演説会についで期成会の主要な活動手段となったのは出版物の刊行でした。活字を介して労働組合運動の宣伝・啓蒙活動をおこなったのです。房太郎らはすでに職工義友会時代にも『職工諸君に寄す』を出していましたが、期成会ではこれに加えて『労働者の心得』と題する印刷物を出しています。定価金三銭ですから、これも『職工諸君に寄す』と同様なパンフレットだったと思われます。おそらく『職工諸君に寄す』が労働者に向けた文書としてはやや難解だったことから、労働者向けにより分かりやすいパンフレットを出す必要があると考えたものでしょう。ただ、残念なことに『職工諸君に寄す』と同様、これも現物は残っていません*1。しかし、刊行されたことは確かで、『労働世界』創刊号に広告が掲載されています。右上の写真がそれです。
この『労働者の心得』は、『職工諸君に寄す』に比べ、従来あまり注目されて来ませんでした。ただ片山潜が『自伝』で次のように述べているので知られていた程度でした。すでに第六四回でも引用した箇所ですが、もう一度見ておきましょう。
近世日本に於て労働問題の声を揚げた者は、皆米国帰りの三人、即ち高野房太郎(高野岩三郎博士の兄)、沢田半之助(銀座の洋服店)、及城常太郎(靴工?)で、此等の尻押しをした者は鈴木純一郎と云ふ男であつた。始めて此の三人が『労働者の心得』なる小冊子を発行して、其の第一着の運動としては神田の青年会館で労働問題演説会を開いた。その演説会には予も頼まれて演説をした。此の初めての労働問題演説会は明治卅年の真夏の事であつた。
片山は、彼が出演した最初の労働問題演説会の時、つまり一八九七(明治三〇)年六月二五日に、すでに『労働者の心得』が刊行されていたかのように記していますが、これは『職工諸君に寄す』と混同したものと思われます。『労働者の心得』は「労働組合期成会」の名で発行した文書で、同会が発足した同年7月より前に刊行されている筈はないからです。したがって「此の三人が『労働者の心得』なる小冊子を発行して」という証言も、あまり信頼できるものではないでしょう。
実は『労働者の心得』の著者については、片山潜・西川光二郎著『日本の労働運動』に、これとは違う事実が記されています。すなわち、同書は、その一節をさいて「直接間接に労働運動に貢献する所ありし重なる著書」二〇冊を挙げているのですが、そのなかに『労働者の心得』があり、そこでは「鈴木純一郎著」と著者の名を単独で記しているのです*2。『日本の労働運動』が執筆された時点では『労働者の心得』の現物があったことは確実ですから、パンフレットの「まえがき」か奥付に、筆者として鈴木の名が記されていたものと推測されます。ただここでの疑問は、こうした本を、この時期に、鈴木純一郎が単独で書いたであろうかということです。この疑問は、房太郎『日記』を仔細に見ることで解消します。まず、関連箇所を抜き書きしておきましょう。
七月一一日(日)
此日午后五時半ヨリ鈴木君ヲ訪ヒ、職工組合論ヲ渡ス。相伴フテ沢田氏方ニ至リ、十一時帰宅ス。
七月一三日(火)
午前九時鈴木氏ヲ訪ヒ、后十二時半仝道して沢田氏方ニ来ル。秀英舎ヲ訪フテ印刷物ノ依頼ヲ為シ、沢田氏方ニテ晩餐シ、后九時帰宅ス。
七月一五日(木)
午后沢田氏方ニ至リ、秀英舎印刷物ノ校正ヲ為シ、出版届ヲ出シ〔後略〕
この『日記』抜き書きで、注目する必要があるのは、七月一一日に房太郎が鈴木へ「職工組合論」を渡していることです。一方、『労働者の心得』の第三章が「職工組合」であったことは、同書の広告から分かっています。おそらく房太郎が渡した「職工組合論」こそ、『労働者の心得』の第三章の元原稿だったと思われます。つまり『労働者の心得』の一部を高野房太郎が書いていることは、まず確実だと思われます。おそらく他の2章は鈴木が書き、第三章の房太郎の原稿に手を入れるなどして原案を作成したのではないでしょうか。二日後の七月一三日、房太郎は鈴木を訪れ、さらに二人で、期成会が発足時に事務所としていた沢田宅に赴き、そこで原稿をチェックして最終稿に仕上げた上で秀英舎へ持参し、入稿したものでしょう。小冊子ですからすぐ組みあがり、一五日に出張校正をして刷り上げ、見本刷りを持参して出版届けを出したものと推測されます。つまり、『労働者の心得』は実質的には鈴木純一郎と高野房太郎が執筆し、沢田も検討作業に加わって完成させたものと考えらてよいでしょう。いずれにせよ、発行されたのが一八九七年七月であることは、後掲の『出版物控』から明らかです。
鈴木純一郎は東京工業学校講師であると同時に、『帝国軍人文鑑』と題する軍人向けの文章読本を編纂したり、『国民要意 内地雑居心得』や『日清韓対戦実記』など一般読者向けの本を出している著作家でした。そこで、房太郎の文章は労働者向けには堅すぎると考え、分かりやすく書き直す役割を鈴木が引き受けたものと思われます。また、鈴木は東京工業学校で「工業経済」を講じていましたが、その講義には「職工論」と題する一項があり、「工業上ニ於ケル職工ノ地位」「女性職工」「幼童職工」「職工同盟」「同盟罷工」「職工ノ状態ノ変遷」などが論じられたことが分かっています*3。当然、『労働者の心得』をまとめる力量もあったに違いありません。
実は『労働者の心得』の刊行については、労働組合期成会の『出版物控』にも記録が残されています。それによれば、明治三〇(一八九七)年七月一七日に秀英舎から二〇〇〇部を受領し、その代金として二一円二〇銭を支払っています。そして七月一八日の演説会場で一五〇部を売り捌き、さらに松田市太郎一〇部、村松民太郎二〇部といった工合に、会員がまとめて買い求めています。
「労働文庫第一編」となっているところを見ると、第二編以下の出版計画があったことが分かります。また『出版物控』には、一八九七年七月一八日付で一〇部の寄贈が記録されており、その注記には「文庫編纂者鈴木・片山君に寄贈」とあります。この記録から、鈴木とともに片山が《労働文庫》シリーズの編纂者であったことが分かります。ただし、実際には第1編しか出なかったようです*4。
その代わりとして刊行されたのが《社会叢書》第1巻と銘打った横山源之助『内地雑居後の日本 附日本の労働運動』でした。この《社会叢書》の第六巻として高野房太郎『日本の労働運動』の刊行が予告されていましたが、これも未刊に終わりました。おそらく、片山潜・西川光二郎合著『日本の労働運動』は、この企画を引き継ぐかたちで刊行されたものでしょう。
労働組合期成会の出版活動として最も重要なものは、言うまでもなく『労働世界』です。労働組合期成会の機関紙的存在として一八九七(明治三〇)年一二月一日に創刊された同紙については、語るべきことが多く、いずれ回をあらためて述べざるをえません。
*1 大原社会問題研究所が戦前期の一九二九(昭和四)年に刊行した『日本社会主義文献 第一輯』(同人社書店)に『労働者の心得』が採録されている。しかし、内容は『労働世界』の広告とまったく同一で、この時期、原本はすでに失われていたと見られる。
なお、確証はないが、あるいは『労働者の心得』の一部であったかもしれないと思われる文章が、横山源之助の『内地雑居後の日本』のなかに記録されている。「労働組合期成会の設立旨趣」として引用されている一文がそれである(立花雄一編『横山源之助全集』第2巻、二〇〇一年、社会思想社、三九七〜三九八ページ)。
*2 片山潜・西川光二郎合著『日本の労働運動』(労働新聞社、一九〇一年)一八七ページ。国会図書館サイト内の《近代デジタルライブラリー》で同書の該当ページを見ることができる。「労働文庫第一篇 労働者の心得(鈴木純一郎著)」三十年発行」と記されている。
*3 『東京工業学校一覧 従明治廿九年 至明治三十年』も《近代デジタルライブラリー》に『東京高等工業学校一覧』[第五冊]として収録されている。該当ページはつぎのとおり。『東京工業学校一覧 従明治廿九年 至明治三十年』三五ページ。
*4 『労働世界』第1号(一八九七年一二月1日)の英文欄には、労働組合期成会の刊行物として『労働者の心得』とともに片山潜の著書『労働者之良友