いささか季節はずれの話題で恐縮だが、年越しそばや「おのっぺ」を取り上げたついでに、わが家の「お年取り料理」のことを書いておこう。「お年取り料理」といっても「おのっぺ」のほかは、いわゆる「お
戦後になって物資がいくらか出回りはじめ、雑誌やテレビでお節料理の作り方が紹介されるようになると、母はそれまで作ったことのない伊達巻きを焼いたり、錦玉子を蒸したこともあった。しかし、それも試しに作ってみたという程度で、定番にはならなかった。私自身も、吹き寄せのお
書いているうちに、戦前は今の「お節料理」にはないメニューがいくつかあったことを思い出した。たとえば豆腐の寒天よせ、
甘いものに飢えていた子供のころ、お節料理のなかの好物といえば、栗きんとんや黒豆、胡桃の砂糖かけだった。一方、ちょっと苦手だったのは数の子である。当時は今のような塩数の子ではなく、干し数の子を何日もかけて戻して食べていた。あのボソボソとした食感が嫌で、「共食いはしない」と言って食べなかった。僕のように頭にカのつく名の子は、「カンズー数の子ニシンの子」とか「カッチャン数の子ニシンの子」とはやされていた頃の話である。そう言えば「馬鹿カバちんどんや、お前の母さん出べそ」だの「デブデブ百貫デブ電車に轢かれてぺっちゃんこ、ぺっちゃんこはせんべ、せんべは丸い、丸いは月」といった悪口歌が日常的に歌われていた。今の子供は、おそらくこんな歌は歌わないだろうが。
これはもちろん戦後、それも比較的最近のことだが、有名料亭の高級お節料理をあれこれ試みた時期がある。食べ比べの面白さがあり、各店とも見栄えを競うプロの技には感心し、それなりに美味いと思う品もあったが、好みでない品も多く、間もなく飽きた。今では「年取り料理」でも、ご飯のおかずになるようなものが欲しい。したがって「おのっぺ」と年取り魚、それに黒豆があれば、あとは何でもかまわない。
さて、その肝心な「年取り魚」はといえば、わが家では昔から
ところで、鰤が年取り魚として祝い膳にのぼったのは、成長するにつれて名前の変わる「出世魚」だからという説がある。それもひとつの理由ではあろうが、信州で鰤が年越し魚となったのは、ふだんはとても口に出来ない贅沢品だったからだろう。寒中に日本海で捕れる「寒ブリ」は脂がのり、淡水魚にはない美味しさがある。年末年始の寒い季節なら、冷蔵設備のない時代でも、塩蔵さえすれば、日本海でとれた魚を遠路はるばる山国まで運ぶことが出来た。これが古くから鰤が信州で年越し魚として珍重された理由であろう。
よく知られているように、年取り魚は東日本では鮭、西日本では鰤である。この鮭文化圏と鰤文化圏の境界線は、信州を二分していた。鰤文化圏の東端が中南信である。つまり木曽、飯田、松本、諏訪がこれに当たる。おそらくわが家の食の伝統は、祖母がかつて暮らしていた飯田辺りの食文化を受けついでいるのであろう。ただ、鰤文化圏といっても、家によってはブリではなく、サケやサンマあるいはイワシを年取りに使っていた。鰤は目玉が飛び出るほど高かったからである。
年とり魚に鰤を使う伝統は戦国時代にさかのぼるのだそうで、能登や富山で水揚げされた「