長崎屋繁盛記
久右衛門町の長崎屋は、素人が始めた新店にも関わらず予想外の繁盛をみせたようです。その〈物的証拠〉がここに掲げる尾崎富五郎編『食類商業取組評』(明治一二年刊)です。
この小冊子は、東京の「有りとあらゆる食類客亭の雷名を甲乙なしに書き移し」と序文で記すように、各業種の有名店をその評判に応じて格付けし、これを相撲見立ての番付にしています。「食類客亭」とは聞き慣れない言葉ですが、食に関する店と客商売の店ということでしょう。右の「惣目禄」〔目次〕にあるように、「食類」では料理、割烹、鰻店、鮨家、汁粉、鮮魚、佃煮など二三業種、「客亭」では旅宿、船宿、待合、
さて本題に戻ると、この冊子でわが長崎屋はなんと「旅宿」の部で東の大関なのです(1)。
この番付に〈横綱〉はありませんから、東の大関は文句なしに同業者間のトップです。「いくら何でも、開店して二年経つか経たない宿が東京一とはおかしい。ことによると江戸時代に長崎のオランダ商館長の定宿として有名だった〈長崎屋〉と混同したのでは?」と疑り深い私は考えました。しかしこの番付で長崎屋の住所は正確に「久エモン丁」と記されています。
むしろ、長崎屋が大関になれたのは〈コネ〉があったから、と考える方が自然です。なぜかといえば、尾崎富五郎は幕末から横浜に住み、ハマ屈指の版元・錦誠堂を経営し、自ら『横浜案内絵図』を描いた絵師でした。同じ時期に横浜で商売をしていた高野亀右衛門や彌三郎と知り合いだった可能性は高いのです(3)。尾崎が東京の商売番付を出すことを知った高野兄弟が、長崎屋を売り込んだのではないでしょうか?
とは言え、こうした番付は他の業者や読者の目にふれるものです。かりに贔屓によるとしても、長崎屋が繁盛してもいないのに高く格付けては、番付そのものの評価を落とします。また、私でもいくらか名前の分かる「会席料理店」の部をみると伊勢源、八百善などの有名店がそれぞれ東西の大関の座を占めています。長崎屋が繁盛していたことは、間違いないところです。
長崎屋が好成績をあげえたのは、それなりの理由があると思われます。その第一は、横浜に文字どおりの兄弟店があったことです。前にも触れましたが、開国後、西洋型帆船や汽船が導入されたことで船旅は安全になり、所要日数も短縮しました。江戸時代だと長崎から江戸へ往くには一ヵ月はかかったのに、汽船だと五日前後で着くようになったのです。九州をはじめ関西方面から東京へ来る人の多くは、東海道線全通までは、横浜経由の船旅を選びました(4)。そうなれば、横浜に兄弟店が二軒もある長崎屋は、集客上たいへん有利だったことは明らかです。
また維新後、これまでの飛脚問屋を基礎に成立した各地の運送会社を統括する機能をになった内国通運会社(後の日本通運会社)は、両国を拠点に東京と房総の各地とを結ぶ外輪の蒸気船を導入していました。こうした水運の要である両国に近く、かつ周辺に神田・日本橋の問屋街をもつ長崎屋は、回漕店としてもその立地条件は抜群だったのです。
さらに、もうひとつの利点は同じ神田区内に数多くの学校があったことでした。とくに神田川対岸の和泉町には東京大学医学部付属医院があり、通学生の臨床教育がおこなわれていました。後に姉きわの夫となる井山憲太郎も東京大学医学部別課医学生として、ここに通う学生のひとりでした(5)。後でまたふれますが、長崎屋は単に旅館としてだけでなく学生下宿でもあったと推測されます。
時代的な背景も長崎屋の繁栄を後押ししました。この頃、東京市中への人口集中が加速しはじめていたのです。東京の一五区内の人口は明治一〇(一八七七)年には五九万五四二四人でしたが、翌々一二年には八一万三四〇〇人と僅か二年間で二一万八〇〇〇人も増えています(6)。永住者の増加だけでなく、地方から横浜・東京見物に来る人も増えていました。高野一家が長崎を引き払った年、明治一〇年の八月には西南戦争のさなかであるにもかかわらず、上野公園で第一回内国勧業博覧会が開かれ、一一月末までの一〇〇余日の会期中に観客は四五万人を超えています(7)。
もちろんいかに立地が良く、時代に恵まれていたとしても、それだけで旅館は繁盛するわけではありません。何よりも、そこで提供されるサービスの質が問われる客商売です。新規開店で設備が新しかったこともプラスに働いたでしょうが、それ以上に客あしらいが優れていたに違いありません。そうなると、長崎屋成功の陰の功労者は高野家の女性たちです。祖母のカネ、母ます、姉きわの三人、いずれもしっかり者で知られた高野家の三世代の〈女将〉たちこそ、長崎屋を東京一の宿に押し上げる力だったと思われるのです。
【注】
(1) 『食類商業取組評』に長崎屋の記載があることは、関口正俊氏の教示によって知った。
(2) 阿蘭陀宿の長崎屋については、片桐一男『江戸のオランダ人──カピタンの江戸参府』(中央公論社、中公新書、二〇〇〇年)参照。なおこの古川柳は、本石町に江戸時代の時報である「時の鐘」があった事実をふまえている。
(3) 尾崎富五郎については横浜開港資料館『開港のひろば』第六八号(二〇〇〇年五月三日)二ページ。なお『出版研究』二三号に石橋正子「錦誠堂尾崎富五郎出版目録(稿)」があるとのことだが未見。
(4) たとえば一六九一年二月一三日に長崎を出発したケンペルは、三月一三日に到着、所要日数二九日。幕末の嘉永六年に長崎へ向かった川路聖謨は一一月一日に出発し一二月八日に到着しています。所要日数は三七日間です。一方、東海道線が開通する前は、九州や関西から東京へは主として船旅であったことは徳富蘆花『思出の記』などからも窺える。
(5) 通学生とは、「年齢や教養の点で新たに外国語を修めて外人教師の講義をうけることが困難な者のため、医師の速成を期して邦人教師が日本語で医学教育を行うものである。修業年限は三年(のち半年延長し七期に分つ)で、定員は六〇名、年二回入学せしめた。元来、東校時代より医学教育をうける者は寄宿舎に入寮する建前であったから、自宅より通学するこの人たちを医学通学生と称して本科と区別することになったわけである。」後に本科の学生でも通学するものが生じたため、一八八〇年一〇月からこれを別課医学生と呼ぶようになった。(東京大学医学部創立百年記念会・東京大学医学部百年史編集委員会編『東京大学医学部百年史』東京大学出版会、一九六七年、一六〇ページ)。
(6) 『東京市統計表』による。
(7) 同じ明治一〇年三月には、長崎でも勧業博覧会が開催されたが、こちらは西南戦争の影響を直接受け会期半ばで中止されている。高野家が長崎を脱出し、東京へ移住したのも当然だったと思わせる違いである。