二 村 一 夫 著 作 集

食の自分史(三一)

ばんかぜり

 「ばんかぜり」をご存知だろうか? 水のきれいな小川に自生している野草である。濃い緑を基調とし一部紫がかった葉を、蔓状の茎につけている。私が疎開した蓼科山麓の山村には、いたるところに細い用水路があったが、とりわけ湧き水を源流とするような清流を好んで、その岸に根付いていた。旺盛な生命力をもつ草で、刈り取っても刈り取っても再生し、他の水草を押しのける勢いで群落をなして広がっていた。

 白状すると、私もふくめ地元の人間はあまり「ばんかぜり」を食べようとはしなかった。食用になることは知っていたから、時にはおひたしにしたが、ちょっと苦みがあり、子供の好む味ではなかった。
 繁殖力旺盛である上に、誰もとらないから、よく兎の餌にした。短時間で大量に集めることが出来たから、急いでいる時には便利な餌だった。『食の自分史』に、なんで「兎の餌」の話かと思われるだろうが、実は戦後になって「ばんかぜり」と卓上で思いがけない再会をはたすことになる。脂っこい肉のあと、少量ならほのかな辛みと苦みで口直しになる。いつの間にか、あの「兎の餌」がフランス料理や洋食の高級食材に昇格していたのに驚いた。

 左の写真でお気づきになるだろう。実は「ばんかぜり」は、肉料理の付け合わせに出てくるクレソンそのものだった。「ばんかぜり」というのは、おそらく信州ローカルの名前である。ことによると千曲川上流沿岸の佐久・小県(ちいさがた)地方だけの呼び名だったのかもしれない。これも後で知ったことだが、「ばんかぜり」を漢字で書けば「晩霞芹」であった。

ばんかぜり

 この「晩霞」とは、小諸義塾で島崎藤村の同僚だった画家・丸山晩霞のことである。藤村の「千曲川のスケッチ」に、「水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した」と描かれているB君は晩霞に他ならない。彼はまた、藤村の小説「水彩画家」のモデルであり、この小説に対し「島崎藤村著『水彩画家』主人公に就て」と題する抗議の一文を『中央公論』に発表したことでも知られている。
 なぜ、この画家の名がクレソン(ウオーター・クレス)の和名、いや信州・あるいは千曲川上流域ローカルの日本語名称に冠されることになったのか、理由は定かでない。一説には、彼がクレソンをヨーロッパから持ち帰ったからだと言われている。だが、クレソンはすでに明治初年には日本に入っていたらしいから、これは事実ではなかろう。晩霞がアメリカ、ヨーロッパで絵を学んで帰ったのは、明治三〇年代初めのことなのである。
 もうひとつの説では、この野草が食用になることを教えたのが丸山晩霞だったからだという。「千曲川のスケッチ」で描かれているB君は、花や草について詳しい人物である。また晩霞の主要な画題のひとつが高山植物であったことは良く知られている。そうした点から推して、晩霞がクレソンについて周囲に語ったであろうことは十分にありうる。ただ、この晩霞の教えが私にまで届かなかったこともまた確かで、だから「兎の餌」で終わっていたのであった。もっとも、ステーキをはじめ、肉料理を食べることなど夢にも考えられなかった時期だから、しょせん高級食材にはなりえず、ほとんど雑草同然だったのであった。

〔二〇〇六年一〇月三〇日〕



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