大原社研こぼれ話(2)大原孫三郎と河上肇これまで,大原孫三郎が社会問題研究所を設立した理由は,石井十次の影響と,米騒動の衝撃にあると説明されてきた。しかし,私はかねてから,孫三郎が研究所創立を決意した直接のきっかけは,河上肇『貧乏物語』にあったのではないかと考えてきた。いまは推測でしかないが,いくつかの状況証拠は,河上の存在が大原研究所の誕生とその後に大きな意味をもったことを示している。いずれ詳しく調べてみたいと思っているが,まずはその証拠をお見せしよう。
状況証拠その1『貧乏物語』が大阪朝日に掲載されたのは1916(大正5)年9月から12月であり,本になったのは翌年3月であった。一方,財団法人石井記念愛染園が発足し,その中に大原社会問題研究所の前身である救済事業研究室が設けられたのは1916年の11月29日,これが大原研究所に発展したのは1919年2月のことである。
「縷々数十回,今に至るまで此物語を続けて来たのも,実は世の富豪に訴へて,幾分なりとも其自制を乞わんと欲せしことが,著者の最初からの目的の一である。貧乏物語は貧乏人に読んで貰ふよりも,実は金持ちに読んで貰ひたいのであった」 これが,河上自身による『貧乏物語』の執筆意図の説明である。石井十次が創立した岡山孤児院の院長となり,さらには倉敷日曜講演や倉敷奨農会などの社会活動にその資産をつぎ込んでいた大原には, 状況証拠その2 孫三郎は新設の研究所の名称に〈社会問題〉をつけることにこだわった。内務省の役人に「社会問題研究所は穏やかでない」と言われても,これに固執した。ところで河上肇が『貧乏物語』のすぐ後に出した本は『社会問題管見』である。『管見』にはタイトルだけでも大原孫三郎が注目したであろう「日本の女子労働者」が収められ,石原修の「女工と結核」が紹介されている。さらに当時,河上が情熱を注いだのは個人雑誌『社会問題研究』の刊行であった。その創刊は1919年1月,大原研究所が社会問題をその名に付すことを決めたのはその翌月である。『社会問題研究』創刊の辞は,社会問題とは 状況証拠その3 研究所の創設に先だって,大原孫三郎は河上に会い,その意見を聞き,研究員就任を懇請している。河上は自らの入所については即答を避け,研究所運営の適任者として高野岩三郎を紹介した。結局,河上は大原の誘いを断わる。それが何故であったかは次回でとりあげたい。 初出は『大原社会問題研究所雑誌』第360号(1988年11月)
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