数人の巡査が円形になつて立つてゐた。兎に角それに托して置いた。其の他保母車を押して火の方へ進んで行く老婆 病気で動けない婦人等もあつた。一先づ助けたが、それから生きてゐるか 死んだか。
×
病気上りの僕は疲労が甚だしい。水も無ければ食物もない。Aと帰ることにした。小石川迄釆た。午后二時頃だ。町々は物々しい騒ぎだ。ヤレ鮮人だ。放火だ爆弾だ。何が何だか一向分らない。鉄棒等を持つて目じるしを付けた物騒な男が、各所に立つてゐて 通行人を見返る。どうも合点が行かぬが、騒ぎは大塚まで来ても同様だ。コソドロでもあつて それを追つてゐるのかなと思て来たがどうも変だ。と監獄通りの電柱や四ツ角に『放火狂あり注意せられたし』『放火、掠奪、不逞鮮人及な非国民の徒横行云々』の官庁ででも貼つたらしいビラが掲げられてあつた。『ハ、仲々抜け目のない宣伝をやり居るな』と苦笑した。だが苦笑では済まなかつた。在郷軍人、青年団町内有志等は、蔦口、竹槍、コン棒、金棒等の×器を持つて一々交通人を見通してゐた。道路に太縄さへ張られた処もあつた。二人の青年が捕へられた。支那人だと弁明したけれど宥されない『日本人でなければ兎に角来い』『貴様等だらう××するのは』『逃げたら撲り×すぞ』等と罵倒したり脅かしたりして監獄脇の交番へ連れ込むのに出会した。
×
電灯はまだ来ない。余震もまだ止まない。焔は依然として空を焦してゐる。布団を持ち出して今夜も草原を宿とした。
九月三日
Yが裏からあはたゞしく飛び込んで来た。Yは焼け死んだのではないかなあと心配してゐた一人で柳橋に叔母や妹と一緒に住んで居たのだ。Yの話によると一日の午後焼けて着のみ着のまゝ命からがらで女子供五人を連れて上野の山に一夜を、谷中の墓地で一夜を明して今朝本郷迄逃げて来たと云ふのだ。本郷迄Yと一緒に行つて兎に角五人の者を我家へ連れて来た。
×
鮮人に対する流言蜚語愈々猛烈『鮮人×十名槍を持つて襲来す』と誰かゞ伝へる。角々には警戒に棒を持って歩哨に立つ。小路には縄が張られる。在郷軍人、青年団は、目を怒らせて巡路する。『社会主義者が煽動するのだ』と何処からか伝はつて来る。愈々物騒になって来た。道路を通行すれば一々誰何される。危険でうつかり通れない。郵便局に行つてゐるMが帰って来た。小石川から来るに二時間もかゝつたと云ふ。家に寝込んでゐるより仕方がない。雑談で日を送る。
×
夜警に出て呉れと云つて来た。仕方がない。カンテラを灯して終夜忠実な番犬となつた。巣鴨監獄の中から喚声が強く響いて来る。小銃が鳴る。ピストルの音がする。
九月四日
漸く火焔を見ず 又今日も一日雑談で日を送った。
『社会主義者の煽動がきいたのかG氏が襲はれたと云ふ。又夜警に出る。今夜も監獄から喚声と小銃の音が聞えて来る。
九月五日
前日と同じ
流言蜚語盛、鮮人の符号だと云ふ滑稽極まることが流行し出した。勿体らしく訳して電柱に貼付されたのさへ見える。僕の家の側に一、二ヶ月以前より何やら記号用のものが書いてあつた。隣近所にも同様あつた。大方掃除人か何かの憶えであつたらう。ところが之が騒ぎとなつた。『今鮮人が来て書いて行つたのだ』『今に××や××が始まるだらう』と云ふかと思ふと、今度は『ソレ来た』と呼子が鳴る。バタバタ馳ける。僕等が以前から書かれてあつたと説明しても、いつかな聞き入れない。大和魂はさすが異つたものだ。火事場の負傷者に対しては一顧もしなかったものが、こんな事だけには 偽でも昂奮する。今夜から電気が来た。矢張り夜警だ。
九月六日
無為徒食して半日を過す。
正午頃Kが見舞ひに来る。白米少量を持つて来て呉れた。一両日前から食糧が欠乏して来たので玄米を購入した。一食ばかり炊いて見たが どうも食へそうでもないので 隣から臼と杵とを借用して来て精米し始めた。
二時頃だ。突然正服数名に 私服二名の巡査がやって来た。『来て貰ふんですつて』『何処へだ』『戒厳司令官の命令ですつて』『巣鴨署まで』僕はもう流言蜚語が盛んになつて来たので、大方こんな事があるだらうとは思つてゐた。で前日F氏から旅費を借用して一時何処かへ避警しやうと思つてゐた処だ。『来やうが遅いではないか』『一寸待つて呉れ給へ』もう仕方がないので こんなことを云つて 玄関に待たして置いた。其の間に名簿や本類を整理して飯を食つて 石鹸、タオル類を風呂敷包にして出かけた。西巣鴨役場前には貨物用の小ぎたない自動車が置かれてあつた。もうそこにはM君が矢張りヤラレて載せられてゐる。U君、T君、K君、続々引張られて来て載せられる。そのまゝ 留置場へ折込まれてしまつた。
そこにはI H S……等十数名の同志がやられて居た。K、T……等も続いてやられて来た。『ヤア』『ヤ了』留置場の中は丸で会合か何かの様で久しく会はなかつた人にも会ふことが出来た。
だが留置場の中をよく見渡すと こんな呑気なことではなかつた。名も顔も知らない人達が三四十人居た。それがどうだらう目瞼を紫色に張れ上らされた人 手足の痛さを訴へる青年、『殺せ』と叫ぶ老人 丁度外科病院の患者溜りの様だ。便所の窓から見ると演武場に鮮人が十数名居た。顔だけ知つてゐるF、K等も見えた。これが又満足なのは殆んど少いのだから呆れる。皆んな負傷者ばかりだ。其の内に又誰かゞ引張られて来る。『こゝは入れ』『は入る訳はありません』青年は不当を鳴らして抗弁する。さあ大変だ。『此の野郎』で足蹴にする。ブン僕る。悲鳴を上げる。修羅場が出現する。中には『仇を取つてくれ』と叫ぶのもある。とんだ人民の保護者だ。僕は屠殺場の光景を何の気なしに思ひ浮べさせられた。
こゝ留置場の住ひ、畳三畳敷の広さ、同病十一名折重つて眠る。『焼け出された人を見よ』と看守君が親切に教へてくれる。
初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』138号(1968年3月)。その後、『自由法曹団団報』第49号(1968年7月)に再録。
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