一八九七(明治三〇)年一二月一日、労働組合期成会の機関紙『労働世界』が創刊されました。もともと機関紙の刊行は創立当初から計画され、規約にも「本会は毎月一回以上雑誌を発行し之を会員に頒布す」と明記されていたところでした。しかし、七月段階ではまだその準備はできておらず、発起会からほぼ二ヵ月後の九月四日、第二回月次会で「新聞発行調査委員」を選び、ようやく具体化にむけて第一歩を踏み出したのでした。房太郎をふくむ「新聞発行調査委員会」は同月一二日に会合を開き、以下のような具体策を決め、一〇月一〇日の第三回月次会で確認したのでした*1。
「 雑誌社の事業
一 毎月弐回雑誌を発行する事
一 其発行所は東京市郡部に設くる事。
雑誌社の組織
一 社員は凡て期成会々員たらざるべからずと雖も、其経済及び業務執行に就ては期成会とは直接の関係を有せざる事。
一 退会せる会員の持分は期成会又は同会指名の会員に渡す事。
雑誌社の資金
一 持分一口を五拾銭宛とし五百口弐百五十円を募る事。
一 持分所有者は社員たる事。
一 募集せる資金(創業費を除き)に対しては社員中より選挙せる委員及期成会連帯を以て其確実を保證する事。
資金の費定
一 金百七十五円 政府へ保證金
一 金七十五円 創業費
〔中略〕
雑誌社の業務執行
一 社員中より選挙せる委員十五名及期成会幹事五名を以て業務を分担処理せしむ。
一 編輯事務は期成会幹事より二名委員中より二名を選挙して之を掌らしむ。
一 編輯事務は編集事務員協議会の決定せる方針に基き之を行ふものとす。若し方針以外の事件発生したるときには特に協議会を開き之を決定す。
〔後略〕」
この計画で注目されるのは、「社員は
刊行準備は順調にすすんだようで、一一月八日付のゴンパーズ宛ての手紙で、房太郎は次のように伝えています*2。
期成会の会員は、今では一一〇〇人を少し上回る数となり、われわれの展望は日に日に明るくなっています。期成会は、その日常活動のほかに、一ヵ月以内に隔週刊行の『労働世界』と題する新聞を発行することにしています。昨夜の会合で、企画の細部と資金募集計画を決定しました。ですから、今年中には、日本でも労働新聞を読むことができます。
この手紙から一ヵ月も経たない一二月一日、ついに『労働世界』が創刊されました。発行所である労働新聞社の所在地は東京府下北豊島郡滝野川村元田端一六三番地、印刷所は東京市市ヶ谷加賀町一丁目一二番地の秀英舎第一工場でした。ちなみに、と言っても本題とはまったく無関係かつ無意味な事実ですが、発行所の住所は私が小学校一年から五年まで通った滝野川第一小学校から、ほど近い場所です。山手線の内側に、まだ東京市外の郡部の村があったとは、まさに隔世の感があります。
『労働世界』は、復刻版がサイズを縮小して刊行されたことなどから、しばしば「雑誌」と間違えられていますが、実際はタブロイド判の新聞でした。創刊号だけは一二ページ建てでしたが、以後は毎号一〇ページ建て、毎月五日と一五日の月二回刊でした*3。定価は一部二銭、ただし送料(郵税)として五厘が加えられました。半年分だと二六銭で、こちらは送料込みでした。発行部数は創刊当初は一五〇〇部程度だったと推測されます。
創刊号は冒頭に掲げた写真のように二色刷りで、一面上部には三好退蔵・前大審院長(現在の最高裁判所長官にあたる)の「労働世界の発刊を祝す」、衆議院の副議長で毎日新聞社社長でもある島田三郎の祝辞依頼に対する返信、それに鈴木純一郎の「労働世界の発行を祝す」を掲げ、下半分を
このように『労働世界』創刊号の執筆陣には、三好、島田と司法府、立法府の大物をはじめ数多くの知識人が顔を揃えたわけで、有識者の支援を重視していた房太郎は、さぞ喜んだことでしょう。実は三好退蔵は、期成会がしばしば会場としてきた神田青年会館の所有者である東京基督教青年会の初代理事長でした。松村介石、安部磯雄、チャールス・ガルストらのクリスチャンとともに、キリスト教界における片山潜の人脈を通じて依頼した筆者でしょう。なお、島田三郎もクリスチャンですが、これは片山の繋がりではなく、かねてから期成会の有力後援者であった佐久間貞一の紹介によるものでした。二人は青年時代からの親しい友人同士だったのです。
なお最終ページは全面が英文欄で、片山が執筆したとおぼしき『労働世界』の立場を述べた社説のほか、チャールス・ガルストと帝国大学教授E・フォックスウエルの祝辞が掲載されています。たった一ページにせよ英文欄を設けたことは、房太郎がアメリカの労働組合機関紙に送った英文通信とともに、日本の労働運動を国際的に認知させる上で大きな役割を果たしました。労働組合期成会が日本の社会運動に残した遺産はいくつかありますが、なかでも『労働世界』が社会運動機関紙の原型をつくったことは、注目されます。とくに英文欄を設けることは、明治期の多くの社会主義運動機関紙の先例をなすものでした。
『労働世界』を担ったのは、編集長(主筆とも呼ばれている)片山潜、会計部長村松民太郎、庶務部長掛川元明らでした*4。ただ、村松は東京砲兵工廠の助役、掛川元明は秀英舎監事と、それぞれ忙しい本業をもっていましたから、おそらく会計や庶務の実務は別に雇われた専任者が担当し、彼らは監督的な立場だったものと思われます。
なお復刻版『労働世界』の解題で、隅谷三喜男氏は「労働新聞社の事務所は東京府下北豊島郡滝野川村元田端百六十三番地におかれ十雨亭篠崎五風が事務をとった」と解説しています。しかし私は、『労働世界』の編集が田端で行われていたわけではなかろうと考えています。執筆陣の構成などから推して、片山潜が名実ともに『労働世界』の編集長だったことはまず間違いのないところです。しかし、キングスレー館の館長でもあった片山が、編集作業のためにわざわざ田端まで出かけて行ったとは、とても考えられません。たしかに新聞の奥付に記されている「発行兼編輯人」は篠崎伊與亮(篠崎五風)であり、「発行所」は篠崎の住所である東京府北豊島郡滝野川村元田端一六三番地の「労働新聞社」となっています。しかし、これはあくまでも形式的な「発行所」であり、名義だけの「編輯発行人」に過ぎなかったと推測されます*5。
実は当時、新聞を発行するには、管轄の地方官庁に一定額の保証金を納めることが、新聞紙条例によって義務づけられていました。その金額は発行所の所在地が東京市外であれば市内の二分の一で済んだため、一般に社会運動機関紙の発行所は市外に置かれるのが通例でした。おそらく篠崎伊與亮(篠崎五風)は、「編輯発行人」として名前を貸しただけの存在だったのでしょう。そして実際の編集発行事務は、主筆片山潜を中心に、彼の住居であり「労働世界発売所」ともなっている神田区三崎町のキングスレー館でおこなっていたものと思われます。
片山の右腕となって初期の『労働世界』を支えたのは後に『東洋経済新報』の第三代主幹となる植松考昭でした*6。一八九八(明治三一)年一〇月一五日付の第二二号からは、奥付に記す発行所も、片山潜の住まいである東京神田区三崎町三丁目一番地に変わり、発行兼編輯人も片山潜になっています*7。保証金をどう工面したのか、あるいは無断で変えたのかよく分かりませんが。
なお、高野房太郎は期成会幹事長ではありましたが、『労働世界』に対する影響力はあまりなかったようです。いずれ改めてふれることになる問題ですが、『労働世界』は一八九九(明治三二)年一月から「社会主義」欄を設け、社会主義支持の立場をしだいに鮮明にして行きます。こうした『労働世界』の動向は、かねてから「社会主義反対」の立場をとってきた房太郎にとって、心穏やかならぬところがあったに違いありません。
こうした事態を招いたのは『労働世界』がその創刊時から、労働組合期成会機関紙とはいっても、会として刊行せず、労働新聞社という別組織によって発行する新聞の形をとったことに起因するものでした。もちろん、期成会機関紙としての性格を保持するため、「社員中より選挙せる委員十五名及期成会幹事五名を以て業務を分担処理せしむ」こと、さらに「編輯事務は期成会幹事より二名委員中より二名を選挙して之を掌らしむ」ことが定められていました。しかし、月二回の新聞刊行となれば、それに専任する者の発言力が強まることは当然でした。
期成会の会務に加え、新たに創立された鉄工組合の活動に追われていた房太郎が、『労働世界』の編集に、あまり時間をさき得なかったことも確かです。とすれば、仮に期成会が直接編集刊行する形をとったとしても、房太郎が『労働世界』の紙面の細部にわたってコントロールすることは困難だったに違いありません。
いずれにせよ、『労働世界』創刊以降、機関紙編集の実権をにぎった片山潜の影響力がしだいに増大し、その分房太郎の影響力が低下して行くのも、また避けがたいところだったでしょう。
*1 この「雑誌発行調査委員会の報告」の全文は、片山・西川『日本の労働運動』の第三編第一章第一節に掲載されている。近代デジタルライブラリーの当該ページ参照。
なお、房太郎日記九月四日の項に「午前九時柳やニ至リ新聞発行調査委員会を開キ」とある。当然のことながら、高野房太郎も「新聞発行調査委員」の一人だったのである。
なお『労働世界』を「雑誌」とするか「新聞」とするかについては、当初あまり詰めた議論をせされずにいたようで、規約ではこれを「雑誌」としている。ただ実際に刊行されたのはタブロイド判の新聞であった。
また、「労働組合期成会成立及び発達の歴史」は、次のように記している。
一八九七(明治三〇)年一〇月一〇日 第三回月次会を開き新聞資金募集のことを決す。
*2 高野房太郎著『明治日本労働通信』(岩波文庫)六一ページ。
*3 発行回数は、一九〇〇(明治三三)年六月の第六二号からはいったん月一回と半減した。しかし半年後の一九〇一(明治三四)年一月、第六九号からふたたび月二回刊となり、さらに同年六月第八〇号から一日、一一日、二一日の月三回刊となっている。
なお『労働世界』紙は一九〇一年末の第一〇〇号を最後に終刊し、一九〇二(明治三五)年一月から日刊の新聞紙『内外新報』として再出発した。同紙はまったく残っていないので、その内容などはわからないが、僅か二ヵ月で廃刊に追い込まれた。しかし片山は、その後は雑誌形式で『労働世界』を復刊、さらに『社会主義』、『渡米雑誌』と名を変え、一九〇八(明治四一)年まで発行を続けている。
*4 片山潜・西川光二郎片山・西川『日本の労働運動』の第三編第一章第一節につぎのように記されている。
斯くして第一号生れし後、編輯部長には片山潜氏、会計部長には村松民太郎氏、庶務部長には掛川元明氏なり。〔中略〕発刊以来主筆は依然片山氏にして、画家は三田村鶴吉氏及相木鶴吉氏、彫刻師は原栄吉にして何れも職工なり。重なる寄書家は、安部磯雄氏、杉山重義氏、村井知至氏、横山源之助氏、植松考昭氏(平民城)、幸徳傳二郎氏、河上清氏、西川光二郎氏、石田六次郎氏、高松豊次郎氏等なり。
*5 篠崎が同番地に住んでいたことは、『労働世界』第一号第一〇面に、つぎのような広告が掲載されていることから判明する。
卜居
東京府下北豊島郡滝の川村元田端労働新聞内
號十雨亭 篠 崎 五 風
また、同じページの「文苑」欄に俳句が一二句掲載されているが、うち一句は五風の作で「一雨にをちくつ背戸の木の葉哉」とある。その後も数号に、五風名で俳句が掲載されているが、篠崎の名で記された論説などは見当たらない。
*6 片山潜『自伝』はつぎのように述べている。
当時『労働世界』の編輯を助けて呉れてゐた一人は予が帰国後直ちに知己となった植松考昭君であつた。植松君は早稲田専門の政治科出身で杉田金之助の縁者杉田券太郎が植松君の同級生であつた為めに予は知り合ひになつた。〔中略〕植松君が日鉄のストライキの所謂上京委員を訪問して石田に面会し労働問題に関する記事を書いたことがあつて。同君は一時大に『労働世界』の編輯を援けて呉れたが未だ経済上の報酬をする事が出来なかつたから間もなく鈴木純一郎の紹介で貿易商会に雇はれたが、後に天野為之博士の東洋経済に入つて此処で其の健筆を振ひ『東洋経済新報』今日の基礎を樹立した人だ。
*7 『労働世界』第二三号の社告は次のように記している。
社告 篠崎伊與亮
右は自今当社に関係無之候間此段急告に及ひ置候也
神田区三崎町三丁目一番地 労働新聞社