二 村 一 夫 著 作 集

食の自分史(一八)


おふくろの味(三) ──カリントウとドーナツ

かりんとう

 戦時下のわが家で、いちばん楽しみなおやつといえばカリントウとドーナツだった。月に一度か二度は、母が腕を振るった。作る時はいつも手伝ったから、たぶん日曜日だったのだろう。
 カリントウと言っても、いま市販されているような、まわりを黒砂糖で厚くコーティングしたり、白砂糖をまぶした揚げ菓子とは似ても似つかぬ代物だった。小麦粉に少量の砂糖を加えてこね、延ばして細く切って、油で揚げただけの素朴な菓子だった。材料は普通の小麦粉と砂糖だけで、イーストやバターは使いたくてもなかったから、サクサクという食感はなく、カリカリと固く噛みごたえがあった。それでも、甘いものや脂っこいものが乏しかった戦時下では、貴重品だった。わが家を訪ねて来られたお客さんにもすこぶる好評で、「こんな美味しいものはしばらく食べたことがない」などと言われ、母は単純に喜んでいたが、あまいものなら何でもうまい時代だったのだ。

 物資の乏しい時代にこんな菓子が作れたのは、父が昔から取り扱っていた商品のなかに食用油があったためだった。一番上の姉が嫁いだ先がその食用油の製造業者だったから、かなり親しい取引先だったに違いない。食用油といっても今のサラダ油ほど精製されてはいない白締油しらしめゆ、つまり天ぷら油で、一斗缶に入っていた。原料は、おそらく最初は大豆や米ぬか、菜種だったろうが、のちに原料が乏しくなると、蚕のサナギを原料にしたものになった。製油工場は製糸業が盛んな諏訪湖畔の岡谷にあったから、サナギは手近で大量に手に入る原料だったのだ。サナギの油は独特の臭いがしたが、それを気にする余裕のある時代ではなかった。

手作りドーナツ  カリントウよりちょっとだけ手間がかかるかわりに、作るのがずっと楽しく、美味しさもちょっとだけ良かったのはドーナツである。こちらは小麦粉と砂糖だけでなく、卵やベーキングパウダーなどを加え、いわゆる「ドーナツ型」にして揚げた。バターなどはなかったから、いま街で売られているドーナツのようなサクサクした口当たりではなく、どちらかといえば揚げパン風だった。もちろん砂糖をまぶしたりはしなかった。
 私が作るのを手伝った時には、粘土細工よろしく円い団子型や馬蹄型などいろんな形を作って楽しんだ。だが、そうして遊んで作った団子型のタネのなかに空気が入ってしまい、揚げている最中に大爆発を起こしたことがある。はねた油で母が顔に大火傷をした。誰が作ったものかは分からなかったが、犯人は私だった自覚があり、火傷の跡が消えた時にはほっとした。

 一九七七年にアメリカに行った時、到るところにドーナツのチェーン店を発見した。ドーナツの発祥地はオランダ説、ドイツ説があるようだが、いわゆるドーナツ型を生みだし、これを世界に広めたのはアメリカだった。つまり、わが家では戦争前夜から船中にかけて、敵国の食いものを作って喜んでいたわけである。いささかの懐かしさも手伝ってダンキン・ドーナツの店に何回か入り、売られているドーナツの種類の多さ、カラフルなコーティングやトッピングに驚いた。チョコやクリームはもちろん、ピンクやブルーなどなど、見た目に綺麗ではあったが食欲をそそる色ではなかった。薄いアメリカン・コーヒーと甘いドーナツの組み合わせは、アメリカ人にとって安価な朝食の定番だそうである。それと、ダンキンとはdunk in つまりドーナツをコーヒーやミルクに浸してから食べる習慣から来た名だそうである。
 しかし正直のところ、ダンキン・ドーナツの製品は私にはどれもこれも甘すぎ、加えてコーヒーは余りに水っぽく、数回行っただけで、後は敬遠した。甘いものに飢えた経験がある男が、甘すぎることに辟易するようになったのだから、贅沢になったものだ。

〔二〇〇四年一二月一三日〕



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