高野房太郎とその時代(1)二村 一夫オンライン版まえがき このたび、オンライン版『二村一夫著作集』の第11巻として、『高野房太郎とその時代』を書き下ろしで連載することにしました。日本の近代的労働組合の生みの親であり、生活協同組合運動の先駆者でもあるこの人物の本格的な伝記がまだないので、その空白を埋めようと考えてのことです。全体の構成について一応のプランはたてていますが、最終的にどれほどの分量になるか、またどれほどの頻度で掲載できるかなどは、始めて見ないとわかりません。ただ心づもりとしては、オンライン版向きに1回の分量は少な目に、その代わりなるべく頻繁に、といっても月1、2回程度でしょうが、追加したいと考えています。雑誌への連載や単行本の形をとらず、オンライン版著作集への書き下ろしにしたのは、高野房太郎伝の決定版を書くには、まだ私自身、調査が十分ではなく、考えも固まっていないと感じているからです。また執筆中に新たな史料を発見する可能性も皆無ではないので、とりあえず活字メディアより筆者の自由度が高く、いつでも訂正可能なオンライン版著作集の1冊として刊行することにした次第です。色彩のある画像データを多用できることも、オンライン出版の利点ですから、これについてもさまざまな試みをしたいと考えています。 1 生い立ち──長崎時代
誕生の地・長崎銀屋町 高野房太郎は、「明治」が誕生したまさにその年、明治元年に、長崎は銀屋町18番地に、父高野仙吉、母ますの長男として生まれました。残念ながら、いま長崎を訪ねても、この銀屋町〈ぎんやまち〉という、銀細工職人が多く住んでいたことに由来する、いかにも職人町らしい趣のある町名は残っていません。いまは、「銀屋町教会」にその名をとどめているだけです。由緒ある地名をつぎつぎに廃止してしまった東京ほどひどくはありませんが、長崎も町名を変えています。かつては街路に沿ってその両側をひとつの町名で呼んでいたのに、1966(昭和41)年にブロック単位に改め、銀屋町は分割されて隣の古川町と鍛冶町に吸収合併されてしまったからです。しかし、彼の生まれた場所はすぐ分かります。かの有名な眼鏡橋──長崎市の中心を流れる中島川(なかしまがわ)にかかる石橋群のなかで最も古く、姿も美しい──その眼鏡橋のすぐ川下に袋橋(ふくろばし)という橋があります。その袋橋の左岸から山側の寺町通りに至る小路に沿った両側の家並みがかつての銀屋町の家々です。18番地は、橋から山側に向かって行くと道の中ほどの左側、いまの古川町に当たります。 誕生日について
さきほど「捜査報告書」などと変なことを書きましたが、実は、彼の生年月日について、さっそく「調査」しなければならない点がいくつかあります。そのひとつは房太郎の生年の西暦による表記です。教科書や人名辞典をふくめ大部分の書物は、これを1868年としています。しかし、これは、旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とするまで日本では太陰暦が使われていたことを見落としたための誤りです。私は、このことをすでに何回も言っているので、またかと思われる方もおられるでしょう。でも、生年月日は、伝記の基本の基本ですし、誤った記述がいっこうにあとを絶たないので、あらためて強調しておきたいと思います。つまり西暦1868年は、慶応3年12月7日に始まり、明治元年11月18日で終わります。房太郎の誕生日は、その後の明治元年11月24日ですから、西暦なら1869年1月6日となるのです。 【注】
*1 『大日本人名辞書』は田口卯吉の編集により1886(明治19)年に初版が刊行され50年余にわたって改訂を重ねた。最終は1937(昭和12)年の第11版である。高野房太郎の項目は1926(大正15)年6月に大日本人名辞書刊行会編として世に送られた『新版大日本人名辞書』以降に収録されている。筆者名は記されていないがこれが高野岩三郎の執筆であることは、「高野岩三郎日記」の1915年8月3日の項に「人名辞彙ニ掲スベキ亡兄ノ略伝ヲ起草シ之ヲ終ル」とあることから明らかである。現在、『大日本人名辞書』は講談社学術文庫で復刻されており、高野房太郎の項は第2分冊の1493〜1494ページにある。また、鈴木鴻一郎編、高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局刊、1961年)でも読むことができる(291〜292ページ)。 「高野房太郎 我国労働運動の先駆者、長崎の人。明治元年十二月月二十四日長崎市銀屋町高野仙吉の長男として生る。法学博士高野岩三郎の兄なり。十年父母に伴はれて東京に移る。横浜に汽船回漕業を営める叔父高野彌三郎の招きに応じ、父は其の生業たりし裁縫業を抛ち、東京神田久右衛門町〔橋本町、のち久右衛門町に町名変更〕に於て回漕業兼旅宿業を経営することとなりたるにより〔よる〕。十二年父死亡の後も叔父〔伯父〕の保護の下に母の主宰に依て営業継続せられしが、十四年神田の大火災に会い家屋焼尽、依って日本橋浪花町に移り引続き営業す。その間神田〔日本橋〕千代田小学校及び本所江東小学校に学び小学の課程を全部終了、直ちに横浜に赴き叔父〔伯父〕の店に勤め、傍ら横浜市立商業学校に学ぶ。十八年叔父〔19年伯父〕没するや、十九年志を立てて米国桑港に渡航し、小雑貨店を開き余暇を以て桑港市立商業学校に入学〔雑貨店の経営に失敗した後、時日を経て商業学校に入学しており、同時ではない〕其の課程を終る。雑貨店は幾くもなく閉鎖し、其の後は専ら諸種の労務に従事し、其の得る所を以て故国の母弟の生計及び学資に充て、傍ら主として経済学の独学自習に励む。二十九年春〔6月〕帰朝、横浜日刊英字新聞ジャパン・アドバタイザー記者〔翻訳者〕となる。高野岩三郎〔および山崎要七郎〕共著の袖珍和英辞典(大倉書店発行)を編纂せるは此の時代にあり。同年六月〔12月〕同社を辞し、片山潜其の他の諸氏と謀り労働組合期成会を起し、口に筆にまた東奔西走、身心を挙げて労働運動殊に労働組合の促進に努力す。同会機関紙『労働世界』に執筆したるもの多し。またこの頃アメリカ労働聯合会の機関紙アメリカン・フェデレーショニストの為めに日本の労働者状態または労働運動に関して論文を寄せたること少なからず。三十二年秋労働者的消費組合たる共営社を京橋八丁堀に起し後また之を横浜において営む〔これは順序が逆で、31年暮に横浜共営合資会社をおこし、32年に八丁堀で共営社を経営している〕。然るに期成会並に共営社の事業共に漸く衰運に向いしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪、遂に三十七年三月十二日山東省青島の独逸病院において肝臓膿腫の為めに斃る、時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り本郷駒込吉祥寺に葬る。日清戦争当時、未だ一般に労働運動の何たるかを解せられざるの際に於いて率先之に当り、特に組合組織に尽せる如き、本邦労働運動史上没すべからざる先駆者の一人なりとす。」
*2 『要用簿』は表紙には「明治十三年初冬 要用簿」、裏表紙には「高野氏秘蔵」と記されている。用紙は和罫紙で、折り目に横浜境町 カネ吉 糸彌と印刷されており、伯父弥三郎が作らせた用箋である。おそらく仙吉の死にともない、後見人となった母ますが作成したものであろう。ただし、ますは漢字の読み書きができなかったから(岩三郎から母への手紙はひらがなだけで書かれている)、番頭などに書かせたものであろう。内容は区役所などへの各種届け出や戸籍の写しなどである。
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