二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(四)

生い立ち──長崎時代




林基春「長崎市御祭礼紺屋町引物図」、『日本の浮世絵美術館』巻六より、原画所蔵は長崎市立博物館

豊かな町・長崎

 前節で「高野家はかなりの資産家だったに違いない」と推測しました。しかし、自分でそう書きながら、はたしてそう言いきってよいものかどうか、いささか気になるところがありました。それは、いかに奉行所御用の職人の親方といっても、仕立て業はもともと一枚縫い上げて幾らという手間賃稼ぎで、どれほど懸命に働いてみたところで儲けはたかがしれていたのではないか、ということでした。あれこれ考えてみましたが、結局この疑問を解決するには、高野家の顧客についての「市場調査」をするほかなかろうと思いいたりました。つまり、幕末・維新の長崎における武士の暮らしぶりやその人数などを調べ、どれほど繁盛しえたか考えてみようというわけです。そこでいろいろ材料を集めて検討した結果、さきの推測はまず間違いなかろうと確信するにいたりました。

 ご承知のように、鎖国時代の長崎は、日本の海外貿易をほぼ独占していました。対馬藩の対朝鮮貿易や薩摩藩の琉球貿易などの例外はありましたが、外国船の寄港が認められていたのは長崎だけで、長崎会所貿易はそのまま日本の貿易でした。輸入品は原価の数倍もの高値で売れ、莫大な利益が長崎の町全体をうるおしていたのです。貿易による利益の一部は長崎の町民全体に直接配分されました。土地持ちで公役を負担する町民への「箇所銀」、借家人には「竈銀(かまどぎん)」と称する利益配当があったのです。まさに日本株式会社ならぬ長崎株式会社でした。藩の支配地域にくらべ相対的に自由だったといわれる天領のなかでも、長崎は特殊な町でした。
 なかでも、その町の頂点に立つ長崎奉行の収入は途方もないものでした。奉行職にともなう公的な収入である役高は一〇〇〇石、それに役料四〇〇〇俵が家禄に追加されました。それだけでもけっこうな収入ですが、加えて舶載品をあつかう唐人・オランダ人や町人、町役人たちからの献金や献上品がありました。それ以上に大きかったのは、奉行がもっていた特権──無関税で輸入品を購入できる特権──で、それによる利益は「法外」なものでした。奉行は通常二人で、長崎在番は一年交代、任期は多くの場合わずか数年でしたが、いちど長崎奉行をつとめれば、後は左うちわで安楽な暮らしができるだけのみいりがあったといいます。奉行は主として旗本の間から任命されましたが、彼らが長崎奉行就任のためにつかった運動費の相場は三〇〇〇両だったそうです*1。その役得の大きさは、まさに推して知るべしです。

ロシア使節ブチャーチン、『日本の浮世絵美術館』巻六より、原画所蔵は島根県立博物館

 もちろん、奉行だけが役得をえていたわけではありません。町政をとりしきり、貿易を取りしきっていた地役人たちの豊かさも驚くべきものがありました。これは、私が驚いているだけではありません。そんなことは先刻ご承知のはずの幕府の高官までもが驚いているのです。それはほかならぬ幕末の能吏として知られた川路聖謨(かわじとしあきら)で、嘉永六年暮から安政元(一八五四)年にかけ、ロシア使節ブチャーチンとの交渉で長崎に赴いた時のことです。彼が長崎滞在中に本拠としたのは地役人の住居でしたが、その家は「高木貞四郎は十人扶持の鉄砲方なるに屋敷三千石以上の御役宅の如し」と記すほどのものだったのです。川路はさらに、「今日、町年寄共の宅前を通るに大名の如し、大いに驚く」とも書いています*2

川路聖謨、新異国叢書『日本渡航記』より

 自らもオランダ通詞であった桜痴(おうち)・福地源一郎も「町年寄・会所役人・唐通事・和蘭通詞等は豪奢な生活を為し」たと回想しています。たとえば通詞の給料は大通詞が銀一一貫(金二二〇両)・五人扶持で、通詞の責任者である年番通詞になると銀二四貫七〇〇目(金四九四両)の加役料があったそうです。*3

 こうした富裕な奉行所の役人や会所の町役人が高野家の主たる顧客だったと思われますが、その他にも、長崎に駐在していた各藩の武士からの注文もあったでしょう。長崎駐在の武士のうち、数の上でもっとも多かったのは、外敵に備え、福岡藩と佐賀藩が一年交代で出していた長崎警衛の武士で一〇〇〇人規模でした。さらに、西国を中心に三六の諸藩が貿易の拠点として、また海外情報入手源としての長崎に蔵屋敷をおいており、その勤務者も少なからぬ数だったと思われます。さらに、武士とは限りませんが、蘭学、医学などを学ぶために全国各地から人が集まっていました。一般に長崎は町人の町というイメージがありますが、実際は、他の城下町よりも武士の比重の大きい町だったと思われます。

 ところで、彼ら武士たちにとって、衣服はその身分と格式を象徴するものとしてことのほか重要なものでした。たとえば、さきほどみた川路聖謨は質素を旨とした人物ですが、その日記には、いつ誰と会うためにどのような衣服を着たかがこと細かに記されています。たとえば『長崎日記』の冒頭は「四ツ時、自紋ふくさ・横麻上下にて登城」とあります。また、ロシア使節と最初の対面の時の様子はつぎのように記されています。

 「五時より西御役所へ参る。のしめ・麻なり。参り候て、一同相揃い候て、肥前守・左右衛門尉は裏附のかり衣にて、白がね作の太刀これを持たす。長崎奉行大沢豊後守・水野筑前守は大紋にて、糸巻きの太刀これを持たす。儒者古賀金〔謹〕一郎は布衣、御勘定組頭中村為弥・御勘定評定所留役菊地大助布衣着用(いずれも足袋をはき、小サ刀これを帯ぶ)、御徒目付は素袍着用、支配勘定是又同じ。尤も長崎立合として参り候ものは麻上下、自分召連れ候日下部勘之丞ばかり素袍也」*4

 このように日本人が衣服に気をつかうことは、日本人と会った外国人も注目した点でした。長崎に2年間滞在し、海軍の訓練に当たったカッテンディーケもつぎのように記しています。

「日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である」*5
ゴンチャローフ肖像、新異国叢書『日本渡航記』より

また、川路が応対したロシア使節団の一員であった作家ゴンチャローフは、先ほどの川路の引用文より半年ほど前に、長崎奉行とはじめて正式に会見した日の光景を生き生きと記しています。おそらく、ここに描かれている服装の一部は、高野岩吉の手になったものだったに相違ありません。

「さらに私の気に入ったのは、こうも多くの絹の羽織や、袴や、肩衣が集まっていながら、その中に一つも派手などぎつい色がないことであった。赤も黄も緑も、一つとして原色はなく、すべて混合色の二色または三色の、和やかな軟らかい色調である。〔中略〕正装の色どりはヨーロッパの婦人たちと同様である。私は、老人たちが緞子の袴をはいているのを五人ほど見かけたが、いずれも地味な色調であった。後の連中の袴は、なめらかな灰色や薄鼠色のものもあり、くすんだ青色、adelaide〔アドレード風、つまり緑を帯びた色調〕、vert de gris〔緑青色〕、vert de pomme〔リンゴの青味がかった緑色〕など、一口にいえばヨーロッパの最新の流行色、couleurs fantaisie〔幻想的な色調〕がそこにはそろっていた。  奉行は黒い細縞の入った単色のpensee〔紫色〕の長着と袴を着けていた。奉行の肩衣は、他の者と仕立が異なっていた。みなの者は背も袖もすんなりとなめらかな型で、袖は手首のところが広くて、全般にロシアの婦人マントに似ている。奉行のは、脇腹のあたりで袖が切り落としてあって、小さな翼のように張り出した上下装束である。後で知ったことだが、これはわが国の文官通常制服に相当するいわば略装である。」

 ゴンチャローフは、さらに先に引用した川路の日記とまったく同じ日の「日本全権」の服装についても次のように書き記しています。

「四名の全権たちはみな幅のある上着(mantija)を着ていた。それは、高価な板のような厚手の絹に模様を配した布地でつくられていて、やっと折り目をつけたような代物であった。手首のところの袖口は極端に広く、前面は顎の真下から帯のところまで、これと同じ布地の胸当てがかかっていた。上着の下はふつうの長衣と袴だが、これももちろん絹物であった。老人の服地は緑色で、次席のは波形の地紋のある白生地で、粗い縞が通っていた。四人の全権一同も、奉行たちも同じように頭の真上に黒い小さな刻面の冠を逆さまに載せていた。この小さな冠は西洋の婦人用の縫物籠か、まあロシアの百姓女が茸狩りに持ち歩く手籠にそっくりの形をしていた。後でわかったことだが、これらの冠は張子細工であった。全権たちの左側に座を占めていた二人の役人は全権たちと同じ形の冠をつけていたが、つぎの二人の役人は、一つは三角形、もう一つは四角形で、どちらも扁平であった。上席の者の冠は白い紐を通して顎の下に結びつけてあり、下級の者の冠は黒い紐であった。この程度ならまだ大したことはないが、第三席の全権と、二人の奉行と、もう一人の役人は、足の先から一アルシン〔約七一センチ〕も引きずった絹の長袴をはいていた。したがって、奉行たちは苦労して足を上げながら、かろうじて歩くのであった。
 この衣服はある階位もしくは官職に賦与されたものである。とにかく、この正装全体がわが国の大礼服と同様に最高の礼装であった」*6

 もちろんこうした衣裳は、外国使節との応対のために新調されたものでしょうから、とりわけ気をつかったに相違ありません。ただ、どのような機会に何を着るかというTPOは、武士のたしなみの重要な部分だったのでした。となれば、豊かな町長崎の役人たちが、その衣服を整えるのに金を惜しまなかったであろうことは確かでしょう。とすれば、幕末の高野家にこうした顧客の注文があいつぎ、かなりの収益をあげていたであろうことも、また確かだったと思われます。
 それに、もともと長崎は着倒れの町として知られていたようです。江戸時代の男どもが、「あそびの理想」を謳った俗謡につぎのような唄があります。

江戸の女郎に長崎衣装
江戸の意気地にはればれと
大阪の揚屋で遊びたい
なんと通ではないかいな*7

 これは例の「日本の女性を妻に持ち、西洋館に住んで、中華料理を食べる」と同じたぐいのたとえですが、「長崎衣装」が一般に高い評価を得ていたことが分かります。長崎に滞在した武士たちが、国に帰る際の土産として、異国から舶載された織物を使った着物をつくったであろうことも想像に難くないところです。

 ここでさらに推測すれば、高野家は単に仕立業を営んでいただけでなく、舶来の織物の取り引きにも従事していたのではないかと思われます。長崎貿易の主要輸入品は、当初は中国生糸でしたが、時代がさがるにつれ各国産のキャラコ、金巾、更紗等の綿織物や呉絽、羅紗などの毛織物、ビロードのような特殊な織物が大きな比重を占めるようになっています。幕末・維新期の長崎貿易の主要輸入品は艦船で、総価額の半ば以上を占めていました。それに次ぐのが各種織物で二〇%前後に達しています*8。こうしたことを考え、さらに高野家がその長崎で織物加工業に従事していたことも考えあわせると、岩吉のところには、さまざまなルートで舶来の織物が持ち込まれていたに違いないと思うのです。もちろん、それを衣服に加工することが高野家の家業でした。ただその品はなんら手を加えなくとも、よそへ持っていけば高価にさばける商品でした。高野家の人びとが、そうした舶来織物の取り引きに無関心だったとすれば、その方がむしろ不思議です。町役人でもあったと思われる岩吉が、長崎会所から舶来の織物を手に入れるのは容易だったでしょう。もっとも、先祖代々の職人だった岩吉が商売に関心をもっていたかどうか、それは分かりません。しかし私は、その子供たち、亀右衛門や彌三郎が舶来織物の取引きに手を染めていたことは、まず確実だと考えています。なぜかといえば、一仕立て職人が、ある日急に思い立って遠い横浜に移住し生糸取引を始めるとは、ちょっと考え難いことです。しかし、もし彼らが、長崎で何らかの形で貿易に関わっていたとなれば、開港後の横浜に巨大な商機があることを発見し、新天地を求めて飛び立っていったことは、ごく自然な行動となります。こう考えてこそ、家を継ぐべき立場にあった亀右衛門らが家業を捨たことも、けっして突飛で冒険的な行為ではなく、一貫性をもつもものとして理解できると思うのです。




【注】

*1 原田伴彦『長崎──歴史の旅への招待』(中央公論社・中公新書五四、一九七四年)、一一四ページ。

*2 桜井貞文・川田貞夫校訂 川路聖謨『長崎日記・下田日記』(平凡社、東洋文庫、一九六八年) 四三〜四四、五一ページ。

*3 山本博文『長崎聞役日記──幕末の情報戦争』(筑摩書房・ちくま新書、一九九九年) 一二七ページ

*4 川路聖謨『長崎日記・下田日記』三、五二ページ

*5 永田信利訳 カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社、東洋文庫二六)、一九六四年、一二六ページ。著者のリッダー・ホイセン・フォン・カッテンダイケ(Ridder Huijssen van Kattendijke 一八一六〜一八六〇)は、オランダの海軍士官。安政四(一八五七)年九月、幕府が購入した軍艦ヤパン号(咸臨丸)を携えて来日し、幕府が長崎に設けた海軍伝習所の教官として、勝海舟、榎本武揚らを教えた。安政六年一一月に離日するまで二年余を、数次の沿岸航海の間を除き、長崎に滞在した。その間の日記をもとに本書(原題は『滞日日記抄──一八五七〜五九』)を刊行した。この記録は幕末の日本、とりわけ長崎に関する貴重な証言となっている。帰国後は、海軍大臣になり一時は外務大臣も兼任した。

*6 高野明・島田陽共訳 ゴンチャローフ『日本渡航記』、雄松堂、一九六九年、二五二〜二五四ページ、四三六〜四三七ページ。

*7 原田伴彦『長崎──歴史の旅への招待』(中央公論社・中公新書五四、一九七四年)一〇七ページ。

*8 重藤威夫『長崎居留地と外国商人』風間書房、一九六七年、四四四〜四五一ページ



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