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法政大学大原社会問題研究所所蔵の裁判記録について

二村 一夫

はじめに

 当初は、法政大学大原社会問題研究所が所蔵している「松川事件記録の保存と公開」について書くようにとのご依頼であった。しかし、私どもの研究所は松川事件資料のほかにも、戦前戦後をつうじてかなりの裁判記録を収集保存し、一般の閲覧に供している。そこで、お許しをいただいて、この機会に大原社研が所蔵する裁判資料の全容を紹介し、コレクションのいっそうの充実に関係各位のご協力を得たいと思う。

 一 法政大学大原社会問題研究所のこと

 大原社会問題研究所は今から70年余り前の1919(大正8)年2月に倉敷の富豪・大原孫三郎によって、大阪に創立された。創設者の大原氏は、倉紡や中国銀行などの経営にあたるかたわら、大原美術館、倉敷労働科学研究所などを設立した異色の実業家である。1937(昭和12)年に大原氏からの財政援助が打ち切られたため、研究所はその土地建物と蔵書の一部を大阪府に譲渡して東京に移転し、規模を縮小して存続をはかった。1949年に法政大学と合併し、今日に至っている。

 研究所の初代所長に就任したのは東大経済学部教授高野岩三郎である。彼のもとに櫛田民蔵、権田保之助、森戸辰男、久留間鮫造、大内兵衛、宇野弘蔵、細川嘉六、笠信太郎といった俊英が集まり、マルクス経済学、労働・社会問題など当時まだ未開拓だった分野で数多くの業績をあげた。研究所はまた、社会・労働問題を中心に図書・資料の収集につとめ、欧米にも研究員を派遣して図書の購入に当たらせ、数多くの貴重書を入手した。国内では、図書ばかりでなく労働組合や無産政党の機関紙誌や発行文書も収集した。これらの資料収集の目的は、当初は『日本労働年鑑』編集のためであったが、次第にかけがえのない記録を後世に伝えるために収集し、保存するという意味あいが強くなっていった。こうした活動をすすめるうえで大きな意味をもったのは資料室の設置である。今でこそ大学や研究所で、図書館のほかに資料室を設けているところは少なくない。しかし、1923(大正12)年の日本では、資料室をもつ研究機関はほかになかった。研究所は、この資料室の主任となった後藤貞治を中心に、その時点では単なる紙切れでしかなかったビラやポスターを集めることにも力を入れ、そのためにかなりの予算をさいた。大原社会問題研究所がどんな資料でも一枚5銭で購入することは社会運動関係者の間にすぐ知れ渡り、選挙などでまとまった資金が必要になると、組合や無産政党の関係者が本部にある書類を箱詰めにして研究所にもちこむ事例が増えた。浅沼稲次郎や河野密といった人びとはその常連であった。その際、しばしば裁判記録も運び込まれたのである。一方、研究所の運営の中心にいた森戸辰男は、東京帝大経済学部の機関誌『経済学研究』の創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したことで「朝憲紊乱」であるとして裁判にかけられた経験の持ち主であった。そうしたこともあって裁判記録の歴史資料としての重要性を理解し、意識的にこれを集めることに努力したのである。

二 戦前の裁判記録について

〔亀戸事件調書〕
 大原研究所所蔵資料のうち、裁判記録そのものではないが、弁護士の活動を直接つたえる貴重な文書に『亀戸労働者殺害事件事件調書』がある。この調書は、おそらく研究所がこの種の資料を受け入れた最初のケースであり、その後の裁判記録収集のきっかけを作ったと思われる。周知のように、「亀戸事件」は関東大震災の際に亀戸署に連行されたまま一ヵ月余も行方不明になっていた平沢計七、川合義虎ら労働組合の活動家10人が、連行直後に殺されていた事件である。殺害理由について当局は、「川合らが検束後も革命歌を高唱し、多数の収容者を煽動し、警備に当たっていた軍の制止に対し反抗したため」であるとし、殺害は「適法の行為であった」として加害者の責任を不問に付した。そこで結成されたばかりの自由法曹団の山崎今朝弥、布施辰治、松谷与二郎、黒田寿男、片山哲、三輪寿壮、細野三千雄、田坂貞雄、吉田三市郎、飯塚友一郎、宮島次郎、沢田清兵衞、牧野充安らの弁護士が手分けをして関係者から事情聴取をおこない調書を作成したものである。調書は全部で21通、布施辰治法律事務所の用箋にカーボンコピーで記録されている。調書の作成には松谷法律事務所、片山法律事務所、瀬尾法律事務所などのほか東京弁護士会館が使われている。研究所は、全部で和罫紙150枚足らずのこの『調書』の謄本に100円を支払っている。売り手の加藤勘十氏はその時総同盟の主事で、亀戸事件犠牲者の「労働組合葬」の主催者であった。この購入費用の異例の高さは、その葬儀費用を援助する意味あいがあったのではないかと推測される。

〔裁判記録の入手経路〕
 こうして、大原社研が裁判記録を高価に購入することが、自由法曹団の弁護士諸氏を中心に伝わったものであろう。研究所には、予審調書などの裁判記録があいついで持ち込まれた。研究所に残っている『庶務日誌』や『資料室日誌』には、裁判記録の購入先が記されているが、そこには三輪寿荘、小岩井浄、細迫兼光といった弁護士の名が見られる。弁護費用にもことかくなかで、予審調書の謄写など裁判費用を捻出するために売却したもののようである。
 そうした売り込みの一例として、三・一五事件の予審調書に関する一通の手紙を紹介しよう。布施辰治弁護士から森戸辰男研究員に宛てられたものである。

 「拝啓 益々御清勝慶賀この事に存じます。陳者、治安維持法違反事件の東京地方裁判所に繋属する部分の予審調書を是非貴研究所に於て買い取り備へ付けに相成る様おすすめ致し度く、一は貴研究所の調査研究資料として、一は解放運動犠牲者並にその家族の救援の意味に於てお願いする次第です。
 因みに、同調書は東京地方に於ける所謂三・一五事件に関するもので、各地区に於ける細胞の活動より中央委員に至るまでの全部を含むものであります。字間を縮小したプリント刷にて約一万数千枚に上り、百冊近くに分冊せられた極めて厖大なもので実費も相当の額にのぼってゐます。只今その大部分が出来上ってゐます。近日中に全部完成する筈です。実費一組三百円に願い度いと思ってゐます。
 右解放運動犠牲者救援会の意を受けて貴意を得る次第です。何卒宜しき様御取計らいを願います。
                  草々
  四月一九日
               布施辰治
  森戸辰男様             」

〔戦前裁判記録の概要〕
 このようにして収集された大原社研所蔵の戦前の裁判資料は、労働運動関係、農民運動関係、治安維持法違反事件関係、その他社会運動関係の四分野に大別することができる。
 労働運動関係の裁判記録は1919(大正8)年の足尾銅山争議、釜石鉱山争議、翌20年の八幡製鉄所争議、21年の神戸・川崎・三菱両造船所争議、1926年の浜松日本楽器争議、1930年の東洋モスリン争議など戦前の主要な労働運動に関連しておきた三十数件の事件に関するもので、全部で156冊ある。罪名は1921年までは治安警察法違反が多いが、その後は騒擾罪、傷害罪、公務執行妨害など多様である。文書の内容は予審調書がもっとも多いが、巡査報告書、検事調書、公判始末書、判決書などもふくまれている。
 農民運動関係はほとんどが小作争議に関連しておきたものである。小作争議では、地主側が立入禁止の仮処分を求めるなど法的措置に訴えることが多い。しかし、研究所に残されている資料は、多くは騒擾事件で、1921年から23年にかけておきた岡山県の藤田農場小作争議をはじめ香川県伏石争議、新潟県木崎村小作争議、同王番田争議、秋田県前田村争議など農民運動史上で有名な争議ばかり24件の裁判記録が150冊ほど残されている。なお、うち1件は高知の漁民騒動である。  量的にもっとも多いのは治安維持法違反事件を中心にした、いわゆる「思想事件」に関するもので、40件382冊である。ただすべてが治安維持法違反ではない。たとえば、プロレタリア作家として知られた葉山嘉樹らが連座した「名古屋共産党事件」は治安警察法が禁止する秘密結社を組織したとして起訴されたものである。もちろん大部分は治安維持法違反事件で、いわゆる三・一五事件、四・一六事件など東京地裁でおこなわれた中央部の公判だけでなく、大阪、京都、新潟、福岡、広島、高松の各地方裁判所でおこなわれた裁判資料もふくまれている。そのほか、最初の治安維持法違反事件として知られる「京大学連事件」や山川均、鈴木茂三郎、向坂逸郎らの「人民戦線事件」、大内兵衛・阿部勇らの「人民戦線教授事件」などもかなりの分量に達している。
 その他の社会運動関係の裁判資料は多様である。もっとも早い時期のものは足尾鉱毒事件にかかわる1900年の凶徒聚衆事件(川俣事件)、ついで1917年の米騒動関係の裁判記録である。米騒動の記録は、主として各地の地方裁判所における予審終結決定書の写しである。これは記録そのものを購入したのではなく、布施辰治法律事務所に複写を依頼して作成したものである。その資料収集のための支出明細書が残っているが、そこには1931年4月15日に布施氏へ300円、同6月14日に同じく布施氏へ200円などとある。このほか小岩井浄、河上丈太郎、岡林辰雄の諸氏が、この米騒動判決の複写作業に関与されたことが記録されている。このほかには、甘粕正彦ら大杉事件の判決をふくむ軍法会議の諸記録、ギロチン団事件、水平社奈良事件、福岡連隊爆破事件、河合栄治郎出版法違反事件などがある。

三 戦後の裁判記録

 第二次世界大戦によって大原社会問題研究所は大きな痛手をうけた。とりわけ敗戦のわずか3ヵ月前に、空襲で事務所や書庫を焼失したのは大打撃であった。ただ不幸中の幸いというべきは、堅牢な土蔵に貴重資料を収蔵していたため、裁判記録などが焼失を免れたことであった。本拠を失った研究所は、戦後しばらく駿河台の政経ビルに仮住まいの状態で、『日本労働年鑑』編集用の資料こそ集めていたが、それ以上の資料収集の余裕はなかった。とくに書庫をはじめスペースが限られていたことが収集を困難にしていたのである。まして一般の閲覧希望に応ずる状況にはなかった。
 研究所が本格的に活動を再開したのは1949年に法政大学と合併してからである。そして、創立50周年、合併20年後の1969年に『所蔵文献目録』を刊行し、ようやく図書資料の整理は一段落した。また同年5月には、朝日新聞社の後援をえて、創立50周年記念の《社会運動の半世紀展》を東急日本橋店で開催し、研究所所蔵の諸資料を中心に日本の社会運動の歩みをたどる展示をおこなった。こうした目録の発行や展示会をつうじて大原社研が貴重な資料を所蔵していることが広く知られるようになり、外部の研究者や実務家から閲覧を求められることが多くなった。研究所はそうした要望に個別に応えるだけではなく、研究所に図書館・資料館としての機能をもたせるべきであると考え、一般公開の準備をすすめていた。しかし、なにぶん一私立大学の限られた予算のなかでまかなわれている研究所であるだけに、その実現にはさまざまな問題があった。

〔松川事件関係資料の受け入れ〕
 そうした中で、1971年2月、松川事件裁判と松川運動に関する資料の受け入れ問題がおきたのである。これを機に大原研究所は以後あいついで多くの裁判記録を入手しただけでなく、図書資料を一般の閲覧に供するようになった。今では法政大学大原社会問題研究所は単に研究だけでなく、専門図書館・資料館としても活発に活動しているが、そのひとつのきっかけは、松川資料の受け入れにあった。
 周知のように松川事件の刑事裁判は1963年9月、最高裁が検察側の上告を棄却し、被告人全員の無罪が確定して終結した。しかしその後も、松川運動は終わることなく、「事件の責任を追及する」ための国家賠償請求運動としてつづけられた。その結果、1970年8月にいたって、東京高裁が公訴の提起・維持に違法性があったことを認めて、総額7626万円の賠償金の支払いを命じ、ようやく事件は決着した。同年9月9日「松川事件の責任追及のための全国連絡会議」は代表世話人会議を開き、同連絡会議の解散を決議すると同時に、その所有する松川運動と松川裁判に関する資料を適当な研究機関に贈与する権限をふくめて、資料を松川事件弁護団に委託することを決議し、この決議は同月12日に開かれた同連絡会議の「松川事件国賠裁判勝利報告集会」において承認された。同年11月28日、松川事件弁護団もその総会を開いて解散を決議し、同時に松川資料の処理に関する権限を岡林辰雄弁護士はじめ六人の弁護士に委ねたのである。これを受けて、六氏は翌71年2月法政大学大原社会問題研究所をふくむ複数の機関につぎのような照会状を送り回答を求められた。

 「松川事件の責任追及のための全国連絡会議および松川事件弁護団からの委託により、私たちは、松川運動と松川裁判に関する資料を保管しています。私たちは、この資料が正当に保存され、価値どおりに活用されることを希望し、そのためにふさわしい研究機関に、つぎの三点を条件に、無償で寄贈したいと思います。
 一、 できるだけ短期間に、全資料が整理されること。
 二、 全資料の目録が正確に作成され、その目録が私たちに交付されるとともに、一般に公開されること。
 三、 資料が一般に閲覧可能であること。(後略)」。

 弁護士六氏は、この照会に対する回答を検討された末、最終的にこれを法政大学大原社会問題研究所に寄贈することを決定され、71年4月23日、両者の間で資料寄贈に関する契約が交わされ、資料はただちに研究所に移管された。
 直接裁判に関わる資料の内容は概略つぎのとおりである。
(1) 一審関係 ── 公判調書、検証調書など公判記録、判決書、大塚一男弁護人公判メモノート、捜査段階において弁護人が収集したメモ類など49冊。
(2) 控訴審 ── 控訴趣意書、検察官答弁書、公判記録、弁護人の弁論、鑑定書、判決書、弁護団会議記録や声明書、証拠書類など弁護団の資料など34冊。
(3) 上告審 ── 上告趣意書、上告趣意補充書を中心に、公判調書、弁論要旨、弁護団会議記録、保釈関係記録など50冊。 (4) 差戻審 ── 公判調書、検察官が隠匿していた参考人や証人の公判前供述調書や捜査復命書などの公判資料、さらには弁護団関係資料など64冊。
(5) 再上告審 ── 検察官上告趣意書、被告人の答弁書、弁論、公判調書など13冊。
(6) 国家賠償訴訟第一審 ── 証人の尋問記録136冊、訴訟記録9冊、弁護団報告書など計245冊。
(7) 弁護団資料 ── 弁護団事務局メモノート、同発受文書綴、供述調書綴、公判関係写真アルバム17冊、証拠関係写真アルバム9冊など。このなかには真犯人と称するものからの手紙綴も含まれている。
 以上のような公判関係の記録のほか、「松川運動」に関する資料があり、分量の点では直接公判にかかわる資料より多く、約850冊に達する。この中には被告人の獄中ノート類133冊や被告から田中吉備彦法政大学教授夫妻ら獄外の支援者に送られた書簡の綴りなどかけがえのない資料が少なくない。
 また日本の裁判史上まれにみる大きな事件であったことを反映して、パンフレットもふくむ松川事件に関する単行書が200冊をこえ、松川事件についての論文や座談会記録などが掲載された雑誌が三百数十冊に達している。なお、資料の整理には長年松川運動にたずさわってこられた小沢三千雄氏が当たられ、詳細な目録が作成された。

〔メーデー事件など〕
 松川資料の受け入れを契機に、以後、法政大学大原社会問題研究所は「戦後の四大騒乱事件」をはじめ、一連の「公安事件」に関する裁判記録を所蔵するようになった。松川事件についで、そのきっかけとして大きな意味をもったのは、1975年9月、中田直人弁護士を介してメーデー事件裁判記録を寄贈されたことである。これと同時に、平事件、三鷹事件、レッドパージ関係の裁判記録、占領下の米軍による軍事裁判記録など日本国民救援会中央本部に保管されていた資料を大量に受け入れた。さらにこれが「呼び水」となって吹田事件、宮操事件、大須事件、辰野事件、芦別事件等の戦後の主要な公安事件の裁判記録を受け入れたのである。
 研究所が所蔵する裁判記録のなかで最大のものはメーデー事件関係のものである。周知のように、この事件は1952年5月1日に皇居前広場でデモ隊と警官隊との衝突としておきたが、騒乱罪、公務執行妨害罪、傷害罪などの罪名で起訴された被告人の総数は261人に達した。東京地裁は8グループに分割して審しようとしたが、被告側は統一公判を要求して対立し、出廷拒否などで抵抗した。結局、分離公判を希望した二十数人を除き、東京地裁刑事第十一部による統一公判方式が採用され、1953年2月に裁判は開始された。判決はそれから17年後の1970年1月で、103人については一審で無罪が確定した。控訴審は一審有罪の93人についておこなわれ、1972年11月に判決があり、騒擾罪については全員無罪となった。検察側は上告せず、事件は20年余を経てようやく集結したのである。公判回数1820回、証人数942人という日本裁判史上、例をみない大規模かつ長期にわたる裁判であった。それだけに、資料の分量は松川事件を上回っている。それも松川の場合は直接裁判にかかわらない、いわゆる「松川運動」に関する資料が半ば以上を占めているが、メーデー事件はほとんどが裁判記録である。内容は公判調書、弁論要旨、検事調書写、控訴趣意書、証拠の写真類、判決書などである。もっとも分量が多いのは公判調書で被告人、証人別に綴じられている。まだ目録が作成されておらず、若干の重複資料もあるので、正確な数量は明かではないが、全体で書架70段分、一段平均50冊であるから3500冊前後であろう。大原社会問題研究所が所蔵する一つの事件の裁判記録としては最大である。

 メーデー事件資料の受け入れと同時に、研究所は国民救援会中央本部に保管されていた資料も受け入れた。そのなかには平事件、三鷹事件、レッドパージ関係の裁判記録、占領下の米軍による軍事裁判記録などが含まれている。また、松川事件につづきメーデー事件の裁判記録を受け入れたのが呼び水となり、その後、大原社会問題研究所は、吹田事件、宮操事件、大須事件、辰野事件、芦別事件、岩ノ坂交番事件等の裁判記録を各事件の関係者から寄贈されることになった。

〔国労など労働組合関係の裁判資料〕
 大原社研所蔵の戦後収集資料には、これまで紹介してきた「公安事件」関連のものだけでなく、労働運動とのかかわりで発生した事件の裁判記録がある。このうちコレクションとして最大のものは国鉄労働組合関係の裁判記録で、6段書架15連を占め、総量ではメーデー事件や松川事件を上回っている。これは、1987年に、旧国鉄労働組合中央本部所蔵資料を一括して寄贈されたものの一部で、最近整理を終え、仮目録も完成した。時期的には1949年から1987年と長期にわたっているが、おおまかにいって3つの山がある。すなわち1950年代末から60年代初めにかけての安保闘争の時期のもの、ついで70年代前半のスト権スト関連のもの、最後に分割民営化が問題となる80年代後半の事件である。
 中央本部関連では、刑事事件は国鉄本社へのデモの際に公務執行妨害罪に問われた1件だけで、あとの26件はすべて民事事件である。民事の多くは国労側が国鉄当局を相手取っておこしたもので、内容は賃金支払仮処分申請、雇傭契約存続確認請求、団体交渉義務確認申請、名誉毀損損害賠償請求、退職金等請求、不当労働行為救済命令申立などである。国労が被告となっているケースは、1975年のスト権ストに対し愛媛県青果農業共同組合連合会などから損害賠償を請求された6つの事件で、これについてはほぼ完全に記録が残っている。

 地方本部関係で注目されるのは広島地本と門司地本で刑事事件が多発していることで、両地本だけで52件と全体の29パーセントの事件が起きている。東京地本も22件と多く、また砂川闘争や60年安保闘争など戦後の大事件に関わるものが少なくない。罪名としては公務執行妨害、威力業務妨害などがもっとも多く、あとは暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害などである。その他は公職選挙法違反事件、国家公務員法違反事件、建造物侵入、艦船侵入、艦船不退去、鉄道営業法違反などがあげられる。

 民事事件では、解雇、免職、停職、減給、戒告など国鉄労働者に対して加えられたさまざまな処分にかかわる事件が多く、国鉄当局を相手取って国労が提訴した事例が多数を占める。地本別では東京が47件、大阪が22件、門司が21件などとなっている。具体的には地位保全等仮処分申請、解雇無効地位保全仮処分申請、免職処分無効確認請求、賃金カット支払い請求、懲戒処分取消請求などである。あとは労働災害に対し損害賠償を請求する事件や、国労の組合員が地方議員などに選挙された際の兼職不承認をめぐり労働契約存在確認請求、分割民営化にともなう人材活用センターへの配転を不服とする配置転換命令効力停止の仮処分を申請する事件などである。また組合の分裂に関連して分会などの財政にかかわる預金通帳等の所有権確認請求事件、あるいは組合費請求事件がある。
 一方、国鉄労働組合の地方組織が訴えられたケースでは、組合を脱退した労働者が組合員の地位不存在確認を請求した事件、あるいは国鉄当局から「ヤミ手当」の返還を求められた不当利得金返還請求事件や組合事務所明け渡し仮処分申請事件がある。
 直接労働運動とかかわらないものに、業務上過失致死傷、業務上過失往来危険、業務上過失往来妨害など、交通事故の裁判記録がある。なかでも1962年の三河島事件に関する裁判記録は、それだけで書架6段を埋めている。

〔レッドパージ、日本フィル争議など〕
 労働組合関係の裁判資料のひとつに、レッドパージ関係の裁判記録がある。これは、地位保全仮処分申請事件を主としている。ここでは、関連企業名をあげるだけで紹介にかえよう。日本鋼管、日本電気、新潟鉄工所、三機工業、大崎電気、東京鋼材、日本電線、日立電鉄、東京都高速度交通営団、京浜急行、小西六、通信報道関係、東宝砧撮影所、結核予防会、東京女子医大、帝国石油、郵政、新理研工業、富士産業。
 このほか、日本フィル争議にかかわる裁判記録がある。これは1989年に日本フィルハーモニー交響楽団労働組合より寄贈されたフジテレビとの争議関係資料のなかに含まれており、解雇事件や建物明け渡し請求事件に関する裁判の記録である。このほかエスエス製薬労働組合の争議資料のなかには、組合三役解雇事件および組合事務所占有妨害排除事件の裁判記録がある。

 〔安保闘争6・15教授団事件〕
 以上のほか、まとまった裁判記録としては6・15教授団事件に関するものがある。これは、年安保闘争のさなかの1960年6月15日に国会前路上で、〈大学・研究所・研究団体集会〉のデモ隊が警視庁第五機動隊による襲撃をうけ、デモ隊側に100人をこえる重軽傷者を出すという事件にかかわる一連の裁判の記録である。この事件の被害者らは、加害者である警視庁機動隊を東京地方検察庁に告訴、告発し、また法務省人権擁護局へも提訴した。同時に、民事訴訟によって事件の責任を明らかにすることを決定し、1960年9月、24人の被害者が東京都と国を相手に東京地方裁判所に国家賠償を請求する訴訟をおこした。刑事事件については、東京地検が不起訴を決定したため、被害者側から準起訴請求がおこなわれたが結局棄却された。一方、民事裁判は68年に東京高裁は被告の都に損害賠償責任を認める判決をくだし、都は上告することなく結審した。大原社会問題研究所は、この裁判の原告の一人で、訴訟団の事務局を担当された故福井正雄氏が所蔵されていた関係資料の寄贈を受けたのである。この資料は川崎忠文氏の努力で整理を終え、『大原社会問題研究所雑誌』1988年12月号に目録が発表されている。

 以上のように、大原研究所にある戦後の裁判記録は、分量の点では戦前をはるかに上回っている。ただ資料入手の点では戦前と戦後とでは大きく違っている。すなわち、戦前はすべてを購入していたのに対し、戦後はほとんど無償贈与に頼っていることである。なかには六・一五国家賠償請求事件のように整理費用をつけてご寄贈いただいた例さえある。
 ただ、資料を整理・保管し、一般公開する点では、現在の方が進んでいるであろう。どなたでも資格をいっさい問わず、研究所の閲覧室が開いている時間内(週日は朝9時半から午後4時半まで、土曜日は正午まで)であれば閲覧いただける。ただ、裁判記録の公開については当事者のプライバシーにかかわる問題があり、一部については関係者の事前の承認を必要とするなど、利用に若干の制限がある場合がある。これについては、あらかじめご了承願いたい。
 研究所は高尾山の麓といってよい法政大学多摩校地の中にある。京王線めじろ台駅、またはJR中央線西八王子駅、同横浜線相原駅から、いずれもバスで終点の「法政大学」下車。電話は0427-83-2305(閲覧係)。交通の便は決して良いとはいえないが、環境絶佳、今は新緑が映え、鶯の声を聞くことができる。



初出は日本弁護士連合会『自由と正義』第41巻第8号(1990年8月)。





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Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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