二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(一五)

社会人一年生──横浜時代



二人の伯父

尾崎富五郎作成「横浜分見地図」(部分)、明治10年刊行

 明治十四(一八八一)年末か翌十五年の初め、高等小学校を卒業したばかりの房太郎は、社会人としての第一歩を踏み出しました。神奈川県横浜区境町(さかいちょう)一丁目二十六番地にある汽船問屋兼旅館「絲屋」*1の住み込み店員になったのです。絲屋は父仙吉の兄・高野弥三郎が経営する店でした。汽船問屋兼旅館というのは、汽船会社の代理店として、乗船予約をはじめ、汽船で旅をする人びとを泊めてあれこれと世話をするのがその仕事でした。
 境町は横浜でもとびきりの一等地でした。上の絵図は明治一〇年に尾崎富五郎が描いた「横浜分見地図」*2の主要部ですが、中央上部に緑色に塗られているのが公園です。いまでも公園は残っていますが半分近くを横浜スタジアムが占拠してしまい、昔の面影はありません。公園の真ん中から大波止場に向けてまっすぐ延びているのが日本大通り、その道の右側に赤く塗られている上の大きな方が神奈川県庁、下は税関です。境町(さかいちょう)は、この県庁と公園の間に挟まれている三ブロックでした。境町という町名は、おそらく外国人居留地と隣接する町、つまり境にある町という意味でつけられたものでしょう。 明治10年代の境町、日本大通りの向こうは外国人居留地、手前の瓦屋根が鳥居商店、杉原正泰・天野宏『横浜のくすり文化』有隣堂刊より
波止場に近く、しかも外国人居留区にも接しているのですから、汽船問屋兼旅館としては最高の立地といっていいでしょう。隣の一丁目二十七番地には両替商で商法会議所役員でもあった西村善三郎の店が、二十八番地には洋薬の輸入で名をはせた鳥居商店がありました。左の写真の手前の瓦屋根がその鳥居商店で、日本大通りの向こう側は外国人居留地です。そのいちばん海寄り、写真中央の遠景の建物がジャーディン・マセソン商会の英一番館、画面左上の高い建物が県庁でしょう。明治一〇年代に写したものだそうですから、これこそまさに房太郎少年が見た境町界隈の光景です。*3

 もう一人の伯父、高野亀右衛門は弁天通二丁目四十一番地で同じく汽船問屋兼旅館を経営していました。上の地図に場所を示しておきましたが、弁天通は開港時に設けられた五つの道路のひとつで、町内には生絲売込商として知られた野沢屋(茂木総兵衞)、亀屋(原善三郎)などの大貿易商、それに丸善はじめ舶来品を商う店はすべてこの通りに集まっており、当時は横浜最大の繁華街でした。

 今回は、この二人の伯父のことを書こうと思います。すでに第三回の「高野家の人びと」でもいくらか触れましたが、房太郎と横浜を結びつけたのはこの二人です。それになによりも房太郎が後年、実業界での成功をめざした時、さし当たりの目標としたのは身近にいた弥三郎や亀右衛門だったと推測されるからです。本人がそう考えなかったとしても、母や周囲の人びとは伯父たちに負けない成功を期待したに違いありません。ですから、ここで彼らについてなるべく詳しく知っておきたいのです。とはいえ、今のところ手がかりとなるのは「職業別人名録」など、断片的で情報量の乏しい史料ばかりです。そうした断片的な記録から、いかに豊富で説得的な内容を引き出すかが歴史家としての腕の見せどころですが、はたしてどうなりますか。

 まず二人の伯父の関係についてみましょう。岩三郎は「父の長兄高野彌三郎なる者は」*4と回想しています。しかし、これは弥三郎ともう一人の伯父の亀右衛門とを混同したものです。高野家の過去帳によれば亀右衛門は明治一五年暮に享年五五歳で亡くなっており、弥三郎より一〇歳ほど年上です。亀右衛門こそ「長兄」で、弥三郎の方は名前と享年から見て岩吉の三男、つまり四男仙吉のすぐ上の兄だと思われます*5。岩三郎がこの二人を混同したことはそれほど不思議ではありませんが、問題は横浜にいた伯父が弥三郎だけだったように述べていることです。横浜には二人の伯父がいたのに、なぜ弥三郎の名しかあげなかったのでしょう? 疑問が残ります。後で見るように、高野屋は亀右衛門亡き後も二代目亀右衛門のもとで繁盛していましたから、岩三郎が亀右衛門家の存在を知らなかったとは考えられないのですが。

 それはともあれ、亀右衛門と弥三郎の名を記した史料の初出は一八七〇(明治三)年のことで、二つの記録に出てきます。ひとつはすでに紹介した横浜の町名主・小野兵助の『横浜町会所日記』*6で、これには二人とも出てきます。高野屋亀右衛門の方は名主への季節ごとの進物に関する記述だけで、品物は〈鮭一本〉〈からすみ一双〉などです。〈からすみ〉はいうまでもなく長崎名産の天下の珍味、鮭はおそらく函館から届いたものでしょう。「高野家の人びと」で謎の人物だった高野長二郎の籍が函館へ移されたことを考えると、高野家の一員、おそらくは岩吉の次男が函館にいたのではないかと想像されます。〈からすみ〉も鮭もいかにも汽船問屋らしい進物です。
 ちなみに町名主に付け届けをしている顔ぶれは、当然のことながら有力商人が多く、明治三年閏月(うるうづき)〔この年は一〇月と一一月の間が閏月でした〕二一日の記述には「石炭屋、鮭壱本、四丁目(ママ)高野屋より同壱本到来之事」とあります。ここで高野屋と名を並べている「石炭屋」は海産物も扱う貿易商で、波止場近くに一一五六坪という広い土地を所有していた富豪の渡辺福三郎家です。

 一方、弥三郎の名が初めて『横浜町会所日記』にあらわれるのは、亀右衛門より半年余り早い明治三年三月のことです。

 「〔明治三年三月〕十三日
一、 堺(ママ)町長崎屋弥三郎方江止宿可致筈()之陸中宮古之商人喜兵衞と申もの、弁天通太田町辺歩行之内、更紗(さらさ)ふさ(ママ)敷包書類帳面るい取落し候旨届出、即刻御取締様訴上候事」

 これは長崎屋の泊まり客が書類を落としたことを町名主に届け出たものですが、ここから明らかになるのは、この時弥三郎は糸屋ではなく長崎屋を屋号としており宿屋を営んでいたことです。また遠く離れた岩手県の港町の商人が客となっていることは、長崎屋が汽船問屋も経営していたであろうことを推測させます。
 つぎに弥三郎の名が『横浜町会所日記』に出てくるのは翌明治四年です。同じ問題で三箇所の記述があり、こちらはかなり重要な事実を記録しています。それほど長いものではないので、関連箇所を全部引用しておきましょう。

  「〔明治四年四月〕廿一日
一、 村田屋喜八より当三月中、境町長崎屋弥三郎江金千両立替置候所(たてかえおきそうろうところ)返済無之旨(へんさいこれなきむね)申出候事」

  「〔明治四年九月〕七日
一、村田屋喜八より長崎屋江貸金済方相成候迄ハ同人より上地願出候とも差留之儀申出候事」

  「〔明治四年九月〕十五日
一、糸屋平八より境町長崎屋家作并拝借地之儀ニ付申出候間、村田屋喜八より同人江懸り貸金之儀申し出候間、右済方の上、上地之儀申遣候事」

 これらの記述は簡潔に過ぎちょっと分かり難いところもありますが、たしかなことは当時弥三郎が一〇〇〇両という大きな借金をかかえ、これを期日までに返すことが出来ずにいたことです。境町の土地と家を手放すことも考えざるをえないほど、長崎屋は危機的な経営状態にありました。「千両立て替え置き候ところ」とあるのを見ると、輸出品の集荷を村田屋喜八に依頼していたものでしょう。弥三郎が宿屋だけでなく、貿易にも従事していたことがうかがえます。この時期、横浜は普仏戦争の影響で生絲や蚕種の輸出が途絶えて大不況に陥っており、中小の売り込み商の破綻があいついでいました。
 もうひとつ弥三郎の名が出てくる史料は『横浜市史稿(産業編)』に収められている「明治三年の横浜商人」で、そこには次のような記述があります。  

  「一、辨天通三丁目 長崎屋 彌三郎 製茶売込」

 同じ明治三年についての記録ですが、こちらでは弥三郎の職業は「製茶売込商」となっています。住所も弁天通三丁目で境町ではありません。ことによると兄の亀右衛門のもとで、製茶売り込み商を営んでいたのかとも考えましたが、屋号が高野屋ではなく長崎屋であり、弁天通二丁目でなく三丁目ですから、やはり独立して店を構えていたものでしょう。ともあれ、弥三郎が売込商として貿易業に手を出していたことはこれで明らかです。また弥三郎が弁天町から境町へ移ったのは明治三年の初めだったことも明らかです。一〇〇〇両の借金も、おそらく茶の集荷を委託したために生じたものでしょう。しかし弥三郎は最終的にはこの経営危機を乗り越えました。それは、後年の彼の活躍が証明しています。

 以上、亀右衛門・弥三郎兄弟が明治二年以前に横浜の一等地に土地家屋を所有していたことが明らかになりました。また、弥三郎の場合は、明治初年に宿屋を営むかたわら製茶売込みなど貿易にも手を染めていたこともまた確かです。なお、弥三郎の所有地はあまり広くはなく二四・四六坪、一方、亀右衛門の所有地は角地で一四六・一六坪、これは弁天通二丁目では最も広い敷地でした。なお、弥三郎は一八八六(明治一九)年一月以前に住吉町六丁目八〇番地に移っていますが、ここは角地で、面積も約六〇坪と広くなっています*7

 問題は彼らがいつ長崎から横浜に移り住んだのかですが、たしかなことは分かりません。ただ彼ら二人がともに横浜の一等地を手に入れている事実から考えると、開港からあまり経っていない時期だったのではないでしょうか。
 彼らの名を記した史料がつぎにあらわれるのは『町会所日記』から一〇年以上後の一八八一(明治一四)年のことです。今度も二つの史料があります。そのひとつは同年四月刊の『横浜商人録』*8で「宿屋商之部」五二人のトップに「弁天通二丁目四十一番地 高野屋高野亀右衛門」の名があり、二九番目に「境町一丁目二十六番地 糸屋高野彌三郎」と記されています。もっとも、この配列は町名順のようですから、かならずしも宿屋としての規模が高野屋がトップ、糸屋が二九番目という訳ではありません。なお同書には「回漕商之部」もありますが、その一八人のなかに二人は含まれていません。

 もうひとつの史料は同年九月に発行された『横浜細精記』*9です。ここでは彼ら二人はともに「汽船問屋の部」にあり、「境一 絲屋彌三郎」「弁天二高野亀右衛門」となっています。しかし旅人宿の部にはその名はありません。以上から、房太郎が横浜に移り住んだ前年以前に、弥三郎の絲屋も亀右衛門の高野屋もともに汽船問屋と宿屋を兼ねていたことは明らかです。汽船問屋は汽船会社の代理店として集客集荷を扱う店のことです。船のことですから天候によってしばしば出発時間・到着時間が変わり、乗客は港の汽船宿で待機を余儀なくされることがあったに違いありません。出発地や到着地が東京でも、横浜には泊まらざるをえないことが多かったと思われます。ですから汽船問屋と宿屋の兼業は集客上きわめて有利な立場にありました。ただ弥三郎店は、敷地面積からみて宿屋としてはいかにも小さく、いきおい集客・集荷に力を入れ、汽船問屋としての業務の比重が高かったものと推測されます。広い敷地の兄亀右衛門の宿がありましたから、敷地は狭くてもそれほど商売に困ることはなかったでしょう。

 こうした推測を裏付ける史料があります。それは一八八七(明治二〇)年七月に博文館から出版された山本東策『日本三府五港豪商資産家一覧』*10です。この本には、富豪一覧とともに、有力な「貿易商」四三人の名がリストアップされているのですが、そこに「汽船荷物取扱業」としてはただ一人、わが高野弥三郎が採録されているのです。実際には、この本が出る一年以上前に弥三郎は死亡していたのですが、彼が汽船荷物取扱業としてはトップクラスの存在だったことが、これによって分かります。もうひとつ注目されるのは、それより先の一八八四(明治一七)年七月、弥三郎が境町を代表して町会議員に選出されていることです*11。十四の町から各一人、総員十四人の議員のなかには大谷嘉兵衛、小野光景、島田三郎といった有力者が含まれており、かつて一〇〇〇両の借金に苦しんだ弥三郎がついに成功者の仲間入りを果したことをうかがわせます。

 弥三郎の成功の背景には、日本の海運業の急速な発展がありました。よく知られているように、この時期の日本の海運業をになったのは政府の手厚い保護を受けた郵便汽船三菱会社でした*12。三菱会社の代理店であった絲屋もこれによって大きく成長したものと思われます。さらに、房太郎が住み込みの店員をしていた間の、明治一六年一月から一八年九月にかけては、三菱会社と共同運輸会社との間で激烈な競争がおこなわれていました。両社とも採算を度外視して運賃を引き下げ、スピードを競って、乗客や貨物を集めました。横浜・長崎の米一〇〇石の運賃一一〇円が六五円に、旅客運賃にいたっては神戸・横浜間下等が七円から一円五〇銭に、もっとも競争が激しかった明治一八年にはなんと二五銭に切り下げられたといいますから、その激しさがわかります。しかし、この両者の競争は汽船問屋にとっては大きなプラスとなりました。価格の引き下げは、旅客や荷物を急増させたからです*13。三菱会社の代理店だった絲屋もこの恩恵を受けたに違いありません。これはまさに房太郎が店員をしていた時期のことでした。



【注】


*1「高野家の人びと」で述べたように、弥三郎は「糸彌」という屋号を使っていた。これは「要用簿」の用紙の中央に「横浜境町 カネ吉 絲彌」と印刷されていることから確かである。しかし明治十四年発行の『横浜商人録』の「宿屋商之部」では「堺町一丁目二十六番地 糸屋高野彌三郎」と記されている。弥三郎が死去した後を継いだ高野仙太郎の屋号も「糸屋」である。おそらく「絲彌」は弥三郎がかつて生絲取引をしていた時代に使っていた屋号であろう。ただこれは旅館の屋号としては不自然で、耳で聞くだけの客は「糸屋」と覚えたに違いない。そうしたことから、結局は「糸屋」と改めたものではないかと推測される。
 なお、横浜区は、明治十一年の郡区町村制により、それまでの横浜町から改称したもので、明治二二年に横浜市となるまで続いた。

*2 この絵図は、さきに「長崎屋繁盛記」で紹介した『食類商業取組評』の筆者であり版元であった尾崎富五郎が自ら作成した「横浜分見地図」の一部である。明治一〇年、錦誠堂刊行。ここでは人文社発行の『改正横浜分見地図』によった。

*3 杉原正泰・天野宏『横浜のくすり文化──洋薬ことはじめ』(有隣堂新書、一九九四年)八二ページより。原写真は鳥居薬品所蔵。

*4「囚われたる民衆」(鈴木鴻一郎編・高野岩三郎著『かっぱの屁──遺稿集』一九六一年、法政大学出版局)三九ページ。

*5 原田美代氏から大島清氏宛の書簡(一九六六年一〇月二六日消印)に「高野家の過去帳」の内容がつぎのように記されている。

 「明治十二年八月廿六日(一八七九)高野仙吉。高善院泰安慈性居士、高野彌太郎(ママ) 明治一九年四月廿二日(行年四九)。新師院高山巌義雄居士、明治十五年十二月廿九日 高野亀右衛門(五五才)。慶応三年五月十六日 高野岩吉(長山善久信士)」


*6 横浜開港資料館編『横浜町会所日記──横浜町名主小野兵助の記録』(一九九一年、横浜開港資料普及協会)。 早川松山「横浜名所一覧」(部分)、左の時計台が横浜町会所 
 ところで、いま私たちが「町会所」などと聞くと街角の小さな小屋を想像しますが、実際は下の絵の道の左側にある時計台がそれです。塔の上にスイス製の時計を飾り、俗に時計台と呼ばれたこの四階建ての建物のなかには貿易商組合事務所なども入っていました。もっとも日記が書かれたのは、この建物が竣工する四年ほど前のことでしたが。なお右側の建物手前は郵便局、奥の黒い屋根は電信局です。

*7 それぞれの敷地面積は『土地宝典横浜市街全図』(南中舎、一九〇六年)による。

*8 横山錦柵編『横浜商人録』(大日本商人録社、一八八一年)

*9 近藤道治編・刊『横浜細精記』(一八八一年)。

*10 山本東策『日本三府五港豪商資産家一覧』(博文館、一八八七年)。

*11『横浜市史』第三巻下(横浜市、一九六三年)一三一ページ。なお、この記述のもとになっているのは、『東京横浜毎日新聞』四〇七二号(一八八四年七月一九日)。

*12 三菱会社は、一八七五(明治八)年九月に政府所有船一三隻の無償払い下げを受けた上に、毎年二五万円の運航費助成金と一万五〇〇〇円の海員助成金を一五年間にわたって獲得した。さらに一八七七(明治一〇)年には、西南戦争の海上輸送によって二九九万九三四二円という莫大な御用船収入を得た上に、政府からの借入金で六隻の汽船を購入した。しかし、こうした三菱会社に対する手厚い保護は各方面で反三菱の機運を高めた。大久保利通の暗殺、明治一四年の政変を境に政府の政策も変わり、三菱会社に対抗する共同運輸会社への政府のてこ入れとなり、明治一六年一月から一八年九月にかけて両者の激烈な競争が展開された。結局、この競争は両社の共倒れを招きかねない事態となり、最終的には両社が合併し、日本郵船会社の発足となった。この結果、日本の海運業における日本郵船の比重は決定的となった。正規代理店であった長崎屋もこれによって大きく成長したものであろう。

*13『横浜市史』第四巻上(一九六五年)、五五七ページ。なお徳富蘆花の『思出の記』は、四国の多度津から神戸へ向かう汽船の乗客のうわさ話をつぎのように記している。

 「近頃は船の競争が盛んで何処の会社の船では船賃を一割に下げた上に手拭一筋宛景物に呉れるの、横浜まで金の一円五十銭もあれば行かれるの、此競争が続けば無賃で載せた上に金巾の蝙蝠傘の一本宛も呉れる様になるかも知れぬ。こんな時に船に乗らぬは馬鹿、なんぞと種々の話をして居る」(蘆花全集刊行会『蘆花全集』第六巻、一九二八年、二七七ページ)。



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