大原社研こぼれ話(10)権田保之助のこと
しばらく権田保之助について書いてみたい。というのも、櫛田民蔵、森戸辰男、久留間鮫造らとともに高野岩三郎所長を支えて、長い間大原社会問題研究所運営の中心にあり、娯楽研究という新分野を開拓したこの人物について、戦後の大原社研は、無視とはいわないまでも軽視してきたきらいがあるからである。 このテーマは、後輩が大先輩をあげつらう、あるいは大先輩が仲間に下した評価を論ずるいささか危険なもので、こぼれ話というには生臭い。しかし権田の子息・速雄氏の次のような発言を知ると、《70年こぼれ話》がこれをこぼす訳にもいかない気がするのである。 大原社研におけるおやじの位置というものは、ご指摘のとおりで、私も痛切に感じております。これは戦後の社研の問題ですが、大内先生をはじめいわゆる理論派の先生がたとは目に見えない溝があったように思えてなりません。それでも高野先生が御存命のときは、理論派の先生方との間をうまく采配をふるわれたと思いますが、戦後先生が亡くなられ、研究所も法政大学に移り、大内先生が中心になられるとそのへんが変わってきたのではないかと思います。 この発言を引きだしたのは鶴見俊輔氏の次のような指摘である。 大内兵衛は、戦後初期にあらわした本の中で権田保之助のことをいささか軽蔑的に書いているんです。自分たちの仲間の権田保之助氏が早くから娯楽の研究をやっているけれど、ああいう体系のないところでは学問というものは成り立たない。実際に何事もなしえなかった、そんな意味のことを言ってますね。つまり大内の批判の中にはもっとも体系的な社会科学を創ったのはマルクスで、これによらずして、つまりこれを基本において日本の社会を見ずして何の学問かという原書文化の流れがあるのですよ。 この指摘にある大内発言がどこでなされたのかはまだ確認できないでいるが、大内や久留間が権田の仕事を評価しなかった、あるいは評価しえなかったことは事実のように感じられる。大原研究所は1951年以降1980年代のはじめまで、ほとんど毎年高野岩三郎の命日にあたる4月5日に高野先生追憶会を開いてきた。1968年からはこれに櫛田民蔵も加え、合同の追憶会となった。しかしそこで権田保之助について語られたことはほとんどなかった。ただその理由は、鶴見氏のいう〈原書文化〉や速雄氏の〈理論派の偏見〉だけでは説明がつかないように思う。同じマルクス経済学者でも宇野弘蔵が権田にいくらか違った評価をしていたことはすでに紹介した。また櫛田民蔵も、大内、久留間とはちがった権田評価をしていたに違いない。これについては次回に述べることにしよう。
初出は『大原社会問題研究所雑誌』第376号(1990年3月)
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