二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(五六)

和英辞典と英会話本

高野房太郎、高野岩三郎、岡崎要七郎共著『和英辭書』(1897年12月、大倉書店刊行)の扉

 アドヴァタイザー社での房太郎の仕事は翻訳でした。日本の新聞や雑誌等から、英語読者向けの記事を選択し、これを翻訳するのが主な業務だったと推測されます。これは房太郎の抜群の英語力、とりわけ英文執筆能力を生かすもので、誰にでも出来るという仕事ではありませんから、それなりのやり甲斐はあったでしょう。また横浜最大の英字新聞社の記者という「肩書き」も、社会的な評価としては決して低いわけではなかったと思われます*1。にもかかわらず、房太郎はアドヴァタイザー社での仕事に満足せず、長く勤める気はないとゴンパーズに書き送っていました。忙しいわりに報酬が低かったからです。月給がいくらだったのか分かりませんが、アメリカと比べれば日本の賃金水準は低く、まして発行部数僅か六〇〇部の新聞社が高給を出せるはずもありませんでした。

 この時期、そうした稼ぎの少なさを補う意味もあってか、房太郎は和英辞書の編纂をすすめています。日本語を英文に訳すための辞書、それも小型のいわゆる袖珍しゅうちん辞書です。日本語もローマ字で表記されていますから、外国人の利用も予想していたのでしょう。
 一八九七(明治三〇)年だけですが、房太郎の日記が残っています。その一月一六日のページに「此日正午ヲ以テ字書ノ編纂ヲ終ル」と記されています。この「字書」が、同年一二月三一日の日付で、高野岩三郎、山崎要七郎との共著として大倉書店から刊行された『和英辭典』を指していることはまず間違いありません。この『辭典』に続いて、わずか半月後には、今度は房太郎の単独の著書として『實用英和商業会話』が、これも大倉書店から出版されました。
高野房太郎、『実用英和商業会話』(1898年1月、大倉書店刊行)の扉、  大倉書店は、夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版本を出したことで著名な出版社です。博文館や丸善などとともに日本橋に店を構え、当時の大手出版社のひとつでした。とくに辞書出版では実績がありました*2から、大倉書店から和英辞書や会話本を出したことは、房太郎が抜群の英語力の持ち主であることを、世間に知らせる意味合いもありました。
 『和英辭書』は本文五四二ページ、これに英文法の解説を主とする附録四〇ページがつき、前付け後付六ページ、合計約六〇〇ページ、判型は小型ですがページ数ではかなりの辞書でした。一ページに平均三〇〜三五前後の日本語が収められていますから、日本語語彙の総数一万八〇〇〇語前後というところでしょう。訳語として一〜三の単語や文例が記されています。現在の和英辞書に比べると文例や解説が少なく、やや単語集的な辞書です。しかし、訳語は全体として的確です。
 ところで、この辞書は房太郎単独の著作ではなく、法学士高野岩三郎、ヘラルド記者山崎要七郎との共著です。各人の分担などについては全くふれられていません。しかし私は、この辞書は、実質的には高野房太郎がほぼ単独で編纂したものであろうと推測しています。そのように判断する根拠を、やや詳しく説明しておきましょう。
 第一は、これだけの辞書の編集を、三人の完全な共同作業で行うとなれば、計画から分担の調整、執筆後の整理などだけでも、たいへんな時間がかかります。事前の打ち合わせを済ませ、各人が六〇〇〇語からの語釈をつけ、それを最終稿に仕上げるといった作業を、僅か半年足らずで終えることなど不可能です。しかも共著者はいずれも仕事をもち、その仕事だけに専念できたわけではないのです。となると、作業の主要な部分、つまり単語の選択と訳語をつける仕事は、誰かが何年も前から進めていたとしか考えられません。
 そうした仕事を担った人物が誰かといえば、私は高野房太郎を措いて他にいないと思います。まず共著者の冒頭に位置しているのは高野岩三郎ですが、彼は特別に英語を学んだ経験はなく、おそらく和英辞書を編纂しうるほどの力量はもっていなかったでしょう。また、大学院で勉強しながら、中学校での授業や論文執筆に追われていた岩三郎にとって、辞書の編纂といった時間のかかる企てに参加する条件はありませんでした。
 おそらく岩三郎が名を連ねたのは、書店側の要望によるもので、必要とされたのは何よりも岩三郎の肩書き=〈法学士〉だったに違いありません。この頃の〈法学士〉の称号は、今では想像がつかないほどの希少価値だったのです。共著であるのに、各自の分担が記されていないのも、おそらくこうした事情を反映してのことでしょう。
 仮に岩三郎が編纂の実務を担っていたとすれば、房太郎日記にそれについての記述があって当然です。アドヴァタイザー社に勤務している間、房太郎は横浜の戸部に下宿しており、岩三郎と同居していたわけではありません。したがって、房太郎は岩三郎と顔を合わせた日のことを、何回か日記に記しています。しかし、一月一六日の日記には「此日正午ヲ以テ字書ノ編纂ヲ終ル」と記されているだけで、岩三郎がその場に居あわせた様子はないのです。これだけでも、辞書の編纂実務に岩三郎が関与していたとは考えられません。

 次にヘラルド記者山崎要七郎です。仮に山崎が辞書編纂を独自にすすめていたならば、房太郎が日記に「此日正午ヲ以テ字書ノ編纂ヲ終ル」といったことを記すはずはありません。仮に、山崎が実質的な共著者であったとすれば、『日記』の一月一六日の項、あるいはその前後に、山崎についての言及があって当然ですが、そうした記述はありません。
 もっとも『日記』に山崎の名がまったく出てこない訳ではありません。日記の毎ページに設けられている会計簿欄に、山崎に金を支払った事実が二回記録されています。ちょうど辞書編纂が完了した日を挟む形で、一回目は一月一一日に五円、二度目は同二三日に一五円が支払われているのです。このように、房太郎から山崎に金が支払われていること、その金額がまとまった額ではあるが決して多額ではない事実は、辞書編纂の中心人物が高野房太郎だったことを示しています。あえて推測すれば、山崎要七郎は附録の英文法に関する箇所を執筆したのではないでしょうか。

 おそらく房太郎は在米時代からこつこつと和英辞書の編纂を続け、マチアス艦上でも作業を継続していたのではないかと思われます。とくに業務に繁閑の差が大きい軍艦勤務は、こうした細切れ作業の積み重ねで出来る辞書編纂には向いていたと思われます。しかも多くのネイティブ・スピーカーと四六時中接触していたのですから。帰国後わずか半年間で『和英辞典』の編纂を完了した謎は、このように考えなければ解けません。

 この辞書と会話書の出版で、もう一人重要な役割を果たした人物がいます。岩三郎と同じ社会政策学会の会員だった鈴木純一郎です。『日記』一月三一日の項に「午後鈴木君来る。岩三郎同道大倉書店に至り」と記されているのです。この「鈴木君」が日記にしばしば名前が出てくる「鈴木純一郎」であることは、まず間違いありません。大倉書店に房太郎を紹介し、辞書の出版を援助したのは鈴木純一郎だったと思われます。なお、この書店との話し合いの場に、山崎要七郎が参加していないことも注目されます。山崎が共著者の一人でありながら、出版契約の場にいなかったことは、彼の役割がそれほど大きくなかったことを示唆しています。
 なお、鈴木純一郎についてはまたあらためて述べることにしますが、公私両面で房太郎と親しくつき合い、房太郎の有力な後援者でした。
 そうした支援のひとつに、鈴木が『実用英和商業会話』の刊行にも関わっていた事実があります。『房太郎日記』の一八九七年二月一八日の項に、次のように記されているのです。

 此日午后、鈴木君ヲ其宅に訪ヒ翻訳物残部ヲ渡セリ。帰途沢田氏ヲ訪フアラズ。
 鈴木君ト会話ニ就テ談リタル内ニ我云ヘリ。「今日ノ会話篇ノ欠クル所ハ問答体ニ整然区別セザルニアリ。故ニ主客ノ二者を別チ、主者ノ問及答、客者ノ問及答と明示シ之ヲ交措置クヲ宜シトス。西洋ノ演劇ノ脚本風ニ造ルヲ宜シトス」ト。
 従フテ思フ。一個の友人渡米ノ行ニ登ルト仮定シ彼カ為ス所ノ各種ノ会話即チ汽船会社、船中旅客、料理ヨリ小間物店ノ会話ヲ列記セバ如何。

 今の英会話のテキストなら、ごく普通にみられる対話形式の構成を房太郎は思いついたのでした。その着想を生かして出版されたのが『実用英和商業英会話』でした。なお、同書の英文タイトルは、Practical Business Conversationです。一八九八(明治三一)年一月一六日に刊行されたこの本は、来日した米人夫妻と日本の商人との対話の形をとっています。『日記』では、渡米する若者を読者対象と考えていたのですが、最終的には日本を舞台に外国人と接する機会がある日本人商人を念頭に、全一七章、全体がドラマ仕立てで構成されています*3。幸い、国立国会図書館の《近代デジタルライブラリー》で、『実用英和商業英会話』の全文を読むことが出来ます。ここで、房太郎の英会話の実力のほどを直接お確かめになってください。検索キーワードに「高野房太郎」と入れれば出てきます。







【注】


*1 帝国大学文科大学を卒業し、大学院で学ぶかたわら東京専門学校や東京師範学校の講師をしていた夏目漱石は、愛媛県尋常中学校の教師になる直前の一八九五(明治二八)年初め、横浜の英字新聞『ジャパン・メール』の記者を志望し、不採用となっている。この事実は『アドヴァタイザー』記者の社会的地位が決して低いものではなかったことを示している。

*2 この頃、大倉書店が刊行した辞書類には、次のようなものがある。

 なお、片山潜も『実践英文法会話』を大倉書店から刊行している。房太郎の会話本が出た半年後の刊行である。

*3 参考までに『實用英和商業会話』の目次を掲げておきます。なお、末尾の数字はページ数です。
第 一章 家屋借入ニ就テ 五
第 二章 家屋店ニ於テ 一二
第 三章 呉服店ニ於テ 三〇
第 四章 理髪店ニ於テ 四〇
第 五章 衣類注文ニ就テ 四六
第 六章 陶器店ニ於テ 五六
第 七章 人力車賃取極ニ就テ 六八
第 八章 旅行ニ於テ 七〇
第 九章 日本郵船会社ニテ 七八
第一〇章 銀行ニ就テ 八三
第一一章 旅店ニ於テ 九二
第一二章 雑貨店ニ於テ 一〇五
第一三章 新聞社ニテ 一一四
第一四章 通訳者雇入ニ就テ 一一六
第一五章 撮影所ニ於テ 一二六
第一六章 晩餐ニ就テ 一三四
第一七章 製靴店ニ於テ 一六一





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