二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(二六)

アルバート・ブレイトン家


セントラル・パシフィックの終着点、オークランド波止場駅、1878年

 房太郎をスクールボーイとして雇ったのは、サンフランシスコの対岸オークランド(Oakland)のさる家庭でした。アメリカに着いて間もない、一八八六年暮のことです*1。オークランドは、もともとはオークの森があった土地を伐り拓いてつくられた町で、あちこちにオーク〔oak=ならの木〕があったことからこの名がついたといいます。初めはサンフランシスコの金持ちの別荘や住宅地として開発されたのですが、大陸横断鉄道の終点がここに設けられたことで、急速に発展した町でした。サンフランシスコがアジアなど海外諸国への表玄関であるとすれば、オークランドはこのサンフランシスコからニューヨーク、シカゴなど全米各地へ往来する通用門だったのです。当時の人口約五万人弱、すぐにロスアンゼルスに追い越されますが、一八八〇年代では、まだカリフォルニア州第二の都市でした。両都市は、サンフランシスコ湾で隔てられ、その四マイルを二〇分で渡るフェリーが頻繁に往き来していました。サンフランシスコ湾岸地域地図
 ところで、房太郎も、どうやら最初の勤め先ではうまく行かなかったようです。追い出されたのか、逃げ出したのかは分かりませんが、すぐに辞めて、同じオークランド市内のジャクソン街一一六七番のアルバート P ブレイトン(Albert P. Brayton)家に移っています*2

 アルバート・ブレイトンは当時五九歳、妻のミルドレッドは四五歳、二人ともニューヨーク州の生まれです。もっともニューヨークとはいっても、あのニューヨーク市ではなく、州の北部、カナダ国境沿いのジェファーソン郡ウオータータウンの生まれです。アルバートの父は農業を営んでいましたが、のちに金物商となりました。彼の両親も、ミルドレッドの両親も、いずれもニューヨーク州生まれです。つまり、ブレイトン家は、アメリカ生まれが少なくとも三世代は続いた、江戸っ子ならぬ「生粋のアメリカ人」ということになります。
 アルバートは郷里で中等教育まで受けた後、父の金物商売を手伝っていましたが、二四歳の時に独立し、サンフランシスコに移住、牧草の栽培をはじめいくつかの職業を体験しています。しかし、けっきょく成功せず、いったん帰郷しています。一八六〇年代に、再度カリフォルニアへ移住を企てました。今回は兄が牧師をしていたオークランドに居を定め、サンフランシスコ市内で鋳造所と機械工場を経営するランキン・アンド・ブレイトン会社の共同経営者になっています。もっとも、一八八〇年の国勢調査で、アルバートはその職業を鋳造工(Foundry Man)と記していますから、単なる経営者ではなく、実際に機械製造にも従事していたものと思われます。同社は、蒸気機関など鉱山機械製造で知られたパシフィック鉄工場(Pacific Iron Works)を買収し、当時、世界中の鉱山で動力源として使われていた「ペルトン水車」のパテントも得て、経営は順調でした。房太郎が同家で働き始めた頃には、ランキンとの共同経営を解消し、単独で経営権を握っています*3

パシフィック鉄工場の蒸気機関の広告。右上にアルバート・ブレイトンの名が見える

 ブレイトン家には、夫妻のほか娘のルイーズ二一歳、息子アルバート・ジュニア一九歳、次男エドワード一六歳がいました。子供たちはすべてカリフォルニア生まれです。妻のミルドレッドとは三度目の結婚で、エドワードだけが彼女の子供でした。なお、この家族構成などは主として〈一八八〇年センサス〉のデータによっています。一八九〇年センサスの記録があればより近い時期の状態が分かるのですが、これは火災で失われ残っていません。ですから、房太郎がこの家に来た一八八七年に、娘のルイーズがまだ家にいたかどうかはわかりません。すでに結婚して家を出ていた可能性が高いと思われます。一八八〇年センサスでは、同家には以上の家族の外に、召使いとして三〇歳のアイルランド人女性と二四歳の中国人の男性がいました。房太郎は、おそらくこの中国人召使いと同じ立場でブレイトン家に入ったものでしょう。
 ブレイトン家の資産は、一八七〇年センサスでは不動産が五〇〇〇ドル、その他の資産が一〇〇〇ドルでした。しかし、一八八八年にパシフィック鉄工場を買収した時には同社の資本金は二〇万ドルに達していますから、房太郎が働いた八七年には、すでに相当な資産家であったことは確かです。しかし、ブレイトン家は、その豊かさからは想像できないほど質実な暮らし方をしていました。それを端的に示しているのは、十代の息子二人がサンフランシスコから離れた山中の製材所で働いている事実です。おそらく、アルバート自身が、長年、肉体労働に従事してきた経歴が、そうした生活態度をとらせたものでしょう。

 房太郎は、このブレイトン家でヘンリーと呼ばれ、家族全員から信頼され、可愛がられて、主家と召使いというより、一家の一員のような扱いを受けていたようです。自由時間には学校へも通っていたのではないかと推測されます。それは、房太郎がシアトルにいた一八九〇年にオークランドのウイル・ニッセンから二通の手紙が届いており、その中にはかなりの数の二人の共通の友人の名が出て来るからです。
 その他にも、サンフランシスコに住んでいたA・B・キングスランド夫人から英作文を習っていました。そのことは同夫人が書いた一八八七年四月八日付の領収書や、残されている二通の手紙から分かります。手紙のうち一通は、一八八八年一二月に、房太郎がキングスランド夫人に送った手紙に対する返事ですが、「Mr. Takano, Dear friend and pupil」(私の友人であり生徒でもあるタカノさん)に始まっています。しかし、このブレイトン家での生活は一八八七年六月で終わりました。ブレイトン家の主人が健康をそこない、サンディエゴへ転地療養することになったからです。しかし、ここでブレイトン家との縁が切れたわけではなく、房太郎はサンフランシスコの北北西二〇〇キロほどのところにある海沿いの小さな町、ポイント・アリーナ(Point Arena)に行き、ブレイトン家の息子二人とともに働くことになります。そのことは、房太郎から岩三郎に宛てた手紙と、後にアルバート・ブレイトン・ジュニアから届いた手紙によって分かります。

サンフランシスコからポイント・アリーナ周辺地図

 岩三郎宛ての手紙は、いま残っている房太郎書簡のなかで一番早い時期のものですから、全文を紹介しおきたいと思います。これまでは周辺の史料しかなく、もどかしい思いで推測を重ねて来ましたが、ようやく房太郎自身が書いた記録が使えるわけです。なによりこの手紙は、渡米直後に彼がどのような生活を送っていたのかを教えてくれる数少ない記録です。なお、この手紙は、ポイント・アリーナで書かれ、一八八七年八月一日に投函されています。手紙の冒頭に八月三日便とあるのは、この日にサンフランシスコを出航する郵便船で日本に送られることを予定していたものだからです。原文は片仮名で句読点もありませんが、ここでは読みやすさを主として平仮名に改め、句読点も加え、さらに漢字の一部は読み下しておきましょう*4

 七月三十一日認
 八月三日便
 相変わらず無事、ご休心下されたく候。六月三十日付け書面、新聞まさに入手いたし候。
 一 別紙二通御回送願い上げ候。
 一 旧オークランド主人もこの度病気療養のため一年間ばかり桑港(サンフランシスコ)より南百里ほどこれあり候〈サン・ダエゴ〉と申す処へ行かるる由にこれあり、同氏の子息二人、小生とともに当地へ罷りあり候えども、過日それがため帰宅いたされ候。しかしながら当場を支配する人は旧主人の弟ゆえ大いに都合よろしく候。
 一 もはや当地へは五週間ほど滞在いたしおり候。来月下旬には桑港へ帰るべき都合にこれあり候。
 一 当米国の事については万事熟考の上着手いたしおり候ゆえ小生の心事については決してご心配なされまじく候。決して粗暴過激のことをなして人に笑はれる様なる事は決して仕らず候。
 一 当地へ来たりてより実に非常の労働をいたしおるなれども、今日までさらに病なるものに罹らず、うたたあい喜びおり候。常に心気精々として、本日も日曜日ゆえ、午前中に他の子供四五人と共に近辺の山を渉猟し、Berryと申す木の実などを拾い帰り候。夕刻よりは毎日小説の翻訳をなし、毎夜必ず十時に寝につきおり候。この頃にては日本に居りし時の如く、決して寝坊にはこれなく候。
 一 時々show、まず茶番のようなもの、当場内の楽堂にて催しこれあり候。一昨晩もこの茶番之あり候ゆえ、出かけ候。ちょっと言えば落とし話みたようなものにて、黒奴の踊りもこれあり、終わりにはSocial dance と申して自由に〈ダンス〉をいたし候。しかしながら私などは指をくわえて見ている方に候。
 幸いなるには当場に居る人も、支那人をにくむの余り、その反動は日本人を愛することにて、大いに仕合わせに候。まずちょっとした過りがあっても、支那人ならば打擲でもするところを、Oh, right〔all right〕- Oh, right で済ませてくれるようなものにて、好都合なり。かつ頃日このごろはすべての様子も相分かり候ゆえ、好都合に候。いずれにしろ困るのは、多くは無教養の人間にて、眼には一丁字もなく、言葉も多くはBroken English なるには、閉口のほかなく候。
                   房太郎拝
母上様
岩三郎様

 この手紙から、さまざまな事実が読みとれます。まず、基本的な点からいえば、房太郎は一八八七年六月にはすでにオークランドを離れ、主家の息子二人とともにポイントアリーナに移り住み「非常の労働」に従事していることです。また、その働き先の経営者が「旧オークランド主人」、つまりアルバート・ブレイトンの弟、つまり同行している兄弟の叔父にあたることです。
 この新しい勤め先について、最初にこの手紙を紹介された大島清氏は「劇場(?)のような所」と解説されています*5。本文中に「当場内の楽堂」とあるところから推測されたものでしょうが、これは疑問です。なぜなら、ポイント・アリーナは人口僅かに五〇〇人足らずの小さな村で、劇場経営が成り立つほどの規模の町ではないからです。さらに言えば、この手紙のなかで房太郎は「夕刻ヨリハ毎日小説ノ翻訳ヲナシ毎夜必ズ十時ニ寝ニ就キ居候」と書いています。もし劇場なら、いちばん忙しい時間帯である「夕刻ヨリ」夜にかけて、自由時間が認められる筈もなく、まして毎晩一〇時に寝ることなどとうてい無理だったに違いありません。

製材工場、ただしガルシア製材所ではない。

 では、房太郎はどのような仕事をしていたのでしょうか。それは製材所での労働だったと思われます。実は、房太郎はこの手紙を書いた二年後の一八八九年、サンフランシスコで日本雑貨店の事業に失敗し、その直後にふたたびポイント・アリーナに来ています。そのことは、横浜正金銀行サンフランシスコ出張所の今西駐在員から彼に宛てた手紙の宛名から分かるのですが、それにはポイント・アリーナ、ガルシア製材所気付(c/o Garcia Saw Mill, Point Arena)と明記されています*6。もうひとつの根拠は、後年、AFLから経歴について問い合わせを受けた房太郎が出した返事です。それにはつぎのように述べられています*7。「私が一八八九年にカリフォルニアの製材所にいたとき、幸運にも『労働運動──今日の問題』と題する一冊の本に出会いました。」(強調は引用者)
 製材所でどのような作業に従事していたのか、その具体的内容までは分かりませんが、「非常の労働」と書いているところをみれば現場作業だったに相違ありません。

 ポイントアリーナの主要産業は、ガルシア川の水力を利用し、周辺の原生林を伐採・製材する木材業でした。オレゴン州南部から北カリフォルニアにかけての太平洋岸には、樹齢二〇〇〇年、樹高一一〇メートルを超えるレッドウッドの巨木の森が、平均幅三六キロ総延長七二〇キロものベルト状に存在していたのです。余談ですが、現在、日本最高の巨木でも樹高は七〇メートルに達しません。レッドウッドは樹高では世界最高記録をもつ木なのです。レッドウッドの巨木と伐採労働者。

 根っからの都会っ子だった房太郎にとって、ここポイントアリーナでの大自然に囲まれた生活は、生まれてはじめて味わう新鮮な体験でした。しかも、いっしょに働く少年達と親しくなり、日曜には野山を遊び歩いているのです。わずか半年余の間に、房太郎がすっかりアメリカ生活に馴染んでいる様子がうかがえます*8。おそらく彼は、日本にいる間にかなりの英語力を身につけていたに違いありません。先ほどの手紙に「楽堂」とあったのは、製材所に付設されていたホールでしょう。そこで〈ミンストレル・ショウ〉つまり白人が顔を黒く塗って黒人に扮し、歌や踊り、漫談などを演ずるバラエティショウが繰り広げられ、ダンスパーティが開かれていたのです。
 この手紙はまた、房太郎がブレイトン家の人びとから愛されていたことを裏付けています。そうでなければ、同家の子供が家を離れる際に同行させ、彼らの叔父が経営する製材所で働かせることはなかったでしょう。さらに、房太郎はポイント・アリーナでも同僚の労働者たちにすぐ受け入れられ、親しくしてもらえたこともわかります。それはこの手紙に記されていることだけでなく、2年後に、事業に失敗した房太郎がこのガルシア製材所に来て働かせてもらっている事実からも明らかです。





【注】


*1 このことは前にもご紹介した義兄・井山憲太郎の書簡控えに「ヲークランド第十七街五百十九番に住込みの報を読んで」とあり、さらに「着米後十日を出ずして糊口と旅費の心配を免かれしは」とも記されていることから明らかです。房太郎がアメリカに到着したのは、一八八六年一二月一九日ですから、同月の二八日か二九日以前に、すでにオークランドでスクールボーイの仕事についているのです。

*2 房太郎がスクールボーイとして働いた家がアルバート・ブレイトン家であることは、推測によるものですが、その確度はかなり高いと考えています。その根拠は次の通りでです。
 a) 現在、法政大学大原社会問題研究所には房太郎が書いた書簡だけでなく、房太郎に宛てられた書簡がいくつか残っています。そのなかに、一八八九年から九〇年にかけてシアトルにいた房太郎宛てに出されたアメリカ人の手紙が何通かあり、その一通がアルバート・ブレイトン名のもので、その内容はつぎのとおりです。

一八八九年一〇月二四日 ガルシア工場にて
 君の葉書をいま受け取ったところです。君の消息を知って、たいへん嬉しかった。
メキシコくじはひとつも当たらなかったよ。だから未だに僕等は金持ちではないし、これからも金持ちにはなれそうもないよ。僕はもうずっと宝くじは買わないつもりだ。
僕はいま家から学校に通っている。女先生はこれまで見たこともないような美人だ。先週の日 曜に、その女先生と一日中デートしたよ。
君がいい仕事についたと聞いて喜んでいる。四五ドルは高給だ。ずっとその仕事を続けるべきだと思うよ。僕はいま一日一ドルの仕事をしているけれど、むしろ学校に通いたい。
父はちょうどサンフランシスコ(the City)からから戻って来たところだ。
君はガルシア製材所にいたとき「日本の少女を教える」といった題で小説を書いていると言ったよね。その本は出版されたのかい?
手紙をください。僕はこの山の中でとても淋しいのだ。君からの手紙はとても嬉しかった。
                  さよなら
              アルバート・ブレイトン

次のなぞなぞに答えてごらん。
アダムがエデンの園で最初に植えた木は何だ?

 見られるとおり、この二人がきわめて親しい友人同士であることが分かります。
 b) 一方、一八七〇年と一八八〇年の国勢調査の原票やサンフランシスコやオークランドの人名録から、オークランド市ジャクソン街一一六七番にアルバート・ブレイトン家が存在したことが判明しました。その家には男の子が二人おり、本文で引用した房太郎の手紙の内容と一致しています。
 c) もちろん、ポイントアリーナで房太郎に手紙を書いたアルバート・ブレイトンと、オークランドに住んでいたアルバート・ブレイトンJr.が別人である可能性は皆無ではありません。しかし、サンフランシスコ周辺でブレイトン姓はきわめて珍しく、人口が大幅に増加した現在でも、電話帳には五、六家族しか記載されていません。同姓同名の別人がいる可能性はきわめて低いと言ってよいでしょう。なお、一九七七年現在の電話帳に記載されていたブレイトン姓の人びとは、いずれもアルバート・ブレイトン家とは無関係でした。
 d) アルバート・ブレイトンが製造していた蒸気機関やペルトン水車の顧客の多くは鉱山関係でしたが、製材機械の動力としても用いられていました。いま紹介したアルバート・ブレイトン・ジュニアの手紙で、彼の父もサンフランシスコとポイントアリーナの間を往き来していることが分かります。これは、おそらペルトン水車か蒸気機関の設置、あるいは補修作業に関連したものだったのではないでしょうか。

*3 このアルバート・ブレイトンの経歴は、主として James Miller Guinn History of the State of California and Biographical Record of Oakland and Environs also Containing Biographies of Well-Known Citizens of the Past and Present. Vol.2, c1907 Historic Record Co. Los Angeles pp. 644-645 により、後は一八七〇年と一八八〇年の国勢調査の記録、それにつぎのサンフランシスコやオークランドの人名録によっている。
McKenny Oakland City Directory 1八八3.
Oakland, Aladeda and Berkley City Directory., L. M. McKenny & Co. Aug. 1886
ibid. 1887, 1889-90, 1892,1892-93,
 なお、A.P.Brayton父子の名は、L. M. McKenney社発行のオークランド・アラメダ・バークレーの人名録の一八八六年に出てくる。しかし、一八八七年にはいったん消え、八九〜九〇年で再び現れている。これは、本文に全文引用した一八八七年七月末現在の高野房太郎書簡中に、「オークランド主人」が病気となりサンディエゴに転地療養している事実と合致している。
一八九一年の人名録では、社名はパシフィック鉄工所でなく、ペルトン水車会社(Pelton Water Wheel Co.)と改められ、息子のアルバート・ジュニアも同社で働き、一八九二年に父は社長(president)、息子は支配人(manager)、翌九三年からは息子は副社長(vice-president)となっている。

*4 房太郎の手紙は、大島清氏が房太郎の長女原田美代氏、岩三郎の長男高野一郎氏から提供を受け、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』に紹介されたものである。現在では法政大学大原社会問題研究所が所蔵している。なお、ここで紹介した手紙は大島清「労働組合運動の創始者・高野房太郎」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.一〇六、一九六五年一月)八ページに紹介されている。ただし、今回はもとの書簡にあたって読み直しており、同稿とは若干の相違がある。なお、改行位置もふくめ原文どおりに翻字したこの書簡と、同書簡の画像を別ファイルとして掲載してあるので、ご参照いただきたい。

*5 大島清「労働組合運動の創始者・高野房太郎」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.一〇六、一九六五年一月)九ページ。

*6  明治二二(一八八九)年三月三〇日付、横浜正金銀行のI.Imanishi署名の封書の宛先は次の通りである。

Mr. Osen F. Takano,
c/o Garcia Saw Mill
Point Arena,
Mendocino Co.,
California.

 つまりカリフォルニア州メンドシーナ郡ポイント・アリーナガルシア製材所気付となっている。
 なおOsenは高野房太郎が在米中に使った名前である。桜泉、あるいは鴎川か、いずれにせよ雅号を名前とし、房太郎をミドルネームとしたのである。そのほかヘンリー(Henry)の名も使っている。

*7 高野房太郎著 大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、一九九七年)六四ページ。

*8 アルバート・ブレイトンのほかにも、ポイントアリーナのウイル・ニッセン・ジュニアから房太郎宛ての手紙三通が残っており、文中にはウイルと房太郎の共通の友人・知人の名が一〇人以上記されている。房太郎がポイントアリーナのアメリカ人社会にとけこんでいたことが分かる。 



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