大原社研こぼれ話(9)
宇野弘蔵と浅草調査
その生涯をマルクス経済学の研究にささげ、いわゆる〈宇野理論〉として知られる独自の体系をうちたてた宇野弘蔵の最初の勤務先が大原社会問題研究所東京事務所であり、1人分の月給を後藤貞治と分けあったことは前回記した。その宇野の大原での最初の仕事は、権田保之助の浅草調査の助手であった。『資本論』を読みたいと思って研究所に入ったのに、朝から晩まで仲見世の街角に立って人数を数えるだけの単調な仕事に若き日の宇野弘蔵は閉口した。しかも、きちんとした仕事をしないと権田がご機嫌ななめになるので、宇野はすっかり参ったようである。
『資本論五十年』(法政大学出版局、1970年)での彼の回想を聞こう。
〔宇野〕 大原での仕事は、権田さんが民衆娯楽の調査をするというので、その手伝いです。 権田さんは、研究というのはそういうごみためのようなところからフォルシェン(探索)するものだという主張をもっていて、お前らみたいに本を読んで研究するというのはウソだという。僕はそれにはどうしても従えなかったけれど、しかし一面の真理はあると思っていた。 研究というのはもともとはそういうものとわかっても、しかしそれを民衆娯楽の研究として浅草調査をやる……。これはどうしても僕にはよく意味がわからなかった。浅草に毎日行かなきゃいけない。四月に大原に入って四月からすぐ始まったのです、後藤君が浅草の調査区域の地図を書いたのですが、その一軒一軒の家を職業別に区別して色分けにして何枚も地図を作った。そしてそのうえで浅草へ行く人を調べるというんです。毎日行って、仲見世の途中に立って、カウンターをもって勘定する。浅草の飲食店や劇場に行って、またカウンターをもって、一定の時間に男が何人、女が何人、二人づれが何人……。
〔問い〕 それを権田さんは集計してどうするのですか。
〔宇野〕 それはわからない。とにかく調べる、ごみためだから。
合間には瓢箪池の周りを回って方法論を説くわけだ。(笑)そしてまたこれだけでは確実にはわからない。おまえ警察へ行って飲食店の届出カードを調べてこい、というわけで、僕は日本堤署にカードを写しに行った。 ところがそういうときに僕はカードの写し方がへたくそなんだね。そのうえそのカードというのが滅茶苦茶なのです。実状と合っていないんだ。届けをしたときのカードでその後の変化が明確でない。だから実際とあわない。
それでも本当はちゃんと写さなければならないのだが、それを僕はのんきに名前などどうでもいいと思って、職種と人数だけ写してきてみんなだめだということになった。(笑)
みんな初めから全部きれいに写しておいて、あとから選択するというわけだ。
〔問い〕 怒られるわけですか。
〔宇野〕 あの人は内向的なんだ。面と向かって怒るほうじゃない。あれが江戸っ子の一つのタイプかな。ご機嫌が悪くなる。かなわなかったな、あのときは本当に。
毎日のように夜までやって本郷の下宿に帰ってみると、食事の時間は過ぎてしまっている。しようがないからおでんを食ってようやく……。(笑)これは大変なところにきたと思ったね。『資本論』どころじゃないよ。(笑) それでも教わるところはずいぶん教わった。たとえば、そのとき小学生のアンケートをやることになって僕は東京市の深川とか本所とか、あるいはまた山手の各区の代表的な小学校に行って、五年生、六年生からアンケートをとったのだが、質問を抽象的に聞いたらいかん、必ず具体的に聞けというのをきつく注意された。たとえば「前の日曜日にどこに行きましたか」というようにきく。ただ浅草へ行ったことがあるかというのではいかんというわけだ。その上で浅草に行った人は「浅草でなにを見ましたか」「だれと行きましたか」「なにを食べましたか」
そういう聞き方をしろというわけです。当然のことだが、大切なことを教わったように思った」。
権田と宇野というまったく対照的な資質をもった個性のぶつかり合いの面白さがにじみでたエピソードではある。
初出は『大原社会問題研究所雑誌』第376号(1990年3月)
「大原社研こぼれ話」総目次
《70年こぼれ話 8》月島調査と大原社研
《70年こぼれ話 10》権田保之助のこと
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