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食 の 自 分 史

(1) ガラスの瓶のドロップス

ドロップス

 生まれは松本市だが、生後3ヵ月で引っ越しているから、戦前の松本について知るところはまったくない。幼児期を過ごしたのは、同じ長野県内の上諏訪町だった。まだ諏訪市になる前のことである。小学校に入る直前までの5年間を、この町の富浜町で暮らしたのであった。上諏訪には、もう一度、中学時代に住んでいる。この時は2年足らずの短期間だったが、生まれてから十数年の間に5、6回の引っ越しを繰り返し、どこが〈ふるさと〉か判然としない私にとって、上諏訪は故郷のひとつ、いくばくかの懐かしさを覚える土地である。

 食の体験といっても、0歳から5歳にかけての記憶ははなはだ心許ない。はたして上諏訪時代のことか、後の体験なのかさえ定かではない。それも覚えているのは〈おやつ〉のことばかりで、主食についての記憶はあまりない。〈おやつ〉の場合も味についての記憶はおぼろげで、印象に残っているのは色や形ばかりである。よく覚えているのは、ドロップスやゼリービーンズなど色鮮やかなキャンディの類だ。実は、これらはいずれも我が家の商品だった。四角で丸い広口の蓋がついたガラス瓶に入って、店頭に並んでいた。それを下から眺めて欲しがったに相違ない。
 ♪ ガラスの瓶のドロップス、赤いルビーの玉のよう。頭に載せて鏡を見れば、僕はお菓子の王様だ♪という童謡をご存知だろうか。わが家の店頭の光景と結びついてふと口をついて出てくる歌だ。
  ドロップスといえば、小さな四角い缶に入ったSAKURAドロップスならぬ、サクマドロップスがあった。円い小さな口からとりだすので、残り少なくなると、缶を振らないと出てこなかった。何色が出てくるかあらかじめ分からず、赤いイチゴなら喜び、白いハッカが出てくるとがっかりした。幼児には苦手な味だったのだろう。缶の中はよく見えないから、あといくつ残っているかも振って確かめた。あのカラカラという音がいまも耳に残っている。そういえば、箱入りのキャラメルもあった。黄色い箱の森永キャラメル、おまけ付きの赤箱のグリコなどだ。
  こう並べてくると、他にもいくつか思いだす。水晶のような氷砂糖、角のはえた金平糖、それにカルケットがあった。カルシウム強化の栄養菓子の第1号であることは後で知ったが、あのさくさくした噛み心地は好きだった。味は覚えていないと思ったが、カルケットだけは覚えているから不思議だ。さくさくした感触でもうひとつ思い出した。ウエハース、これも好きだった。
  東京で小学校に入学した頃には、もう菓子は出回らなくなっていたはずだから、いずれも幼時の記憶に間違いなかろう。太平洋戦争が始まる2年前の1939(昭和14)年なら、ドロップスやキャラメル、カルケット、ウエハースなどがまだ出回っていたのである。ほかにも、店内には木枠にガラスを入れて蓋にした木製の陳列ケースのなかに、饅頭や最中などさまざまな和菓子を入れて売っていたのだが、あまり印象に残っていない。

 二村商店は駅前から続く大通りに面していた。ただし駅前通りといっても、わが家の辺りまで来ると商店街の賑やかさはなかった。道路の反対側はすぐ国鉄中央本線の線路で、古い枕木を使った黒い柵が延々と続く殺風景な街だった。家は間口約2間、建坪20坪ほどの二階屋で、駅に近い左隣は自転車屋、右隣は客足の少ないガソリン店だった。ガソリンの販売店といえば派手な看板を掲げたガソリンスタンドを想像される方が多いと思うが、そのガソリン店は我が家と同じ小さな家で、全面にブリキを張った引き戸だけが普通の店と違っていた。室内の壁に木のハンドルを左右に動かす手こぎのポンプがあった。このハンドルを動かすとカチカチ音がしたが、どこかを操作しないかぎりガソリンは出ない仕組みだったようである。隣家のいたずら小僧が面白がってカチカチさせるのをとがめ立てしなかったので、ここは私のお気に入りの遊び場だった。ガソリンの匂いが好きで、今もガソリンの匂いは何となしに懐かしい。味覚の記憶はあいまいだが、匂いの記憶はなぜか鮮明である。記憶にある匂いを嗅ぐとそれを印象づけられた場所や人の思い出がよみがえる。

 父は上諏訪の大きな薬屋・如鳩堂じょきゅうどうに長年奉公していたから、店の主力商品は薬だった。だが、開業したばかりで、しかも繁華街から離れていたから、薬だけでは商売にならなかったのであろう、いろいろな菓子も売っていたのである。そのほかにも糸や毛糸、縫い針、編み針などまで置いていた。ちょっと飾って言えばアメリカのドラッグストア風のよろず屋、だが、ありていに言えば大人向けの駄菓子屋というところだった。
 家族は両親と父方の祖母、それに姉2人の6人だったが、すぐに弟が生まれ、7人家族となった。父の清一せいいちは、店は祖母と母にまかせ、もっぱら外回りの営業をしていた。それも長野県内だけでなく、新潟や東京辺りまで回ってセールスをしていた。主家と同じ町では商売がしにくかったからかもしれない。だが、外回りで扱った商品は薬品よりも諏訪・岡谷地域の物産が主だったようだ。
  母の〈とみ〉はなんと女7人、男3人の10人兄弟の四女だった。もっとも弟2人は夭折しているから、実質は8人兄弟だった。〈とみ〉は高等小学校を卒業するとすぐ看護婦養成所に入り、結婚するまで日赤長野病院や市立松本病院などで働いていた。父と母が結ばれたのは、如鳩堂の主人久保田力蔵氏と母の父、佐藤豊助とよすけが、同じ教会の信者だったからであった。如鳩堂という店名そのものが、聖書のなかのことば、「蛇のごとく慧く、鳩のごとく素直なれ」から来ていたのである。
〔2003.5.30〕




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written and edited by Nimura, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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