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高野房太郎

 高野房太郎とその時代(1)


二村 一夫



オンライン版まえがき

 このたび、オンライン版『二村一夫著作集』の第11巻として、『高野房太郎とその時代』を書き下ろしで連載することにしました。日本の近代的労働組合の生みの親であり、生活協同組合運動の先駆者でもあるこの人物の本格的な伝記がまだないので、その空白を埋めようと考えてのことです。全体の構成について一応のプランはたてていますが、最終的にどれほどの分量になるか、またどれほどの頻度で掲載できるかなどは、始めて見ないとわかりません。ただ心づもりとしては、オンライン版向きに1回の分量は少な目に、その代わりなるべく頻繁に、といっても月1、2回程度でしょうが、追加したいと考えています。雑誌への連載や単行本の形をとらず、オンライン版著作集への書き下ろしにしたのは、高野房太郎伝の決定版を書くには、まだ私自身、調査が十分ではなく、考えも固まっていないと感じているからです。また執筆中に新たな史料を発見する可能性も皆無ではないので、とりあえず活字メディアより筆者の自由度が高く、いつでも訂正可能なオンライン版著作集の1冊として刊行することにした次第です。色彩のある画像データを多用できることも、オンライン出版の利点ですから、これについてもさまざまな試みをしたいと考えています。
 私が高野房太郎について調べはじめたのは1977年のことですから、もう20年以上も彼とつき合ってきたことになります。これまでに、本著作集の第2巻『高野房太郎研究ノート』に収めた諸論稿を発表し、また彼が活字で発表した文章を、ほぼ網羅的に集めた『明治日本労働通信──労働組合の誕生』を、岩波文庫の1冊として編集翻訳しました。後者では、解説に代えて「高野房太郎小伝」も書いています。ただその私でも、まだ高野房太郎という男の実像を把握したとは、とても言えそうにありません。理由のひとつは史料の乏しさにあります。本人が書いた文章が多くはない上に、彼に関する記録はさらに少ないのです。その房太郎の文も、あえていえばやや無味乾燥で、どうもその肉声が聞こえてこない、つまり、それを書いた本人の心情があまり伝わってこないうらみがあります。彼の全体像を復元するには、まだまだ失われたジグソーパズルのピースをいくつも探し出さねばならないようです。
 こうした制約を乗り越えるひとつの方向は創作でしょう。イマジネーションをふくらませ、人間・高野房太郎を描くことです。そうした創作的な伝記、つまり主人公と同時代に生き、つねに同じ場所にいて、その生涯をあたかも見てきたように書く作品の方が、読みやすさでははるかに優れています。私も、いつかはそのような生き生きとした房太郎伝を書いてみたいと思っています。しかし、私は作家ではなく歴史家ですから、まずはできる限り関連史料を発掘し、史実を明らかにすることで彼の実像に迫りたいという気持ちが強いのです。もちろん、推測を完全に禁じて人の生涯を描くことは不可能でしょう。想像力を働かせることなく、ただ文書史料を忠実に記録するだけで1人の人間の生涯を再現することなど出来ようはずがありません。たまたま残された史料にしばられることは、かえってその人間像を歪めるおそれさえあるでしょう。ただ、私としては、どの点についてはどのような史料の裏付けがあるのか、推測が交じるとすれば、どのような理由でどのように推測したのかを明らかにしておきたいと考えているのです。
 というわけで、高野房太郎伝の決定版を書くことは将来の課題とし、まずは1人の人物の足跡とその周辺を探る〈歴史探偵〉の捜査報告書のような、史料にもとづく調査結果を書いてみようと思います。いささか無味乾燥な記録になるおそれなしとしませんが、しばらくおつきあいいただければ幸いです。
 なお、注は文末に*1のように記しています。数字のところを右クリックしてくだされば、注の本文にとびます。戻るときはブラウザーの「戻る」をお使いください。




1 生い立ち──長崎時代

誕生の地・長崎銀屋町

 高野房太郎は、「明治」が誕生したまさにその年、明治元年に、長崎は銀屋町18番地に、父高野仙吉、母ますの長男として生まれました。残念ながら、いま長崎を訪ねても、この銀屋町〈ぎんやまち〉という、銀細工職人が多く住んでいたことに由来する、いかにも職人町らしい趣のある町名は残っていません。いまは、「銀屋町教会」にその名をとどめているだけです。由緒ある地名をつぎつぎに廃止してしまった東京ほどひどくはありませんが、長崎も町名を変えています。かつては街路に沿ってその両側をひとつの町名で呼んでいたのに、1966(昭和41)年にブロック単位に改め、銀屋町は分割されて隣の古川町と鍛冶町に吸収合併されてしまったからです。しかし、彼の生まれた場所はすぐ分かります。かの有名な眼鏡橋眼鏡橋──長崎市の中心を流れる中島川(なかしまがわ)にかかる石橋群のなかで最も古く、姿も美しい──その眼鏡橋のすぐ川下に袋橋(ふくろばし)という橋があります。その袋橋の左岸から山側の寺町通りに至る小路に沿った両側の家並みがかつての銀屋町の家々です。18番地は、橋から山側に向かって行くと道の中ほどの左側、いまの古川町に当たります。
インターネット上の地図で、場所を確かめておきましょう。 この MapFan Webのアイコンを押すと、銀屋町教会のある場所を確かめることができます。
 ところで銀屋町は戸数わずかに百数十前後の小さな町でしたが、高野家だけでなく、日本の写真の歴史に重要な足跡を残した一家が生まれ育ったことでも記憶されるべきところです。その一家とは、他ならぬ上野家です。もっとも有名な人物は上野彦馬うえの・ひこま、1838〜1904)です。日本のプロ写真家第1号で、長崎で〈上野撮影局〉を開業しました。彦馬の名を知らない人でも、彼が撮った坂本龍馬の写真はきっと目にしているでしょう。高い台に右肘をつき、その手をふところに入れ、袴に靴を履いた例の写真です。彦馬のおかげで数多くの幕末・明治の人物や風景、あるいは西南戦争なども、画像データとして残ったのです。
 彦馬の父が上野俊之丞(としのじょう、1791-1851)で、蘭学者であり、硝石の製造を試みた化学者であり、また長崎奉行所の御用時計師であり、先祖代々の肖像画の絵師でもあるというマルチ・タレントを発揮した異才です。天保12(1841)年6月1日に日本人としてはじめて写真を撮ったのも俊之丞でした。6月1日が〈写真の日〉とされているのは、まさにこれを記念したもので、その被写体は島津斉彬でした。彦馬の弟・幸馬も写真家で、神戸に写真館を開き、多くの弟子を育てました。のち東京に移って皇室御用時計師にもなっています。
 実は、この幸馬の長男がほかならぬ〈日本のテーラー〉上野陽一(1883-1957)です。東大の心理学科を卒業し、日本で最初に産業能率の問題に着目し、1922年には協調会内に設けられた産業能率研究所の所長となるなど、日本の労務管理研究の草分けです。つまり、この町は日本における労働問題研究のパイオニアたちのルーツとも言うべき土地なのです。





誕生日について

 さきほど「捜査報告書」などと変なことを書きましたが、実は、彼の生年月日について、さっそく「調査」しなければならない点がいくつかあります。そのひとつは房太郎の生年の西暦による表記です。教科書や人名辞典をふくめ大部分の書物は、これを1868年としています。しかし、これは、旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とするまで日本では太陰暦が使われていたことを見落としたための誤りです。私は、このことをすでに何回も言っているので、またかと思われる方もおられるでしょう。でも、生年月日は、伝記の基本の基本ですし、誤った記述がいっこうにあとを絶たないので、あらためて強調しておきたいと思います。つまり西暦1868年は、慶応3年12月7日に始まり、明治元年11月18日で終わります。房太郎の誕生日は、その後の明治元年11月24日ですから、西暦なら1869年1月6日となるのです。
 もうひとつの問題は、生まれ月です。私たちが、房太郎の生涯、とくに生い立ちについて知ることができる確かな材料を残してくれたのは、彼の実弟・高野岩三郎だけです。岩三郎は、かねてから志半ばに夭折した兄の伝記を書く望みをもっていましたが、実際にその全生涯について書き残したものとしては、『大日本人名辞書』*1の高野房太郎の項目があるだけです。そこでは房太郎の誕生日を、明治元年12月24日としています。なぜ、いちばん身近なところにいた人が書いた記録にしたがわず、これを11月24日のこととしたのかといえば、要用簿それは、高野房太郎が戸主となった頃から、数年間の高野家の重要事項を記した『要用簿』*2では、房太郎の生まれ月を11月としているからです。『大日本人名辞書』の記載より、こちらが正しいと判断した根拠は、岩三郎が旧暦11月を新暦に換算する便法として1ヵ月遅れを使ったに違いないと考えたからです。月遅れのお盆が典型的ですが、陰暦7月の行事である盂蘭盆会を太陽暦に換算することをせず、便宜的に1ヵ月遅れの8月に開く方式です。岩三郎自身が旧暦を使っていた明治4年の生まれですから、旧暦そのままの表記では、実際の生年月日と大きく食い違うことを知っていました。実は岩三郎の履歴書で、自分の生年月日を明治4年8月2日としたものが残っています。一方、彼の戸籍上の生年月日は明治4年9月2日になっています。おそらく旧暦による誕生日は8月2日であったものを、戸籍上では1ヵ月遅れにしたのではないかと推測されるのです*3。 もうひとつ、念のためにつけくわえておけば、かりに房太郎の誕生月に関する『要用簿』の記載が誤りで、『人名辞書』の12月24日が正しかったとしても、生年は間違いなく1869年です。





【注】

*1 『大日本人名辞書』は田口卯吉の編集により1886(明治19)年に初版が刊行され50年余にわたって改訂を重ねた。最終は1937(昭和12)年の第11版である。高野房太郎の項目は1926(大正15)年6月に大日本人名辞書刊行会編として世に送られた『新版大日本人名辞書』以降に収録されている。筆者名は記されていないがこれが高野岩三郎の執筆であることは、「高野岩三郎日記」の1915年8月3日の項に「人名辞彙ニ掲スベキ亡兄ノ略伝ヲ起草シ之ヲ終ル」とあることから明らかである。現在、『大日本人名辞書』は講談社学術文庫で復刻されており、高野房太郎の項は第2分冊の1493〜1494ページにある。また、鈴木鴻一郎編、高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局刊、1961年)でも読むことができる(291〜292ページ)。
 ただし、その記述にはやや不正確な点が見られる。そこで、以下に『大日本人名辞書』をもとに全文を記し、明らかな誤りについては〔 〕内に注記しておこう。なお原文では句読点がほとんど付されていないが、読みやすさを考え適宜おぎなった。

高野房太郎  我国労働運動の先駆者、長崎の人。明治元年十二月月二十四日長崎市銀屋町高野仙吉の長男として生る。法学博士高野岩三郎の兄なり。十年父母に伴はれて東京に移る。横浜に汽船回漕業を営める叔父高野彌三郎の招きに応じ、父は其の生業たりし裁縫業を抛ち、東京神田久右衛門町〔橋本町、のち久右衛門町に町名変更〕に於て回漕業兼旅宿業を経営することとなりたるにより〔よる〕。十二年父死亡の後も叔父〔伯父〕の保護の下に母の主宰に依て営業継続せられしが、十四年神田の大火災に会い家屋焼尽、依って日本橋浪花町に移り引続き営業す。その間神田〔日本橋〕千代田小学校及び本所江東小学校に学び小学の課程を全部終了、直ちに横浜に赴き叔父〔伯父〕の店に勤め、傍ら横浜市立商業学校に学ぶ。十八年叔父〔19年伯父〕没するや、十九年志を立てて米国桑港に渡航し、小雑貨店を開き余暇を以て桑港市立商業学校に入学〔雑貨店の経営に失敗した後、時日を経て商業学校に入学しており、同時ではない〕其の課程を終る。雑貨店は幾くもなく閉鎖し、其の後は専ら諸種の労務に従事し、其の得る所を以て故国の母弟の生計及び学資に充て、傍ら主として経済学の独学自習に励む。二十九年春〔6月〕帰朝、横浜日刊英字新聞ジャパン・アドバタイザー記者〔翻訳者〕となる。高野岩三郎〔および山崎要七郎〕共著の袖珍和英辞典(大倉書店発行)を編纂せるは此の時代にあり。同年六月〔12月〕同社を辞し、片山潜其の他の諸氏と謀り労働組合期成会を起し、口に筆にまた東奔西走、身心を挙げて労働運動殊に労働組合の促進に努力す。同会機関紙『労働世界』に執筆したるもの多し。またこの頃アメリカ労働聯合会の機関紙アメリカン・フェデレーショニストの為めに日本の労働者状態または労働運動に関して論文を寄せたること少なからず。三十二年秋労働者的消費組合たる共営社を京橋八丁堀に起し後また之を横浜において営む〔これは順序が逆で、31年暮に横浜共営合資会社をおこし、32年に八丁堀で共営社を経営している〕。然るに期成会並に共営社の事業共に漸く衰運に向いしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪、遂に三十七年三月十二日山東省青島の独逸病院において肝臓膿腫の為めに斃る、時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り本郷駒込吉祥寺に葬る。日清戦争当時、未だ一般に労働運動の何たるかを解せられざるの際に於いて率先之に当り、特に組合組織に尽せる如き、本邦労働運動史上没すべからざる先駆者の一人なりとす。」

*2 『要用簿』は表紙には「明治十三年初冬 要用簿」、裏表紙には「高野氏秘蔵」と記されている。用紙は和罫紙で、折り目に横浜境町 カネ吉 糸彌と印刷されており、伯父弥三郎が作らせた用箋である。おそらく仙吉の死にともない、後見人となった母ますが作成したものであろう。ただし、ますは漢字の読み書きができなかったから(岩三郎から母への手紙はひらがなだけで書かれている)、番頭などに書かせたものであろう。内容は区役所などへの各種届け出や戸籍の写しなどである。

*3 大島清『高野岩三郎伝』をはじめ多くの文献で、高野岩三郎の生年月日は1871(明治4)年9月2日となっている。しかし私は、明治4年8月2日、西暦では1871年9月16日であったのではないか、と考えている。なお、鈴木鴻一郎氏が作成し『かっぱの屁』の巻末に掲載された「高野岩三郎先生略年譜および著作目録」は、明治4年8月2日説である。





幕末明治期日本古写真展示会
長崎大学付属図書館のバーチャル展示会・「幕末開港と長崎」など、上野彦馬撮影の写真も

上野彦馬ギャラリー
上野彦馬が撮影した出島や眼鏡橋など



続き(『高野房太郎とその時代(2)』)

『高野房太郎とその時代』既刊分目次



二村一夫『高野房太郎研究ノート』

『二村一夫著作集』総目次

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