(26) 塩イカ第二次大戦中、より正確に言えば1944年の7月から9月にかけて、弟と二人で信州は蓼科北麓の母方の大叔父の家で過ごした。母が来るまでの間、祖父の生家に縁故疎開したのである。その数ヵ月は、今にして思えば、私の食の歴史のなかできわめて特異で、また貴重な体験だった。それまでの町の暮らしとは違う、日本の農村の伝統的な食習慣をかいま見ることが出来たからである。もっとも、戦前の農村の主食は長い間雑穀や野菜を混ぜたカテ飯が主だったというが、米作農家ではすでに米食に変わっていたことは、前回述べたとおりである。ただ、副食は昔からの一汁一菜、ごく質素なものだった。来る日も来る日も、三食三食、自家でとれる野菜を食材とした汁やおかずが食卓にのった。いやこの家に食卓はなかったから、載せたのは「箱膳」の蓋の上だったが。
汁はもちろん味噌汁だった。大鍋を囲炉裏の火にかけ大量に作った。自家製の味噌は豆の形が残っていたから、その都度すり鉢ですって、味噌ザルで漉していた。季節は夏だったから、具は庭先で穫れたばかりの野菜類──ささげ、さやエンドウ、茄子、ジャガイモなどだった。それまで茄子の味噌汁など食べたことがなかったから、皮の色が染み出て黒みを帯びた味噌汁は、汁の色だけで不味そうに感じた。だが、食べ慣れると味は悪くなかった。
そうした質素な食事のなかで、生まれて初めて食べ、いまだに忘れがたい思い出を残しているのは塩イカである。「塩イカ」は言うなれば夏の信州特有の海産物である。寒ブリなどと同様、北陸の海でとれたイカを丸ごと皮を剥き、蒸すか茹でるかした上に、胴いっぱいに塩を詰め、足で栓をしたものである。もちろんこのままでは塩辛くてとても食べられたものではないから、家の前を流れている小川に長い時間浸して塩抜きをして食べたのである。通常は輪切りにし、薄切りのキュウリと一緒にして塩もみ風にするが、塩気が抜け過ぎたものは、ショウガ醤油で食べることもあり、ご飯のおかずとしては最高だった。 戦時下の信州の農村の質素な食生活を見てきたが、しかしこれとて、当時の都会の庶民の食卓とは、比較にならない豊かさだった。都会では食料品はみな配給制になり、それも何時でも商品があるわけではなく、売っている店があれば、皆すぐに行列をつくり、長時間待ってようやく買う状態だったのである。キュウリや大根でさえ手に入り難くなっていた。その一端をつたえる歌が『昭和万葉集』にいくつか収められている。 「列つくりもの買ふ事が常識のごとくになりて時間費す」(近藤千代子) 東大教授であり、戦後すぐ東大総長になった南原繁でさえ、キュウリ1本を手に入れるのが容易ではなかったのである。それに比べれば、農村ははるかに恵まれていたと言うべきであろう。
|
|
||
|
||
wallpaper design ©
Little House |
|