二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(三五)

職工義友会の創立

職工義友会の面々、左から城常太郎、高野房太郎。右端は不明(澤田半之助と推定して来たが、澤田家のご親族から別人であるとのご指摘を受けた。

 サンフランシスコ商業学校時代の房太郎は、岩三郎宛の手紙からうかがい知る限りでは、時間的にも金銭的にも余裕のない、勉学と労働に追われる日々を過ごしていたように見えます。学校での勉強はもちろん、家でも予習・復習に時間をとられ、仕送りのために毎晩深夜まで働き、時には休日でもアルバイトをしなければならなかったのですから。しかし実際には、そうした超多忙な生活のなかで、彼は、その生涯の転機となる重要な出来事にかかわっていました。ほかならぬ〈職工義友会〉の創立です。
  一八九七(明治三〇)年、日本で最初に近代的労働組合の組織化をめざす団体として結成された労働組合期成会の母体となったのは、職工義友会でした。より正確に言えば、労働組合期成会は、帰国した会員が東京で再結成した職工義友会の呼びかけで誕生したのです。いわばサンフランシスコの職工義友会は、日本労働組合運動の源流の、そのまた源流とも言うべき組織で、労働運動家・高野房太郎の出発点はここにあったのです。

 実は、職工義友会の創立年次は、長い間誤って伝えられてきました。そのため、高野房太郎は職工義友会の創立には参加しておらず、中心メンバーではなかった、と主張する研究者もあらわれたほどです*1。その根拠のひとつは、義友会の事績を関係者が直接記録した唯一の文献「労働組合期成会成立及発達の歴史」*2にありました。問題の箇所はつぎのとおり、というより以下がサンフランシスコの職工義友会に関する記述の全文です。

「明治二十三年仲夏の頃、米国桑港在留の城常太郎、沢田半之助、平野永太郎、高野房太郎及び他二、三の人相集まりて職工義友会を起す。その期する所は欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解釈に備えんとするにあり」

 この記述は、同時代に執筆された日本労働運動史の古典、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』にそのまま引き継がれました。ところで、明治二三年は西暦一八九〇年、その夏なら房太郎はまだタコマにいました。当然のことながらサンフランシスコでの創立には参加しえず、義友会に加入したのはその発足後で、中心メンバーではありえなかった、との見解が生まれたのです。しかし、私はこの主張に疑問をいだきました。なにより、いま引用したばかりの文章を素直に読めば、高野房太郎が創立に参加していることは明瞭だからです。それに、当時の日本人の間で、彼ほど労働運動に早くから関心をいだき、深い知識をもっていた人物はいませんでした。その高野を抜きに職工義友会が創立され、房太郎は中心メンバーではなかったとするのは、いかにも不自然だと感じたのです。こうした場合は、むしろ史料そのものに何らかの誤りが含まれていることを疑うべきではないかと考え、いろいろ調べてみました。その結果、もし一八九〇(明治二三)年夏の創立だとすると、もう一人の参加者・沢田半之助もまだ渡米前で、創立には参加出来なかったことを発見しました。外務省外交史料館に残されていた旅券の発給記録から、沢田が渡米したのは同年の暮以降であることを突き止めたのです*3

 ところで、長い間見逃されていましたが、職工義友会の創立を伝えるもうひとつの史料があったのです。東京で発行されていた新聞『経世新報』明治二四(一八九一)年一〇月一六日付に「米国桑港に我労働義友会起る」と題する記事が掲載されていたのです*4。それほど長いものではありませんし、僅かながら義友会の活動内容を伝えていますので、ここで全文を引用しておきましょう。

「久しく米国桑港に在留し、目下同港に於て靴職工を営める城常太郎、平野永太郎の両氏は、我日本労働社会の萎靡逡巡いびしゅんじゅん自ら屈し毫もなすなく、今後益々其惨状を極めんとするの観あるを見て、此程一編の意見を草し、我国同好の人に送り、大いに組合を設くるの利益を説き、各地方に職工組合なる者を設立し、更に全国枢要の地に地方本部を設け、以て地方に関する事務を処理し、従来労働社界に存在したる弊害を矯正すると同時に、其の利益の増進を計り、緩急相救ふの術を行はんには、実に我労働社界の救治策たるを説きたる由なるが、今度右の両氏発起となり、桑港ミッション街千百〇八番地に労働社界の改良利益を計り、併せて同港在留の日本人は相共に苦楽を同ふせんとて、毎月第一第三土曜日に会員の集会を為す由なるが、目下会員も大いに増加し同地外人の信用をも博するに至たりと。同会の設立こそ、向後米国に渡行する職工に採りては、頗る好き手蔓となるへし。」

 この記事から分かることは、職工義友会が「成立及発達の歴史」の記述から印象づけられる研究団体的存在ではなく、故国日本の労働者仲間に労働組合の結成を働きかけるといった実践的な性格をもっていたことです。なかでも全国各地に地方本部を設けるようにと呼びかけている点は、後の『職工諸君に寄す』を思い起こさせるところがあります。また、サンフランシスコ在住の日本人労働者が互いに助け合うことを目的に、月二回集まっていたことも判明します。このような活動の延長線上に、一八九二年暮には加州日本人靴工同盟会が誕生していますが、それについては回をあらためて述べることにしましょう。
  ちょっと話が横に逸れてしまいましたが、ここでの問題は職工義友会の創立年次です。新聞記事が、一年以上も前の出来事をなんの断りもなしに「今度右の両氏発起となりて」と書くはずはありませんから、この記事は義友会の創立を一八九一(明治二四)年の事実として伝えているものと考えてよいでしょう。では、創立年を一八九〇年とする「成立及発達の歴史」とこの報道記事とでは、どちらにより信を置くべきでしょうか。「成立及発達の歴史」は一八九八(明治三一)年の執筆ですから、ほぼ同時代の当事者による記録ではあっても、七、八年後に執筆されたものです。これに対し『経世新報』は同時点での報道記事です。創立年次に関する記録としては、同時点の記事の方がより信頼しうるのではないでしょうか。

 「成立及発達の歴史」は無署名ですが、執筆したのが高野房太郎であることは、まず確実です。それはこの時点で、サンフランシスコ時代の職工義友会から労働組合期成会の成立とその活動を記述できたのは、彼以外に考えられないからです。同時に上掲の引用文に見られるように、関係者の氏名を列挙する際に、高野房太郎の名がいつもその最後に出てくることも、高野が筆者であることを示しています。
 ところで、その高野は「日本のストライキ」と題する英文通信で、明治二四年におきた東京の石工のストライキを一八九〇年のこととして報じています。どうやら房太郎は元号と西暦の換算があまり得意ではなかったようなのです。職工義友会の創立年を明治二三年としたのも、彼が西暦を元号に換算する際にミスをおかした可能性が高いと思われます。このように考えて、はじめて先に引用した箇所を史実と整合的に理解することができます。一八九一年なら、その五月二二日から七月二一日にかけて、サンフランシスコ商業学校は夏休みでした。この休暇の最後の頃はまさに「仲夏」にあたります。勉学と労働で多忙をきわめた房太郎も、この時期なら、職工義友会の創立に尽力する時間的余裕が充分ありました。また沢田半之助も、この時にはすでにアメリカに着いており、職工義友会への参加に問題はありません。以上から、職工義友会の創立は一八九〇(明治二三)年ではなく、翌一八九一(明治二四)年のことと断定して差し支えないと思われます。

 房太郎のほかに職工義友会の中心メンバーだったのは、靴職人の城常太郎、洋服職人の沢田半之助でした。一八九七年、東京で職工義友会を再建した時に参加したのもこの三人で、彼ら全員が、期成会創立の際には「仮幹事」となっています。サンフランシスコ時代の職工義友会会員は一〇人前後だったようですが、そのうち上記三人以外で氏名が分かっているのは、平野永太郎、武藤武全、木下玄三だけです*5。これらの人びとの詳しい経歴は分かっていません。ただ、平野永太郎は靴職人で、後に神戸で城常太郎とともに神戸製靴合資会社を開いていること、武藤武全はボストンで日本人が経営するヤマナカ・アマノ商会の園芸部門の責任者となっていること、木下玄三は一八九七年にはすでに日本に帰国しており東京市小石川区に住んでいたことなどが分かっている程度です*6。これだけの事実から、義友会の会員の特徴を知ることは困難ですが、城と平野の二人が靴職人であること、彼らが故国の仲間に労働組合の結成を呼びかけていたことはやはり注目に値します。先ほどもちょっとふれましたが職工義友会の会員が中心になって二年たらず後に加州日本人靴工同盟会が結成されていることを考えると、靴工の比重が高かったのではないでしょうか。その他の会員も、学生などよりは、手に職をもつ労働者が多かったのではないかと推測されます。その点で、同時期にサンフランシスコ周辺に存在した政治青年たちの組織である愛国同盟やクリスチャンの集まりである福音会などが、学生層を中心にしていた団体とは、かなり色合いを異にしていたことがうかがえます。

 最後に、房太郎とともに職工義友会の中心となった城、沢田の二人について簡単に紹介しておきましょう。
  城常太郎じょう・つねたろうは文久三(一八六三)年正月に、熊本に生まれました。房太郎より五歳余の年長です。幼くして父を喪い、西南戦争の際に戦火に遭って家を焼かれ、一家離散するなど苦難の少年時代を送りました。依田西村組熊本支店で給仕として働いていた時に支店巡視に来た西村勝三に見出され、神戸の伊勢勝造靴所の生徒となり、靴工としての腕を磨き、長崎で開店しました。一八八八年夏に『国民之友』に掲載された短い雑報記事でサンフランシスコには多数の中国人靴工が働いていることを知り、日本人靴工の新たな働き場所を開拓するために、同年、単身アメリカに渡ったのでした。
 城の恩人である製靴業界の大物・西村勝三は、こうした城の開拓者としての功績を称えて石碑を建て、自ら碑文を草しています。長年本人をよく知る立場にいた人物が、常太郎の生涯を簡潔な筆致で描いた内容ですが、そこには次のような一節があります*7

「君資性沈毅にして明敏我国靴工の状態に慨あり、大に改善する所あらんとし、刻苦励精其の業に勉む。明治二十一年八月其の貯蓄する所の資を携えて米国桑港に航し、先ず旅館の労役に服し後一窖室を賃して纔かに造靴店を開く」

 つまり城は、生まれつき沈着で物事に動ずることなく、また賢明で頭の働きが早く、日本の靴工がおかれていた状態を嘆いて、それを改善しようと懸命に仕事にはげみ、明治二一年八月に自分の貯えを使ってサンフランシスコに赴き、まず旅館で働いたあと、地下の一室を借りて造靴店を開いたというのです。
 城がサンフランシスコに着いた時、波止場で彼を出迎えたのは、他ならぬ房太郎でした。彼はこの頃、日本物産店を経営するかたわらコスモポリタン・ホテルの客引きをしていたのです。同じ九州出身でともに長崎に住んだことがあり、幼くして父を喪っているなど共通の体験が二人を近づけたのでしょう、彼らはその後、生涯を通じての親友となります。英語が話せなかった城は、最初コスモポリタン・ホテルの皿洗いとして働きましたが、これも房太郎が世話した仕事だったに違いありません。
  もうひとりの沢田半之助さわだはんのすけは福島県岩瀬郡須賀川町の出身、房太郎と同年の明治元年九月の生まれです。明治二三(一八九〇)年一二月に渡米しています。在米の日本人記者・鷲津尺魔はその著書『在米日本人史観』の付録でアメリカにおける各種職業の「元祖しらべ」のコラムを書いていますが、その「洋服屋の元祖」の項はほかならぬ沢田です。なかなか興味深い内容ですから、全文を紹介しておきましょう。

 沢田半之助は明治二十三年渡米、翌明治二十四年桑港ミッション街と第七街との角なる城靴直し店に同居して洋服屋を始めた。これが米国に於ける同胞洋服屋の元祖である。
茲に注意を要することは当時、洋服屋とか靴直し店とかいふののは今日の同業者とは比較にならぬほど貧弱なもので、ミッション街の沢田・城共同借家は家賃十五弗で通行者の少ない街であった。其処に洋服屋と靴直しとが同居したのだから、実にみすぼらしいものであった。
 此頃は大概独身生活で店の奥に手造りのベッドを置きそこに起臥したのである。ケチンもベッドルームもパーラーもダイニングルームもすべて一室の中に兼用され、其食事の如きはブレッドにカフヰー、麦粉の団子汁等であった。それも客足が稀れの時には食い兼ね、一日一食で済ましたことが多いのであった。
 沢田半之助は洋服屋とは名ばかりで、洗濯、直し物等が主なるものであった。新造の注文などは開業当初はなかった。
 当時桑港には五六百の同胞がゐたが其多くはスクールボーイ階級で彼らは一週五十仙より一弗の給料ゆゑ洋服を新調する余裕はない。大概働先の主人の着古しを貰ったり、やむをえず衣服買入の必要に迫るときはハワード街の古着屋に走り一着三弗位で用を弁じ、靴も一足五十仙の古靴で間に合わした。」
『遠征』第4号掲載の沢田裁縫所の広告「安価ヲ旨トシ裁縫ニハ念ヲ入レ調進可仕候其外直シ物モ精々勉強致候 ミッション街千百〇八番 沢田裁縫所」

 この「城・沢田共同借家」こそミッション街一一〇八番地、つまり職工義友会の本部が置かれた家でした。職工義友会が創立されたのとほぼ同時にサンフランシスコで発行された日本語雑誌『遠征』第四号(一八九一年八月一五日付)には、左のような広告が掲載されています。
 沢田半之助は、労働組合期成会では高野や片山潜とともに幹事に選ばれ、演説会などにもたびたび出演しています。銀座尾張町に沢田洋服店を開き、期成会が消滅した後は労働運動から離れ、鉄道省大井被服工場の建設に参加したり、金子堅太郎とともに〈米友協会〉を組織して、神奈川県久里浜にハリス記念碑を建てるのに奔走するなど、洋服業界、日米親善の名士として活躍しています。社会的な成功という点では、職工義友会の三人組のなかでの〈出世頭〉でした。



【注】


*1 隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompers との関係を中心に」東京大学経済学会『経済学論集』第二九巻第一号(一九六三年四月)。のち隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』(御茶の水書房、一九七六年)所収

*2 『労働世界』第一五号(一八九八年七月一日付)。岩波文庫『明治日本労働通信』三八八ページ参照。

*3 詳しくは、拙稿「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」『黎明期日本労働運動の再検討』(労働旬報社、一九七九年)参照。本著作集第7巻『高野房太郎研究ノート』に再録。

*4 労働運動史料委員会編集刊行『日本労働運動史料』第二巻(一九六二年)、三九四ページ。この貴重な記事を発掘されたのは、ほかならぬ隅谷三喜男氏である。

*5 房太郎は、一八九七年四月一五日付ゴンパーズ宛の手紙のなかで「職工義友会は数年前にサンフランシスコ在住の一二人ほどの日本人によって結成されました」と述べている。
 また、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』は職工義友会について次のように記している。

 労働組合期成会の前身は職工義友会なり。故に期成会に附き云ふ所あらんとせば、先づ義友会より談らざるべからず
 職工義友会は日本に於て創設せられし者にあらざりき。爰に面白き意味あり。此の会は明治廿三年仲夏、米国桑港に於て当時同地に労働しつヽありし、城常太郎、高野房太郎、沢田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵外四五名の労働者によりて組織せられし者にして、其の期する所は「欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解決に備へんとするにあり」たり。

なお、高野房太郎の日記巻末の住所録には、平野永太郎の名が記されている。『日本の労働運動』にある平野栄太郎は、永太郎の誤りとみてよいであろう。

*6 武藤武全については、彼から高野房太郎に宛てた一八九七年六月二九日付の書簡が残されており、その封筒、用箋はヤマナカ・アマノ商会の園芸部門のものが使われている。『高野房太郎日記』一八九七年の巻末の住所録に木下玄三の名があり、住所は東京市小石川区上富坂町一五番地と記されている。

*7 井野辺茂雄・佐藤栄孝『皮革産業の先覚者 西村勝三の生涯』(西村翁伝記編纂会、一九六八年)。

*8 鷲津尺魔『在米日本人史観』羅府新報社、一九三〇年。



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