この季節になると、疎開時代、茸狩りに夢中になった日々を思い出す。カサコソと落ち葉を踏む微かな足音に混じって、ときどき枯れ枝を踏み折るパシッという高い音が響く、静まりかえった山の秋だった。他の人と出くわすことなど、ほとんどなかった。下ばかり向いて歩くのに疲れ、顔をあげると、葉を落とした木々の間から真っ青な高い空が見えた。いま思うと、小学生が暇さえあれば一人で山の中を歩き回るなど、子供らしくない遊び方だった。やはり「疎開っぽ」は周囲になじめず、孤立していたに相違ない。
茸狩りと言っても、なにを狙うというわけではなく、めったやたらと歩き回り、目についたキノコをはじから採り、背負った篭に放り込む我流の茸狩りだった。でも、毎回たくさん採れ、味噌汁や混ぜご飯などに入れて食べた。食べきれない分は乾して保存したが、乾燥キノコは日向臭く、美味しくなかった。
子供でもわりあい良く採れたのは〈ジコボウ〉と呼ぶ、傘にややぬめりがある茶色のキノコで、落葉松林に多かった。見つけやすかったのは、形や色に特色のある〈ねずみ茸〉や〈たまご茸〉などだった。〈ねずみ茸〉は別名を〈ほうき茸〉というように、草ボウキの形をしていた。白や灰色、茶色いものなど何種類かあった。だが、何で〈ねずみ茸〉と呼ぶのかは分からない。〈たまご茸〉は、出始めの形は文字どおり白い卵型の茸であった。大きくなって、殻が割れ、真っ赤な傘が開いた。食用になるのだと聞いたが、開いた傘の色が毒茸のようで、怖いから、あまり口にはしなかった。
「香り松茸、味しめじ」というが、子供が歩く範囲では、松茸は目にすることもなかった。一方、シメジという名がつくものに〈イッポンシメジ〉や〈ムラサキシメジ〉があったが、ちょっと苦みがあったりして、子供の口にはとても美味しいキノコとは思えなかった。「香り松茸、味しめじ」ともてはやされる「しめじ」とは〈本しめじ〉のことで、〈イッポンシメジ〉や〈ムラサキシメジ〉は〈ホンシメジ〉とはまったく別種だとは、後で知ったことだった。
なんと言っても、私の茸狩り体験で、最高の瞬間は〈くりたけ〉を見つけた時だった。〈くりたけ〉は楢の切り株や倒木の周辺にここに十数本、あそこに十数本と群生するキノコだから、運良くそうした場所──「シロ」と呼んでいた、たぶん「城」だろう ── を見つければ、一度にたくさん採れた。味噌汁に入れたり、くりたけご飯にすると、味が良く、シャキシャキとした歯ごたえも楽しめた。もっとも、そんな〈くりたけ〉の「シロ」は、山をよく知る人が、それぞれ自分だけの秘密にして、たえず見回っていたから、小学生が見つけるのは容易ではなかった。ただ、たった一回だけだが、手つかずの〈くりたけ〉の「シロ」を発見したことがある。半坪ほどの広さのなかいくつもの株がいっせいに生えていた。それを見つけた時の、文字どおり身体が震えるような興奮は今なお忘れがたい。
この記憶は、自然に祖母の思い出につながってくる。〈くりたけ〉のシロを見つけたのは、祖母と二人で山の畑に出ていたときのことだったからである。仕事にあきて、畑の縁に広がる林の中へ、なんの気なしに入ったところ、そこで〈くりたけ〉が群生しているのを発見、大声で祖母を呼び、二人で夢中になってこれを採ったのだった。
敗戦の年の春、空襲で田端の家が焼け、父と二人で東京に踏みとどまっていた祖母も疎開して来た。働き者だった祖母は、すぐ家から3キロも離れた桑畑を借り、これを短期間で野菜畑に変えたのであった。桑の根は太い枝をひろげており、これを掘り出すだけでも、たいへんな重労働だった。重い唐鍬を振るって何本もの硬い根を伐り、これを掘り出すのは、開墾同然の作業だった。しかも片道3キロの坂道を、行きには肥桶を運び、帰りには取れた野菜をかついで帰る毎日だった。身体が小さく、すでに還暦を超えていた祖母には、辛い仕事だったに相違ない。「子は親の背中を見て育つ」とよくいうが、僕は祖母の背中を見て育ったような気がする。