すでに紹介した『高野房太郎日記』の抜き書きを、もう一度見ることから始めましょう。一八九七(明治三〇)年三月、高野房太郎と佐久間貞一の出会いに関わる箇所です。主要部分はほとんど重複していますが、読みやすさ分かりやすさを優先させることにします。
三月六日(土)
「午后学士会ニ至ル。金井博士、佐久間貞一君ノアルアリ。佐久間君ノ労働ノ談甚タ面白カリシ。」
三月一〇日(水)
「此夜佐久間貞一氏ニ出状シ、十二日ニ面会ヲ求ム。」
三月一二日(金)
「午前九時佐久間貞一君ヲ訪フ。談一時余、去リテ城氏ヲ訪フ。午后五時帰宅ス。」
房太郎と佐久間貞一との最初の顔合わせは、一八九七(明治三〇)年三月六日、学士会事務所で開かれた社会政策学会の席上でした。この日は、岩三郎の指導教授・金井延とも初対面だったと思われます。しかし、金井延については会合に出席していた事実を記しただけでしたが、佐久間貞一に関しては「佐久間君ノ労働ノ談甚タ面白カリシ」と、例によってごく短い文章ながら、好感をいだいた様子がうかがえます。
佐久間の話にすっかり感服した房太郎は、それから僅か四日後の三月一〇日夜、今度は個人的に会って欲しいと手紙を出しています。それも、なんと実質一日半後の一二日にと、日にちまで指定してのせっかちな依頼でした。その願いは快く認められ、房太郎は、同日朝、佐久間邸を訪れ一時間以上も話し合っています。この二度の出会いで、房太郎は佐久間にすっかり親近感を抱いたもののようです。それから僅か二日後のしかも夜中に、今度は約束もなしに、田島錦治とともに佐久間邸を訪ねています。もっとも留守で会うことは出来なかったのですが。
三月一四日(日)
「此日午前九時学士会館事務所ニ至リ、小野塚、矢ハギ、田島、岩三郎ト共ニ鐘ヶ淵紡績会社ニ 至ル。橋爪君来リ、技手大谷幸吉君ノ案内ニ依リ工場ヲ見ル(見聞所感ハ別ニ記ス)。正午寄宿舎仕出シ職工用弁当(代二銭)を食ス。后三時仝所ヲ去リ千住製戎所ヲ見ル。帰路上野鳥又ニテ晩餐シ橋爪君ト別レ田島君ト同道シテ同氏ノ弓町ノ宅ニ至リ小話ノ後共ニ乗車シテ佐久間貞一君ヲ訪フ。アラズ帰宅ス。」
三月二二日(月)
「此夜佐久間貞一君ヨリ四月六日工業協会惣会席上ニテノ演説ヲ依頼シ来ル。直ニ承諾ノ旨ヲ申送ル。」
三月二九日(月)
「午前九時佐久間氏ヲ訪ヒ趣意書ノ印刷ヲ依頼シ他ニ用談ヲナシ十時半帰宅ス。后一時ヨリ城氏ヲ訪フ。アラズ、直ニ帰宅ス。」
四月六日(火)
「午后一時ヨリ錦輝館ニ至リ工業協会惣会ニ列ス。竹内常太郎君勤倹貯蓄ヲ弁シ、我レ米国ニ於ケル職工ノ勢力ヲ弁シ、田島錦治君産業組合ヲ論ズ。五時ヨリ宴席ニ移リ、后七時半仝所ヲ出デヽ大沢君ヲ訪フ、アラズ。直ニnqニ至ル。」
一方、佐久間貞一の側でも、房太郎の見識を高く評価したようです。二度目の出会いから一〇日後に、今度は佐久間から房太郎に宛てた手紙が届きました。佐久間が会長をつとめる東京工業協会総会の席上で講演するようにとの依頼でした。房太郎は喜んで、直ちに承諾の旨を書き送っています。
さらにその一週間後、房太郎はまたもや佐久間を訪ね「趣意書」の印刷を依頼し、この時も一時間半ほど話し込んでいます。ところで、この「趣意書」が、ほかならぬ日本最初の労働組合結成呼びかけの文書として有名な、あの「職工諸君に寄す」であったことは、ほぼ確実です。それについては、房太郎がゴンパーズに宛てて、四月六日の会合の模様を知らせた次の手紙をご覧ください*1。
一八九七年四月一五日
アメリカ労働総同盟会長
サミュエル・ゴンパーズ 様
拝啓
ようやく朗報をお知らせすることができます。今月六日、労働運動の宣伝を唯一の目的とするこの国初の公開集会を、職工義友会の主催によって、東京は神田の錦輝館で開いたのです。激しい雨にもかかわらず数百人の労働者が参会し、東京の大印刷会社の社主で労働運動の心からなる同情者・佐久間貞一氏、帝国大学学士・田島錦治氏、そして社会問題の研究家・竹内常太郎氏と私が演説しました。
佐久間氏がまず口火をきり、労働者状態の改善は国家的な必要事であることを主張し、さらに労働者が多数を占める聴衆にきわめて貴重な助言を与えられました。また田島氏は、労働者の福祉を増進する唯一の方法としての協同組合を、竹内氏は労働者が倹約の習慣をつけるべきことを説きました。私自身は、労働者の組織化こそが労働者の利益を増進する最善の手段であると提案し、アメリカの労働組合、とりわけアメリカ労働総同盟の計画についてふれ、かなりの時間をかけて労働組合の結成方法について説明しました。この集会がこの国の労働運動に大きく貢献したとまではいえませんが、将来の事業の基礎としては役立ったと思います。
この種の集会をくりかえし開催すれば、ついには日本の労働者の間に独立の精神を目覚めさせ、労働条件の改善へむけ一歩前進するだろうと確信しています。
「職工義友会」──この団体の主催で集会は開かれたのですが──これは何年か前に、サンフランシスコ在住の一二人ほどの日本人によって結成された会の生き残り四人からなる組織です。この生き残りとは仕立職人一人と靴工二人、それに私自身で、全員が労働組合主義の忠実な信奉者です。集会の際、私が書いたパンフレットを配布しましたが、そこには組織的活動の利益と組合結成の計画、および合衆国で普及している共済制度について詳しく述べています。これは日本で公刊されたこの種の文書の最初のものですから、その一冊を同封いたします。パンフレットに「A」の印をつけているのは貴総同盟とその支部の計画について述べている箇所であり、「B」の印は国際葉巻工組合が一八九四年までの一五年間に配分した巨額の金について述べている箇所です。そして「C]の印は共済制度の計画について述べている箇所です。
私たちは、これからも同様の集会を開くことを強く望んでおり、この目的達成のための資金集めに、いろいろ工夫を凝らしています。しかしあなたもよくご存知のように、これがなかなか容易なことではありません。一回の集会を開くには四〇円もの金がいるのですが、私たちだけでこれを負担するわけにはいかず、さりとて労働者から資金を募ることも不可能です。かといって、私たちは喜んで資金を寄付してくれる同情者を見つけることも出来ずにいます。集会開催を断念せざるをえない事態にならないことを願っています。〔後略〕
この手紙は、職工義友会を再建した人びとのことや、「職工諸君に寄す」の執筆者のこと、講演会を開くための経費をはじめ運動の財政面のことなど、これまで詳しい事実が知られていなかった問題について、注目すべき情報を提供しています。しかし、今はそのひとつひとつについて触れている余裕はないので、次回以降にまわしたいと思います。ここでは、四月六日の会合の性格が日記と手紙とでは大きく食い違っている点を、検討するにとどめます。
問題は、日記によればこの日の会合は「東京工業協会の総会」であり、房太郎は一弁士として出演したにすぎません。一方、ゴンパーズ宛の手紙によれば、この日の会合は「職工義友会主催」の「労働運動の宣伝を唯一の目的とする日本初の公開集会」だったということになります。これは、もちろん『日記』の記述が正しいと考える他ありません。実際、手紙によっても、四人の弁士のうち「労働運動の宣伝」と言いうる内容の演説をしているのは高野房太郎だけなのです。実際は佐久間貞一の依頼で出演しただけの東京工業総会の総会を、AFLに宛てては「職工義友会主催の労働運動宣伝の最初の会合」だったと事実と反する報告をしたのでした。ここにもちょっと房太郎の見栄坊ぶりがうかがえます。
もっとも、この日の会場で、日本史上初めて、労働者に対し労働組合の結成を呼びかけた文書『職工諸君に寄す』が配布されたことは確かな事実だと思われます。その意味で、この「東京工業協会総会」が、日本労働運動史の上で記念すべき会合となったことは明らかです。上の写真は、会場となった貸席・錦輝館の模様です。舞台の直前は平土間、後ろは椅子席になっています。この絵は(明治三〇)年三月六日、つまり房太郎が講演したちょうど一ヵ月前に、錦輝館でナイアガラの滝などを撮影した映画、当時の言葉で言えば「活動写真」を上映した様子を描いたものです*2。演説会の場合は、もちろん舞台の上に演壇を置いたに違いありません。
東京工業協会は、東京府下の工業関係の同業組合を結集した連合体でした。一八九一(明治二四)年に、当時、東京商業会議所議員、同工業部長だった佐久間貞一の提唱によって結成された団体です。工業関係の同業組合といっても、その頃のことですから、半数近い一一組合は大工、左官、石工など建築関係職人の組合、他は鋳物、鍛冶、諸車製造、印刷、製本等で、全体で二六組合が参加していました*3。同業組合、しかもその上部団体ともいうべき連合体ですから、その総会に出席した人びとは、主として経営者、あるいはそれに近い人びとだったと推測されます。もちろん、経営者とはいっても、親方職人や町工場の経営者ですから、自らも労働に従事する人びとであり、労働者に近い立場の人びとが少なくなかったと思われます。また、設立の中心人物だった佐久間貞一が、この団体の目的として〈労働者保護〉を強調し、職工の地位向上を主張していました*4から、労働組合の結成を呼びかける文書を配布したり、アメリカの労働組合運動の現状について説くことが、場違いに感ぜられることはなかったでしょう。しかし、この会合に集まった人びとが「労働者が多数を占める聴衆」であったとみるのは、やや無理があるように思われます。
このように、最初の出会いからすぐに、佐久間貞一は高野房太郎とその運動にとって有力な後援者の一人となりました。確かなことは分かりませんが、『職工諸君に寄す』は、佐久間の秀英舎が無償で印刷してくれたもののようです*5。そのような財政的な支援だけでなく、警察や役所との折衝が必要になった時、房太郎らはもっぱら佐久間に頼っています。佐久間貞一は秀英舎、大日本図書会社、東京板紙会社など有力企業の経営者であると同時に、東京市会議員、東京商業会議所議員など、その社会的地位からしてもっとも頼りになる人物だったのです*6。
*1 この手紙は『アメリカン・フェデレイショニスト』第四巻第四号、一八九七年六月号に掲載された。ただし、佐久間貞一について「東京の大印刷会社の社主で」と説明した箇所は、『アメリカン・フェデレイショニスト』誌では削除されている。
*2 『風俗画報』第一三八号、一八九七(明治三〇)年四月一〇日、東陽堂。
*3 東京工業協会については、その発起総会における佐久間の演説を記した「東京工業協会の設立にあたって」(矢作勝美編『佐久間貞一全集』所収)および、編者の矢作勝美による解説参照。なお参加した組合の職種別はつぎの通りである。大工、左官、石工、家根、建具、木具指物、経師、畳、ペンキ、瓦、煉瓦、鋳物、鍛冶、諸車製造、活版印刷、製本、木版、彫師、染物、足袋、菓子、塗師、煙草、造靴、皮、形付。
*4 東京工業協会の発起総会において、佐久間貞一は冒頭つぎのようにのべている。
諸君、現時職工の地位たるや誠に低し、之を高め併せて工業社会の利益と進歩とを謀ることは、我々職業者の社会に対する義務なるべし。今我が国職工社会の現状を見るに、教育なく道徳なく実に憫れむべき有様なり。之を今日に改良せざれば、職工其の人々の生活弥よ退却して、終には糊口だも出来ざるに至るべし。然る時は欧米に見る所の社会党、共産党の如きもの我が国に現出する火を観るよりも明らかなり。〔後略〕
矢作勝美編『佐久間貞一全集』六六ページ。
*5 日記には、『職工諸君に寄す』の製本代と見られる支出金の記載はあるが、印刷代についてはなんら記録がない。
*6 労働組合運動をすすめる際に、もっとも大きな妨げとなったのは、警察による干渉でした。そうした際に、房太郎がどれほど佐久間を頼りにしていたのかは、次に掲げるゴンパーズ宛て一八九七年九月三日付書簡が示しています。
七月三一日、私が『フェデレイショニスト』を入手したその日の夕刻、市内の牛込で集会が開かれました。この機会を利用して、私は四〇〇人の機械工からなる聴衆にこのアピールを読んで聞かせ、早急に機械工組合を結成して、アメリカを代表する労働運動の指導者たちの後に続くようにと、彼らに勧めました。この集会の結果、労働組合期成会は八〇人の機械工を会員に獲得しました。
この集会ではもうひとつの事件がありました。それは、三人の警官が秩序維持を名目に、実際はわれわれを監視するために、臨席したのです。こんなことは、政治的な集会以外には、かつてなかったことです。(この集会は政治的なものではなく、またこの国の労働運動は、すくなくとも今の段階では、なんらの政治的行動を必要としていません)。警察が、それでなくても限られている言論の自由を、さらに侵害しようと待ちかまえているところで、このアピールを読み上げることが出来たのは大きな喜びでした。そして私は、言論の自由への抑圧に抗議した箇所をとくに強調したことは申すまでもありません。
この手紙と一緒に私の第二回の通信を送りますが、同時に佐久間氏の写真も同封いたします。貴誌にこの写真が掲載されれば、同氏の良き行いを励ますことになると考えますので、ぜひ掲載くださるようお願いします。彼は、今のところ、警察がわれわれの活動に干渉しはじめた時に、なんらかの実質的な援助を期待できる唯一の人物なのです。
そのほか、翌一八九八年春に期成会の「大運動会」が警察の禁止命令を受けた際には、房太郎は直ちに佐久間貞一に知らせ、佐久間は警視庁を訪問して、命令撤回を働きかけてくれたのでした。この問題については、またあらためて触れることになるでしょう。