《書評》
兵藤 釗著 『日本における労資関係の展開』
評者:二村 一夫
1 「大河内理論」の変遷と本書の成立史
兵藤釗氏が『経済学論集』などに発表された論文を大幅に補正し、新たな論稿も加えて、『日本における労資関係の展開』と題する一書をまとめられた。これまで「理論仮説」や「思いつき」は少なくないが、実証研究の名に値するものがほとんどなかったこの分野で、豊富な史料に裏づけられた本書は、ひさしぶりに、ずっしりとした手ごたえを感じさせてくれた。兵藤氏とほとんど同時に、ほぼ同様な問題意識をもって日本労働問題研究の道に入った私にとって、この大著の重みはひときわである。
兵藤氏と私がほぼ同様な問題意識で出発したというのは、本書の〈はしがき〉で知ったことである。ここで兵藤氏は自らの研究の足どりをたどっておられるが、その冒頭で、つぎのように述べておられるのである。
「もともと、私がこのような歴史研究に足を踏み入れることとなったのは、直接的には、一九五五年頃、日本の労働運動が一九五〇年前後に陥った苦況のなかから脱しえないでいる歴史的状況のなかで、大学学部の演習において、指導教授であられた大河内一男教授からうかがった〈出稼型論〉に立脚する日本の労働運動についてのいわば宿命的な理解に反撥を覚えたのに端を発しており、その後種々な事情により大学院に進んたとき、その感覚的反撥を歴史の展開をたどることを通じてより確かなものとしてつかんていこうとしたとき以来のことてある。」
私もほぼ同じころ、国史学科の学生として日本労働運動史研究の徒弟時代をはじめたばかりであった。しかし、当時の国史学科には、労働運動史はおろか、近代史を専攻する教授は一人もなく、したがって徒弟といっても基礎的な訓練をさずけてくれる〈親方〉のいない〈徒弟生活〉であった。そこで、自分で勝手に選んた〈仮想親方〉が大河内一男氏であった。岩波新書の『黎明期の日本労働運動』が刊行されたのが1952年であり、翌53年春の社会政策学会の大会テーマが「賃労働における封建制」であったことに示されるように、当時は〈出稼型論〉のいうなれば最盛期てあった。
しかし、この徒弟はけっして〈親方〉の意見に従順ではなかった。むしろ論理的には、当時すでにいくつか発表されていた〈出稼型論〉批判に同感する点が多かった。ただ、当時の批判の多くが、〈出稼型論〉の論理の枠内での批判修正にとどまるか、さもなければ、これをきわめて一般的な公式によって高踏的に批判するに終っていたことには不満であった。私もまた兵藤氏と同じく、〈出稼型論〉批判を「歴史の展開をたどることを通してより確かなものとしてつかんていこうとした」のである。
ところで、兵藤氏はその最初の批判を、1958年暮に「日本における労働市場の展開」と題する修士論文にまとめられた。本書によれば、その内容はつぎのようなものであったという。
「ここでは、日清戦争から一九三〇年代前半にいたる重工業の労働市場の展開過程を主題とし、それを横断的労働市場から縦断的階層的労働市場への推転とその帰結としての大企業における勤続原理を基軸とする〈年功的〉秩序の成立として把握したのであるが、その推転は、資本の蓄積にともなう生産技術の発展と労使関係の動揺への対応として現われてきた独占大企業の温順て良質な労働力を確保しようとする労務政策(=明治末期以降の企業内養成施設・企業内福利施設の導入を基軸とするもの)が、まさにその資本蓄積過程て現われてくる景気循環の形態変化とそれにともなう労働力の需給関係の構造的変化に媒介され定着していく過程としてとらえられることになった」。
何故、このように未発表論文の論旨を紹介するかといえば、ひとつには、これがいくつかの点で修正を加えられ、精密化されてはいるが、依然として本書の中心的な命題をなしていると思われるからであり、第二には、この論文と、1959年に発表された新〈大河内理論〉とその骨格が酷似しているからである。
第一の点は後でふれることにして、ここでは第二点についてみておこう。
周知のように、大河内氏の〈出稼型論〉は賃労働の日本型である〈出稼型〉こそが明治から第二次大戦後にいたるまでの一切の日本の労働問題の根底にあり、それを基本的に制約するものであるという理論であった。そこでは、明治から現在にいたるまで日本の労働問題は基本的には同質のものとみなされていた。
ところが、1959年を境に大河内氏の理論は大きな転換をとげることになる。その最初の論文が、同年4月、『日本労働協会雑誌』創刊号の巻頭をかざった論文「日本的労使関係の特質とその変遷」であった。この題名が示すように、大河内氏は日本の労使関係が歴史的に変化したことを認めるにいたったのである。
変化の画期は、大正末期から昭和初期であり、これを境に横断的な労働市場は「大企業を中心とする個別的に封鎖された非公開的なものと、中小企業を中心とする流動的で横断的なそれとの、上下の二階層に分解した。」
また、「横断的に流動性のある労働市場と結びついた戦前の労働組合は、決して今日のような〈企業別〉組織でなく、むしろ横断的組合であった」。一方、戦後において「企業別組合のみが結成され、それのみが活躍できたのは、労働市場が個別企業ごとに封鎖されていた、という基本的な事実によってのみ説明されるべきことである。」
大河内氏は、以上のように、〈出稼型論〉とは明らかに異なった論理構造をもつ新理論を「ある意味では私の〈思いつき〉でありますから、正確なドキュメントにもとづいてこれを実証するという状態にまではまだかたまっておりません」(『労働運動史研究』第15号)と述べておられる。
これは、かけ値なしにその通りである。ただ、問題はその〈思いつき〉を生んだ背景である。遺憾ながら、大河内氏自身は何らその点についてふれる所がない。そこで止むを得ず、大河内氏に代って、この間の事実について若干のコメントを加えておこう。
第1は、〈出稼型論〉にもとづく企業別組合論に対して向けられた最初の批判のひとつは、「日本の労働組合の組織形態が、戦前と戦後でいちじるしくちがうのは、どうしてなのかを納得のいくように解くこともできない」という点にあったことである(『統一的労働運動の展望』、労働法律旬報社、1952年刊所収、大友福夫論文)。
第2は、日本の労働市場が横断的なものから、縦断的な労働市場に変化したという事実を最初に指摘したのは兵藤氏てあったということである。前掲の兵藤氏の修士論文が書かれたのは1958年12月であり、大河内氏が新たな理論展開を第三者に最初に表明したのは、1959年3月の労働運動史研究会の例会においてであり、論文として発表されたのは、その翌月のことであった。
さらにつけ加えれば、兵藤論文を誰よりも先に読んだのは、指導教授として論文の審査に当った大河内氏その人であった。念のためにいえば、私は大河内氏が兵藤論文を剽窃したなどと誣いるつもりはない。兵藤論文と新〈大河内理論〉は決して同一ではない。それは、兵藤氏が自らの論文を反省して「労働者運動の分析を欠いた歴史へのアプローチ」と述べているのに対し、新〈大河内理論〉は企業別組合を規定した客観的条件を歴史的に追求することに向けられていることからも明らかである。ただ、新〈大河内理論〉は、その骨格をなす労働市場の歴史的変化についての史実認識を兵藤論文に負っているのではないかという〈思いつき〉をすて難いのである。それはともあれ、次の事実だけは確認しておく必要がある。
本書の基本命題のいくつかに、新〈大河内理論〉との共通性を感じられ、本書の意義を新〈大河内理論〉を実証的に展開したものとする評価も生まれるのではないかと考える。しかし、それは誤りてある。本書の基本命題は、兵藤氏によってすでに1958年に、独自に見出されていたのである。
ついでにいえば、新〈大河内理論〉が〈出稼型論〉と論理的に全く整合していないことは明らかであるにもかかわらず、大河内氏が〈出稼型論〉に対する自己批判ぬきでこの理論転換をおこなわれたことは、私の今もって納得しえないところである。しかも最近になって大河内氏は、〈出稼型論〉は仮説であったかのごとくにいわれ、つぎのように主張されている。
「型論は〈宿命論〉であるといっても、それはあくまで現実をつかまえるツールで、〈型論〉的な手法もこれを一つの仮説と考えれば、何もそう気にすることはないでしょう。ある程度まで、現実をつかむのにそれが有効で、現実理解がそれで進めば、それでいいので、現実をつかむのに不便であったり役に立たないというのであれば、その型の形成なり仮説そのものに誤りがあったのではありませんか。そうなればその段階でその型を反省し捨ててもいい」(『社会政策四十年』343ページ)。
しかし、新〈大河内理論〉は決して〈出稼型論〉の誤りを認め、それに対する反省として提示されたのではなかった。現に、私自身が大河内氏に「〈出稼型論〉はすでに修正されたと考えてよいでしょうか」と質問したのに対し、氏は「そうではありません」と明言されている(『労働運動史研究』第25号、13ページ)。
もし、氏が現在でも〈出稼型論〉は誤っていないと主張されるのであれば、それが新〈大河内理論〉と矛盾しないことを論理的に明らかにすべきであろう。また、〈出稼型論〉の誤りを認められるのであれば、その誤った点を具体的に示して自己批判されるべきではなかろうか。
ともあれ、〈出稼型論〉批判を意図して歴史研究に着手し、その最初の論文が未発表のうちに、当の大河内氏が、その批判論の中心命題を自己の新たな理論のなかに組みこんだ〈思いつき〉を数多く発表されたことは、兵藤氏にとって大きなショックであったにちがいない。ここで兵藤氏は、ふたたび〈新大河内理論〉に対する検討を迫られることになったのである。
〈新大河内理論〉に対する兵藤氏の批判は、さし当っては、直接その方法を問題とするのでなく、史実の認識に対して向けられた。すなわち、大河内氏らが「日清戦争後に現われてきた鉄工組合・活版工組合・日鉄矯正会などをその運動思想のみならず現実態としても西欧のクラフト・ユニオンに類似したものとする見解」を提示したのに対し、兵藤氏は日清戦争後の日本においては、イギリスに見られたような徒弟制度は確立しえず、したがって労働組合が入職規制によって労働力の供給制限をおこないうる客観的な条件はなかった、と主張したのである。
この命題を最初に論証したのが、未発表の論文「産業資本段階におけるわが国熟練労働力の再生産構造」(1961年10月)であった。
しかし、批判は事実認識にとどまらず、次第に方法に向けられていった。「労働問題研究と主体性論」(『社会政策学の基本問題』、1965年、有斐閣刊、所収)、「日本資本主義と労使関係」(『日本の労使関係』、1967年、日本評論社刊、所収)の2論文は、まさに大河内埋論の方法的批判を主題とするものであった。そこでの中心的な論点は、大河内埋論にあっては、「労働者主体の成立契機」を正しく位置づけていないというにあった。
ところで、このような大河内理論に対する方法的な批判は、必然的に兵藤氏自身の方法に対する再検討を迫るものであった。本書の「はしがき」を見れば、それは明らかである。問題の部分を抜き書きしておこう。
1. 修士論文について。 「その余りにもシェマティッシュな把握と、さらには歴史過程に登場する主体、とりわけ先の論文に即していえば、労務政策の対極をなすはずの労働者運動の分析を欠いた歴史へのアプローチの視角の限界性」
2. 「産業資本段階におけるわが国熟練労働力の再生産構造」に対して。 「その基底還元的な視角の限界。……主体的な労資対抗の態様がいわば客体的な労働力取引の構造によって規制される側面に主たる関心(をおく)視野の狭さ……スタティックな構造分析という形をとっていた弱さ」
以上のような反省の上に立ってまとめられたのが「第一次大戦後の労資関係」(『経済学論集』第30巻第4号、第31巻第1号、1965年)であり、旧「産業資本段階における熟練労働力の再生産構造」の一部を改稿した「鉄工組合の成立とその崩壊」(『経済学論集』第31巻第4号、第32巻第2、3号)であった。
以上、「はしがき」を手がかりに、本書の成立にいたる兵藤氏の研究のあとを辿ってきた。以下では、本書の構成と内容を紹介し、若干の検討をこころみたい。
2 本書の構成と内容
本書の構成は次のとおりである。
序章 主題と方法
第1章 間接管理体制の成立とその変容
第2章 直接的管理体制への転換と企業内福利施設の展開
第3章 直接的管理体制の強化と工場委員会制度の成立
序章の第3節は、山田盛太郎、大河内一男、隅谷三喜男の三氏の労資関係の把握に対する批判をおこなった「日本資本主義と労使関係」(前掲)をほぼそのまま収録したもの。第1章は前掲の「鉄工組合の成立と崩壊」を、第3章は、同じく「第一次大戦後の労資関係」を、ともに構成を組みかえ、大幅に加筆の上収めたものである。序章の1、2節、および第2章は新稿である。
まず、序章の第1節は「対象選択とその意味」と題して、本書がその分析の対象を「重工業大経営の労資関係、それもほぼ一八九〇年から一九三〇年にいたる四〇年間の歴史的展開の過程」に限定したことの意味がのべられている。
第2節は「主題と方法」で、ここに兵藤氏の現時点における問題意識が集約的にのべられている。とりわけ、つぎの一文である。
「われわれが、資本主義の現実的歴史過程のうちに展開する労資関係の分析に立ち向かうとすれば、資本主義が労働力の商品化を基礎として人間の目的意識的な活動としての労働過程を資本の生産過程として包摂するものでありながらも、それを純経済的には処理しがたい契機を内包することに対応して、それは、歴史的定在それ自体に即して、この歴史過程の主動力たる資本家の行動とそれを支える理念およびそれに規定されつつ対抗的な主体として現れる労働者の行動と、それを支える理念に即して両者の歴史的態様を明らかにすること、しかも、この両者の対抗関係が、資本の運動によって規制されながらも、同時にそれによっては処理しがたいものとして、国家の政策的介入を媒介としつつ歴史的に推転する様相を明らかにするものでなければならないであろう」(下線引用者)。
ついで、右の問題意識に即して本書の課題が次のように提示される。
「ほぼ一八九○年から一九三○年にいたる重工業大経営の展開過程を対象として、資本の担い手が工場制度の発達に対応しつつどのような生産過程における支配の体系を生み出してくるか、その支配の体系のなかからどのような労働者の対抗が生み出されてくるか、この点に即して両者の対抗の歴史的態様を明らかにすること、そして、この両者の対抗関係が、資本の運動、わけても労資関係を包摂する労働市場の運動によってどのように規制されるか、さらには、この規制によっても処理しがたい矛盾が、国家の政策的介入を媒介としつつ、どのように、いかなる意味で処理されたのか、ほぼこのような視点からその労資関係の展開の様相を究明することにある」
要するに、兵藤氏は労資関係の歴史的展開を把握するのに、(1)生産過程における支配の体系、(2)労働者の対抗、(3)対抗を規制する資本の運動、とりわけ労働市場の運動、(4)国家の政策的介入、以上4つの側面についてアプローチする方法をとろうというのである。ただし、本書では(4)については、きわめて限られた局面についてのみふれられることが、つぎのように断られている。
「本書は労資関係が国家の労働政策のうちに総括される過程それ自体を分析の対象とするものではない…………、本書において国家の労働政策に言及する場合にも、それは、重工業大経営の労資関係の展開が国家の政策的介入を呼び起すどのような契機を内包しているか、そしてまたその国家の政策的介入によって重工業大経営の労使関係が逆にいかなる規制を受けるか、という局面にだけ限定されている」
ここで、 第1章以下の実証研究について見よう。限られた紙数でその豊富な内容を紹介することは容易ではないので、別に掲げる構成表によって本書の全体像をつかんでいただきたい。区分、用語などできる限り著者の用法を尊重したつもりではあるが、氏特有の慎重な留保を附した表現を勝手に整理したものも少なくない。この表についての責任は、当然、私にある。なおこの表に示しえなかったことがいくつかある。その第1は、労資関係の展開の動因である。変化を規定した主な要因は、各時期とも資本蓄積の進行であるが、労働力の質を、したがって技能養成制度を、さらに管理機構や賃金構造に影響を及ぼしていく関係が克明にあとづけられている。他方、労働運動の展開も副次的な動因として位置づけられている。日露戦争後の大争議を契機に企業内福利施設が導入され、あるいは第一次大戦後の労働組合運動の高揚への対応として工場委員会制が導入されることなどがそれである。
この構成表に欠落している第2の点は、経営の労務政策のうち、職場管理・賃金管理以外のものである。たとえば、労働市場対策としての定期職工制や付加給付など、さらには「主従の情誼」と経営家族主義など経営の理念にかかわるものである。第一点の場合は、作表の技術上の困難によるところが大きいが、第二点については、兵藤氏の研究上の欠落によるところもないとはいえない。たとえば、各時期における経営理念の変化(あるいは継承)は必ずしも明らかではない。
なお、時期区分についても若干の問題がある。すなわち、第4期の「直接的管理体制の強化と工場委員会制の成立」期は、おそらく1920年前後で二分した方が兵藤氏の論旨にも合致するのであろうが、その点本書では必ずしも明瞭でないので、表では本書の章だてに従った。
ともあれ、このように各項目についての詳細な内容をもつ構成表の作成が可能であるところに本書のメリットがあることはたしかである。とりわけ、生産過程の変化にともなう労働力の質的な変化、技能養成制度、賃金構造、管理機構などの分析は従来の研究水準をはるかにこえている。技能養成制度の推移、企業内福利施設の実態とその特質、賃金構造の変化など、本書によってはじめて明らかにされたものが少なくない。
3 二、三の問題点
最後に、簡単に二、三の問題点についてのべてみたい。
その第一は、時期区分というより、各時期の規定にかかわる問題である。各章の標題が示すように、兵藤氏は間接的管理体制と直接的管理体制という規定によって各段階を特徴づけておられる。おそらく、これは兵藤氏が生産過程における支配形態の変化を重視されたためてあろうが、私には、この規定は適切とは思えない。何故なら「直接的管理体制」は1930年で終るのではなく、その後も、現在にいたるまで適用可能な概念であろうから。また、この規定を用いることは、間接的管理体制から直接的管理体制に転化した日清戦争と日露戦争の間にのみ、この40年間における大画期があるとの印象を避け難いから。
第二の問題は、本書の「主題と方法」と実証的な歴史分析との不一致である。「主題と方法」で強調されるのは、「資本主義の歴史過程を商品形態による規制をうけつつ展開する主体と客体の交互作用のダィナミクスとして把握しようとする」立場である。たしかに〈出稼型論〉などとはちがって、ここでは主体と客体は相互に作用するものとして描かれている。しかし、その関係は運動体としてのダイナミクスを欠いているように思われる。
それは、兵藤氏が労資関係の展開を把握するのに、主として生産過程における支配形態の変化の側面からアプローチし、労働運動について、独自の追究が充分でないことによるものと思われる。すなわち、明治期についていえば「徒弟制度が確立しなかったわが国では、労働組合が入職規制による労働力の供給制限をおこなう条件はなかった」というシェーマでわりきった感が強い。それでも、まだ明治期については、兵藤氏の分析は労働運動の展開をほぼカバーしている。
鉄工組合についての研究は、兵藤氏に対するきびしい批判者である池田信氏の研究(『日本機械工組合成立史論』1970年、日本評論社刊)とならんで従来の研究を大きく前進させたものである。
しかし、第一次大戦以後になると、兵藤氏の労働運動の把握は、かなり一面的である。すなわち1910年代の運動は主として友愛会の職業別組合主義から産業別組合主義への方向転換として把握され、そこから直ちに、1921年の団体交渉権獲得運動へと接続されている。だがしかし、重工業大経営における労資関係の展開を把握するという本書の課題からすれば、ここにはいくつかの重要な欠落があるように思われる。 たとえば1919年をピークとする労働組合の相つぐ結成であり、組合結成と密接に結びついた大争議の続発である。いずれも、東京砲兵工廠、石川島造船所、大阪鉄工、川崎造船、浅野造船、八幡製鉄などの重工業大経営に集中している。労働運動の側面からみれば、明らかに新たな段階を画するものであった。
この欠落は偶然ではないように思われる。ここでも、兵藤氏は一定のシェーマによって運動を把握されているからである。 そのシェーマは、明治期のそれと論理的に同一である。すなわち、日本では、もともと組合が入職規制によって労働条件を規制する条件を欠いていた上に、経営が生産過程を直接に管理する体制を強化したため、労働者集団が自律的に労働条件を規制することが更に困難であった。「こうした状況のもとでは、労働組合として労働条件の規制に関与しようとすれば、職場管理者の機能を団体交渉を通じて規制する以外にはその方法はありえない」というのである。
かくて兵藤氏は、団体交渉権獲得運動に第一次大戦以後の運動のすべてを収斂することになる。そして、団体交渉権獲得運動の敗北後、労働組合は大経営からは全く消失してしまったかの如くである。
だが、これも、事実に反する。一例をあげれば評議会関東地評の主力は石川島造船所にあった。単なる工場委員会制度ではなく、後の産報運動の先駆となる「日本主義労働運動」が石川島自彊組合を中心に展開されたのも、まさに、それに先だって石川島に左翼労働組合が存在していた事実とかかわっていた。
このほか、まだ若干の疑問もあり、不満もある。しかし、その多くは、すでに著者自身、充分自覚されているように思われる。「視点が充分に成熟していないという自覚」から本書を「まとめることを断念しようかという誘惑にとりつかれてきた」との〈はしがき〉での告白に、それはうかがえる。おそらくは、本書の論点のいくつかは、今後の研究のなかで再検討され、訂正されることになるであろう。しかし、本書が1960年代における日本労働問題研究の到達点を示す代表的な作品であり、今後、日本の労働問題研究を志す者にとって必読の文献として、長い生命を保つであろうことは疑いない。
兵藤 釗 著『日本における労資関係の展開』
東京大学出版会、1971年2月刊行、479頁
〔初出 は「一九六〇年代における日本労働問題研究の到達点──兵藤釗『日本における労資関係の展開』に寄せて」の原題で、『季刊労働法』第80号、1971年6月に掲載〕
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