歳末の食事として、良く知られているのは「年越しそば」である。だが恥ずかしながら私は、未だかつてこの「年越しそば」なるものを食べたことがない。わが家では、
もともと「年越し蕎麦」は江戸の町人の間に生まれた、比較的新しい慣行である。その由来には諸説あり、長い「蕎麦切り」に長寿を願ったとか、切れやすい蕎麦に悪運を断ち切る願いをこめた、などと言われている。しかしこれは、縁起担ぎに後からつけた理屈であろう。おそらくは、一年中でいちばん忙しい日に、ゆっくり食事などしていられないところから広まった習慣に違いない。当時は物の売り買いは現金ではなく、盆と暮に決済する「掛け売り」が普通だった。年二回でなく、「掛け取り」は暮だけという業種もあったらしい。つまり、
一方「お年取り」は、「数え年」と結びついた行事である。今や日本人の多くが誕生日を祝い、年齢も満年齢で数えるのが普通だから、「数え年」はほとんど忘れ去られてしまった。若い人のなかにはご存知でない方もあるかもしれない。要するに、子供は生まれるとすぐ一歳と数え、その後は正月が来る毎に一歳を加えて行ったのである。戦前では数え年が普通であり、したがって正月には全員が年を一つ重ねる。そこで、これを家族全員で祝うのが「お年取り」なのである。つまり、家族全員の誕生日パーティといった意味合いの日である。
ではなぜそれが一月一日でなくて大晦日なのか。それは、かつて夜の灯りが暗く、人びとは太陽とともに働いていた頃、一日は日没とともに終わると考えられていたからなのだ。つまり、夜が新たな日の始まりだったのである。多くの地方で、大晦日の夕食に年取り魚をはじめとする大ご馳走が用意されていたのは、大晦日の日暮れで一年は終わり、新たな年が始まると考えられていた名残りなのである。
ちなみに、私の母は一二月三〇日生まれだから、数え年では、生まれて三日目にもう二歳になっていたわけである。一方、一月一日生まれの人は、まる一年経たなくては二歳にならなかった。こうした不自然さが、数え年の慣行をすたれさせた一因であろう。なお、母の生まれ年は一九〇六(明治三九)年、昨年暮に満九八歳の誕生日を迎えたのだが、数え年なら今年一〇〇歳である。ところで、一九〇六年は六〇年に一度やってくる
話がすっかり横にそれてしまった。本題は歳末の食べ物のことである。長くなりそうなので、わが家の歳末の食事の詳細は次回に回すことにし、「年越しそば」をめぐる私の疑問を最後に記しておきたい。
第一の疑問は、現在、実際に「年越しそば」で大晦日を過ごしている家庭は日本中でどれほどあるのだろうかということである。年を追うごとに増加傾向にあるのは間違いないと思うが、果たしてどれほどの比率だろうか。農村ではいまだに「年越しそば」ではなく、「年取り魚」で祝っているのではなかろうか? 年中行事と結びついた食習慣はわりあいよく続くので、わが家のように、都会でも「年取り料理」派が少なくないのではなかろうか。さらに言えば、そばは東日本で好まれているもので、西日本ではうどんが主である。確かなことは知らないが、讃岐の人が年越しそばを食べるとは考えられない。讃岐うどんの店で「年越しうどん」を売ってはいても、年越しそばを出すことはないだろう。そう考えてくると、「年越しそば」で歳末を過ごす人は存外少数派なのではなかろうか。
第二の疑問は、大晦日の食事を「年越しそば」だけで済ませている家はどれほどあるのか、という点である。夜食としてならともかく、正規の食事を、それも大晦日のように家族が大勢集まる日の会食をそばだけで済ますのは、気持ちの上で、また食欲を満たす上でも抵抗があるのではなかろうか。そばと同時にすき焼きを食べるのを恒例としている家を知っているが、「年越しそば」派のお宅でも、ほかに何かめしあがっているのではないだろうか。皆さまのご家庭はいかがですか?
【追記】
その後、私の疑問に答えてくれる掲示板を見つけました。YOMIURI ON-LINEのなかの「大手小町」の〈発言小町〉に「大晦日の食事」に関するスレッドがあります。三十五人の方が発言されており、なかなか興味深いものがあります。この掲示板の登場者がどれほど全国的な傾向を伝えているのか分かりませんが、やはり「蕎麦だけ派」は少数である一方、「年取り魚組」が予想外に少なく、寿司、すき焼き、しゃぶしゃぶ、鍋など多様な料理プラス蕎麦という方が多いようです。それも蕎麦は夜食的にあがっているようですね。〔一月九日〕