幼時の主食に関する記憶はさだかでない。だが、ひとつだけ鮮明に覚えている事実がある。我が家の台所には、他の家では見かけない特殊な炊事用具〈高圧釜〉があったことである。 ピカピカ光る鉄製の蓋が、暗い台所のなかで目立っていた。山型をした蓋の頂上には穴があり、それをふさぐ太い釘状の栓、さらにその栓を上から抑える金棒があり、その先端には錘がついていた。釜の内部の蒸気圧が一定限度をこえると、梃子の原理で栓を抑えている錘付きの金棒をもちあげ、栓の隙間から蒸気を逃がす仕組みだった。それとは別に安全弁もあった。こちらは、おそらく温度が一定以上になると栓が熔けて蒸気を逃がしたのであろう。「ピィー」と音を立てて蒸気を吹き出す高圧釜は、子供には怖い道具で、加熱中は遠くから見守るだけだった。現在、圧力釜や圧力鍋は何種類も出ているが、あれと同型のものは見当たらない。
高圧釜は〈玄米釜〉とも呼ばれていた。つまり、玄米を炊くのが主目的の道具だったのである。魚もこれを使って煮ると骨まで柔らかくなるが、わが家ではもっぱら〈玄米食〉のために使われていた。〈玄米〉は、いうまでもなく稲粒から籾殻だけを取り去ったものである。普通の〈白米〉は〈玄米〉をさらに精白して、つまり薄皮や胚芽を取り除き、胚乳だけにしたものである。ただ栄養面からみると、除かれた胚芽や種皮、つまり〈米ぬか〉には、脂質、ビタミン、ミネラルなどが豊富に含まれている。だから、米の栄養分を残らず摂取するには、玄米食が良いということになる。今なら、玄米を食べれば繊維分がたっぷりとれるという利点も付け加わるだろう。問題は調理時間の長さと食味である。玄米は、長い時間水に浸しておく必要がある上に、普通のお釜ではよく炊けずに、ボソボソしたご飯になってしまう。
高圧釜は、こうした玄米を食べやすくするための道具だった。富士山頂など高山でご飯を炊くと、気圧が低いので沸点が低くなり、生煮えになるのはよく知られているが、高圧釜はその逆で、高圧にすることで沸点を摂氏一二〇度前後に上げ、玄米でも美味しく炊けるのである。とはいえ、高圧釜で炊いても玄米は玄米、白米より美味しいとはいえない。白米にくらべ茶色っぽく、噛みごたえがある上に、消化が悪い。そのため、「一口のご飯を最低五〇回から一〇〇回は噛むように」と、いつも言われていた。よく噛むと甘さがでてくるのも、玄米食の特色だった。しかし一口一〇〇回は、とても無理な相談だった。いくらガンバッテも二〇回か三〇回噛むうちに、口のなかには噛むものがなくなってしまったからである。それに一〇〇回噛むとなると、一口を食べるのに一分以上かかるわけだから、食事時間はとんでもなく長くなった。引退した老人ならともかく、仕事や学校がある者向きではない。
戦前でもあまり一般的ではなかった玄米食が我が家に入り込んでいたのは、母方の祖父・佐藤豊助が〈玄米食〉の信奉者だったからである。彼は自分が玄米を食べるだけでなく、会う人ごとに玄米食を勧め、「白米を食べるのは、栄養分をみな捨ててしまう馬鹿な行為だ」と説き、白米は〈かす飯〉だとけなしていた。玄米食推進のため頻繁に試食会を開き、人に頼まれては高圧釜を取り寄せていた。発売元は東京神田の栄養食品研究会、普通の釜が二円前後だった時に、その一〇倍ほどの価格であった。
祖父は「理性の人」であった。食事は、味よりも栄養価で判断していた。口で味わうより頭で食べていたのである。実のところ、彼の妻や娘たちでさえ〈玄米食〉を喜んではいなかった。祖父の死後、一族で〈玄米食〉を続けた家が一軒もないことが、それを証明している。
しかし、この男は、その強烈な個性で直接間接に私たちの生活に大きな影響を及ぼした。とりわけ二村の家は、彼と同じ上諏訪、それも歩いて二、三分のところにあり、日常的に行き来があったから、一族のなかでもその影響を大きく受けている。だから、祖父のことを語らずに『自分史』を書くことはできない。だが、佐藤豊助について論じていては、『食の自分史』の枠をはみだしてしまう。玄米食主義者である前に、熱烈なクリスチャンであり、半世紀余も禁酒運動のたゆまぬ活動家であり続けたこの男については、いずれ何らかの形で記録にとどめておきたいと考えているが、今回はここまで。