嬉しいことに、疎開先の大叔父の家では、毎食が白米だけのご飯、つまり「銀めし」だった。玄米食や七分搗き米、麦飯やジャガイモ芋混じりのメシ、大根葉ご飯、さらにはウドン、スイトン、お焼きなど、さまざまな「代用食」に慣れた口に、大きな羽釜を使って薪で炊きあげた香りのよい「銀めし」の旨さは格別だった。いまだに好物の第一が「米の飯」であるのも、この時の記憶がインプットされているからだろう。
かつては日本の農民、とりわけ小作農は、米はハレの日にしか食べず、普段は雑穀を主とする「カテめし」を食べていたという。しかし、いつの頃からか、米作農家の多くは米の飯を食べるようになっていたのである。もちろん、一小学生が日本中の米作農家の食卓事情を知る由もないから、これは私が疎開していた信州の一山村での限られた体験にすぎないが。おそらく戦時下の供出制度のもとで自家飯米の保有が認められたことが、米食の普及に寄与したものであろう。同時に地主の米価と生産者米価の二重価格制のもと小作料の金納化がすすみ、さらに養蚕など現金収入を得る手段も増えていたから、米作農家が自家飯米を確保することはそれほど難しくなかったのではなかろうか。
その頃、都会では玄米食が一般化しつつあった。疎開する前年、つまり一九四三(昭和一八)年初めには、配給米が七分搗きか玄米になったからである。玄米食主義者の祖父は、あちこちへ呼ばれて、玄米の炊き方を教えていることが日記に記されている。一方、なんとか白米を食べようと、配給の玄米を一升瓶に入れて細い棒で根気よくついて精白した人も少なくなかった。また配給米には小石や籾殻などゴミが混じっていることが多く、これを拾い分けるのは子供の仕事だった。当時は、メシを食うにもけっこう手間がかかったのである。
念のためにつけ加えると、「配給」といっても、タダで配られた訳ではない。すべて有料だった。前年に祖母に先立たれた祖父は、一九四三(昭和一八)年二月に一人一ヵ月分の配給米六升五合(十キロ弱)に二円八十銭を支払っている。今の若い人びとは、「配給」と聞くと被災地で無料で配布される物資を連想される方が多いそうなので、一言。
話は横にそれるが、家で食事をしない人は、米の配給の代わりに「外食券」の配布を受けていた。一般の食堂では、もはや「外食券」なしには、食事を出してくれない時代だったのである。外食券三十枚、つまり十日分が、米二升三合に相当したという(山田風太郎『戦中派虫けら日記』昭和十九年二月十一日)。例外は「雑炊食堂」で、外食券なしでも食事が出来た。ほんの僅かの米に野菜類をいっしょに炊いた雑炊を提供していたのであった。疎開直前に、田端駅から鉄道病院〔今は「田端文士村」のあるビルになっている〕の横の坂をあがりきった辺りに「雑炊食堂」ができ、「あの店の雑炊は箸が立つ」といった噂を子供までが聞きかじっていた。ことほど左様に、都会では、米とりわけ白米は飛びきりの貴重品だったのである。
集団疎開の学童が、絶えずひもじい思いをしていた話を聞くにつけ、私の場合は、食事に関する限り、恵まれ過ぎていたようである。これを書きながらでも、なんとも申し訳ない思いがする。