二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(四八)

東回り航路(一)──大西洋〜地中海


マチアス号航路、アメリカからアジアに。エンカルタ地球儀によって作成

 いよいよ房太郎の海上勤務が始まりました。水兵として働くのはこれが初めてでしたが、職務である「ウエイター」は長年慣れ親しんだ仕事で、それほど無理なくこなせたに違いありません。大西洋横断の際は、来る日も来る日も見えるのは波ばかりという景色に退屈することもあったでしょうが、乗客とは違って業務があるわけで、時間をもてあますこともなかったでしょう。しかも、初体験の東回り航路で、地中海に入ってからはずっと未知の国々を眺めながらの船旅で、興味深く、日々を過ごしたものと思われます。
 ただ揺れの激しい小さな軍艦での長旅ですし、場所による気候の変動も大きいので、体調の維持には気をつかったことでしょう。なにしろアメリカ東海岸から北大西洋を横断し、地中海を横切り、紅海を南下し、インド洋を経てマラッカ海峡を抜け、さらに北太平洋を北上したのです。経度にして二四〇度も東へ移動しています。つまり地球をちょうど三分の二周したことになります。南北方向でも、北緯四〇度のニューヨークから赤道直下のシンガポールに下り、そこから北東アジア海域の北緯三〇〜四〇度帯に戻っているのです。ニューヨークを出発したのが一八九四(明治二七)年一一月二〇日、香港到着が一八九五(明治二八)年三月五日、長崎に着いたのは一八九五(明治二八)年四月二五日でした。これだけで五ヵ月余、一五七日を要しています。この間に日清戦争は終わり、すでに講和条約の調印も済んでいました*1

 さて、ここで検討しておく必要があるのは、房太郎のマチアス乗り組みの目的です。もし彼が、単に軍艦を船賃無料の汽船代わりに使おうと考えていたのであれば、最初に日本に到着した機会をとらえて上陸していたでしょう。あるいは、一日も早く日本で労働組合運動を始める計画をもっていたとすれば、同様の行動をとったに違いありません。もちろん水兵としての契約期間は三年ですから、途中上陸は契約違反になります。ただ、房太郎は最終的には契約期間の途中で、これを一方的に破棄して脱走しているのです。問題は、房太郎がマチアスを脱艦し日本に上陸したのは、この最初の長崎到着から一年二ヵ月も後だったことです。この事実から、房太郎がアメリカ海軍の水兵となった主目的は、働きながら世界各地を見て回ることにあった、と推測されます。また、あれだけ熱心に労働運動に関する情報収集に努めていた房太郎ですが、けっして運動開始を急いでいたわけではないようです。そこで、われわれも房太郎といっしょに、彼が見て回った土地を訪ねる旅に出ることにしましょう。

 なにしろ砲艦マチアスは大砲を八門も積んだ小艦艇で、しかも乗員が一五〇人近くいましたから、艦内に物資を貯蔵するスペースは限られていました。それに客船にくらべ船足も遅かったので、途中で頻繁に寄港し、食料や水、それに燃料を補給せざるをえなかったのです。しかし、これは世界各地を見たいと思う房太郎にとっては、かえって好都合だったことでしょう。
 マチアス号がまず最初に目指したのは、大西洋まっただ中のポルトガル領アゾレス諸島でした。つい先ごろ、イラク攻撃に先立って、英米スペイン三ヵ国首脳が会談を開いた場所としてご記憶の方もおられると思います。ポルトガル領といっても本土から一五〇〇キロも離れた大西洋上に浮かぶ群島です。大西洋中央海嶺の最高峰ともいうべき火山島で、一夜にして海中に沈んだと伝えられる謎の大陸アトランティスの候補のひとつです。
アゾレス諸島。エンカルタ地球儀によって作成。
 マチアスがアゾレス諸島最大の島サン・ミゲル島ポンタ・デルガーダ港に到着したのは一八九四年一二月二日のことでした。ニューヨークを発って、すでに二週間近い日々が経過していました。実は、ちょうど八年前のこの日、房太郎はニューヨーク号で横浜からサンフランシスコに向かったのでしたが、はたしてそのことを思い浮かべる余裕があったでしょうか。一五〇人からの兵員の三度三度の食事をまかなう食堂勤務員の仕事で忙しく、思い出にふけっている暇などなかったのかもしれません。

 サン・ミゲル島で物資の補給を終えたマチアスは、一二月四日にふたたび出航し、つぎの目的地であるジブラルタルを目指しました。大西洋から、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を分かつ地中海への入り口がジブラルタル海峡、その海峡の喉元にある港がジブラルタルです。ジブラルタル周辺地図。エンカルタ地球儀によって作成。ジブラルタル海峡周辺。イベリア半島にある逆U字型の湾の右、白っぽい部分が英領ジブラルタル。Photo Credit: NASA.
  もともとはスペイン領でしたが、その地政学的な重要性から一八世紀にイギリスがその植民地とし、今なおヨーロッパにただひとつ残る植民地です。マチアスはこのジブラルタルに一二月九日に入港し、同月一八日に出航しました。足かけ一〇日間も滞在していますから、房太郎もおそらく上陸して隣接するスペインのアンダルシア地方を眺める時間があったことでしょう。はたしてグラナダやセビリアまで足を伸ばせたかどうかは、分かりませんが。

マルタ共和国周辺、エンカルタ地球儀によって作成。

 ジブラルタルを出航したマチアスの次の目的地はマルタ島でした。イタリア半島の先、チュニジアとの間にある小さな島です。ここは古くから地中海交通の要衝で、古代文明が栄えた島として知られています。なにしろピラミッドより古い紀元前三〇〇〇年も昔に造られた巨石神殿の遺跡があるのです。
 マチアスは一二月二二日にヴァレッタ港に入り、二七日まで停泊しています。つまりクリスマスを、この聖ヨハネ騎士団が作り上げた城塞都市で過ごしたわけです。おそらく乗組員の多くは、聖ヨハネ大聖堂で開かれたクリスマス・ミサに参列したと思われます。もっとも房太郎はキリスト教にはほとんど関心を示していませんから、見物には行っても、ミサに加わることはなかったでしょう。

 一二月二七日、マルタを出航したマチアスは、スエズ運河の入り口、エジプトのポートサイドに向かい、ちょうど大晦日に到着しています。こうして房太郎にとって多事多端、しかし有意義な一年だった一八九四年は暮れました。ニューヨークを発って四二日目でした。



【注】


*1 日清戦争主要事項
一八九四(明治二七)年
七月二五日 日本艦隊、朝鮮・豊島沖で清国艦隊を攻撃。日清戦争の発端。
八月 一日 日清両国、宣戦布告。
九月一七日 黄海海戦。日本艦隊、清国北洋艦隊を撃破。
一一月二一日 旅順口占領。
一八九五(明治二八)年
二月 一日 日本・清国両国全権代表、広島県庁で交渉開始。
二月一二日 清国北洋艦隊降伏。 三月三〇日 休戦条約調印。
四月一七日 下関で講和条約に調印。
四月二三日 露独仏三国干渉。
五月 四日 閣議、遼東半島の放棄を決定。





『高野房太郎とその時代』目次  続き(四九)

ページの先頭へ