大原社研こぼれ話(1)
大原孫三郎が出した金
1999年の2月、大原社会問題研究所は創立80周年を迎える。もう10年近く前の70周年の折、『大原社会問題研究所雑誌』に《70年こぼれ話》と題して連載したエッセイを、インターネットのホームページで再度紹介することにしたい。古い話を、蒸し返すわけだが、インターネットでここを訪ねられる方は、『大原社会問題研究所雑誌』の読者よりははるかに広い層の方々だろうから、再録もいくらか意味はあろう。
もし、昔話にまったく興味のない方がここに来られたとすれば、時間とお金を無駄に使わせることになり、まことに申し訳ない次第だが、お許しねがいたい。
よくいろいろな方から聞かれるのは、大原孫三郎さんは、大原社会問題研究所を創立し、維持するのに、いったいどれほどお金を出したのかということである? 実は、これはかなり正確に分かる。研究所は昔から資料保存を旨とし、帳簿類をきちんと残しているから。それを集計してみると、彼がさまざまな形で支出した金額は、研究所の創立以降、1939(昭和14)年までの21年間に、総額約185万円になる。
といっても、今とは貨幣価値が違い過ぎ、その値打は分かりにくい。しかしまた、物によって価格上昇率に大きな違いがあるから単純な比較も出来ないが、仮に1000倍とすると18億5000万円、5000倍なら92億5000万円、1万倍とすると185億円になる。バブルの最中にゴッホの〈ひまわり〉に58億円も出したことを思えば、意外に少ない。しかし一個人がよくもこれだけ出したものではある。
年別に内訳けをみると、創立の1919(大正8)年は20万円余、うち10万円は大阪市天王寺区伶人町の土地966坪(3188平方メートル)の代金である。1平方メートル当り31円、坪にして103円余。今ではその1万倍ではとうてい買えまい。どんなに低く見積っても10万倍にはなるだろう。なお、この機会に訂正しておきたいが、『大原社会問題研究所五十年史』が土地購入価格を9万円としているのは誤りである。契約成立時に手付金1万円を支払っているのを見落としたものらしい。また、買ったのは更地でなく14軒の家屋があり、その家屋の代金や一部所帯には立退き料を支払っており、土地取得にかかった経費はこれより若干多い。
その後も、事務所や書庫、講堂など延べ503坪、1660平方メートルの建築費25万円や、図書収集をかねてイギリスやドイツに研究員を留学させた費用などの特別経費があるため、毎年10万円を超える額が支出されている。とくに1920年は17万5千円、1923年は15万円余と多くなっている。 1923(大正12)年暮、研究所は大原孫三郎の個人経営から財団法人となるが、彼のポケットマネーで維持されるという実質に変わりはなかった。
ただ1924年から特別支出はなくなり、1933(昭和8)年まで毎年経常費として8万円余が寄付されている。これは、基本金を100万円とし、その利子相当として決められた金額である いわゆる〈研究所の存廃問題〉が持ち上がるのは、1928(昭和3)年の3・15事件がきっかけだが、実際に寄付が打ち切られたのはその10年以上後のことである。ただ1934年から寄付額は、年6万5千円に減額されている。孫三郎が最後に出したいわば〈手切れ金〉とも言うべきものは総額8万5000円、毎月2000円余を支払う約束であった。
しかし、送金を担当していた倉紡秘書課があまりに事務煩雑であるとして、1939年7月、残りの1年足らずの分を一括して支払い、これによって孫三郎と研究所との金銭上の関係は終わった。この時、敬堂・大原孫三郎がどんな感慨を抱いたか知る由もないが、おそらく大きな重荷を下ろした思いだったに違いない。
初出は『大原社会問題研究所雑誌』第359号(1988年10月)
「大原社研こぼれ話」総目次
《70年こぼれ話 2 》大原孫三郎と河上肇(1)
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