二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(一八)

社会人一年生──横浜時代




商法学校の同期生──富田源太郎のこと

 房太郎は横浜商法学校で多くの友人を得ました。毎日のように会っていたのは速成科の生徒ですが、彼らの氏名は分かっていません*1。しかし本科生の一部についてはその氏名が判明しています。いずれも後年市会議員になるなど横浜の政財界で活躍したエリートたちでした。前回すでに紹介した富田源太郎、中村房次郎のほかに、高梨藤三郎、馬場寅蔵、大浜忠三郎、渡辺文七の六人です*2。建学の初年度では本科と速成科を合わせても十九人の小さな学校でしたから、親しく交わる機会は多かったに違いありません。おそらく同時に講義を受けることもあったでしょう。この本科生のなかで房太郎がとくに親しくつきあい、大きな影響を受けたのは富田源太郎でした。ふたりとも同じ明治元年の生まれでしたし、何よりも英語と経済学の学習に強い関心を抱いていた点で共通していたのです。 富田源太郎

 富田源太郎の生い立ちの詳細は分かりませんが、東京生まれだったそうです。なぜか幼くして親元を離れ、横浜の外国商館の番頭をしていた伯父・富田砂筵(とみたさえん)*3に育てられました。砂筵は歌舞伎通で劇評家としても知られていました。伯父のもとで源太郎は横浜小学校を卒業し、商法学校本科の第一期生になったのです。彼は早熟の俊才で、早くから抜群の英語力を身につけ、またアイディア・マンとしても優れていました。
 彼がその力量を最初に世に示したのは、まだ横浜商法学校在学中の一八八五(明治一八)年七月のことでした。丸善から『英和商売用会話』というビジネス英会話の入門書を出版したのです。学費稼ぎを目的にまとめた僅か五三ページの小冊子です。内容は、雑貨店、洋服屋、本屋、陶磁器店、銀行、商館などの店先で交わされる簡単な英会話の文例を掲げ、これに各店ごとに特有の商品名を付して文例を補っています。発音はカタカナで記されていますが、正確です。構成はオランダ人が書いた会話本を参考にしたようですが、文例のほとんどは、実際に横浜の各種商店の店頭で交わされていた会話を記録したものと推測されます。会話としてはやや不自然なものも混じっていますが、全体的にみればかなりの出来ばえです。弱冠十七、八歳の少年の初の著書であることを考慮すれば、驚異的なものと言ってよいでしょう。
 この本は類書がなかったこともあってか好評で、次々と版を重ね、そのたびに増補され、ページ数は九三、一〇一、一二八ページと増え続けています。さらに『英和商売用会話』第二編、同第三編も刊行され、それぞれ版を重ねました。一八八九(明治三二)年までの一四年間で、三編あわせての売れ部数は五万部を超えたといいます*4。その後も版を重ねていますから、当時とすれば大ベストセラーといえましょう。

 しかも富田は、この会話読本を出して僅か三ヵ月後の明治一八年一〇月には、友人の大和田弥吉とともに『米国行独案内・一名桑港事情』も刊行しているのです。「桑港」とはサンフランシスコのことで、サンフランシスコとその周辺を中心とするアメリカ旅行のガイドブックです。おそらく房太郎もこの本を読んでアメリカ行きを決断し、この本を携えて乗船したに違いありません。
 同書は上下二編からなり、上編はJohn Disturnell, Stranger's Guide to San Francisco and Vicinity (サンフランシスコと周辺地域案内)を翻訳したもの、下編は洋行の得失を論じた論説やアメリカ帰りの人びとの体験談をまとめ、また在米の友人らからの通信を収めたものでした*5。序文を初代のサンフランシスコ駐在日本領事であった高木三郎が書いています。この本もよく売れたらしく、翌年には再版されています。
 この本の翻訳部分も富田らの英語力の高さを示しています。良い辞書は少なく〈定訳〉的日本語もまだ多くはなかったこの時期に、今の「高校二年生」と同年の若者が翻訳したとは思えない水準です。もちろん「錨鋼鉄路」といった、すぐに意味がつかめない訳語も出てきますが、そうした言葉にはちゃんと英語の原語が記されています。これはwire cable road、つまりサンフランシスコの有名なケーブルカーです。当時の日本にはケーブルカーなどありませんでしたから、これは仕方がないでしょう。むしろ、public gardenを「公有花園」、YMCAを「少年耶蘇教徒協会」など、多くの英語を意味が分かる日本語に置き換えている点をこそ評価すべきでしょう。また、地名、人名なども、類書に比べればはるかに原音に近い表記がなされており、翻訳にあたってネイティブスピーカーの援助を受けたことを推測させます。

 前回もふれましたが、美沢校長はじめその弟子であった横浜商法学校草創期の教師陣の英語力は、読解面では高かったのですが、発音や会話はとうてい実用的なレベルには達していませんでした。Come here my child をコム、ヒル、ミ、チルド、butをブット、faceをファックと読むような「変則英語」だったのです*6。これにひきかえ、生徒である富田源太郎の口語英語の力量は『英和商売用会話』が示すように、当時の日本人としては抜群のものでした。おそらく彼は、外国商館番頭の伯父のもとで、幼いときからネイティブ・スピーカーと日常的に接することによって耳から英語を覚えたに違いありません。また彼が学んだ横浜小学校は、全国的にも珍しいのですが、初等教育の段階で英語を教えていました。これも彼の英語力の向上に役立ったことでしょう。

 一方高野房太郎は、おそらく横浜商法学校ではじめて英語の基礎を学んだものと思われます。そんな彼にとって、同年輩でありながら抜群の英語力をもつ富田源太郎の存在は大きな刺激となり、目標にもなったことでしょう。房太郎は富田とともに過ごすなかで、学校で習う以上に英語を身につけたに違いありません。いずれ後でまたふれることになりますが、一八八六(明治一九)年末に房太郎が渡米した際、その口語英語はある程度の意思疎通ができる程度になっていました。五年たらずの短期間でそれだけの力を養えたのは富田抜きには考えられません。
富田源太郎英文日本ガイドブック Tourist's Handbook, containing a Guide to Yokohama, Tokyo, Daibutsu, Kamakura, Enoshima, etc

 富田が優れていたのは、口語英語だけではありませんでした。英作文でも相当な力をもっていました。『東京横浜毎日新聞』の一八八六(明治一九)年一月五日付けは、富田源太郎が英文コンテストで一等となり賞品の銀時計を得たことを報じています。また彼の著書は、現在国会図書館に残されているだけで十九点ありますが、うち五点は外国人旅行者向けに書かれた英語の本です。二点は日本国内の旅行案内書、三点は日本語会話と語彙集です。

 最も早い時期に出版されたのは一八八七(明治二〇)年、つまり彼が横浜商法学校を卒業した翌年に出したTourist's Handbook, containing a Guide to Yokohama, Tokyo, Daibutsu, Kamakura, Enoshima, etc. (『旅行者への手引き──横浜・東京・大仏・鎌倉・江ノ島等の案内をふくむ』)です。これは僅か七二ページの小冊子でしたが、その四年後に著したTourists' Guide and Interpreter with Genral Information for Travellers in Japan (『旅行者のための日本観光案内と日本語通訳』)は本文だけでも約二〇〇ページ、これに名所旧跡などの風景画三〇枚、さらにホテルや土産物店の広告が約一〇〇点付いています。前半は観光案内で、北海道から九州まで二十六のコースについて紹介し、さらに日本国内の旅行に関する情報として、日本旅館についての解説や度量衡換算表、各汽船会社の案内などがついています。ノミから身を守るために殺虫剤が必要であるとか、便所のひどい臭いを減らす方法などに当時の旅の実状がうかがえます。同書の後半は英和語彙集です*7。この本は、おそらく日本人によって英語で書かれた最初の包括的な日本案内書でしょう。もちろんそれ以前にも外国人旅行者の手になる旅行記や案内書はありましたが、日本人が外国人に向けて書いたガイドブックはありませんでした。
 このように見てくると富田源太郎は、国際交流や観光の分野でも、きわめて先駆的な役割を果たした人物だったことが分かります。しかし『Y校百年史』はじめ、横浜に関する多数の本は、この人物を過小評価あるいは無視しているように感じます*8。もっとも、横浜市立中央図書館が出した『横浜の本と文化』は富田についてある程度ふれてはいますが、事実を紹介するにとどまっています。

 ここで見落としてはならないのは、富田源太郎が英語に堪能なだけの〈英語屋さん〉ではなかったことです。彼は国際社会における日本の地位向上をねがうナショナリストであり、商業道を説く志士でもありました。ナショナリスト富田の面目を示したのは、前回ちょっと触れたノルマントン号事件における彼の活躍です。これについて明治一九年一一月一六日の『毎日新聞』はつぎのように報じています。

「横浜有志者の協議 横浜の有志者乗田弥吉、富田源太郎の両氏は同港の有志者一同に謀りてノルマントン号沈没の際、日本乗客がことごとく溺死したる事につき充分の吟味を遂げ、いよいよ船長に非難すべき挙動ありと評決せば、之を欧米諸国の新聞に掲げて世界の公論に質し、若し又た同事件にして満足の結果を得ば広告することを止め、此に関して募集したる金額は東京の五新聞に依頼して、溺死人の遺族へ贈与せんと、唯今協議中なりと云ふ」

 彼とともに名を連ねている乗田弥吉は、『米国行独案内』の共訳者である大和田弥吉です。大和田が本名、乗田は養家先の姓です。同紙はさらに三日後にその続報を掲載しています。

「富田、乗田両氏の義挙 横浜の有志富田源太郎、乗田弥吉の両氏は、前号にも記せし如く義捐金を募集してノルマントン号沈没の始末を世界の新聞紙に広告せんと計画し『伏して横浜の人々に訴ふ』と題したる一篇の檄文を草して横浜中へ配布したり。其の要旨は乗組人六十四名のうち、船長以下船員二十七名の西洋人は一名を除くの外何れも生命を全うして上陸なし得たるにも拘はらず、乗客なる日本人二十五名は挙って紀州海中の鬼となり船員なる印度人支那人十二名も悉く大嶋水底の藻屑となりぬ。危急の際事の行き違いはありたらんにもせよ船を同ふして西洋人は生き日本、支那、印度の人は死せしはいかにも奇怪の事柄なるが、果たして然るべき理由あらば格別なれど若し日本人の死、支那人の死、印度人の死が英人船長等の横着より起れりとせば、此事実を全世界に告げて欧米各土の徳義に訴へ日本の社会は已に進歩して軽んじ易からざるを示すも亦死者の怨恨を吊する一端にあらずや。横浜は内外交際の要区なるが故、我々は男女老若を問はず横浜全人民の賛同一致を以て其事実を英文に認めロンドンタイムスを初めとして全世界の新聞紙に寄せ東洋後来の為に計り、傍ら死者の遺族を恵むの義挙を為さんと欲し、之を義気壮んなる横浜区民に訴ふと云ふに在り。又其の義捐金受取所は同地弁天通四丁目丸善及び太田町三丁目万字屋なりと云ふ」。

 同年一二月二日の『毎日新聞』付録に、この呼びかけに応え、募金した人々の名が掲載されました。そのなかには、次回で詳しくとりあげる伊藤痴遊こと井上仁太郎の父井上八之助も含まれています。息子の政治活動に理解を示さず、仁太郎を事実上勘当してしまう父親も、このノルマントン号事件には募金に応じたところに、この時期のナショナリズムの広がりをみることができます。ただそれ以後、この企てがどのように推移したかはまだ分かっていません。 富田源太郎著『商売人』

 より直接に富田の考えが分かるのは、明治二一年に刊行された彼の著書『商売人』です*9。この本ははじめ横浜商法学校の美沢進校長を通じて福沢諭吉に序文を依頼したのですが断られ、かわって美沢が談話筆記の形で序を寄せています。
その冒頭部分は、富田自身が著書の趣旨を述べた形になっていますので、ここではその箇所だけ紹介しておきましょう。

 「商界の壮士富田源太郎君、頃者其編スル所ノ『商売人』ヲ携ヘ来リ、余ニ序ヲ請フ。余時ニ眼ヲ憂ヒ、之ヲ閲読スル能ハズ。因テ君ニ問フニ其編纂ノ大意ヲ以テス。君曰ク、近来欧米諸邦ノ人、概ネ我国ノ工芸美術ヲ貴ビ、我国ノ山水明媚ヲ愛シ、我国人民風致ノ思想ニ富メルヲ喜ビ、以テ世界第一優美閑雅ノ国ト称ス。然レドモ、唯憾ムラクハ、未ダ曾テ富強ヲ以テ之ヲ称スルモノアラザルヲ。故ニ余ハ更ニ進デ富強ノ実ヲ講ジ、以テ世界第一ノ優美閑雅殷富強盛ノ一帝国タラシメント欲ス。而シテ唯之ヲ然ラシムル所以ノモノ必ラズ先ヅ商業ヲ隆盛ナラシメザル可カラズ。商業ヲ隆盛ナラシムルモノ必ズ先ヅ完全ナル商業世界ノ少年壮士ヲ薫陶養成セザル可カラズ。此書ノ主意、即チ是ニ在リト。」

 富田はこのような意図を著書として発表しただけでなく、横浜小学校の同級生の井上仁太郎(にたろう)をはじめ、乗田弥吉、高野房太郎らと「商業研磨会」と称する団体を組織し、講演会などを開いて活動しています。この会についてはいずれ後で述べることにして、最後に、その後の富田源太郎の生涯を簡単に見ておきましょう。
 明治一九年九月、横浜商法学校を卒業した富田は、同校の創設者であり保護者であった小野光景が経営する小野商店に入り、光景の秘書役となりました。また明治二三年二月には、小野が中心になって企画した『横浜貿易新報』の創刊に参加し「商況」欄を担当しています。その後彼は『東洋新報』に移り、東京商法会議所の書記をつとめた後、バウデン商会館員、さらに明治三〇年代初めには住吉町二丁目二三番地で肥料及び雑貨の輸入をてがけたといいます。
 しかし、貿易商としては成功しなかった様子で、明治三六(一九〇三)年には『横濱貿易新聞』の主筆としてふたたび文筆の世界に戻ります。これは横浜商法学校の同窓で同紙のスポンサーだった中村房次郎の懇請によるものでした。翌明治三七年、『横濱貿易新聞』はライバル紙『横濱新報』と合併して『貿易新報』として新発足し、富田は社長兼主筆に就任します。『貿易新報』はすぐ『横濱貿易新報』と改題しますが、富田は社長として、また主筆として大いに手腕を発揮し、一九〇七年には三色刷の輪転機を導入するなど同紙の拡大に大いに貢献しています。さらに一九〇八(明治四一)年には、横浜市会議員となり、中村房次郎と同じ「正義派」に属しています。しかし、その後の富田は不遇だったようです。一九一〇(明治四三)年七月、横濱開港五十周年記念行事の「失態」の責任をとるとして社長辞職に追い込まれたのです。ただ、その「失態」がなんであったか、その具体的な内容はまったく分かっていません。これについて友人の伊藤痴遊は「出世の早かった富田はつまらぬ事(強調は引用者)で失脚し、その後は不遇の身となり、病を得て急死した」と記しています。一九一七(大正六)年一月二一日夜、新年会の席で倒れたといいます。享年五〇歳でした。*10




【注】


*1 手がかりがまったくないわけではない。高野房太郎の日記で、現在、ただひとつ残っているのは一八九七(明治三〇)年のものであるが、その巻末に住所録があり、そこに一〇人の横浜在住者の名が記されている。そのうちの何人かは横浜商法学校速成科の同期生であった可能性が高い。ここでは参考までにその氏名のみ記しておこう。三堀為吉、高柳仙太郎、角田虎之助、河合順三郎、古谷弁三、田代包義、薬師寺知朧、猪飼熊三郎、宮田清七、山崎要七郎。

*2 高梨、馬場の経歴は分かっていない。その他の四人のうち富田以外の三人は全員が貿易商の子弟で、明治四年の生まれである。大浜忠三郎の父は、横浜商法学校の創立発起人で舶来織物引取り商であった。大浜はY校卒業後早稲田に学び、家業をついだ。渡辺は生糸輸出業に従事、中村は松尾鉱業を興しその社長となったほか、横浜船渠、横浜生命保険などの役員をつとめた。大浜、渡辺、中村、富田の四人はともに横浜市会議員に選ばれ「商人派」の若手として横浜政界で活躍した。大浜は横浜市会議長、渡辺は同副議長に就任している。(横浜市会百年史刊行委員会、横浜市会事務局編『横浜市会の百年』一九八九)

*3 砂筵でなく砂燕と記されることもある。砂燕は仮名垣露文が横浜で創刊した『仮名読み新聞』の劇評欄を担当した演劇通であった。安政年間にフランスに渡り、帰国後は横浜住吉町に住んで外国商館につとめていたという。(斎藤多喜夫「横浜の劇場」参照、横浜開港資料館編『横浜の芝居と劇場──幕末・明治・大正』一九九二年所収)

*4 富田は一八八九(明治三二)年に横浜の堺屋から『英和商売用雑誌』と題する英語とビジネスに関する雑誌を出している。その創刊の辞で、この会話本についても次のように述べている。

 余が創めて小著『英和商売用会話』の初編を稿したるは去る明治十八年のことなり。当時余は在校の一書生にして学費の不自由に苦しみ其苦しみに駆られて、遂に大胆にも一の英和会話編を物して其収益より資給を得んことを思ひ立ちたるこそ『英和商売用会話』ある端緒にして、云はば苦しまぎれの一奮発……中略……一編はいつの間にか十版に達し、二編、三編出るに随ってまた連に売れ、今に至る迄前後版を変ゆること三編通じて十五版、刷本の既に世に布くこと実に五万を超すに及びぬ」


*5 後編は日本人読者向けに、旅券の取得方法、船賃、乗り込み手続き、衣服や携帯品のこと、サンフランシスコ上陸から宿に泊まるまでの手続き、生活費、働き口の探し方、学費などについても、簡単ながら付記している。

*6「変則英語」と「正則英語」については、小玉晃一・敏子『明治の横浜──英語・キリスト教文学』(一九七九年、笠間書院)の一章「横浜と英語」参照。

*7 この後半の「英和語彙集」の部分を独立させ、内容を充実させたものがStranger's handbook of the Japanese language,intended to serve as interpreter to foreigners visiting Japan(日本を旅行する外国人のための日本語手引き)である。

*8 もっとも高野房太郎の名は、横浜関係のどの本にもほとんど記されていない。これにくらべれば、富田源太郎は『Y校百年史』はじめ横浜関係の本に名前だけでも記録されている点はましかもしれない。しかし、横浜への貢献度を考えると、富田は過小評価されているのではなかろうか。

*9 富田源太郎著『商売人』、東京、成文堂、明二一年一二月刊行。なお、安楽窩主人・富田源太郎編『商業百話』東京福岡新三・井上孝助、明三一年九月刊、には『商売人』が再録されている。

*10 富田源太郎の経歴については、横浜市立中央図書館開館記念誌編集委員会『横浜の本と文化』一〇四〜一〇五ページ、一九三〜一九四ページ、同別冊二〇ページ、など参照。なお彼の著書は、本文で紹介した以外に、つぎのものがある。
☆ 冨田源太郎著『通俗外国為換の説明』東京丸善 明二四年八月刊行、『外国為替の説明』として明二七年五月に再版。
☆ 冨田源太郎編『年中節用』横浜中野商店、明二七年一二月刊
☆ 冨田源太郎著『英和商売用信書』上編、明四一年一一月刊




『高野房太郎とその時代』既刊分目次  続き(一九)

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