二 村 一 夫 著 作 集

食の自分史(一九)


も ち

餅

 この暮から正月は、我が家の「食の歴史」におけるちょっとした画期となった。これまでずっと自家で搗いてきた餅を、真空パックの出来合いで済ませてしまったのである。かなり前から、餅を食べる量は激減していた。とくに、ここ十年ほどは、新たな餅搗きの季節になっても、前の年の暮に搗いて食べきれなかった餅が冷凍庫の片隅に残っている始末だったから、これも当然の成り行きではあるが。

 餅は、焼くだけですぐ食べられる便利な保存食品である上に、美味しいご馳走であり、さらに腹持ちのよい食事として、日本の食の歴史に大きな地位を占めてきた。どこの家でも、一年を通じて何回かは餅を搗いたものだった。とくに歳末には大量に搗き、冬のあいだの食事やおやつにしたものだった。また、お祭りの折、赤ん坊の誕生や家の新築祝いに、あるいは賓客のもてなしに、搗きたての餅は最高のご馳走だった。もち米が貴重だったことに加え、前日から準備しなければならないだけに、心のこもったもてなしと受けとめられたものであった。戦前、祖父が郷里に帰った折、行った先行った先の親戚や友人の家で、判で押したように餅をふるまわれ、閉口した様子が日記に記されている。しかし餅がもっていたこうした役割も、いまでは文字通り「昔話」になってしまった。

 私も昔は、餅が大好きだった。とりわけ、搗きたての餅は大好物といってよかった。粒あんの「餡ころ餅」や香ばしい「黄粉餅」、大根おろしで食べる「辛み餅」が一般に好まれるが、胡桃や胡麻をすり砂糖を加えて、まぶして食べるのもなかなかのものである。夏なら、枝豆をすりつぶし、甘くしてからめた「ぬた餅」は文句なしに美味い。地域によっては「ぬた餅」でなく、「ずんだ餅」とか「じんだ餅」と呼ぶようだが、同じものである。切り餅の場合なら、焼いて醤油を付けた上でさらに焼き、醤油のこげた香りが香ばしい餅に海苔を巻いた「付け焼きの磯辺餅」が好物である。また、さっと焼いた餅を熱いお湯に浸し、黄粉をまぶした安倍川餅は子供の頃に慣れ親しんだ懐かしい味である。おやつとしての「お汁粉」や、いっぱい飲んだ後に食べる熱い雑煮もまた格別で、それを食べたあれこれのシーンを思い出させてくれる。

 餅の話となると、西日本の丸餅、東日本の切り餅、雑煮が味噌仕立てかすまし汁かといった違いなど、地域によって餅の種類や食べ方の違いが大きいこともあり、話し始めるとつぎからつぎへと話題のとぎれることがない。
 しかし、何時の頃からか、日本人はあまり餅を食べなくなってしまった。パン食の普及や、電気釜が一般化し、何時でも暖かいご飯が食べられるようになったことが影響しているのかもしれない。冷蔵庫や冷凍庫が使われるようになり、保存食としての餅への依存度が減ったこともあるであろう。インスタントラーメンのような競合食品の出現も無視できない。もっとも、私個人について言えば、体重増加が気になりダイエットを試みるようになったことが大きい。「餅一切れはご飯一杯に相当する」といった知識が、餅への食欲を抑えてしまったのである。

 何を隠そう私は餅搗きの大ベテランである。いや、大ベテランだった、と過去形で言うべきであろう。小学校六年生の年の暮、疎開先の信州で最初につき始めてから三十数年間、私は二村家専属の餅搗き男だった。「手返し」の相手は祖母から母、さらに家内へと変わったが、主な搗き手は私だった。父は商人で、歳末は一年でいちばん忙しい時期でしたから、餅搗きをする時間的余裕もなかったのであろう。一方私は、比較的早熟で、身体も大きかったので、小学生でも餅搗きくらいは出来たのだった。しかし歳月はまたたく間に過ぎ、四十代後半に入ると一臼搗く毎に横になって休まざるを得なくなり、現役引退をせまられた。そこへ、蒸して搗く作業を一貫してやってくれる餅つき器が出現したので、彼に席を譲ったのであった。何とそれからでも、もう二十年余の歳月が経った。忘れないうちに、昔の餅搗き体験を記録しておかねばなるまい。

 私が二村家の「餅搗き男」になったばかりの頃は、餅搗きに関しては祖母が一切を取り仕切っていた。天候やお日柄を選んで餅つきの日を決めるのは、彼女の権限だった。二九日は「苦餅(くもち)」に通ずるとかで避けたので、天気さえよければ、通常は一二月二八日か三〇日が餅搗き日だった。もっとも二九を「フク=福」と読んで、わざわざその日に搗いた家もあるようだが。餅つきの日が決まると、その前日には糯米(もちごめ)を磨いで一晩水に浸しておいた。
 餅つきの朝は、庭先に藁かムシロを敷いて臼を置き、あらかじめ熱湯を張って臼と杵を湿らせておかねばならなかった。搗くときに臼や杵にヒビが入らないよう、また蒸した米が臼や杵にくっつかないようにするためである。臼はケヤキをくり抜いたもので、杵は一人搗き用の太目のものだった。米を蒸す道具は蒸籠(せいろう)と呼び、檜の薄板を丸形にして桜の皮で留めた「曲物(まげもの)」だった。蒸籠を二つ重ねて大釜の上に載せ、一時間近くかけて蒸し上げる。米に芯がなくなり、食べて美味しいようになれば、蒸し上がりである。下の段が早く蒸し上がるから、これを臼に移してすぐ搗きはじめる。
 最初は杵を振り上げず、臼の周囲を回りながら体重をかけて蒸し米を押し潰す「小搗き」をする。熱いうちに素早く押し潰すのがポイントで、糯米に粘りを出し、搗く時に飛び散らないようにするためである。小搗きがすめばいよいよ杵を振り上げ、臼の真ん中めがけて振り下ろす大搗きに入る。搗き手が一人なので、臼の真ん中に蒸し米を集める「手返し」が必要となる。「返し手」は、まだよく潰れていない箇所を見定め、その箇所を臼の真ん中にくるよう手早く動かねばならず、搗き手と息があわないと怪我をするおそれがある。その点で、搗き手より返し手の方が熟練を必要とする。粘りが出てくると、餅に杵をつかまえられ、抜けにくくなるので、返し手が手水を打ったり、搗き手が杵を水にひたしてから搗く。搗きあがれば、片栗粉か上新粉を打ったのし台の上に移し、手早く四角く広げて出来上がりである。いや、実際には、これを切る作業がまだ残っている。搗きたてだと包丁にくっついて切れず、時間が経ちすぎると固くて切れなくなるので、タイミングが大事だし、楽な作業ではない。ぬれ布巾で包丁にくっつく餅を拭きふき切っていると、手が痛くなった。

 最初の一臼は鏡餅にした。床の間に飾る大きな鏡餅のほかに、家中のあちこちに中型小型の鏡餅を飾ったのである。床の間には下が直径二五センチほどのもの、仏壇には一〇センチ程度の中型のもの、さらに玄関や竈の神様、水神様などなど、家中のあちこちに直径五センチ程度の小型の鏡餅を飾った。父が商売で車を使うようになると、その一台一台にまで鏡餅を供えたから、祖母の晩年には、十数重ねはつくった。
 祖母にとっては、鏡餅を供え、あれこれの神様に一年のお礼と御願いをすることは、真剣な心からの祈りを込めたものであった。亡くなる直前に、毎年飾る鏡餅の場所を教え、その数だけ「お供え」を作るよう、切々と頼まれまれた。しかし不信心な私は、この遺言をついに守らなかった。神様に対しては、暖房がきき機密性の高い現代の部屋では、鏡餅はすぐ黴びてしまい、神様といっしょにいただくという本来の趣旨に背くことになるから、との言い訳けが出来るのだが、祖母にはなんとも申し訳けのしようがなく、いささかの心苦しさを感じている。

〔二〇〇五年一月五日〕



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