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大原社研こぼれ話(8)


月島調査と大原社研

 つくだ煮発祥の地の佃島、その隣はかつて水戸藩営の洋式造船所や幕府の人足寄場があった石川島、どちらも、江戸時代に墨田川のデルタに石垣を築いて作った人工島である。この 2つの島の隣接地を明治になってから埋め立ててできたのが月島で、石川島造船所に近いこともあってしだいに中小の機械工場があつまり、第一次大戦後には東京でも有数の労働者街になっていた。〈月島調査〉はこの地域を対象に、現地に調査所をおき調査員が住み込む方式で実施した社会調査で、日本の社会調査の歴史にのこる大事業であった。国民の体位低下の実態を明らかにするために設置された内務省の保健衛生調査会がおこなったもので、調査期間は1918(大正 7)年11月から1920年 5月まで、ちょうど大原研究所の創立のころである。この調査を企画し推進したのが初代所長の高野岩三郎であり、その縁故で調査参加者のうち何人かが大原の所員となった。研究所のルーツというと愛染園救済事業研究室と東大経済学部が知られているが、月島チームも忘れてはなるまい。

 〈内務省嘱託〉の辞令をもらって正式に調査に加わったのは権田保之助、山名義鶴、星野鉄男(医学士)の 3人で、このうち大原の研究員となったのは権田と山名である。ただこの 2人のほかにも東大助手だった細川嘉六が飲食店調査に参加しており、その名は月島調査の報告書に明記されている。だがそこに名前のない後藤貞治もどうやら調査チームの一員だったらしい。その証拠は改造社の経済学全集『本邦社会統計論』の高野岩三郎による〈解説〉で、月島調査は自分の功績というより「権田、山名、星野、後藤の諸君、殊に権田、後藤君の力に負ふ所殆ど全部である」と述べているのである。本誌 5月号で後藤貞治について紹介したとき、平貞蔵氏の話として「山名義鶴が経営に失敗した月島消費組合の整理を後藤がやりとげ、そのご褒美として大原の所員となった」と書いたが、どうやらそれだけでなく月島調査にも参加していたらしい。

 これを裏付ける記録がもうひとつある。後藤と同時に大原の東京事務所に入り、彼とひとつ屋根の下で暮らしたこともある宇野弘蔵の『資本論五十年』での談話である。

 「後藤君は同文書院の農芸化学を出た男ですが、平貞蔵君と非常に仲がよくて、その関係だろうが、当時月島で高野所長が労働者調査をしていた、それを手伝っていたのです。そういう調査の手伝いには非常に適した綿密な男ですから、ぼくがやめた後にも大原でずっとそういう調査の資料を集める仕事をしていた。  親しく交友するという人じゃなかったけれど、ぼくは一緒に住んだりしていろんな世話になった。料理を作ってくれたり、洗濯してくれたりする男ですよ。ぼくのシャツの洗濯までしてくれるんだから弱っちゃったよ。その代わり彼がストライキをしたときは困ったね。もっとも彼から一つ教わった料理があった。玉ねぎを丸のまま煮て、ソースをかけて食うという、これでどうにかしのいだ」。

 けっきょく月島調査の関係者で大原研究所の所員となったのは、権田、山名、細川、後藤、これに高野をふくめると 5人、研究員の中ではかなりの比率である。もっとも人数は 5人でも、人件費は 4人半分だったらしい。これも『資本論五十年』のなかで、宇野が「大原に入った時の月給はいくらでしたか」と聞かれたのに答えて、打ち明けている。

 「大原は多かったんだ、90円。しかしその月給をそのままもらったわけではない。大原へは僕のほかに新明正道君が志望していた。ところが大原では東京の方で90円の助手 1人というわけで、ぼくと新明君と 2人とってもいいけれど45円にするというんだ。ところが新明君は細君があったので45円じゃとてもいかんというので彼はやめたのです。しかしぼくは45円でもいいといったので、後藤貞治という、もう一人助手をとった」。

 草創期の大原の給与水準の高さを示す〈ちょっといい話〉というべきか、何とも乱暴な話というべきか。それに、これはワークシェアリングなのだろうか、それとも単なるサラリーシェアリングに過ぎないのか。



初出は『大原社会問題研究所雑誌』第372号(1989年10月)

「大原社研こぼれ話」総目次
《70年こぼれ話 7》荒畑寒村の見た大原社研開所式
《70年こぼれ話 9》宇野弘蔵と浅草調査




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法政大学大原社会問題研究所          社会政策学会          先頭へ



Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org



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