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二 村  一 夫

足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に対する一批判──

はしがき

 わが国の労働運動の歴史に関する著作は、これまでも決して乏しくない。しかし、これはあくまでも量的に言ってのことであって、質的には著しく貧困であると言わねばならぬ。このことは、言うまでもなく、この分野が本格的に学問的研究の対象となったのがようやく第二次大戦後のことであるという、学問自体の若さによるものであろう。しかし、戦後もすでに十余年を過ぎた現在では、もはや、単に「学間の若さ」のみにその責を帰しておくことは出来ない。
 では何が、現在、労働運動史研究の発展を阻害しているのであろうか。これを、かつて塩田庄兵衛氏は、第一に資料の貧困、第二に方法の貧困にあると指摘された(1)。この指摘は現在でもなお正しいと私は考える。だが、第一の点についてはその後──なかんずくこの一、二年来、各所で史料の発掘が進められており、研究者相互の連絡組織の整備とあいまって、しだいに克服されつつある。これに反し第二の点については、塩田氏の指摘からすでに5年余りを経た今日においても、充分な成果をあげるに至っていない。当面、その克服こそ、労働運動史研究のための中心的課題とされなければならない。本稿はそのためのひとつの試みである。

1 分析視角

 ところで、従来の労働運動史の多くは、一般に実践家の回顧録乃至は事実羅列の年代記的色彩が濃く、それぞれすぐれた点を持つものではあっても、そこから直ちに、方法的に多くを学ぶことが出来ない。こうした中で、大河内一男氏のいわゆる「出稼型」論は、何よりも日本の労働運動の特質を問題にされ、その特質を生んだ根拠の究明を意識的に試みられた点で、重要な意義を有している。これによって、従来の無方法的な労働運動史研究は科学的に基礎づけられた、と言っても過言ではなかろう。この「出稼型」論は、現在もなお、労働問題研究の上に大きな位置を占めており、今後の研究に当ってその成果を無視することは許されない。
 ではこの「出稼型」論とは如何なるものか、すでに周知のことではあるが、以下簡単にそれを見ておこう(2)
 「出稼型」論の大前提となっているのは、次のごとき命題である。すなわち「一国の労働運動、労働問題は、その国の『労働力』の特質(型)によって基本的に制約される」。ここに於て、労働力の型とは、その労働力そのものを創出した基盤たる経済構造に規定され、したがって、(1)資本制経済の各発展段階、(2)地域的、国民的差異の二要因によって制約されるものであるとされる。なお、この労働力の型の国民的差異は「時間の経過とともに次第に単一の、資本主義的に標準的な『労働力』に近づくのではなく、それ自体一つの特殊な、国民的な、『労働力』型として形成され、この資本主義経済の型が、一つの纏まりのある型として、すなわち経済上の諸範疇の特定の構造として、存続するかぎり、それは『労働力』一般に解消されることはない」(3)というのである。

 かかる前提の上で、つぎに労働力の日本型が規定される。すなわち日本資本主義はその創出期において、イギリスにおいて典型的に遂行されたごとき徹底的な農民層の分解、独立自営農民の一掃をなし得なかったため、その後も一貫して小農経営を維持しつつ、その中から労働力の供給を得てきている。ここに必然的に、日本の労働者はなんらかの形で前近代的な農家経済との結びつきを持つものとなり、言葉の広い意味における「出稼型」が成立する。この「出稼型」こそ正に労働力の日本型であり、明治から今日に至るまでの一切の日本の労働問題──低賃金、劣悪な労働条件、横断的労働市場の欠如、身分制的労働関係、労働組合の組織形態(企業別組合)、労働者意識の前近代性、労働運動の不安定性等々──の根底にあり、それを基本的に制約しているものであるというのである。以上に見るごとく「出稼型」論は単なる労働運動史の方法論ではなく、むしろ労働市場論、労働組合形態論を主とする日本の労働問題一般についての理論である。しかし大河内氏は、先の前提──労働力型は資本制経済の発展段階によって制約されるとの──にも拘らず、我国の場合には、労働力の特質は「出稼型」として「明治から大正を経て昭和に至る迄、日本の資本主義経済の発展にともなって解体することなく、むしろ逆にいよいよ固定化し、それ自らひとつの型としての論理を貫徹しつつあるかのごとくである(4)」とされ、ここに「出稼型」は日本の労働運動の全歴史を理解する鍵ともされるのである。以下、本稿で我々の問題とするのは、主としてこの労働運動史の方法としての「出稼型」論であり、決してそれ以上ではない。
 ところで、すでに述べた如く、この「出稼型」論は現在も労働問題研究の上に大きな影響力を有しているのであるが、これが全面的に一般の承認をかち得ているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ多くの人々はこの理論に対して批判的であり、各分野において、これに対する反論あるいは修正が試みられている。いま私がここで、さらに「出稼型」論批判を展開することは、屋上屋を架すのきらいがあるかも知れない。しかしながら、従来の批判の多くは「出稼型」論の論理の枠の中での批判、修正に止まるか、さもなければ、これをきわめて一般的な公式によって批判するに終っており、しかも労働運動史の分野では、それさえ殆んど行われていない。そこで先ずはじめに、従来なされた批判を参考にしながら、やや詳細に検討しておくことが必要である。
 これまで批判者が「出稼型」論の問題点として一様に指摘して来たのは、その宿命論的性格である。たとえば大友福夫氏は「出稼型」論の重要な一環である企業別組合論を批判して、次のように述べられている。「何よりもこの考え方の弱いところは、それでは〈企業別組合〉から脱却するにはどうすればよいのかという行動の指針なり手がかりが全くみいだせないことにあらわれている。賃金労働の日本型といわれるものが、日本資本主義の構造そのものに由来していると説明されるだけであって……構造が変らない限り、宿命的なものとして日本型労働が存続することになって、この構造を変革する指導勢力たるべき労働者階級について、すこぶる悲観的な見通ししかもてぬことになる(5)」。
 私もこの批判に同意する。しかし、ここで単に「出稼型」論を宿命論であり、現状解釈論であると批判するに止まり、何が「出稼型」論を宿命論たらしめているのかが解明されなければ、問題は一歩も前進しない。
 では、何が「出稼型」論を抜け道のない宿命論たらしめているのか。結論的に言ってしまえば、それは大河内氏に於ける「型」把握の一面性にあり、その方法の非弁証法的性格にある。以下それを具体的に見よう。

 I 先ず第1に問題となるのは、「出稼型」論に於てア・プリオリに前提され、しかも大河内氏の立論の全ての基礎にある「一国の労働運動、労働問題はその国の『労働力』の特質によって基本的に規定される」という命題である。この前提のうちに、すでに、大河内理論の一面性が示されているのである。言うまでもないが、労働運動は一人相撲ではなく相手のあるたたかいである。ところで、一般にある一つのたたかいの性格が、常にそのたたかいの一方の当事者の性格のみによって基本的に規定される、などということがあるだろうか。明らかに「否」である。「敵を知り、おのれを知らば、百戦するもあやうからず」という言葉は、労働運動の場合にもあてはまる。一国の労働運動の特質を知るには、単に、その国の「労働力」の性格を明らかにするだけでは充分でない。同時に、その相手の性格──具体的に言えば、一企業内での労務管理組織等をはじめとし、国家権力に至るまでの、広い意味での支配階級の抑圧形態、更には、その国の産業構造、ならびに各産業の生産過程の発展段階の特質等──を解明することが不可欠である(6)。そもそも、労働力の特質にしてからが、こうした相手の性格と相互規定的なのであって、互に切り離しては理解し得ぬものなのである。もちろん 、大河内氏も具体的な歴史過程の分析、叙述に当っては、必ずしもこのことを無視されている訳ではない。例えば、『黎明期の日本労働運動』『戦後日本の労働運動』には、治安警察法等の弾圧法規の存在、また、巨大経営に於ける福利施設の持った意義等も指摘されている。だが、これらの要因は、大河内氏の理論の内部に正当に位置づけられてはいない、というより、その論理の内部に存在を許されていないのである。

 II 次に問題なのは、「出稼型」論が、労働運動の意識的、主体的な側面を全く無視していることである。すなわち、労働組合、あるいは労働者意識は、労働力の「出稼型」なる客観的要因によって一方的、機械的に規定されるのみであって、逆に、労働組合や労働者の意識が客観的要因に働きかけ、これを作りかえる力さえ持つものであることが、見失われてしまっている(7)。この点に、「出稼型」論の非弁証法的性格は最も明瞭にあらわれており、「出稼型」論が宿命論、あるいは現状解釈論とならざるを得なかった最大の根拠がある。
 以上で、「一国の労働運動、労働問題はその国の労働力の特質によって基本的に規定される」という命題がそのまま承認し難いことは、明らかになったであろう。これは、当然、「賃労働の特質は労働運動を制約する重要な、しかし一つの要因である」と変えられなければならない。
 では、このような限定を付せば、「出稼型」論は生かし得るであろうか。これに答えるには、その前に、我国の労働力の特質を「出稼型」と規定することの当否が、問われねばならない。

 III 大河内氏によれば、我国の賃労働の「一般的な特質」は、明治から今日に至るまで、一貫して広義の「出稼型」であるという。氏は、その例証として次の4つのタイプをあげられる。
 (a)紡績女工を典型とする「年季奉公的出稼」
 (b) 北洋漁業、あるいは土建労働等への季節的出稼
 (c) 一般の工場労働者の大部分に見られるところの、景気変動にともな って農村、都市間を往復する「流動的過剰人口」
 (d) 地方新興工場地帯等に於ける近郊農村よりの「通勤工」
 (a)(b) については、もちろん 、我々は氏の主張を承認し得る。(d) についても、問題はない訳ではないが、一応了解してよい。だが、(c)──「男子労働者の中心である工場、鉱山、交通(8)」における型であるという「流動的過剰人口」については、殆んど決定的とも言える批判がある。すなわち、並木正吉氏は、国勢調査の農村人口(5000人未満の町村人口)の動態を克明に分析して、次のような事実を明らかにされた(9)
 大正9年以降、第二次大戦後にわたって、我国の農家人口の村外流出量はその自然増加人口に等しく、好況不況にかかわらず、一定の余剰人口を、ほぼコンスタントに排出してきた(大正9年以前については、適当な資料が欠如しているが、この事情は、基本的には、明治中期にまでさかのぼって妥当する、と推定されている)。
 以上の事実は、無論、個々の事例としては、不況時に一時的に帰村した者が存在したことを否定するものではない。しかし、全体的に見れば、農家出身労働者であっても、不況時において、帰農、あるいは帰村し得たものは極く少数であったことを示している。したがって、大河内氏自身の規定にしたがっても一般の工場、鉱山、交通等の労働者については、これを出稼型とすることは出来ないはずである。これをあえてするには、出稼型=農村出身労働者、と規定するほかはないであろう。大島清氏も、この同一の事実を、反対の側面から、次のように指摘し、「出稼型」論を批判されている。「農村にいつまでも片足をおく労働者とならんで、都市に定着し、しだいに heimatlos になる自立的な労働者も増加してきたことは否定し得ざる事実である。……日本の労働者の類型をたんに『出稼型』と規定するのも一面的たるをまぬがれない(10)」。

 IV 仮に、III、で指摘した問題がなかったとしても、我国の賃労働の特質を「出稼型」と規定するには、疑問がある。何となれば、「出稼型」は、実際には、労働力の特質そのものではなく、単に労働力の、労働市場に於ける特質たるに過ぎないからである。
 労働力の特質が、その労働市場の性格によって規制されること、これは、否定さるべくもない事実である。だが、そのことは、労働力の特質が、その労働市場における在り方によってのみ、あるいは、少くとも、その在り方によって基本的に規定されることを意味するであろうか。そうではない。何故なら、労働力の存在の場は、労働市場のみではない。更に言えば、労働力の主たる存在の場は労働市場ではないのである。労働力がまさに労働力たることを実証するのは、直接的生産過程、すなわち、資本の支配する生産機構のうちにおいてであり、そこにおいて、その生産機構の性格に応じて、労働力は必然的に規定されるものである。
 言うまでもなく、この生産機構による労働力の規定性は、各産業部門、更に各職種によって、著しく異った性格を有する。例えば、きわめて高度な技術的修練を要求される機械工、あるいは、カンとコツに基く技能的熟練がものをいう製糸女工、重労働ではあるがさほど熟練を必要としない採炭夫、等のごとく。
 更にまた、同一産業部門においても、新たな技術、新たな分野の発展にともな って、既存の労働力が再編、陶冶されるか、あるいは、別個の新たな労働力が需要されるかは別として、労働力の特質は変化せざるを得ないのである(11)。しかも、極く一般的に言えば、近代的諸産業の機械体系は、労働市場において如何に前近代的な性格を持っていた労働力であろうと、その生産過程に必要な技術的、社会的訓練を施し、これを近代的労働者に鍛え上げて行くものなのである。「出稼型」論が抜け道のない宿命論に陥らざるを得なかった一つの理由は、この事実を無視したところにある。
 以上で、「出稼型」論が宿命論に陥ってしまった根拠は、一応明らかにされたであろう。しかしながら、これで「出稼型」論批判が完了した訳ではもちろん ない。考えねばならないのは、「出稼型」論が、多くの、それ自体正しい批判にも拘らず、いまだに、労働問題研究の上に大きな影響力を有している事実である。それは、何よりも「出稼型」論が日本の現実を問題にして、一面的ではあっても、その分析に成功しているのに対し、批判者の多くは、単に、それを方法的に批判、修正するに止まっているためである。かかる状態を克服するためには、批判者が、その批判を現実の分析、把握の上に生かし、それが、「出稼型」論に比し、現実をより正しく把握するところの、より秀れた方法たることを示す他はないであろう。小論は、そのための一つの、試みである。とはいえ、現在の私の力では、さきの批判点の全てにわたって論じることは不可能である。ここでは、主として第4の批判点に関連して、問題をとり上げるに終らざるを得ない。もちろん 、その他の諸点についても、出来得る限り論及したいと考えてはいるが。
 対象となるのは、明治期の金属鉱山における労働運動であり、とりわけ、明治40年のそれが、いわゆる「足尾暴動」を手がかりとして究明される。ここで金属鉱山という一産業における運動に対象を限定したのは、第1には、当面、生産過程の労働運動への規定性を追求するには、これを全産業にわたって概括的に行うよりも、一産業を対象とし、それを歴史的に追求することが、より必要とされると考えるからであり、第2に、鉱山労働運動が、明治期の労働運動史において、きわめて独自的且つ重要な位置を占めると考えるからである。
 後者について今少し説明を加えれば、鉱山労働運動は、明治の初期から、数多く、また大規模かつ尖鋭に闘われたことによって知られ、とりわけ、明治期を通じて労働運動が最も昂揚した明治40年においては、現在明らかにされているだけでも、金属鉱山で約17−8件(炭礦、硫黄山を加えれば25−6件)の暴動、あるいはストライキが記録されており、他の産業にはこれと比肩し得るものはない〔第1表〕(12a)

第1表 明治30〜40年 同盟罷業職種別参加人員および件数
年代 類別 製糸職工 紡績職工 造船職工 木挽職工 鉱山坑夫 採炭坑夫 仲仕 その他 総計
30年(7月〜12月)参加人員842207150047340-2,1223,510
件数221141-2132
31年(1月〜12月)参加人員425不明1,1781,250157304-2,9796,293
件数314233-2743
32年参加人員不明---214-3,6001,0204,834
件数1---2-11115
33年参加人員45500--1,302--4092,316
件数13--4--311
34年参加人員75--4098680879681,948
件数1--11311118
35年参加人員52------1,7971,849
件数1------78
36年参加人員185-800---3741,359
件数2-1---69
37年参加人員63--14--820897
件数1--1--46
38年参加人員7008015070532-3,4815,013
件数31112-1119
39年参加人員428--350325-9342,037
件数1--12-813
40年参加人員--6912492,4711,4106,66211,483
件数--341663160

【備考】
(1) 30〜35年は農商務省工務課「労働者団体及同盟罷業ニ関する調査」(明治35年刊)
(2) 36〜40年は同「同盟罷業ニ関スル調査」(明治41年刊)による。うち4回人員不明

 更に、本稿で主たる対象とする足尾銅山の場合には、当時としては殆んど唯一の、社会主義者の指導による労働者組織、労働運動が存在し、しかも、その明治40年の暴動は、同年の一連の運動の口火を切りその昂揚に大きな影響を与えた、という意味でもきわめて重要なものである。

 

2 問題の所在

 まず、問題の手がかりを得るために、従来の研究が、明治40年の鉱山における労働運動の昂揚をどのように評価し、規定しているかを見ておこう。
 大河内氏は、足尾暴動について、「特徴は、苛烈な原生的労働関係と奴隷制的飯場制度の強度な支配とは、労働組合の力をもってしてはコントロールできない暴動を惹き起すという点(12b)」にあるとされ、更に、「四十年代における各地の炭坑、鉱山、造船所、軍工廠等における大規模な争議の頻発は、何れも足尾銅山の暴動と同じ社会的基盤にもとづくものであった(13)」と説かれている。

 又、氏は、40年代におけるストライキの特徴を、次のように述べられている。
 「すべてを通じて賃銀引上要求が共通している。戦時中抑制されて来た賃上げ要求が一挙に解決を逼ったのであり、また戦後における人員整理と合理化にともな う労働強化もおのずから賃上げに労働者を趨かしめずには措かなかったであろう(14)。」
 「各種の炭坑のほかとくに銅山におけるストが際立って多く大規模であるのは、激しい軍事的需要と鉱山における封建的圧制との二重の桎梏に対する労働者の反撥の結果であろう(15)。」
 「ストが何れも正常な形で発展するのでなく、自然発生的な形態で勃発している。労働組合が存在し、その要求が容れられずにストが起るのではなく、苛烈な労働条件や身分的な拘束に対する鬱積した不満が何かの導火で勃発するのである(16)。」この他、氏は、各所でこの点に関して言及されているが、それらをまとめると、明治40年の鉱山労働運動の昂揚の規定──大河内氏はこれを明瞭な形で示されているわけではないが──は、次のごときものと考えられる。
 1) 根本的には、苛烈な原生的労働関係と奴隷制的飯場制度の強度な支配によって惹き起されたものである。
 2) しかも、労働組合組織が抑圧されていたために、反抗は、常に、「本能的」あるいは「自然発生的」な形態をとらざるを得なかった。
 3) とくに40年に昂揚を示したのは、戦時中の賃金ストップに加え、戦後における人員整理と、合理化にともな う労働強化によるものである。
 岸本英太郎氏もこれとほぼ同様の見解であることは、次の引用によって知られる。
 「明治四十年には戦後恐慌が勃発し、多くの失業者を出し、労働者階級の窮乏化著しく、労働者は烈しい弾圧のもとに相踵いで自然発生的なストライキに立上ったのである(17)。」
 「三十年代末から四十年、四十一年に亙るストライキの頻発は、原生的労働関係に対する労働者の自然発生的な抗争であり、自覚し組織化された労働者の意識的なストライキでは決してなかったのである(18)。」

 これ以上の引用は避けるが、こうした評価が従来のほぼ一致した見解であることは承認されてよいであろう。
 かかる規定は正当であろうか。
 一応は──というのは、これらが何れも啓蒙的概説書であることを考慮に入れるならば、誤りであるとは言えない。しかし、又、充分に正確な規定とも言い難い。何故ならば、これらの規定は、とくに明治40年という時点においての、とくに鉱山労働者の、反抗運動の昂揚の根拠を明らかにしていないからである。
 「前述の規定は歴史性を欠いている」との批判に対し、大河内氏、岸本氏は、あるいは次のごとく反批判されるかもしれない。「我々は、明治40年に運動が昂揚を示した要因として、人員整理と合理化による労働強化、あるいは戦後恐慌による失業増大、労働者階級の窮乏化等の要因を示して、これを明らかにしているではないか」と。
 この主張は明白に誤りである。
 岸本氏の言われる戦後恐慌は、たしかに40年1月には株式市場の低落として、その兆を示している。しかし、これが実際に事業上に影響を及ぼすのは、40年10月に勃発したアメリ力の恐慌以後のことであり、むしろ40年の上半期は、前年後半からの企業ブームが続いていたのである(19)。他方、ストライキは、いずれも、40年の前半期に集中している(20)。そもそも恐慌の際に、賃上げを主とする攻撃的ストライキの頻発は考えられない。むしろ、何よりもこの時点で問題になるのは、戦後の物価騰貴による実質賃金の低落である(21)。「すべてを通じて賃金引上げ要求が共通している」のは、まさにこの故である。

第2表 明治30年〜40年 全国産銅高に対する輸出銅高割合
年次 全国産銅高(A) 斤 輸出銅高(B) 斤 (B)/(A) %  (A)-(B) 斤
明治30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
33,982,217
35,039,592
40,459,709
40,528,612
45,652,927
48,390,637
55,312,343
53,538,368
59,158,327
64,191,051
66,971,314
23,236,325
27,423,890
35,567,379
34,129,290
36,656,434
34,423,015
46,024,966
34,903,132
34,099,867
56,670,864
53,450,776
68.4
78.3
87.9
84.2
80.3
71.1
83.2
65.2
57.6
88.3
79.8
10,745,892 
7,615,702 
4,892,330 
6,398,322 
8,996,493 
13,967,622 
9,287,377 
18,635,236 
25,058,460 
7,520,187 
13,520,538 

【備考】『東京経済雑誌』60巻1507号より作成

 ではここで、「戦後恐慌」を「物価騰貴」におきかえれば、前述の規定は承認されてよいであろうか。そうではない。まだ、何故に鉱山においてとくにストライキや暴動が頻発したのかが明らかにされていない。すでに引用したように、大河内氏はこれを「激しい軍事的需要と鉱山における封建的圧制との二重の桎梏」にその根拠を見ておられる。しかし前者についていえば、〔第2表〕に明らかなごとく、当時産銅の6割から8割は輸出にむけられていたのであって、軍事的需要はさして多大なものであったとはいえない。次に、後者について検討しよう。
 既に見たように、大河内氏は、この封建的圧制、すなわち「苛烈な原生的労働関係と奴隷制的飯場制度の強度な支配(22)」に、40年の昂揚の基本的原因を求めておられる。この「原生的労働関係」なる語は、論者によって全く異った内容をもって用いられるのみでなく、大河内氏にあってさえ、きわめて多義的に用いられていて、正確にその意義をとらえることは困難だが、ここでは、一応、「過度労働と低賃金」とほぼ同義に用いられていると考えてよいであろう(23)。とすれば、大河内氏の規定の意味するところは、次のごとき内容であると考えられる──鉱山においては、飯場制度の存在によって、労働者は極端な過度労働と低賃金におしつぶされ、もはや耐え難い所にまで至って反抗に立ち上ったのである──と。たしかに、これは鉱山におけるストライキや暴動の原因の一面をとらえている。飯場制度は、その前近代的な人身統轄によって極度の労働強化を行い、資本の搾取に飯場頭の中間搾取が加重されて、労働者の窮乏を深め、ひいては、労働者の間に反抗のエネルギーを蓄積させる側面を持っている。しかし、ここで考えなければならないのは、飯場制度は、本来、労働者の反抗を規制し抑圧することをその主たる機能の一とする組織であることである。もし、この飯場制度の労働者支配が強固であれば、如何に労働者の経済状態が窮迫したとしても、彼等は容易には反抗に立ち上れないのではないか。少くともこの場合には、その解決は、暴動、あるいは公然たる反抗という形をとって行われることはきわめて困難であるだろう。このように考えるならば、明治40年に、鉱山においてストライキ、暴動が頻発し得たのは、大河内氏の言われるごとく「飯場制度の強度な支配」によるものではなく、むしろ逆に、「飯場制度の弱化」によるものと想定すべきではないか。40年の足尾暴動について検討したところによれば、この推論は承認されてよいと考える。
 これまで、いわゆる「足尾暴動」として知られているのは、明治40年2月4日、足尾銅山通洞坑内で見張所が破壊され、これをきっかけとして、足尾全山にわたって坑内の見張所、職員の社宅・倉庫・事務所等が3日間にわたって破壊され、軍隊の出動によってようやく鎮圧された事件である。この暴動の主体となったのは主として坑夫(採鉱夫)と支柱夫(24)で、反抗の対象となったのは現場係員から鉱業所長にいたる職員であり、飯場頭ではなかった。だが、注目すべきは、この暴動がよく言われるような「突如として」起ったものではなく、それに先立って、賃上げをめぐる坑夫対資本、中問搾取の制限をめぐる坑夫対飯場頭の公然たる抗争があったことである(25)。しかも、この後者の抗争は一時的にではあったが坑夫の勝利に帰し、そのまま放置すれば中小飯場の解体さえ予想されるほどであった(26)。暴動は、まさにここにおいて、窮地に追いつめられた飯場頭によって企てられ、挑撥された疑いが濃厚である(27)。それはともあれ、このように、坑夫等が飯場頭と真向から利害の対立する闘争に立ち上り、一時的にせよ勝利したこと、これは社会主義者の指導などの他の条件を考慮にいれても、この時点で飯場頭の坑夫支配力が弱化していたとの想定を裏書きしている。
 かくして我々は、ここに、本論文での問題を次のように立てることが出来る。
 すなわち、従来のごとく飯場制度を単純に身分的圧制、あるいは原生的労働関係と規定するだけで満足することなく、飯場制度を、と言うより一般に鉱山における労働組織の変化を、歴史的に追求し、具体的に跡づけること。これがなされた後に、はじめて各々の闘争の歴史的な質の相違を明らかにすることが出来るであろう。

3 飯場制度の規定

 我々が飯場制度を究明せんとする際に、先ず問題になるのは、この「飯場制度」なる語が本来慣用的なものであり、いまだ科学的概念として確立していないため、論者によってきわめて異った内容をもって用いられていることである。これをそのままにして、直ちに飯場制度の歴史的展開を問題とすることは、不必要な混乱を招くだけであろう。そこで我々はまず、以下に、飯場制度とは如何なるものかを、主として、明治期における鉱業労働事情の全国的且つ全面的調査として唯一の「鉱夫待遇事例(28)」に拠って概観し、これをもとにして一応の規定を与えておくこととする。
 「……飯場制度ノ下ニ在ル飯場頭ノ職務ニ付テハ広狭一ナラサルモ概ネ左ノ如シ
 一、鉱夫ノ募集傭人ニ関スル万般ノ世話ヲ為スコト(a)
 一、鉱主ニ対シ鉱夫身上ノ保証ヲ為スコト(b)
 一、新ニ傭人ノ鉱夫ニ対シテハ納屋ヲ供給シ且ツ飲食品及鍋釜炊事具等ノ家具用品及職業用ノ器具類ヲ貸与スルコト(c)
 一、単身鉱夫ハ自己ノ飯場ニ寄宿セシメ飲食其他一切ノ世話ヲ為スコト(d)
 一、所属鉱夫ノ繰込ヲ為シ又ハ事業ノ配当ヲ為シ現場ニ於テ其監督ヲ為スコト(e)
 一、所属鉱夫死亡負傷疾病等ノ節相当ノ保護ヲ与フルコト(f)
 一、所属鉱夫日常ノ挙動ニ注意シ逃亡等ナカラシムルコト(g)
 一、事業ノ請負ヲ為シテ所属鉱夫ニ稼行セシムルコト(h)
 一、所属鉱夫ニ対シ日用諸品ヲ供給スルコト(i)
 一、所属鉱夫ノ賃金ヲ一括シテ鉱主ヨリ受取リ各鉱夫ニ配布スルコト(j)
 一、鉱夫間ノ争闘紛議ヲ仲裁シ又ハ和解スルコト(k)
 一、鉱山ヨリ鉱夫ニ対スル通達ヲ取次キ又鉱夫ニ代リ鉱主ニ事情ヲ陳スルコト(l)(29)
 以上が「鉱夫待遇事例」が概括するところの飯場制度の機能であるが、これを整理するならば、大体次の4つにまとめられるであろう。
 1) 労働力確保の機能………(a)(b)(g)
 2) 作業請負・監督の機能………(e)(h)
 3) 賃金管理の機能………(j)
 4) 労働者の日常生活管理の機能………(c)(d)(f)(i)(k)(l)
 第1の点について。
 労働条件がきわめて劣悪で、しかも、多く山間の僻地に立地する鉱山業にとっては労働力の確保は著しく困難であり、安定した労働力供給を得ることは、鉱業経営の上での最も重要な問題の一つであった。飯場制度はまさにこの難問題を解決するものであった(30)。すなわち、飯場頭は血縁、地縁を通じて、あるいは虚言や「殆ント誘拐同様ノ手段」で坑夫を募集し、いったん傭入れた者は前借金や、場合によっては鉱夫の所有品一切を保管したり、更には直接の暴力によってその移動の自由を制限した(31)。ここで注目すべきことは、多くの場合、募集が単なる雇入れの仲介に終らず、飯場頭が実質的に雇傭解雇の権限を持ち、募集した鉱夫を自己の配下に組み入れ、資本に対して相対的な独自性を保っていたことである(32)
 第二の作業請負の機能について。
 この点については、鉱山監督署技師、高橋雄治が、明治39年に、東北を中心とする20鉱山を実地に調査して作成した「採鉱法調査報文」が詳細に記録している。これは、後に飯場制度の歴史的究明を行う際の参考ともなるので、やや長文ではあるがその一部を引用しておこう。
 「坑夫ハ大納屋坑夫、小納屋坑夫及鉱山直轄夫ノ三種ニ分ツヲ便宜トス、大納屋坑夫ノ制度ハ旧式ナルモノニシテ今尚二、三ノ大鉱山多クノ小鉱山ニ採用セラレ最モ弊害多シ、此大納屋制度ノ請負法ニモ大略二種類アリ、其一ハ鉱山全部若クハ広大ナル一局部ノ操業全部ヲ請負フモノニシテ、九州地方ニ於テ金先掘ト称セラル、此制度ニ於テハ鉱山主ハ単ニ鉱業権ヲ保有スルニ止マリ操業上ニ関スル何等ノ学識、経験及ビ心労ヲ要セス、加之操業ハ無論起業其他ニ要スヘキ資金モ亦コレヲ支出スルヲ要セサルモノナリ而シテ請負者ハ起業及操業ノ資金ハ勿論、鉱夫共他ノ諸材料ノ収集其他諸般ノ事業ヲ一手ニ引キ受ケ経営シ鉱山主ニ対シテハ出鉱何程ニ対シテ何分ノ割合ニ、若クハ収益ノ何分ノ割合ニ鉱区貸付代価ヲ払フヘキ義務ヲ負担ス……(中略)……而シテ此大納屋制度ニ在テハ請負者タル大納屋頭領アリ此下ニ納屋頭領アリテ何レモ不完全ナカラ実験上ヨリ得タル操業上ノ知識ヲ有シ各頭領何レモ八九人以上数十人ノ坑夫ヲ収容シ之ヲ養ヒテ下層社会ニ普通ナル主従ノ如キ関係ヲ有セリ、……(中略)……大納屋制度ニ於テ上記ノモノト多少趣ヲ異ニスルハ東北地方ニ於テ所謂精鉱請負式ノ請負法ナリ之ハ略々前者ト同一ナルモ唯鉱主側ニ於テ多少ノ鉱業上ノ知識ト資金ヲ要セラルモノトス。すなわち全鉱山若クハ広大ナル局部区ヲ請負者ノ採掘ニ任セ其採掘セル鉱物ヲ精選セシメ其精鉱ノ品位ト分量ニヨリ予約ノ買上ケ代金ヲ以テ之ヲ買収スルモノナリ。而シテ或ル鉱山ニ於テハ単ニ鉱石ノミニ対シテ比請負法ヲ採用スルモ或ル鉱山ニ於テハ鉱石ノ製煉マテ請負ハシムルモノアリ……(中略)……然シテ請負者及鉱夫間ノ関係等ハ全ク前述ノモノト異ル所ナシ、次ニ小納屋制度ニ於テ前者ト異ナル所ノモノハ第一ニソノ請負フ可キ仕事カ広範囲ニ渉ラサルコト従テ長時間ニ渉ルモノニ非サルコト第二ニ其仕事ノ量及価格ヲ定ムルニ当リ請負者ノ見込ヲ以テ申込ム事ハ無論ナルモ鉱山側ヨリノ役員若クハ小頭ナルモノノ見込ニヨリ先ツ大略ノ価格ヲ定メ数多ノ請負者中最モ廉価ニ其仕事ヲ遂ケ得ルモノニ請負ハシムル所謂入札請負ニ類スルモノナルコトトス従テ請負者ハ必スシモ一組ト限ラス少ナキハ数組多クハ数十組アリテ一組ニ於ケル鉱夫数ハ大納屋制度ニ於ケル配下納屋頭領ノ養ヘルモノト大同小異ナリ……(後略)」(33)
 以上で、鉱山業における請負制にも諸種の形態があることを知り得た。しかし、このすべてが、当面の問題たる「飯場制度における作業請負」に該当するものではない。我々は、これを、「小納屋制度」におけるそれに限定する。と言うのは、いわゆる「大納屋制度」は「二・三ノ大鉱山・多クノ小鉱山ニ採用セラレ」ているのみであり、一方、現在我々が飯場制度に一応の規定を与えるための基礎に置いているのは、「鉱夫待遇事例」に示されている諸鉱山=「鉱夫五百人以上ヲ使役スル」いわば大鉱山であるからであり、又「鉱夫待遇事例」の各所での記述も飯場制度の作業請負がいわゆる「小納屋制度」と同一であることを示しているからである。その一例を、古河が鉱業主たる院内鉱山の場合で見ておこう。「組頭、請負人ナルモノアリテ組夫ノ傭入レ及ヒ鉱夫一般ノ世話ヲ為シ或ハ仕事ノ請負ヲ為シテ鉱夫ニ割当稼行セシム、其鉱山ヨリ業務ノ配当ヲ為スニハ組頭又ハ請負人ニ対シテ之ヲ為シ、組頭請負人ヨリ更ニ組夫ニ割当テ稼行セシム、此他諸物品賃金等ハ組頭請負人ニ於テ受取リ之ヲ組夫ニ分配ス(34)」。
 以上、かなり長い引用を行ったが、我々は、ここから、飯場制度の機能としての作業請負が次のごとき性格のものであることを確認してよいだろう。
 1) 開坑・採鉱・運搬等、現場作業の局部的且つ短期的請負である。
 2) 飯場頭は請負った作業を配下の鉱夫に割り付け(番割)、彼自らあるいは配下の人繰を使役してその指揮監督に当る。
 3) 飯場頭は、請負った作業の指揮監督について、或る程度独自的な権限を有する。しかし、それは絶対的なものではなく、作業の基本的な点は鉱業主の決定するところであり、飯場頭も現場係員の指揮監督を受ける(35)
 第3、賃金管理の機能。
 飯場制度の第二の機能は、必然的に飯場頭の手に賃金管理権をもたらす。すなわち、飯場制度の下では、鉱夫等の賃金はすべて一括して飯場頭に支払われ、そこから更に各鉱夫に配分されるのである。これによって雇入れの際の前貸金、あるいは賄費や日用諸品の貸付代価等は確実に回収される裏付けを得、又同時にここにおいても、ピンハネが半ば公然と行われる。しかし、この機能の持つ最も重要な点は、これによって、飯場頭が実際的に個々の鉱夫の賃金額を決定し得ることである。というのは、鉱夫全体についての賃金総額は、請負代価として、鉱業主によってあらかじめ決定されており、又賃金の基準も、採鉱夫を例にとれば、採掘した鉱石の量及び品位によってきまっている。しかしながら、この鉱量及び品位は切羽の良し悪し──鉱脈の貧富採掘の難易等──によって著しく異らざるを得ない。これは本来検定によって調整されるのであるが、月に一度や二度の検定では充分な調整は不可能であり、有利な切羽不利な切羽が出来るのは殆んど避けられない(36)。したがって、飯場頭は配下鉱夫への作業箇所の割り当て(いわゆる「番割」)を運用することによって、個々の鉱夫の賃金決定に事実上干与するのである。この飯場頭による事実上の賃金決定権の掌握は、飯場頭の坑夫支配の上で最も重要な、基本的な意義を有している。飯場頭の支配は、しばしば指摘されているごとく、直接的暴力等の前期的なものによって支えられているとは言え、それは、この事実上の賃金決定権に比しては、副次的な意義を持つに過ぎない。
 第4、日常生活管理の機能。
 この点については一般によく知られているところであり、また、前掲の「鉱夫待遇事例」の引用中にもその具体的内容が示されているので、とくに詳論する必要はないであろう。ただ、(c)、(i)の賄や日用諸品の貸与が前貸金とともに負債となって、労働者を統轄緊縛する「てこ」としての役割を果していること(37)、同時に、これが飯場頭の中間搾取の有力な源泉たること、また、(l)の「鉱業主と鉱夫との意志取り次ぎ」は、飯場頭が一種の緩衝地帯となって鉱業主の支配を容易にし、且つ、鉱夫の不満が公然たる反抗にまで展開するのを未然に防ぐ安全弁としての役割を果していること、以上の3点が指摘されねばならない。
 以上みたように、飯場頭が鉱夫の雇傭、解雇、作業の割り当てと指揮監督、賃金管理等にかなり独自的な権限を有していたことは、彼を外見的に、あるいは当事者の主観の上で、鉱夫の雇傭主としての位置に立たしめることとなった。まさにここにこそ、飯場制度が強力な鉱夫統轄力を保持し得た基礎があった。この点は重要である。
 しかし、言うまでもなく、飯場頭が鉱夫の雇傭主としてあらわれたのは、あくまでも外見上であり、当事者の主観の上においてのみそうであったに過ぎない。
 すなわち、ここにおいては、主要な生産手段はすべて鉱業主が所有していたのであり、飯場頭は、生産手段としては極く簡単な道具類を所有していたに過ぎない。鉱業主は、局部的作業を飯場頭に請負わせはしても、操業全般にわたる基本的な点については自らこれを管理していた。このことは、前述の賃金決定権についても、飯場頭がそれを掌握しているとは言え、あくまでもそれは資本の、鉱業主の決定した枠の中でのことであるという点で同様である。この場合、鉱夫の剰余労働は基本的には鉱業主が占取したのである。
 したがって、本質的には雇傭主=産業資本は鉱業主であり、飯場頭は資本家と労働者の間に巣喰う中間搾取者たるに過ぎない、と言わねばならない。飯場頭が前述のごとく作業請負を為すものであり、請負人的性格を有するとは言っても、それは、自らの生産手段によって作業を行う請負業者や、問屋から生産手段を貸与されつつも、その管理は自ら行う問屋制マニュファクチュア業者とは、本質的に異るものであることが注意さるべきである。
 かくて、我々は、「飯場制度とは如何なるものか」との問に一応の答を与えることが出来る。
 すなわち、「飯場制度とは、産業資本の下に包摂せられた請負制度である。それは基本的には資本に従属しつつも、いわゆる〈労務管理〉については殆んど全面的に、また直接生産面についてもかなりの独自性を有するものである」と。

4 山師制

 ところで、以上に見たところの飯場制度は如何なる歴史的背景を有するのであろうか。 我々は、その原型を近世の鉱山業における生産組織──私はこれをかりに山師制と呼んでおこう。──のうちに見出すことができる。
 山師制とは如何なるものか。
 当時は、言うまでもなく、鉱山はすべて封建領主によって領有されており、その領有形態によって直山・請山の別があった(38)。直山とは、領主が奉行や代官を置いて直接に山を支配するものであり、請山とは、一定の運上を領主に納める約束で鉱山の経営を請負うもので、請主には銅商などの商業資本がなる場合が多い(39)。いわば請主は現在の鉱区借区人のごときものである。しかし、このいずれにあっても、代官や請主が直接に生産部面に干与することはなく、実際に生産面を掌握していたのは、いわゆる「山師」であった(40)
 彼ら山師は、各々1ヵ所から多くて数ヵ所の坑(間歩)についてその操業を請負い、自らそれに必要な生産手段を所有し、坑夫・手子・支柱夫・製煉夫等を雇傭し、採鉱から製煉に至るまで、全く自己の採算と責任において経営する。これに対して、代官や請主たちは、単に流通部面を掌握していただけであった。彼等は製銅を独占的に買上げる商業資本としての地位に止まっていたのである。要するに、「山師」は鉱業についての請負業者である。ここでさきに見た「大納屋頭」を思い起すならば、この両者が請負業者として同一の範疇に属するものであることは明らかである。
 以上のような生産組織の形態は、何よりも当時の生産力の低さに規定されたものであった。当時、採鉱法はようやく旧来の「犬下り法(41)」から水平坑道によるいわゆる「坑道掘進法」を採用するに至っていたが、排水・通風技術の未発達のため深部採鉱は不可能で、主として地表近くの富鉱部を採掘し得ただけであった。したがって、一鉱脈を採鉱するにさえ、地表の各所から多数の坑口を切りあけて進む他はなく、一鉱山とはいうものの、実質は多数の、相互に独立した坑の集合体に過ぎなかった(42)。かかる状態にあっては、直山にせよ請山にせよ代官や請主が自ら直接に生産過程を掌握して統一的な経営を行うことはきわめて困難であり、彼らは、いきおい一鉱山を各坑毎に分割して「山師」に請負わせ、それを流通面において掌握する方向をとる。ここに「山師制」成立の根拠がある。
 しかしながら、地表近くの富鉱部など極く限られたものであり、それが掘り尽くされれば、後は廃山するより他はないのであるから、「山師制」による小規模経営は直ちに限界につき当らざるを得なかった。17世紀の中期以降、金銀山が一般に甚しく衰退してゆくのはまさにこれが為である。
 かかる状態は徳川時代を通じて基本的には変化せず(43)、その克服は明治に入ってからの西欧近代技術の導入をまたねばならなかったのである。

5 飯場制度の形成

 第3節で我々はまず飯場制度について一応の究明を行い、次いでその前段階の労働組織として「山師制」を想定した。当然、次には「山師制」から「飯場制」への移行が問題とさるべきであろう。本節では足尾銅山を対象としてこの課題が追求される。
 足尾銅山は慶長15年の創業にかかり、貞享年間には産銅250万斤に及び、全国無比の良鉱とたたえられたが、その後間もなく衰退に向い、幕末には廃山一歩手前にあったという(44)。しかし我々は徳川時代の足尾銅山について信頼すべき史料を殆んど持たず、今のところこれ以上に知ることは出来ない。だが、このことは当面の問題にそれほど重要ではない。ここではさしあたり、明治10年古河が経営を開始した当時も依然として「山師制」の段階に止まっていたことが確認されればよい。
 これについて、『古河市兵衛翁伝』は次のように伝えている。
 「……引継当時の採鉱箇所は如何なる状況であったかと云ふに、鉱脈露頭より掘込んだ坑口弐百五十余を算したが、現に採掘しつゝあつた稼ぎ場所は七十四ヶ所であって、それが三十八名の下稼人によって個々別々に操業されて居た(45)。」
 「当時の足尾は下稼人の足尾であって坑主は唯彼等に米噌を給し出銅を買上ぐる金主たるに過ぎなかった(46)。」
 また『木村長兵衛伝』には、
 「下稼人中には手許不如意のため会所より物品の貸下げを願出づるものもあったが、多くは牢乎たる権力を有し、各々坑場を借り受けて実際稼行の衝に当り借区人は此等下稼人が採掘製煉せる荒銅を買取るに過ぎぬ実情であった(4)(47)。」
とある。
 これらを見れば、「坑場を借り受け」「採掘から製煉」まで「個々別々に」「実際稼行の衝に当」った「下稼人」なるものは、まさに「山師」に他ならないこと、これに対し「米噌を給し」、あるいは手許不如意の「下稼人」に「物品の貸下げ」を行い、「荒銅を買取る」ところの古河は、問屋制商業資本であることは殆んど説明を要しない。
 ところで、このような山師制による小規模分散経営では、長年にわたる衰退の原因となっていた排水問題を解決して、生産の拡大を行うことは不可能であり、また海外市場で先進諸国との競争に耐え得ないことは明白であった。この状態を根本的に解決する道は、言うまでもなく、開坑・採鉱・運搬・排水等鉱業技術全般にわたる近代化=機械化の方向しかあり得ない。このための技術的条件は、すでに官営鉱山を中心にして、海外の先進的技術の移植により準備されていた。
 だが、この鉱業技術の近代化を遂行するには、何よりもまず下稼人の「持間歩」(所有坑)を奪い、鉱業主が直接生産部面をも掌握し、全山を統一的開坑計画の下に組み入れることが必要である。これは官営鉱山にあっては、国家権力の強権によって文字通り強行され、きわめて短期間に為し遂げられた所であった(48)。しかし、足尾をはじめ一般に民営鉱山では、この過程は一挙には行われ得ず、徐々に妥協的に遂行される。
 この間の経過を、『古河市兵衛翁伝』は次のように記している。
 「翁が足尾経営の当初に於ける問題は、此等の下稼人を統一ある指揮の下に置いて、探鉱採鉱の両方面に就業せしめる事でなければならぬ。併し……多年困憊の間に醸された弊習の牢固なる……加ふるに……下稼人の一派は新坑主に反抗して借区外出願の密謀を回らして居た故に、翁は十年三月に事実上足尾の引継を了したけれども、直ちに経営革新に指を染める事は出来なかった(49)。」
 そこで
 「この旧套を脱して坑主直裁の新容に移る為めには、先づ、新方面の開掘を直営し、漸を追うて下稼人の採掘ヶ所を自分の手に収めて、全山を統一ある経営の下に置かねばならぬ(50)。」かくてまず「十一年一月に、山相方青山庄蔵によって五十三間坑、樅木鋪、阿弥陀鋪、中鋪、足倉下八人間府、本口鋪、大切鋪の直営開掘が決定された(51)。」
 この直営坑には、古河の所有山である草倉鉱山等から熟練坑夫を集めて採鉱させ、急速に経営を拡大し、次第に下稼人の所有坑の比重を低めていった(52)。この新坑直営と並行して下稼人の所有坑の買収も進められ、ようやく明治14年8月、当時、新鉱脈を発見して足尾の主要坑となっていた鷹の巣坑の買収によって、この経営統一の過程は一応の完了を見る(53)。かくて、長い間廃山同様の状態にあった足尾銅山は、ここに、急速な発展を開始する前提条件を獲得した。
 次いで明治18年、阿仁、院内両鉱山の払下げ(54)、同21年、国際的銅シンジケートとの売銅契約(55)によって、技術面でも資金面でも強力な裏付けを得て、当時他に類を見ないほどの近代技術の採用が遂行されてゆく(56)
 では、この間に下稼人制は如何に変質、あるいは解体せられ、その後に如何なる生産組織が形成されていったのであろうか。
 1) まず第1の変化は、鉱業主による製銅部面の直営であった。これにともな い、下稼人は従来の採鉱から製銅までの一貫経営から、採鉱部面にのみにその作業を限定されるものとなった(57)。ここに、下稼人は、先に引用した「採鉱法調査報文」中の、大納屋制度の第1の型から第2の型へ、すなわち「精鉱請負法」へ変ったのである。
 2) 同時に、資金の貸付け(58)、あるいは直轄鉱夫による下稼人所有坑の開坑援助(59)等によって、下稼人の操業権は次第に制限され、次いで、買収等によって下稼人の坑に対する事実上の所有権は奪われ、ここに「下稼人制」=「山師制」は廃止される──と言うより資本の下に包摂される。
 こうして新たに形成された生産組織が「飯場制度」たりしことは、疑う余地はないが、残念ながら明治2、30年代におけるその具体的様相を示す史料は殆んどない。ただ、「鉱夫待遇事例」あるいは明治40年の暴動関係の史料等により、その明治末期における状態を一応知ることが出来るに過ぎない。それによれば、
 「足尾銅山、本鉱山ハ飯場制度ニシテ頭役及組頭ナルモノヲ置キ前者ハ坑夫、支柱夫、進鑿夫、坑内運転夫ヲ支配シ後者ハ其他ノ鉱夫ヲ支配ス而シテ其職務ハ鉱夫ノ傭入レ、部下鉱夫ノ飲食物其他日用品ヲ給与シ、賃金ノ代理受取ヲ為シテ之ヲ分配シ……鉱夫ノ保護監督ヲ為ス(60)
 「直轄鉱夫(一類鉱夫)ノ作業ニ関スル監督ハ鉱業所員ト頭役、夫頭直接ニ之カ任ニ当レリト雖モ、受負(ママ)組頭(二類鉱夫)ニ属スル鉱夫ニ対シテハ受負(ママ)組頭専ラ之ニ当リ鉱業所員ハ組頭ヲ通シテ間接ニ監督スルノ順序ナリトス(61)
 要するに、明治30年代末の足尾銅山における飯場制度は、ほぼ次のごとき特徴を有している。
 1) 飯場は、坑夫・支柱夫・雑夫(手子・車夫)等の職種別に構成されている。
 2) 手子、車夫等は、いわゆる「二類鉱夫」として組頭(飯場頭)に雇傭される形をとり、第3節に見たような典型的な飯場制度の下にある。
 3) 一方坑夫、支柱夫等の「一類坑夫」は形式上も資本の直接雇傭であり、その「頭役」なるものはすでに作業請負権を有していない。しかし、彼が全く飯場頭としての独自性を失ってしまった訳でないことは、依然として、配下鉱夫の賃金の代理受取りを行っていることのうちに示されている。
 ともあれ、明治30年代末においてもなおかかる生産組織が存在していることは、明治10年代半ばに遂行された「下稼人制」廃止の内容がきわめて不徹底なものであったこと、「下稼人制」が完全に解体され、純粋に資本主義的な生産関係が成立した訳ではなかったことを物語っている。
 ただ、ここで問題になるのは、いわゆる「一類鉱夫」の頭役(飯場頭)の場合に、はじめから作業請負権を有していなかったのか。それともはじめは有していたが中途でこれを失ったのであるかどうかという点である。これについては、明治30年刊の「足尾銅山景況一班」に、「毎月両回、方言ニ大鑑定ト謂ヒ、鉱脈ノ広狭、鉱質ノ貧福、稼行ノ難易等ヲ斟酌シテ採鉱量ヲ定メ、指定若クハ抽籤ヲ以テ請負稼行セシメ……」とあり、またこの他『日本鉱業会誌』第18号(明治19年8月)所収の「栃木県足尾銅山点検報告」にも、「採鉱法ハ都テ請負掘ニシテ」とあり、又同誌25号(明治21年3月)所収「足尾銅山記事」も、「開坑、採鉱共多クハ請負法ニヨリ操業セシム」とあるところから、少くとも30年頃までは、採鉱部面でも作業請負が行われていたことは確かである。
 それならば、この作業請負の機能は、何時、如何なる理由で失われたのであろうか。これはきわめて重要な問題である。何故なら、明治40年の暴動の主体を為したのは他ならぬこの一類鉱夫=坑夫・支柱夫であり、また我々が第2節で暴動を可能にした要因として予想した飯場制度の弱体化は、まさにこの作業請負的機能の喪失にともな って起ったものではないかと考えられるからである。
 そこで、次にこの作業請負の機能が何故、如何にして失われたのかが問題になる。だが、残念ながら、この問題に関して決め手となる史料は殆んど存在しない。したがって、この問題を解くためには、その前に飯場制度──とくにその作業請負的機能──成立の根拠を究明しておかなければならない(62)

6 飯場制度存立の根拠

 本節での問題、すなわち、「近代的資本制産業の中に飯場制度のごとき前近代的な労働組織が成立したのは何故か」、に対して、大河内氏は次のように解答される。
 わが国における特殊な労働条件の形成、すなわち明治期に於て典型的に見られた奴隷労働的な拘禁的労働関係、かの『原生的労働関係』以前の労働関係の形成と、その固定化とは、日本における賃労働の商品=『労働力』としての創出=形成の特殊性の中からのみ理解することが出来る(63)」。その特殊性とは言うまでもなく「出稼型」労働力の形成である。
 かくて、まず第1には、「農村における家族生活、家族構成の封建的実態とそこを支配する身分的生活関係とは、またそこでの〈エートス〉は、出稼型労働者を通して工場地帯に持ち込まれ、経営内における労働関係を封建的に身分的なものに形成する(64)」。第2には、「労働力が出稼的な形態で提供され労働力の定着分や蓄積分が少いということは、統一的な労働市場の成立を妨げている根本的な理由であり、またそのことは、労働者の募集や調達が横断的で広い労働市場を通じて行われずに、個人的な形で遂行されることを意味するものである。大なり小なりの拡がりを持っ労働市場で労働力が合理的な仕方で募集され調達されるのでなく、すべて個人的な『縁故』をたどって行われることになるが、そのことは、自ら労働条件を低め、労資関係を身分的な雰囲気の中におしこめる端緒ともなり、又労務の調達における頭はね制度やボス制度の介入の原因(65)ともなる」。
 この解答がいずれも問題の一面をとらえていることは否定し得ない。
 まず第1の点については、当時の鉱山労働者が主として農村から調達されたこと──これを直ちに「出稼型」とすることは出来ない筈であるが──は幾多の事実がこれを示している。足尾の場合も例外ではなかった(66)。これが、鉱山労働者の性格を、飯場制度のごとき前近代的な統轄に容易に服するものたらしめていたことは疑いない。
 また、第2の点についても、統一的労働市場の欠如云々は別として(67)、飯場制度が縁故による労働力募集をその重要な機能の一つとしており、それにともな う前借金が労働者の自由な移動を妨げ、同時に飯場頭の支配の一つの基盤であったことはすでに第3節で見たところである。
 しかしながら、以上の説明によっては飯場制度形成の根拠は全く一面的に──しかも基本的ではない側面しか解明されていないことが指摘されなければならない。と言うのは、すでに見た通り、飯場制度は単に労働者募集、拘置を目的とする組織ではなく、むしろ、主として作業請負制として鉱山業の生産過程の内部に介入していたのであるが、大河内氏の論によっては、飯場制度が作業請負制たりしことの必然性は理解し得ないからである。労働力の労働市場における前近代的性格は飯場制度の成立を可能ならしめる、あるいは容易にした一つの条件ではあるが、その成立を必然たらしめるものではない。労働者の前近代的性格は資本制経営の中にあっては、資本の搾取を強化するために役立つ限りにおいて、それと矛盾しない限りにおいて利用されるのである。しかも、はじめにも指摘したように、一般的には、労働市場において如何に前近代的な性格をもった労働力であろうと、近代的諸産業の機械体系はその生産過程に必要な技術的、社会的訓練を施し、これを近代的労働者に鍛えあげて行くものなのである。したがって、飯場制度成立の根拠は、単に労働市場の性格あるいはそこにおける労働力の特質のみにあるのではなく、むしろ、基本的には、当時の鉱山業の生産過程の特質に求めらるべきであろう。
 では、生産過程の如何なる性格が飯場制度の形成を必然にしたのか。この点を、次に足尾銅山の「当時他に類を見ないほどの近代技術の採用」の具体的内容を検討することによって明らかにしなければならない。
 そこで、まず〔第9表〕によって、足尾銅山の技術近代化の具体的内容を概観しておこう(68)


第9表 足尾銅山における鉱業技術の発達一覧
年代開坑採鉱坑内運搬坑外運搬排水選鉱製煉動力備考
明治11年●本口坑・二番坑間貫通工事開始(17年完成これにより通気楽になる)●火薬使用        
12                  
13    ●手押の坑内軌道完成            
14                ●鷹の巣坑に鉱脈発見
15●ダイナマイト初の仕様                
16●本口坑竪坑にて有木坑と連絡        ●クラッシャー・ロール,回転円篩など洋式機械据付      
17          ●クラッシャーに蒸気機関使用(動力使用の初め)●直利橋製煉工場新設  ●横間歩に大鉱脈発見
18●有木坑開鑿に鑿岩機を初めて使用
●小滝坑開鑿(新鉱脈発見)
●大通洞開鑿工事始める(鑿岩機使用)
    ●ドコビール式軽便鉄道  ●低品位鉱(2%位)処理に着手      
19●小滝坑完成      ●本口坑に蒸気スペシアル・ポンプ(初の動力ポンプ)        
20  ●このころ湧水部にダイナマイト使用              
21●本口坑・有木坑間連絡竪坑完成(排水に便)      ●ブレーキ式空気ポンプ      ●J.マジソン商会と19,000トンの売銅契約を結ぶ
22          ●動力跳汰機据付      
23●横間歩第一・第三竪坑開鑿(鑿岩機使用)  ●電気捲揚機据付●足尾・細尾間架空索道架設●ブラジャ型電気ポンプ据付  ●水套式溶鉱炉●間藤に本邦初の水力発電所竣成●鉱毒問題おこり始める
24      ●本山・製煉所間電車開通          
25                  
26          ●粉鉱処理に水圧処理機採用,能率上る●ベセマ式製煉法に成功    
27  ●一部に階段堀法採用              
28                  
29●大通洞開鑿工事完成,全山が一つになる              ●鉱毒問題拡大
30●電気鑿岩機使用好成績得られず  ●本山及び小滝に坑内電車敷設      (31年)電気精銅開始  ●予防工事始まる

 これらの中で特記すべきものを2、3あげるならば、
 1) 大通洞の完成(明治29年)
 大通洞は延長9、950尺に及び、これによって、従来の分散独立した諸坑は全て結合統一され、排水・運搬等の機械化の基礎をなした。
 2) 水力発電所の創設(同23年)
 これはわが国最初の水力発電所であり、1882年のアメリカ・ウイスコンシン州アップルトンにおける発電所創設から僅かに8年遅れるのみであり、国際的にも注目すべきものであった(69)。これによって、従来、鉱山業の機械化を阻害していた動力(燃料)問題(70)が解決された。
 3) 製煉・製銅体系の整備
 水套式熔鉱炉による製ハ→ベセマ転炉による錬銅→電炉製銅の体系は、当時では国際的にも最も秀れた製銅方式であった(71)
 このように、足尾銅山では早くも明治20年代の前半には、我国の鉱山業の先端をきって著しい近代化を為し遂げている。これが多くの点について、国際的にもきわめて高い水準にあったことは充分注目に値するものである(72)
 しかしながら、これと同時に、問題にされなければならないのは、他の部面の急激な近代化に対して、鉱山業における基本的作業たる採鉱部面の著しい立ち遅れである。
 もっとも、著しい立ち遅れと言っても、採鉱部面に全く進歩がなかった訳ではない。のみならず、明治初年における我国の鉱業技術の進歩の中で最も特筆すべきものの一つは、黒色火薬、あるいはダイナマイトの使用であった(73)。だが、この火薬使用そのものは、決して採鉱作業の手工業的性格を変革するものではなかった。火薬装入のための鑿孔は依然として鎚とタガネに頼っていたのである。前掲〔第9表」で見たように、足尾では、早くも明治18年にはシュラム式鑿孔機が使用されたのであるが、この鑿孔機使用はいずれも通洞、竪坑等の主要坑道の開鑿に限られ、採鉱部面では全く用いられなかったのである(74)
 採鉱技術のかような状態に対し、採鉱法はいかなる状態にあったであろうか。『日本鉱業会誌』第25号(明治20年3月)所収の「足尾銅山記事」はこれについて次のように記している。
 「鉱脈開営法ハ稍々欧式ニ做ヒ先ツ下盤ヲ掘鑿シ便宜ノ所ニ於テ支道ヲ上盤ニ通シ鉱脈ニ会シテ左右ニ進ミ其法恰モ掘上ニ類セリ」
 これによればすでに明治20年には従来の全く不規則な採掘法が改められ、運搬坑道を開き採掘準備の開坑坑道が設けられて、当時としては最も進んだ採鉱法である「上向階段法」(後述)に類する採鉱法が採用されているようである。だが、実際は、これが「上向階段法」に類似していたのは、ただ採鉱準備の開坑までに過ぎず、ひとたび採鉱段階となると、旧態依然たる「抜き掘法」──鉱脈中の富鉱部のみを採鉱しながら不規則に掘進するもの──に他ならなかった。このことは明治30年の「足尾銅山景況一班」に、「採掘ノ方法ハ目下階段掘ヲ実施スル場所僅カニ数ヶ所ニ止マリ重ニ所謂抜キ掘法ト称シ鉱脈中ノ鉱幅面已ヲ採掘スルニアリ」と、明瞭に述べられているところである。また、当時の採鉱夫の賃金がいわゆる「定目法」──採掘した鉱石の品位と鉱量によって定められるものであった(75)ことも、当時の採掘法が「抜き掘法」であったことを示している(76)
 「抜き掘法」は、前述のごとく、鉱脈を、しかもその富鉱部のみを追うものであるから、坑道の幅、高低は鉱脈の賦存状態によって著しく不規則なものとなり、しかも一般に切羽は狭隘となるから、必然的に、採鉱作業はもちろん 、切羽運搬の機械化を不能にする。かくて、主要坑道では捲揚機や電車が動き、排水には強力な動力が使用されているというのに、切羽では依然として槌とタガネが用いられ、その場で鉱石は選別され、叺に入れられて全くの人力で運搬坑道まで運搬され(これが手子の仕事である)、次いで運搬坑道から主要坑道までは人力による鉱車で運ばれる(これが車夫の仕事)という状態にある。
 以上の考察を通じて、我々はここに当時の足尾銅山鉱業技術近代化の特質を次のごとく規定し得よう。すなわち、開坑・排水・主要坑道運搬・坑外運搬・製銅等の部面における、著しい機械化に対し、鉱山業の基本工程たる採鉱作業と切羽運搬が依然として手工業的段階に止まっていたこと(77)
 この特質は、単に足尾銅山のみの問題ではなく、当時の、我国の鉱業全体についてもあてはまるところである。そして、ここにこそ、近代的資本制産業のうちに飯場制度のごとき前近代的な労働組織が包摂されたことの主要な根拠が存する。その論拠を次に示そう。
 一般に採鉱作業においては、作業速度は主として労働者自身の作業意欲、作業意志に依存する(このことは鑿岩機の使用そのものによっては変化しない。切羽運搬の機械化によって、はじめて機械の運転速度に拘束される)。したがって、かかる場合における能率増進=労働強化は、次の2つの手段に頼る他はない。
 第1は、賃金形態を「労働の質および強度が労賃そのものの形態によって統制される(78)」ところの出来高払賃金にすること。
 第2は、人身的統轄=監督の強化。
 ところで、第1の出来高払賃金が「階層的に編成された搾取および抑圧の制度の基礎をなす(79)」ものであることは、つとに知られたところである。すなわち、「個数賃金は一方では、資本家と賃労働者との間への寄生者の介入を、下請作業を、容易にする。介在者の利得はもっぱら、資本家が支払う労働価格と、この価格のうち介在者が労働者の手に現実に渡す部分との、差額から生ずる。……他方では個数賃金は資本家をして、首脳労働者と……一個につき幾らという価格で契約を結ぶことを得せしめるのであって、この首脳労働者自身がその価格で自分の補助労働者を募集し支払うことを引受けるのである。資本による労働者の搾取がこの場合には、労働者による労働者の搾取を媒介として実現される(80)」。しかもこの場合、採鉱作業における出来高払賃金が、一般の個数賃金の場合と異って、「ノ幅ノ広狭ト石質ノ硬軟トニ依リ(81)」「箇所毎ニ定目ヲ定メ(82)」るものであることは、請負を個人を単位としてではなく、1切羽を単位とする集団的なものとせざるを得ないこととなる。しかし、この出来高払賃金は、それ自体としては飯場頭等による作業請負を必然たらしめるものではない。この賃金形態の特質は、それ自体としては作業請負を容易にする、あるいは得せしめる条件であるに過ぎない。
 しかしながら、これに第2の点、人身統轄=監督の強化の必要が加わるとき、それは殆んど必然的となる。
 周知のごとく、一般に採鉱作業の作業現場=切羽は、鉱体の賦存状態によって広大な地域の各所に──しかも立体的に──散在するものである(83)。これらの切羽は、相互に水平坑道あるいは竪坑などによって結合、統一されているとは言え、各作業場の独立性、分散性は一般の工場制工業とは比較にならぬほど強い。その上、坑内が暗黒であること、坑道が狭隘かつ険阻であること──作業現場たる切羽も同様──等の条件が加わり、採鉱作業の指揮監督は著しく困難なものとなる。もし、ここにおいて、資本が各鉱夫への作業の割当て、作業の指揮監督を直接的、全面的に行わんとすれば、これがきわめて厖大な費用の支出をともな わざるを得ないことは明白である。しかし、この際、採鉱作業が「労働者たちそのものの間の等級的編成(84)」を有するマニュファクチュア段階にある(85)ことは、資本が労働者内部のこの等級的編成を利用し、これによって監督の強化をはかることを可能にしている。かくて、ここに「資本による労働者の搾取が、労働者による労働者の搾取を媒介として実現される」ものとしての飯場制度──飯場制度の作業請負が現実化乃至必然化する。前出「鉱夫待遇事例」が、「飯場制度ニ於テ普通利益ナリトスル主要ノ事項」の一つとして「鉱夫ノ勤惰ヲ監督シ、鉱夫ノ繰込及事務ノ配当等利便ニシテ鉱山ノ手数ヲ省キ役員ノ数ヲ減シ得ルコト」をあげているのは、この間の事情を述べているものである(86)
 以上の点こそ、近代的資本制産業のうちに、前近代的な飯場制度のごとき組織が形成された基本的な根拠である。要するに、飯場制度は、出稼型論者の説くごとき我国の労働市場の性格、あるいはそこにおける労働力の特質のみによって規定されたのではなく、より基本的には、我国の鉱山業の技術的跛行性に基くものであった。
 かかる視点に立って、はじめて飯場制度の全面的な把握が可能になるばかりでなく、以下に試みるごときその歴史的過程の把握も可能となる。

7 採鉱法の進歩

 以上見たように、飯場制度は、まさに、我国鉱業の産業革命期における技術的特質──すなわち、運搬・排水・製銅過程の高度の機械化の反面、採鉱過程がツチとタガネによる「抜き掘的」採鉱法に止まったこと──に、その主たる基盤を有するものであった。このことは、同時に、飯場制度のその後の変化の根拠が何処に求めらるべきかをも示している。くり返すまでもなく、それは生産過程とりわけ、採鉱過程の技術的進歩にある。とすれば、当面の課題たる足尾銅山における「明治30年代前半の作業請負廃止の根拠」も、この時点における、採鉱過程の技術的変化を追求することによって解明されるであろう。
 そこで、まず問題になるのは生産用具であるが、これには全く変化が見られない。前述のごとく、鑿岩機が採鉱過程に使用されはじめるのはようやく大正以後のことで、それまでは、依然としてツチとタガネが使用されていたに止まる。しかし、採鉱法はこの間に著しい進歩を見せる。言うまでもなく、それは「抜き掘法」から「階段掘法」への移行である。
 「抜き掘法」というのは、すでに見たように、鉱脈中の富鉱部のみを採掘するものであるが、このため採掘量に比して採鉱量は多くしかも品位が高い。また運搬量も少くてすみ、選鉱も容易である。したがって、運搬、選鉱等への設備投資は比較的小額ですみ、しかもその割に産銅額は多い。こうした利点こそ資本蓄積の貧困な創業時においては何よりも必要とされたのである。しかし、「抜き掘法」はこうした利点の反面で、いくつかの欠陥をともな わざるを得なかった。それは、
 1、鉱脈の変化を追って、しかも富鉱部のみを採取するため、掘り跡は狭隘かつ不規則となる。したがって、掘り進むにつれて運搬の能率は逓減し、また通気不良をもたらしてその後の採掘を著しく困難にする。
 2、賃金が、鉱量と品位によって決まるいわゆる「定目法」であることは、必然的に採掘困難な箇所、あるいは貧鉱を全く顧みぬ「濫掘」となり、鉱山の生命を短くする。
 3、処理しないまま遺棄する貧鉱は、鉱毒の原因となる(87)
 4、採鉱、切羽運搬の機械化が不可能である。
 これらの欠陥は、資本蓄積の貧困な、しかも設備の急速な拡大を要する創業初期においては、全く考慮する余裕を持たなかった。しかし、運搬、排水、製銅等の一応の機械化が完了した明治20年後半に至ると、次第に克服を要する問題として意識されはじめる。加えて、〔第13表〕に見るごとく、明治24年を頂点として産銅が全く頭打ちになってしまったこと、同20年頃より渡良瀬川下流で鉱毒による被害が問題になりはじめたこと等が、直接的動因となって採鉱法の転換が日程にのぼるに至る。
 かくて、明治26年12月、足尾所長(木村長七)から古河市兵衛に宛てた手紙には、
 「二十七年度は壱万噸出銅の御見据も有之、其上当山の階段掘実施、大撰鉱所の建設……(88)
とあり、いよいよ明治27年には、一部に階段掘を実施する予定であることを知り得る。これがまだ極く一部で行われたに過ぎなかったことは、先に引用した「足尾銅山景況一班」の一節に、「目下階段掘法ヲ実施スル場所僅カニ数ヶ所ニ止マリ」とあることからも推察されるが、一方、同書は、
 「当山採鉱法ハ漸次階段掘法ニ変更スルノ目的ナルヲ以テ之ニ伴フ選鉱法ノ規模亦拡張セサルヲ得サルニヨリ、更ニ一昼夜六百噸以上ノ鉱石ヲ扱フ探鉱所ヲ設ケ、今後二ヶ年ヲ期シ之ヲ竣工セシメ……而シテ之ニ要スル動力ハ水力ヲ利用シ三相交番電流発電機ヲ同時ニ竣功運転セシムルノ計画ナリ」
と述べ、ようやく明治30年代前半に至って階段掘法への転換が本格的に始められたことも示している。この転換はかなり長期にわたって行われたもののごとくで、何時、全面的に遂行されたのか必ずしも明瞭ではない。ただ階段掘による採鉱は抜き掘法に比し、鉱石の品位が必然的に低下するものであり、〔第14表〕から見て、明治36、7年までには、ほぼ──部分的に転換未遂行の場所があるとしても──完了したと考えて差支えないであろう。

第14表 足尾銅山採掘鉱石品位表(明治18年〜43年)

年次 品位(%)
明治18年〜20年
21〜25年
26年
27〜35年
36年
37年
38年
39年
40年
41年
42年
43年
各年 19
”   18
17
各年   16
5.41
4.63
4.51
4.22
3.66
3.31
2.98
2.78

【備考】 古河鉱業株式会社足尾鉱業所蔵『採鉱月報』による.

 このように、「階段掘法」への転換がほぼ明治32、3年を期として進められたことと、先に見たように(註(62)参照)飯場制度の変化=作業請負の廃止がやはり明治30〜34年に遂行されたこととは、単なる偶然の一致ではない。
 この両者の間に明白な関連があることは、これまで考察したところから当然推論され得るが、更に、以下に引用する別子銅山の事例は、この両者の関連を明瞭に示している。
 「斯く全山に新施設の行はるゝに伴ひ、鉱夫の従業方法に対する合理化の必要また頓に緊切となり、明治三十九年を以て、時の採鉱課主任は従来の飯場制度に大改革を断行し、その積弊を一掃するに努めた。(中略)従来不良の飯場頭を罷免して新に採鉱課の詮衡せる者に換へ、且つこれ迄の採鉱は飯場の請負稼として、その掘場に細密なる区画を定めず、相当広範囲において飯場頭の自由採鉱に委ねてゐたのを、業場すなはち掘場の制度に改めて、階段掘に依るべきを命じ……(中略)……要するにこれらの改革は全山の気風を粛正し、善良なる一般鉱夫を保護すると共に、旧来の濫掘を防いで産銅能率を増進することにあつた(89)」。
 では、何故に「階段掘法」の採用は、飯場頭の作業請負の廃止をともな わざるを得ないのであろうか。それにはまず、「階段掘法」とは如何なるものであるかを知る必要がある。階段掘には「上向階段掘」と「下向階段掘」の別があるが、原理的にはさしたる相違がある訳ではないので、わが国で主として用いられた前者について見よう。次の図はその標準的な形の断面図であるが、これを少し説明すると。
階段掘 横断図面
 まず上下に平行に開坑坑道が開かれ、適宜の所で小竪坑(坑井)が切り上げられる。その上で鉱脈に沿って一定の高さ(足尾の場合は約6尺)、一定の幅(同じく3尺)の区画を定め、図のごとく順次に段形を為して掘進して行くのである。これによれば、鉱石だけではなく、無用の岩石をも採掘せざるを得ないから、その限りでは高品位の鉱石のみを採取する「抜き掘法」に劣っている。しかしこの場合は、「抜き掘法」では採掘されなかった貧鉱も残りなく採取され、同時に、出入はもちろん 、運搬、支柱、通風等も著しく容易になり、「抜き掘法」の欠陥とされたところは殆んど除かれる。
 ところで、「抜き掘法」の場合であれば、坑夫は鉱脈の変化に拘わらず、ただ富鉱部を追ってそれを採取し、掘り跡が如何に不規則となろうともいっこう問題にしないで済む。この場合には採鉱作業はタガネの使用法、鉱石の鑑別法等、経験的に習得するところの、いわゆる「技能」(90)によって支えられている。ここに飯場頭──彼自身熟練した技能の持主である──が生産過程に介入し、作業の指揮、監督を行い得た一つの条件があったことはすでに指摘した通りである。
 しかし、「階段掘法」となると、もはや作業の指揮、監督は単にこれまでの経験的「技能」だけでは処理し得なくなる。鉱脈の変化に応じて階段のとり方を変え、あるいは運搬の便を考慮して鉱石を処理する等「科学的技術」(90)によらなくては遂行し得ない面が増大する。これに対し、旧来の経験のみに頼る飯場頭が容易に適応し得ないことは当然であろう。ここに「階段掘法」の採用にともな って、旧来の飯場頭が排除されざるを得なかった主要な原因がある。更に、「階段掘法」の採用によって切羽が集約、整理されたため(一階段が一切羽である)、従来に比し資本の直接的、統一的な作業の指揮、監督が容易となったことも、飯場頭の生産過程への介入を必要とした要因の意義を減少させたものとして軽視し得ない。
 以上のごとき飯場制度の変質は、明治30年代の後半に、単に足尾や別子だけでなく、全国的に、といっても比較的大規様な鉱山に限られるが、進行していたものと思われる。次の2つの引用はこのことを示している。
 「明治二十三年以降、二十八年頃にかけては、益々上向階段法、下向階段法を応用するものを増加したりと雖も、整頓せる鉱山と称せらるる処に於てすら尚ほ且、一に坑夫の自由採掘に委するもの多く、而かも其賃金の算定は、採鉱量の多少及び含有の貧富によるを以て弊害百出し、……(しかるに)……明治三十六年に於ける主要なる鉱山四十一に就いて見るに、階段法によるもの三十四にして、実に其の八割を占む」(『明治工業史鉱業篇』183〜4頁)。一方前出「鉱夫待遇事例」(明治39年調)は「飯場頭ニシテ右記載スル権限ノ全部ヲ有スルモノハ甚タ稀ニシテ……多クハ日用諸品ノ供給、賃金ノ代理受取ヲ禁シ或ハ事業ノ請負ヲ禁スルカ如キ……」と記している(同書213頁。いずれも傍点〔ここでは下線〕は二村)。

8 飯場制度の変質

 かくして作業請負が廃止されたことは、飯場制度にどのような影響を及ぼしたであろうか。前述のごとく、これまで飯場頭は鉱夫の雇傭解雇について、更には賃金決定、支払いについて独自的な権限を有し、これによって鉱夫に対してきわめて強固な統轄力を保持していたのであるが、これらの権限の基礎にあったのは、言うまでもなく作業請負の機能であった。したがって、ここに作業請負が廃止されたことは、単に飯場制度の第二の機能の喪失を意味するのみでなく、他の諸機能をも変化させずにはおかなかった。次に、その変化を第3節で見た4つの機能のそれぞれについて具体的に検討しよう。
 まず第1の、労働力確保の機能について言えば、労働者の募集、前貸金等をてことしてその自由な移動を抑制すること等は依然として飯場頭の重要な任務であり、むしろ他の諸機能の意義の低下によって、飯場制度の第一義的な機能となる。しかしながら、雇傭、解雇の権限はここに至ってかなりの制限を蒙る。前掲の「古河足尾銅山鉱夫使役規則(91)」における一類鉱夫(請負でなくなった坑夫、支柱夫等)と二類鉱夫(依然として請負の下にある手子、車夫等)に関する規定の相違は、この間の変化を明瞭に示している。それによれば「……二類鉱夫トハ其組頭ノ下ニ間接ニ使役スルモノ(92)」であり、鉱業所は組頭からの一括採用願出を承認するのみである(93)のに対し、「直接ニ使役スルモノ」たる一類鉱夫の場合は「採用ヲ請ハント欲スルモノハ其志願ノ組合ニ就キ紹介人ヲ立テ(94)」て直接、本人が「主務課へ願出(94)」鉱業所はその「願アルニ際シ事務所ニ於テ雇人ヲ要スルトキハ其来歴ヲ調査シ不都合ナシト認ムルニ於テハ一類鉱夫ハ試験ヲ為シ合格セシモノハ採用スベシ此場合ニ於テハ同組合中確実ナルモノ二名以上ヲ保証人トシ3号書式誓約書ヲ差出スベシ(95)」と規定されている。要するに、資本は、作業請負を廃止し作業を自らの統一的な指揮、監督の下におくにあたって鉱夫の雇傭、解雇の権限が完全に資本の手にあることを明文化することを必要としたのである。ここにおいて飯場頭は単なる紹介人、あるいは保証人としての地位に引き下げられた。
 第2の作業請負の機能は、言うまでもなくこのたびの変化の中心である。しかし、作業請負の廃止によって、直ちに飯場頭が生産過程から全面的に排除されたわけではなく、鉱夫の出役督励(いわゆる「繰込み」)及び配下鉱夫の作業監督さえも、なおしばらくは彼の任務とされていた。しかし、すでに彼は現場係員の「補助者(96)」たるに過ぎず、それさえも資本の直接的監督の強化によって次第にその比重を減じて行く。前掲「古河足尾銅山鉱夫使役規則」に「頭役ニシテ自己ノ本業ニ労役シ難キ事情アルモノハ主務局課へ出願ノ上定期又ハ無期労役ニ服セサルコトヲ得(97)」とあることに、この間の事情が反映している。
 第3の賃金管理に関する機能も、もちろん 著しい変化を蒙らずにはいなかった。配下鉱夫の番割決定=作業切羽の配分を操作することによって飯場頭が保持していた個々の鉱夫に対する事実上の賃金決定権は、作業請負の廃止にともな って当然失われ、代って現場係員がこの権限を掌握する。ただし、賃金の一括代理受取り権について言えば、これは作業請負の廃止によって必然的に失われるものではないことが指摘さるべきである。一般に資本の側では、作業請負の廃止と同時に出来る限り飯場頭の中間搾取を制限する方向をとるから、賃金の代理受取り禁止の意図を示すことが多い。(現に別子の39年の飯場制度改革の場合がそうである)。しかしながら、飯場頭が鉱夫に対して前貸金、あるいは賄費、日用諸品の代価の貸付けを有している限りでは(またこれが資本にとっても労働者の募集、統轄の上で必要とされる限りでは)この賃金の代理受取りは、事実上存続させざるを得ない(98)
 第4の機能──労働者の日常生活管理の機能について。この面には本質的な変化は見られない。しかし、他の機能の喪失あるいは制限によって飯場制度は相対的にこの部面の比重を増大させ、同時にまた作業請負を奪われた飯場頭が賄費、日常諸品の供給代価のつり上げ、あるいは各種賦課金の徴収等、流通面での収奪をはからざるを得なかったことによって、絶対的にもこの機能の意義は増大した。
 以上のごとき飯場制度の諸機能の変化によって、飯場頭の鉱夫統轄力が著しく弱化したのは当然のことであろう。これまでしばしば述べたように、従来、飯場頭がきわめて強固な統轄力を保持し得たのは、彼が作業請負を行うことにともな って、配下鉱夫の雇傭、解雇について、更に賃金決定についてかなり独自的な権限を持ち、形式的外見的にせよ配下鉱夫の雇傭主として現象したことによるものであった。
 そして、この雇傭、解雇と、賃金決定に関する権限こそが、作業請負の廃止にともな って著しく制限され、弱化したのである。なるほどこれらの権限は制限されたのであって、完全に剥奪されたわけではない。前者についていえば、彼は紹介人、あるいは保証人として、多少なりとも雇傭、解雇に関して容喙し得る。このことを過小評価してはならない。しかし、それはあくまでも資本の労働者支配を円滑ならしむる限りで許されたのであり、もしも、これが資本の立場と矛盾することがあれば、直ちにその限界が示されたのである(99)
 こうして、鉱夫が資本と直接雇傭関係にあることが規則として明文化され、実質的にも飯場頭の権限が弱まったことによって、飯場頭の雇傭主的ヴェールははぎとられ、その仲介者的存在はあらわになる。
 次いで賃金決定権に関して見れば、彼はその実権を殆んど失った。ここに殆んどと言うのは、前述のごとく彼は依然として賃金の一括代理受取りの権限は保持しており、その限りで配下鉱夫の賃金について多少の操作を行い得る。しかし作業請負をせず、更に作業監督をも殆んど行わないとなれば、賃金の代理受取りはその根拠を殆んど失い、その本質──中間搾取の手段としての性格が露骨に示される。ここに至れば、鉱夫等がピンはねをピンはねとして意識し、飯場頭が彼等の労働に寄生する不当な存在に過ぎぬことを認識することは、著しく容易となる。
 しかも、飯場頭は作業請負を奪われた代償として、配下坑夫の入坑工数に応じた手数料を与えられただけであり、これがその後のインフレの過程で実質的に減収となるに及んで(100)、彼等はいきおい、各種の賦課金徴収(101)、あるいは供給品の値上げ等、流通面における収奪を強化せざるを得なかった。このことは飯場頭の寄生的性格を一層強め、鉱夫と飯場頭との矛盾を更に激化させたのである(102)
 かくて我々は、はじめに提起した問題に答えることが出来る。
 作業請負制の廃止にともな って惹起された飯場制度の変化は、一面では飯場頭の鉱夫統轄力を弱化せしめ、他面では飯場頭の寄生的性格を強めて鉱夫との対立を深めた。ここにこそ、鉱夫の飯場頭に対する公然たる反抗が生まれ、一時的ではあったが勝利し得た根拠がある、と。

むすび

 明治40年の、一連の鉱山ストライキ暴動は、まさに大河内氏の言われるごとく「何れも足尾銅山の暴動と同じ社会的基盤に基くものであった(103)」。
 しかしながら、この「社会的基盤」は、言われるごとき「奴隷制的飯場制度の強度な支配」にあったのではなく、全く逆のもの、すなわち、明治30年代の中頃から全国的に進行しつつあった飯場制度の変質=弱化にあったことは、以上本稿において究明し得たところと考える(104)
 この事実を「出稼型」論者は何故に把握し得なかったのか。
 それは、何よりも「出稼型」論が労働市場における労働力の特質に過ぎない「出稼型」をもって、明治から今日に至るまでの我国の労働運動、労働問題の一切を基本的に制約するものとみなした所にある。ここに、彼等は、労働力の主たる存在の場が資本の支配する生産過程のうちにある事実を無視し、したがって、「ブルジョアジーは生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、たえず変革しないでは生きて行くことが出来ない(105)」事実を見落してしまったのである。ここに「出稼型」論が宿命論とならざるを得なかった一つの根拠があることは、すでにはじめに指摘したところである。
 ところで、以上で見た通り、足尾暴動をはじめとするこれら一連の鉱山騒擾は、それ自体生産過程の近代化にともな う労働組織の変革に一つの基礎を有するものであったが、同時にこれは、逆に労働組織の近代化=飯場制度の解体を促進する役割を果したことを見落してはならない。
 もっとも、この期の労働者の反抗が、多く暴動あるいは騒擾として暴発し、国家権力の介入によって鎮圧され、組織的、持続的運動たり得なかったことは、この労働組織近代化の主導権を完全に資本の手に掌握せしめ、ためにその近代化は著しく不徹底なものとならざるを得なかったのであるが。
 だが、如何に妥協的ではあれ、この時点を期にして「飯場制度」は崩れ、飯場頭は完全に資本に従属して、労働力の供給、日常生活の管理のみにその職務を限られるに至る。かくて「飯場制度」に代って「世話方制」が成立する(106)。ここに、資本は生産過程を完全に掌握し、採鉱作業の機械化を着々とおし進めて行く(107)。そして、この基盤の上に、大正8年以降の広範な鉱山労働者の組織的闘争の展開が可能になったのであり、またこの闘争自体が労働組織のより一層の近代化=「世話方制」から「直轄制」への移行に重要な役割を果したのである。


〔追記〕最近、大河内氏は、「日本的労使関係の特質とその変遷」(『日本労働協会雑誌』創刊号、1959・4)及び「企業別組合の歴史的検討」(『労働運動史研究』15号、1959・5)の二論稿において、きわめて注目すべき見解を発表された。その主旨は、日本においても大正末期から昭和初期以前については横断的労働市場が存在し、その上に横断的な労働組合が成立し得たが、企業の労務管理政策の変化によって、その後次第に労働市場は企業別に封鎖され、戦後の「企業別組合」の基盤をなした、というのである。
 したがって、この点に関する私の批判(例えば註(67)の前半)は一応解決した訳である。ただ、この度の氏の見解は、単に歴史的事実の誤りの訂正に止まらず、明らかに従来の氏の理論の基本的変更であると思われるが──そして私はその変更に賛成であるが──それについての氏の見解はまだ明らかにされていないので、本稿はもとのままの形で発表する。御諒承願いたい。


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初出は『法学志林』第57巻第1号(1959年7月)所載。のち歴史科学協議会編・梅田欽治編集解説『歴史科学体系25 労働運動史』(校倉書房、1981年)に再録。本オンライン版では誤植の少ない後者を底本にした。なお本文は原則としてもとのままであるが、句読点を整理し、一部の漢字はひらがなに改めた。また傍点は下線に変えている。



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