房太郎が世を去った時、遺された妻キクはいまだ二二歳の若さでした。独り身を通すには前途にあまりにも長い日々が残されていたのです。間もなく高野家の戸籍からキクの名は抹消され、届出事項欄には以下のような記述が書き加えられました*1。
明治参拾八年拾壱月弐拾弐日日本橋区呉服町壱番地平民横溝龍太郎方へ入家届出。同日日本橋区戸籍吏大庭知栄受付。仝年拾弐月弐日届書及入籍通知書発送。仝月四日受付除籍
要するに、房太郎が亡くなって一年半ほど後に、キクは実家の横溝家に戻る形をとって高野家を離れたのでした。こうした事態がなぜおきたのか、その実情は外部からは容易にうかがい知ることが出来ないものです。ただ幸いなことに、関口正俊氏がいろいろ調べた上で、情報労連の機関誌に発表された「その後の房太郎 ── 二人の子供を残して高野家を去った妻・菊の人知れぬ後日談」があります*2。この話をふくめ、房太郎についてしばしば触れられた関口氏のコラム《労働組合の社会学》は、以前はオンラインでも読むことが出来たのですが、今は残念ながら消えているようです。そこで、以下にこの「後日談」の主要部分を紹介して置きましょう。
房太郎の死後には人知れぬ後日談がある。彼の死によって妻菊(二三歳)と、みよ(五歳)、ふみ(一歳)の二人の女の子が残されることになる。
しばらくは、房太郎の母や兄の世話になるが、やがて中国語ができたためか、菊は永田町にあった支那公使館に職を求める。
そこで当時の支那公使李淑微に見染められ交際が始まる。菊は写真で見ると顔立ちも良く、小柄でいわゆる男好きのするタイプである。秩父の産で横溝菊が旧姓名だ。
房太郎の母は長崎産まれの厳格な江戸時代の商家の娘であったから、こうしたことを許すことができなかったのであろう、まもなく高野家から除籍している。
二人の子供を残し高野家を去った菊は、やがて李淑微がベルギー大使に就任したのに同行しブリュッセルに渡る。
一九〇七年(明治四〇)一〇月八日、この地で菊は少微を産む。岩三郎日記によれば、明治四二年ドイツに留学していた高野岩三郎はここで菊と会っている。おそらく前年に亡くなった二女ふみのことなどを報告したのであろう。〔中略〕
菊は翌年には夫の転勤に伴い帰国し、家族で天津に住むが、菊の実父の世話をするという理由で帰朝し、芝・金杉町に住む。
どんな仕事をしていたかは定かではないが、芝・金杉町は当時東京三窟に数えられた貧民街。父の看病を伴う生活は想像に難くない。岩三郎の援助もあったという。
一九一二年(大正元)、李淑微は袁世凱の密使として訪日した折、菊に面会し少微のためにも帰国するよう求めたが、菊は同行を断った。やがて元号も代わった一九一四年(大正三)、菊は失意のうちに息を引き取った。享年三三歳。遺骨は岩三郎の配慮で房太郎と同じ墓に納骨された。
なお、キクのその後については大島清氏も心にかけ、一九八〇年三月一四日に岩三郎の長女・宇野マリア氏から「聞き取り」をされています。その折、大島氏が作成した「談話メモ」*3が残っていますが、その回想にあるキクの姿は、関口氏の調査結果とはいくつかの点で異なっています。マリアの話は、幼い頃の聞き覚えもまじり、細部の信憑性には疑問もあります。ただ、キクに関する記録はほとんどないので、この機会に紹介しておこうと思います。
キクは日本橋の米屋の娘で、京橋の料亭菊屋で働いていた。房太郎の死後、キクは中国領事館の領事次官と仲良くなって、パリへ行った。キクはその愛人に捨てられて日本に帰り、本郷神明町の家に来たことがある。宝石を沢山もっていた。おばあさんは金を貰い、美代やマリアに矢がすりの銘仙を買ってくれた。その人は家に二、三泊して日本橋の実家へ帰って行った。
マリアが小学校五年か六年のころ、美代さんと二人で大磯へその人を訪ねたことがある。死んだのはその翌年くらいです。生前から、父の岩三郎に房太郎の墓へ埋めて欲しいと頼んでいましたが、お祖母さんが反対し、結局墓前の石の下に埋めた。あとで美代さんが、それを房太郎の墓に移した。
キクが亡くなったのは一九一四(大正三)年一月二二日のことでした。夫の死からちょうど一〇年後のこと、享年三三歳、満年齢では三二歳と二ヵ月余、房太郎よりさらに薄命でした。マリアの談話にもあるように、キクは高野家の墓に入ることを望んでいたのですが、房太郎の母マスは、これを拒み通しました。後家を通して高野家を支え続けたマスにとって、貞節を守らなかった嫁を高野家の墓にいれることなど、心情的に許せなかったに相違ありません。しかし後年、美代の切なる願いをうけ、岩三郎は、房太郎の隣にキクの遺骨を納めました。おそらく地下の房太郎もこれを喜んだのではないでしょうか。
房太郎・キクの次女・冨美(フミ)は、母に先立ち、一九〇八(明治四一)年一月五日に亡くなりました。一九〇三(明治三六)年一月一八日の生まれですから、間もなく五歳の誕生日を迎える直前の、可愛い盛りの死でした。
かくて長女の美代は、父を失い、母に去られ、妹とも死別するという、文字通り天涯孤独の身の上となったのでした。しかし美代は、高野家の一員として、マスや岩三郎の庇護のもとに育てられました。実をいうと、戸籍上では美代が房太郎の後を継ぎ、高野家の戸主となっているのです。もちろんマスが後見人となってのことですが。したがって、「高野みよ」を戸主とする戸籍の末尾に、親代わりの叔父・岩三郎の名が記され、岩三郎の結婚を美代が承認するという、形の上では逆転した時期さえあるのです。
こうして美代はなに不自由なく成長しました。祖母や叔父に手厚く保護され、岩三郎の子供たちと分け隔てなく、のびのびと育てられました。ちなみに美代は、神田猿楽町にあった「仏英和高等女学校」、いまの白百合学園で学んだのですが、そこで奇しくも片山潜の娘ヤスと一緒になったといいます。
娘盛りの美代は、櫛田民蔵ら、岩三郎のもとに集まる若手研究者の憧れの的だったようですが、岩三郎のはからいで、倉敷紡績の社員原田昌平と結ばれ、一男二女の母となり、幸福な生活を送りました。美代さんがもしご健在なら、誰よりこの『高野房太郎とその時代』の完結を喜んでくださったと思うのですが、一九六七(昭和四二)年五月五日に亡くなられました。
高野一家のなかでもっとも頑健だったのは母のマスです。三二歳で夫に先立たれてからは、宿屋や学生下宿を営なみ、女手ひとつで息子を育て、次男は帝国大学の大学院まで学ばせたのです。長男・房太郎からの仕送りがあったとはいえ、月一〇ドル、日本円にして二〇円程度では、暮らしをたてた上に息子を最高学府で学ばせるには、とうてい足りない額でした。それを「面倒見のよい下宿のおばさん」として働きつづけ、家計を支えたのです。息子が東大教授となってからも学生下宿を続けたほどですから、人の世話をするのが好きだったのでしょう。下宿生や息子の友人、さらには親類縁者からも慕われ頼られる存在だったようです*4。
ただ、そのマスを驚愕させる出来事がおきました。それは、高野家の希望の星である岩三郎が、留学中にドイツ人女性と結ばれ、子供まで生まれたことでした*5。若い男が三年も四年も海外で過ごすのですから、現地の女性と親しくなるのは、決して珍しいことではありません。しかし、結婚となると難問が多く、実際に結ばれた例は限られています。
おそらくマスも、この国際結婚に、すぐには同意しえなかったことでしょう。しかし、最終的には本人たちの意思を尊重し、バルバラ・カロリナを高野家の嫁として迎え入れることを承知したのでした。
この点では、はるばる日本まで来た少女に因果を含め、すぐに帰国させた鴎外・森林太郎の母とは決定的に違っています*6。マスの決断の背景には、すでに子供が生まれていたという事情もあるでしょうが、彼女が士族の娘ではなく、商人の娘、それも異国への窓であった長崎生まれ長崎育ちだったことがあったと思われます。
とはいえ、育った文化や生活習慣がまったく異なり、しかも互いに言葉が通じない嫁と姑が同じ家に暮らしたのですから、おそらくは、さまざまな軋轢が生じたことでしょう。しかし、岩三郎が間にたってとりなし、ふたりも互いに折れ合い、死ぬまで一緒に暮らしました。マスは、夫・仙吉や長男・房太郎がともに三〇代で夭折したのに対し、八九歳まで生き延びました。一〇〇歳人口が二万人を超える今ならそれほど珍しくはありませんが、当時としては異例の長寿です。亡くなったのは一九三六(昭和一一)年三月二六日のこと、大原社会問題研究所の所長として関西に移り住んだ岩三郎の家、兵庫県武庫郡魚崎町魚崎七二八番地で息をひきとりました。
姉・キワは、肥前唐津在、現在の佐賀県唐津市浜玉町平原の旧家井山家に嫁ぎました。夫となった憲太郎は、かつて長崎屋に下宿していた学生でした。医学を志し東大医学部に学んだのですが病に倒れ、郷里で小学校の訓導として働いていました。その傍ら村会議員となり、村人に柑橘栽培を勧め、玉島村農会長、郡園芸会長などを歴任し、この地方を蜜柑栽培の先進地としたのでした。病弱な夫が対外的な活動に専念する間、家業の農業は都会育ちのキワが守りました。作男、作女を監督しつつ、自らも農具を手に働き、村人から「とても東京から嫁に来た人とは思えない」と言わしめたほどでした。夫憲太郎は一九二二(大正一一)年三月一日に亡くなりましたが、キワは戦時下を生き抜き、一九五三(昭和二八)年九月一四日に逝去しました。一八六六年八月二七日(慶応二年七月一八日)の生まれですから享年八八歳、満八七歳でした。
最後にようやく弟・岩三郎を取り上げる番になりましたが、詳しく語れば、これだけで数回分にはなってしまうでしょう。ここは、回を改めて述べるほかありません。
*1 明治三九年七月二七日付で発行された高野家の戸籍謄本による。本籍地は、東京市本郷区駒込西片町十番地、戸主は高野みよ。
*2 『情報労連リポート』二〇〇一年四月号所収、「労働組合の社会学」第五三回。
*3 この「談話メモ」は大島清先生のご遺族から二村がいただいた資料のなかにあった。
*4 大内兵衞「社会政策学会と高野先生」(『かっぱの屁』(法政大学出版局、一九六一年刊、所収)二七〜三〇ページ。
*5 なぜか大島清著『高野岩三郎伝』(岩波書店、一九六八年)は、この岩三郎の結婚の経緯についてまったく触れていない。大島清氏が収集された書簡などから、このふたりが結ばれ、長女が生まれたのは、留学中であることが判明する。すなわち、マリアの誕生日は一九〇二年三月であり、岩三郎とカロリナが結ばれたのが一九〇一年中であることは明らかである。
なお、岩三郎は、留学を終えて一九〇三(明治三六)年四月に帰国した際、カロリナもマリアも同伴しなかったものと推測される。岩三郎帰朝記念撮影と思われる右の写真に、カロリナ、マリアが写っていないことが、これをうかがわせる。ちなみに、この写真で最前列にいる少女は高野美代である。二女ふみの出産時に青島に赴いたマスが、帰国時に美代を連れ帰り、日本で教育を受けさせようとしたものであろう。
なお、カロリナらが来日した時期であるが、日本で岩三郎とカロリナの婚姻届が出されたのは一九〇六(明治三九)年八月のことである。カロリナとマリアは、このころ来日したのではなかろうか。いずれにせよ、本文中に掲げたカロリナとマリアが写っている写真が撮影される前に来日していることは明瞭で、これは「一九〇九(明治四二)年ころの撮影」とされている(『高野岩三郎伝』一二五ページ参照)。
*6 高野岩三郎より一二年前、ドイツ留学を終えて帰国した森林太郎の跡を追う形で、現地で親しくなったドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日した。この女性こそ、鴎外の「永遠の恋人」であったこと、この女性との結婚には鴎外の母が激しく反対し、鴎外は一時は軍医の辞表を出してまでその意を貫こうとして果たさなかったこと、この体験が鴎外文学に色濃く陰をおとしていることなどについては、小平克『森鴎外論──「エリーゼ来日事件」の隠された真相──』(おうふう、二〇〇五年)および林尚孝『仮面の人・森鴎外──「エリーゼ来日」三日間の謎』(同時代社、二〇〇五年)を参照。また、最近開設された林尚孝論文集《森鴎外と舞姫事件研究》参照。