協調会の労働調査について
二 村 一 夫
はじめに
2、3ヵ月ほど前、島崎晴哉先生から、戦前の社会調査について共同研究されている皆様に、協調会の労働調査について話をせよとのお申し付けを受けました。この研究会に参加されている方々は実際に社会調査を進めておられる専門家の方ばかりで、しかもこれまで研究会で話された講師の諸先生は、それぞれ、長い間ご自分が専門的に研究されてきたテーマについての蘊蓄を傾けられておられるようです。それに対し、今回は、社会調査についてはまったくの素人の私が、専門家を前に、自分自身で十分に調べたとはいえない協調会の労働調査についてお話しするわけで、やはりお断りすべきであったと何度か後悔いたしました。
ただ、これまで社会政策学会や労働運動史研究会で、たいへんお世話になってきた島崎先生からのご依頼であったためお断りし難かったのと、後で実際に書庫をご案内いたしますが、私どもの研究所は協調会の図書や資料をそっくり引き継いでおります。ですから、私としても少しは勉強しなければいけないと感じていたテーマでした。それに、間に夏休みがあるので、にわかか勉強をすれば何とかなるかもしれないと思ってお引受した次第です。そんな訳で、その後少しは調べてみたのですが、いかんせん一夜漬けの調査でして、とうてい皆様のお役に立つような話は出来ないことをあらかじめご了承いただきたいと存じます。
協調会について
ご承知のとうり協調会は1919(大正8)年12月に、内務大臣床次竹次郎の主唱により、渋沢栄一をはじめとする財界の協力で、労資の協調を図るため、社会政策の調査研究とその実行を目的として設立された財団法人で、その基金は国庫補助金200万円のほか、三井、三菱の各100万円をはじめ財界からの寄付約550万円でした。
創立当初の大きな事業は中央職業紹介所の設置で、1920年6月に発足しました。協調会の初代常務理事に就任した3人のうちの1人である桑田熊蔵が所長となり、主事には布川孫市、嘱託に豊原又男、書記に糸井謹治といった人びとが桑田を助けました。その業務は、全国各地で設立されつつあった職業紹介所の中央連絡機関として機能すると同時に、労働統計の整備や、職業紹介事業の育成にあたりました。1920年には職業紹介法の制定にともない中央職業紹介局と名を改めましたが、1923年3月31日、内務省の外局として社会局が設立されると同時に、この事業は社会局に移管されました。したがって、協調会による職業紹介事業はごく短期間で終りました。しかしこれは、協調会が始めた業務の中ではもっとも重要なもので、また創立直後に始めた失業調査などは社会調査の歴史の上でも忘れてはならないものだと思われます。
もう一つ、協調会が始めた大きな事業は、1920年9月に創刊された『社会政策時報』の刊行です。今日のテーマである協調会の労働調査の主たる発表の場となったのがこの雑誌であることは、皆様ご承知の通りです。
さて、問題の協調会による調査活動ですが、当初は「英国の労働組合の法律上の地位」、「米国に於ける職業紹介所」といった外国の労働事情、とりわけ労働問題に対する法的、制度的な施策の紹介が中心でした。日本の労働事情に関する調査は、中央職業紹介所による失業調査以外にはあまり見るべきものはなされていないようです。実際に協調会としての労働調査が始まるのは、1921年4月以降のことでした。
創立当初の常務理事、すなわち松岡均平、桑田熊蔵、谷口留五郎の3人は、副会長である渋沢栄一との意見の相違のため、1年足らずで辞めます。その後任となった添田敬一郎、永井享、田沢義鋪のもとで、協調会は、労務者講習会、労働者教化雑誌『人と人』の発刊など、労資協調の促進をめざす、より実践的な方向にむけ、本格的に活動をはじめます。
協調会の労働調査について
労働調査の面では、1921年5月に「俸給生活者及び職工の生計費調査」を開始したほか、嘱託もふくめた労働課の職員によって、産業別の労働事情調査を始めました。その成果は、順次『社会政策時報』に掲載され、その一部はパンフレットや単行書としても刊行されました。
その調査対象となった産業と担当者名を、『社会政策時報』での掲載順にあげれると、次のとおりです。
機械工業(草間時光)、石炭鉱業(橋本能保利)、海員(岡得太郎、長谷孝之)、化学(吉田寧)、鉄道(小林鉄太郎)、紡績(桂皋)、燐寸(吉田寧)、金属鉱業(橋本能保利)、製糸(桂皋)、電車(岡得太郎、広池千英)、印刷(草間時光)、造酒(吉田寧)、製糖(広池千英)、醤油(吉田寧)、製鉄(橋本能保利)、造船(吉田寧)、製陶(吉田寧)、セメント(児玉兼道)、鋳物(石原太蔵)、自動車従業員(秋山斧助)などです。
このように、20もの産業に関する労働事情調査です。その点では、明治期に実施された『職工事情』と共通する性格をもっています。ただ、『職工事情』にくらべ、協調会の産業別労働事情があまり注目されないのはなぜでしょうか。『職工事情』は、最初の包括的調査で、しかも全体が一括して刊行されたのに対し、協調会調査は『社会政策時報』に十数年にわたってとびとびに連載されたものという違いがあります。しかし、協調会調査もパンフレットや単行本形式で出されており、利用の便という点では、部内資料にとどめられた『職工事情』より良かったはずです。また、この一連の調査をさらに要約したものが『最近の社会運動』に収められています。
やはり協調会調査があまり評価されなかった主な理由は、『職工事情』に比べ、協調会の調査が全体として質的に高くないからではないかと思われます。もっとも、論文としての形式の点で言えば、協調会の労働調査の方が『職工事情』よりはるかに整っています。また、調査対象となった産業の数でみると、協調会調査の方が多くなっています。ただ、担当者の多くがあまり十分な準備をもって調査に臨んでいないように感じられます。多くの調査は、統計など二次資料による研究をもとに、主要企業の労務担当者等からの聞き取り調査によってすすめられたように見えます。労働者個人に対する面接調査、あるいはアンケート調査をしたものはほとんどない。その意味では、いまでも役にたつものは限られているように思われる。もっとも、橋本能保利の製鉄業調査のように、かなりの時間をかけた労作もあり、また『職工事情』では取り上げられなかった交通業(海員、鉄道、電車、自動車従業員)や地方的な産業(造酒、製陶、醤油、鋳物)などは、貴重な内容を含んでいると考えられますが。
協調会の労働事情調査を担当した労働課が、労働調査それ自体を専門としておらず、争議調停を本業と考えていたことが、こうした調査の質を規定したのではないかと思います。少なくとも、その中心にいた人びとが調査については素人で、十分な予算もなかったことが、その調査の質を規定したことは明かのように思います。あるいは、生計費調査や賃金など統計調査を除けば、まだ労働調査が未発達であったということかも知れませんが。また、協調会が他の官庁とは違って、末端組織がなかったからかも知れません。
そんな風に考えるのは、警察の場合には、その機構を利用して、労働者個人個人に対するアンケート調査を実施している例があるからです。その代表的なものは、警視庁工場課が、1919(大正8)年5月、工場法適用工場の職工全員に実施したアンケート調査です。アンケートの回収数は、3000工場、12万7千余、その結果は硝子工場職工調査、製糸工場における女工事情、製綿職工事情、化粧品製造業女工事情、染色整理その他の加工業女工事情、印刷製本業女工事情として『社会政策時報』第4号以降に連載されています。出身地、年齢、教育程度、読物、娯楽、所帯主の職業、女子については結婚、出産、など興味ある情報が含まれています。ただ、その全容を発表したものは寡聞にして知りません。その他にも福井県警察部の『職工の叫び』、あるいは栃木県警察部の『職工の小さな叫び』(法政大学附属図書館編『協調会文庫目録』、345頁参照)は、断片的な文字どおりの「小さな叫び」ですが、職工の意識を窺わせる素材にはなります。
このほか、つぎのような特殊問題についての調査もいくつか実施され、『社会政策時報』に掲載されています。
☆綿糸紡績工場における職工共済組合(片山早苗)
☆就業案内にみる紡績労働事情(桂皋、片山早苗)
☆川崎造船所職工の解雇及び失業救済状況(橋本能保利)
☆都市交通労働婦人の雇用事情(磯村英一)
☆製紙工場における福利施設(吉田寧)
☆本邦海員の給与状態(長谷孝之)
☆求職票に現はれたる職業婦人(岡崎文規)
☆本邦商業使用人の就業時間(磯村英一)
協調会の社会調査の新展開
しかし、1930年代に入ると、協調会は、社会調査史の上で注目さるべき活動を行なっています。それは、昭和恐慌の深刻な影響を調査し、その打開策を探る目的で、特定地域を選んで、そこに協調会の臨時出張所を設け、長期的な調査を実施したことである。その特定地域に選んだのは、2箇所、ひとつは伝統的に鋳物の町として有名な埼玉県川口町と、もうひとつは同じ埼玉県の北埼玉郡井泉村である。調査は1932年4月に始められ、1934年まで続けられました。
とくに農村課の調査は、社会調査の歴史でも重要ではないかと思われます。その主な成果には、つぎのような形で発表されています。
『井泉村基本調査』
『農家労働調査報告──井泉村農家経済前篇』
『更生農村の模範的事例』
『全国一千農家の経済近況調査』
『近郊農村と最近の労力移動──農村実地調査報告』
川口町、井泉村の調査は、どちらも単に学術的な調査を実施しただけではなく、その成果をもとに企業や農家の経営診断、あるいは財政改革などの具体策を地元にかえす努力をしています。
さらに注目すべきことは、こうした中で調査の方法について意識的な検討を試みた『農村実地調査の仕方』(1932年)や『農村調査覚書』(1943年)が生まれたことでしょう。高野岩三郎らそれまでの社会調査論が、どちらかと言うと、海外の研究に依拠した机上の調査論としての性格が色濃かったのに対し、この『農村実地調査の仕方』や『農村調査覚書』は、実際の調査体験のなかなから生まれた調査論としての性格をもっているのです。
これと共通した意義をもっていると思われるのは『社会政策時報』の第164号(1934年5月)の特集です。そこでは、中小主要輸出工業事情として、9業種が取り上げられています。大恐慌以降、輸出に依存する中小企業が困難な状況に陥っている状態を調査したもので、労働事情だけの調査ではありませんが、注目していいと思います。なお、協調会の調査課は主として外国の労働事情の研究・紹介を主たる目的とするものでしたが、この特集には多数執筆している。
実践活動の副産物としての調査
学術的な調査ではありませんが、協調会は戦前の労働事情を知る素材を労働調査の歴史において重要な貢献をしています。ただし、それは学術的なものというより、労働争議調停など協調会の実践的な活動のなかで生まれた成果です。すなわち、労働課が実施した労働組合、労働争議、工場委員会、団体交渉、団体協約などに関する調査です。これら成果のごく一部は、『社会政策時報』のなかで、「国内労働日誌」「国内労働界情勢」などとして連載されました。また1937(昭和12)年からは「昭和××年社会運動概観」が、毎年2月(後に3月、1941年からは「昭和××年産業労働情勢」)に特集されています。また当初は『海外労働年鑑』として外国の労働事情を紹介するにとどまっていたものが、1934(昭和9)年から『労働年鑑』と改題し、日本の労働事情についても収録するようになりました。そのほか、パンフレットとしても《労働問題調査資料》(『文庫目録』297ページ)《労働組合情報》《労働争議情報》(目録338)などとして発表されました。
しかし、もともと学術調査というより争議調停などの準備作業を目的とするという業務資料的性格のもので、警察当局から入手した部外秘の資料も多く、大部分は未発表のままに終わりました。学術調査とは異質のものですが、資料的価値は高く、他では得られない貴重な情報を含んでいます。たとえば、短期間存在しただけで消滅してしまった労働組合の原資料を添付した記録があったり、あるいは、大規模な労働争議に関する日時を追った記録なども含まれています。そのごく一部は、町田辰次郎『日本社会変動史観』(1924年)、同『労働争議の解剖』(1929年)、矢次一夫『昔の労働争議の思い出』(1956年)、西実『我国労資調整機構の発達』(1940年)など、労働課員個人の著書にいくらか反映されている程度です。もっとも、ここ十数年の間に編集された県史、市史などの労働運動、社会運動に関する部分は、この協調会資料に依存しているものが多いので、地方史にはかなり生かされていると言ってよいのですが。
これら協調会の業務記録類は、協調会の資産を継承した学校法人・中央労働学園に残されていました。しかし19??年に、大原社会問題研究所が購入し、現在は一般に公開されています。この他、協調会が力を入れたものに労働者教育があり、この問題についてもいくつかの調査が実施されています。『労働者教育調査資料』(目録344)。
本日は遠路はるばるお越しくださり有難うございました。この後書庫をご案内いたします。最初にお話ししましたように、協調会附属図書館の旧蔵書も、協調会の業務資料もすべて現在は私どもの書庫に収められています。今日お話しした、調査記録や関係図書は、いずれも容易に閲覧出来ますので、これを機会にぜひご利用ください。
本稿は、江口英一氏を代表者として実施された共同研究「日本及び欧米における貧困・生活問題に関する社会調査の成立と発展の比較・文献研究」グループが、法政大学大原社会問題研究所を訪問され、研究所が所蔵する旧協調会蔵書や大原社研の蔵書を見学された際に、挨拶代わりにおこなった報告の原稿をもとにまとめたものである。
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