二度目の一時帰国からアメリカに戻った房太郎は、まだしばらくは実業界進出の可能性を探っていたようで、一八九三年五月一日には、ニューヨークのアメリカン・タバコ会社へ手紙を出し、商品価格の問い合わせをおこなっています。しかしこれに対する同社輸出部の返事は、引き合いを受けた銘柄の大部分は、横浜の代理店を通さなければ取り扱えないと伝えて来ただけでした*1。これを最後に彼はアメリカ国内での起業計画をあきらめたらしく、かねてからの希望であったアメリカ東部諸州への旅に出発しました。タコマを離れた正確な日時は分かりませんが、この年の六月か七月頃と思われます。その折ルーシーとの間で、どのような別離の言葉が交わされたのでしょうか? 小説ならここは山場になるところですが、史実を探るこの評伝では、あらぬ想像は差し控えておきましょう。
房太郎はその後、いったんサンフランシスコに立ち寄り、たまたま黒沢診療所で出会った竹川藤太郎らと歓談のひとときを過ごし、間もなくすぐシカゴに赴いたことは、前回すでに紹介したとおりです。 シカゴは、五大湖の西南端に位置し、湖と運河によって中西部と東海岸とを結ぶ水運の要衝でした。さらに一九世紀中葉、鉄道建設の進展とともに、多数の鉄路がこの街に集中し、すでに一八五五年には幹線一〇本、支線一一本がここで接合する巨大ターミナル都市となっていました。こうしてシカゴは水路と陸路の双方で、アメリカ最大の国内交通の要地となったのです。その都市化の進展は劇的で、一八三三年にわずか三五〇人でしかなかった小さな町は、一八四〇年には四五〇〇人、一八五〇年三万人、六〇年一一万、七〇年三〇万、八〇年五〇万、九〇年には一〇九万人へと急増しています*2。この間、一八七一年には大火に見舞われ、一〇万人もの人が焼け出されました。しかし、この大火を機に、市当局が中心街における木造建築を禁止したこともあって、シカゴは高層ビルの建ち並ぶ近代都市に生まれ変わりました。優れた建築家がそこここで腕を競い、skyscraper(摩天楼)も、この街で最初に生まれたのです。こんな短い期間で、その規模や景観を変えた都市は、それまであまり例がなかったと思われます。
シカゴは、サンフランシスコからアメリカ東部へ向かう旅の順路に位置していましたから、房太郎がまずここに足をとどめたのは、ごく自然な選択に見えます。しかし、房太郎がシカゴに立ち寄ったのは、なにもアメリカ第二の都市を見たいというだけではなく、はっきりした目的がありました。それはほかならぬシカゴ万博、正式にいえばThe World's Columbian Exposition of 一八九三(一八九三年世界コロンビア博覧会)の見学でした。
シカゴ万博は、一八七六年のフィラデルフィア万博に次いでアメリカで開かれた二回目の世界博覧会で、フィラデルフィア万博がアメリカ独立一〇〇周年記念だったのに対し、シカゴ万博はコロンブスの「新大陸発見」四〇〇年を記念するものでした。Columbian Exposition(コロンブスの博覧会)と称したのはそのためです。五月一日に開会し、一〇月末まで続きましたが、その半年の会期中に二七五〇万人が会場を訪れたといいます。一八九〇年現在のアメリカの総人口が六二〇〇万人余ですから、二人に一人弱がシカゴ万博を見た計算になります。
在米日本人の間でも、この万博は大評判で、『遠征』にも見学記が連載されていました。房太郎が、長年希望しながら実行しえずにいた東部諸州への旅を決意したのも、おそらくこの万博があったからでしょう。後年、彼とともに労働組合期成会の幹事となる片山潜も、毎年、夏休みにはアルバイトで学費稼ぎに追われていたのに、この博覧会だけは仕事を休んでまで見物しています*3。片山がシカゴに行ったのは八月のことですし、その頃、房太郎は日本商品の売店で働いていましたから、後に同志となる二人が、それと気づかずに万博会場で顔を合わせていた可能性は高いと思われます。
シカゴ万博は、ミシガン湖畔のジャクソン公園を主とする二八〇万平方メートルの広大な敷地を会場としていました*4。直前の一八八九年パリ万博の三倍の面積といわれても実感はわきませんが、東京ドーム六〇棟が入る大きさです。会場のいたるところにミシガン湖につながる運河や池が設けられ、遊覧船が走り、ゴンドラの櫓の音がするなど、さながら水の都でした。博覧会の主要部はCourt of Honor〈栄誉の中庭〉で、中央に大きな池を設け、その周囲に高さを揃え、外壁や柱を白一色でまとめた巨大パビリオンが建ち並び、見事な統一感のある光景をつくりだしていました。誰いうとなく、シカゴ万博を〈ホワイト・シティ〉と呼ぶようになったのも、主要パビリオンがすべてアイボリー・ホワイトだったからでした。冒頭に掲げた絵は、この〈栄誉の中庭〉を描いたものです。この中庭では、夜ともなれば九万個の白熱電球が純白のパビリオンをライトアップし、幻想的な人工空間をつくりあげていました。
二〇〇を超えるパビリオンは、フランス、ドイツなど世界各国の国別の建物やアメリカ各州の展示館のほか、工業館(Manufactures Building) 、電気館(Electricity Building)、交通館(Transportation Building)、機械館(Machinery Hall)、鉱業館(Mines and Mining Building)、運輸館(Transportation Building)、農業館(Agricultural Building)、園芸館(Horticultural Dome)、漁業館(Fisheries)、美術館(Art Palace)、女性館(Woman's Building)などがありました。一九世紀末のこの時点で、すでに女性のために女性が企画した独自のパビリオンを設置した点は注目に価します。
見所の多いシカゴ万博のなかでも、多くの人の注目の的となったのは世界最初の大観覧車でした。これは主会場とは別に、西側ゲートから会場へ向かう広大な通路をかねた遊園地的空間〈ミッドウエイ・プレザンス〉に設けられていました。この大観覧車を設計したのがGeorge Washington Gale Ferris(ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス)で、今でも大観覧車のことを英語でFerris Wheel〈フェリス・ホイール〉と呼ぶのはこのためです。クリスタルパレス(水晶宮)が一八五一年のロンドン万博を象徴し、エッフェル塔が一八八九年パリ万博のモニュメントになったように、フェリス・ホイールはシカゴ万博を飾る記念碑的な構造物でした。六〇人乗りのゴンドラが三六台、一〇分間で一回転し、最高地点では七六メートル余の高さからシカゴ市を一望のもとに見下ろし、晴れた日にはミシガン湖の対岸まで見とおすことが出来ました。六〇人乗りのゴンドラ三六台といえば、一時に二一六〇人が乗れる大きさです。いま収容人員世界一を誇っている横浜みなとみらい二一地区の〈コスモクロック二一〉でも四八〇人ですから、この世界初の観覧車の巨大さが分かります。博覧会の入場料とは別に、一回二周二〇分間乗る料金が五〇セントでした。回転木馬の一〇倍の料金にもかかわらず大人気で、七二万ドルを稼ぎ、建設コストを差し引いても三〇万ドルの利益をあげたといいます。過去の万博の多くが赤字だったなかで、シカゴ万博は経営的にも成功しましたが、それにはフェリス・ホイールも大いに貢献したのでした。
このほか、シカゴの都心と会場を結んで高架鉄道が建設され、一六〇〇メートルの動く歩道(movable sidewalk)が設置され、長距離電話や電化キッチンが展示されるなど、ホワイト・シティのライトアップなどとともに、電力が本格的な実用時代を迎えつつあることを示した博覧会でもありました。房太郎も、この万博を見学し、あらためてアメリカの工業力の高さに強い印象を受けたに相違ありません。
日本政府は、一八七二年のウイーン以降歴代の万博を重視し、毎回独自のパビリオンを建て、日本の美術工芸品を積極的に出展してきました。シカゴ万博では開会の一年半も前から宮大工を送り込み、会場の池に浮かぶ島に宇治平等院の鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、これをシカゴ市に寄贈しました。鳳鳳殿は、文部省技師で東京美術学校講師として建築学を教えたこともある久留正道の設計によるもので、平安、室町、江戸の各時代を代表する様式の三棟を連結する形で建てられていました。すなわち正面から見て左側には平安時代を代表する寝殿造り、右側は室町時代の書院と茶室を併せた建物が、正面には江戸時代の大名の邸宅を模した建物が配置され、一目で日本の伝統建築と装飾の変遷を一覧できるようにしていたのです。ちなみにその建築費は六五万ドルと大観覧車の二倍近い金額でした。
日本館だけでなく、機械館をのぞく他のすべての分野別パビリオンに日本は出品しています。工業館には多数の陶磁器や七宝焼き、絹織物、漆器、竹細工等が出展されたほか、女性館の内部には日本風の座敷をしつらえ、茶道具などを展示し、あるいは生糸や縫製品など女性がつくった品物が展示されました。また美術館には、上村松園の〈四季美人〉などの絵画のほか、高村光雲の木彫の代表作〈老猿〉などが出品されています。しかしアメリカの観客の目をうばったのはむしろ手間のかかった工芸品だったようで、三七人の職人が一年がかりで完成させた京都八坂の塔の模型、東照宮の千人行列を描いた田村宗立の原画をもとに、二代目川島甚兵衛が制作した巨大なつづれ錦のタペストリー「日光祭礼図」などが欧米の美術愛好家に高く評価されたようです。
房太郎は、シカゴに三ヵ月余滞在しています。彼はただ博覧会を見学しただけでなく、日本物産即売所(Japanese Bazzar)のセールスマンとして働いていたからです。博覧会閉会の日である一八九三年一〇月三一日付で、Japanese BazzarのManager のE. Jinushiが書いた英文の推薦状によって、その事実が分かります*5。英語に堪能で、日本物産店を経営した経験のある房太郎は、この仕事には正にうってつけでした。そのおかげでという訳でもないでしょうが、シカゴ万博の国別売り上げのなかでも日本はトップレベルでした。イタリアの二五〇万ドル、ドイツの一五〇万ドルについで、日本は陶磁器や漆製品などを中心に一〇〇万ドルを超す売り上げ高だったようです。
問題のJapanese Bazzarは〈ミッドウエイ・プレザンス〉の一角にあったことが分かっています。つぎをクリックすると〈ミッドウエイ・プレザンス〉の配置図が出てきます。その二五番がJapanese Bazzarです。ただちょっと気になるのは、この推薦状のJapanese Bazzarのアドレスが、ジャクソン・パークになっていることです。ミッドウエイ・プレザンスの所在地はジャクソン・パークではありませんから、ことによると房太郎は鳳凰殿か工業館などに設けられた展示即売場で働いていたのかもしれません。
シカゴ万博は、日本でも大きな話題になりました。日本で最初にエレベーターを設置したことで知られた凌雲閣、いわゆる〈浅草十二階〉は、写真師小川一真が撮影したシカゴ博覧会風景を幻燈やジオラマで展観し、人気をよびました。
*1 一八九三年五月九日付のThe American Tabacco Companyから、タコマの高野房太郎宛ての返信参照。
なお、高野房太郎旧蔵資料のなかに、コスモポリタンホテルのデニス・バックレーが書いた推薦状がある。そこには、一八九三年三月五日付で、「私は、今日までの七ヵ月間、ヘンリー・タカノを雇用していた」と記している。この推薦状を紹介された隅谷三喜男氏は、これにもとづいて「われわれに残された資料によると、その〔一八九二年八月〕直後、かれはサンフランシスコに戻り、九三年春には東部に向か」ったと推定されている。しかし、前回述べたように、一八九二年一一月から一二月にかけて彼が日本にいたことは確実で、またアメリカン・タバコ会社の手紙もタコマに宛てられているところから、この推定には無理がある。おそらくデニス・バックレーは、房太郎の依頼で雇用時期をずらせた推薦状を書いたものと思われる。原文はつぎのA Letter of Reference を参照。
*2 シカゴの人口の推移については、CensusRecords.net の Chicago Census Records
を参照した。
*3 片山潜は、その自伝『わが回想』(上)のなかで、つぎのように回想している(徳間書店、一九六七年、二二一ページ)。
オールド・オーチャードの仕事〔メイン州、ウイスリホテルのクック〕を二ヶ月で切り上げ、シカゴの万国博覧会に行った。万国博覧会はコロンブスのアメリカ発見四百年を記念する為であって、米国としても殆んど初めての大計画であり、又昨年来広告されてあったので予も行って見る気になったのである。今詳しく博覧会の記憶を記している余裕はないが、此時に於て最も発達進歩を示していたものは電気であった。また美術館で最も予が好んで見たのはロシア出品の油絵であった。それは農夫や樵夫が橇に乗っている絵である。皆自然に近いもので、予の如き百姓には最も気に入った。丁度前年大学で美術史を研究していたから、各建築の装飾や彫刻を非常の趣味を以て研究した。
*4 シカゴ万博については、イリノイ工科大学図書館制作のサイトThe World's Columbian Exposition of 18九3で、The Book of the Fair など4冊の万博関係図書を通じて詳しく知ることができる。画像も豊富で、さまざまなサイズで見ることが可能なので、楽しめる。まずは The Book of the Fair の会場の全景の画面から、赤丸の箇所にあるリンクを辿って見るのがわかりやすい。
*5
房太郎が日本物産の販売員をしていたことは、次のような推薦状が残っていることから判明する。
Japanese Bazzar Jackson Park
Chicago Oct.31. 18九3
To whom it may concern:
This is to certify that the bearer F. Takano has been in employ of my dept, and has given entire satisfaction both to myself and guests, as a salesman. It afford me pleasure to recommend him as a honest, obliging and clever young man, willing to discharge his duty punctually and carefully.
E. Jinushi
Manager.