2004年4月3日、トム・スミスが亡くなりました。享年87歳でした。アメリカにおける日本研究、日本史研究の大家です。ただ知る人ぞ知るで、その業績にふさわしい名声を得ていたとは言えないように思います。スタンフォード大学とカリフォルニア大学バークレー校で長年教鞭をとり、すぐれた教師として敬愛され、その研究は高い評価を受けていました。しかし、研究と教育ひとすじで、名利を求めることのない方だったからでしょう。
トマス・カーライル・スミス(Thomas C. Smith)は、1916年11月29日の生まれ。第2次大戦中にコロラドの海軍日本語学校で学んだのを機に、フランス史研究から日本研究の道に入った、アメリカにおける日本研究の戦後第一世代です。日本研究ではトップレベルの業績をあげ、今なお海外の多くの大学の日本史や日本研究のクラスで、彼の著書や論文は必読文献に指定されています。日本でも専門研究者の間では、早くから注目されてきました。以下に示すように、彼の主著4冊のうち三冊までもが邦訳されています。また最後の書物は論文集ですが、その収録論文のうち4点が、雑誌論文の段階で日本語に翻訳されていました。こうした事実は、一部ではあれ日本でも早くからトム・スミスの業績を高く評価する人がいたことを示しています。
☆ 杉山和雄訳『明治維新と工業発展』(東京大学出版会、1971年)。
原題 Political Change and Industrial Development in Japan : Government Enterprise, 1868-1880,
Stanford University Press, 1955.
☆ 大塚久雄監訳『近代日本の農村的起源』(岩波書店、1970年)。
原題 The Agrarian Origins of Modern Japan, Stanford University Press, 1959.
☆ 大島真理夫訳『日本社会史における伝統と創造──工業化の内在的諸要因1750‐1920年』(ミネルヴァ書房、1995年。増補版 2002年。
原題 Native Sources of Japanese Industrialization, 1750-1920, University of California Press, 1989.
その研究分野は広く、徳川時代の農村社会史、農業経済史、あるいは歴史人口学、さらには労働史に及んでいます。国際比較的な視点からの鋭い着想にもとづき、通説をくつがえすような論点をとりあげ、緻密で説得的な実証を、磨き上げた美しい文体で展開しています。研究生活の長さにくらべ、作品の数は多いとはいえませんが、どの論稿も珠玉の輝きを放っています。ひとつの論稿を仕上げるのに、数年の時間をかけて考え抜き、文章を推敲し、論理を練り上げていました。もっとも、その研究経過を直接知っているのは「恩恵への権利」、「日本における農民の時間と工場の時間」、それに未定稿ながら大島真理夫氏の努力で公開された「日本の労働運動におけるイデオロギーとしての〈権利〉」など晩年の作品だけですが。
最晩年には、神戸川崎造船所の労使関係史、とりわけ1921年の労働争議について研究をすすめていました。厖大な史料を読みこなし、一節、一節と書き進めていたのですが、アルツハイマー病に妨げられて未完に終わってしまいました。トム・スミス本人はさぞかし無念だったと思いますが、私たちにとってもまことに残念なことでした。
私がトム・スミスと初めて会った日時はさだかではないのですが、1979年か1980年のことだったと思います。大原社会問題研究所がまだ法政大学市ヶ谷キャンパスにあった時期、それも新築の80年館に移る前で、大学院棟5階の研究所で、初対面の挨拶を交わしたことをはっきり記憶していますから。長身のトムが入ると、応接室兼用の狭い所長室はいっそう狭く感じられました。
トム・スミスは還暦を過ぎた頃から、「今のままでは同じ見解を長く繰り返すことになる」と研究分野の変更を決断し、それまで専攻してきた近世農村史から労働史に新たなテーマを求めていたのでした。私を訪ねて来られたのも、その準備のためでした。
トム・スミスと出会う数年前、私は最初の留学を体験していました。これまで書物だけで得てきた知識を、直接この目で確かめ、海外の研究者仲間と語り合ううちに、日本の労使関係が欧米のそれとは大きく異なる独特の個性をもっていることを痛感し、国際比較研究を始めたばかりの時期でした。私は、日本の労使関係の特質は、単なる資本主義化の遅れだけでは理解できないと考えるようになっていました。たとえば、欧米の労働運動で重要な役割を果たした職人層は、日本の労働運動では最初からきわめて弱体でした。なぜそうなったのだろうかといった問題を考え始めていたのです。こうした違いは、工業化以前における都市のありようの相違を考慮せずには理解できない。西欧の中世都市を支配していた「ギルド」と、武士の支配下にある城下町において上から組織された「職人仲間」との違いが大きな意味をもっているのではないか。そうした国際比較的な視点をもたなくては、日本の労使関係の個性は理解できないのではないか、そのように考えはじめていたのです。最初の出会いの時から、トム・スミスも、同じような関心から日本労働史に接近しようとしていることが分かったのでした。
その日を皮切りに、トムと私とは、以後20年余、手紙を交換し、論文の草稿にコメントし合い、さらにはさまざまな場所でさまざまな問題について直接対話することになりました。私の手許にいま残っている彼の手紙だけでも五十数通に達しています。とりわけ頻繁に意見を交わしたのは1884年8月から85年3月にかけてのことでした。トム・スミスやアーヴ・シャイナーの計らいで、私はカリフォルニア大学バークレー校東アジア研究所および日本研究センターの研究員として招かれたのです。私の「前任者」が丸山真男、大江健三郎らであると知って、いささか気がひける思いで、この招待を受けました。
大学院生らの論文執筆の相談にのるほかは何の義務もなく、ただキャンパス内の宿舎からベルタワーの隣にある日本研究センターの研究室に通って論文を執筆する日々は、まさに「我が生涯最良の時」でした。この機会を与えられたおかげで、私は『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』をまとめあげることが出来たのでした。その7ヵ月余、トムと私は毎週定期的に昼の食事をともにしながら、さまざまな問題について語り合いました。労働史をめぐる問題だけでなく、ちょうど大統領選挙の年だったこともありレーガン・モンデールの「大討論」など、さまざまな話題について楽しい対話で飽くことがありませんでした。
トム・スミスはたいへん謙虚な人柄で、日本労働史をめぐる話題では、いつも私に教えを乞うという姿勢をとり続けました。そのため、われわれの対話は、形の上では、彼が質問を投げかけ、私はそれに答えるものが多くなりました。しかし、彼がなげかける疑問は、それまで日本人の誰もが気づかずにいた欧米と日本との違いの根拠を問うものがあり、その点では、常に私が教えられていました。言うまでもなく、研究を進める上で決定的に重要なのは、何を解くべき課題とするかにあります。史料の所在について、あるいは史料の読みについてであれば、私が助けた点もあるとは思います。また、彼自身の疑問とその解答のなかに、私との対話のなかで芽生えたものも、いくらかはあるでしょう。しかし、仮に最終的なバランスシートをとってみれば、私がトム・スミスに負うところの方が大きいと思います。トムから絶えず投げかけられた疑問について答える努力がなければ、私の研究は今とはずいぶん違ったものになっていただろうと思います。もちろん、答は、二人とも自分自身のものです。しかし私の疑問のいくつかは、トム・スミスの質問に触発されて生まれたものでした。
彼は、夫人やお孫さん達とともに車で遠出し、自然のなかでキャンプをしたりハイキングをしたりして、何日かを過ごすことを楽しみとしていました。私も1984年の秋に、トムの運転する車で、泊まりがけでシエラネバダに連れていってもらいました。ポプラに似たアスペンの樹林の一面の黄葉、壮大なヨセミテの景観は、スミス夫妻のやさしい心遣いとともに、いまなお懐かしい思い出として残っています。