第2部 鉱業労働史研究
第2部 「鉱業労働史研究」の中核的作品であり、第4巻として収録している『足尾暴動の史的分析 ─ 鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会、1988年5月刊行、ISBN 4-13-020084-4)に関する、著者自身による解題。もともとは、弘文堂から出版された『日本史文献事典』の原稿として執筆したが、筆者の思い違いから枚数を大幅に超過した元原稿を、さらに加筆したもの。
はじめに(2003.9.25掲載)
序 章 暴動の舞台・足尾銅山(2003.10.8掲載)
立地・交通 地理、人口 足尾銅山沿革 古河鉱業会社
足尾鉱業所 坑部課 飯場制度 友子同盟
第1章 足尾暴動の主体的条件──〈原子化された労働者〉説批判──(2003.10.8掲載)
はじめに
原子化された労働者説 疑問点
Ⅰ 治安警察法下での労働組合結成の企て(2003.10.10掲載)
1) 大日本労働同志会
組織者・永岡鶴蔵 同志会の意図 構成員 相互救済
宣伝啓蒙活動 同志会の成果 同志会の分裂と共和会
2) 大日本鉱山労働会(2003.10.10掲載)
同志会と共和会の合同
Ⅱ 大日本労働至誠会の結成とその波紋(2003.10.11掲載)
1) 大日本労働至誠会足尾支部
南助松の入山と運動方針の転換
2) 至誠会と飯場頭、友子同盟の関係
飯場頭・友子同盟への働きかけ
3) 会社側の対応
古河鉱業会社重役の対応 足尾鉱業所幹部の対応 鉱夫へも内地米供給
Ⅲ 〈暴動〉前夜(2003.10.12掲載)
1) 飯場頭の賃上げ嘆願 友子同盟の賃上げ運動
2) 友子同盟と飯場頭の対立 至誠会と友子同盟の接近
箱取り戻し 友子同盟4山、請願で合意
Ⅳ 〈暴 動〉(2003.10.14掲載)
1) 〈暴動〉の経過と特徴
2月4日、通洞 2月5日、簀子橋、本山
2月6日、本山坑内→本山坑外 暴動化
2) 当局側の対応
警察の無力 出兵要請 出兵、鎮圧
3) 事後処理
全員解雇、選別再雇用 賃上げ実施
Ⅴ 〈暴動〉をめぐる諸問題(2003.10.15掲載)
1) 暴動の直接的原因をめぐる諸説の検討
偶発説 至誠会、教唆・扇動説 飯場頭首謀説
2) 小滝坑暴動不参加の理由
坑場長の対応の違い
3) 現場員・坑夫対立の背景(2003.10.15掲載)
賄賂横行の原因
4) 南挺三所長攻撃の理由
元官僚・南挺三の個性 経営政策転換の影響
至誠会による南所長批判の影響
Ⅵ 〈原子化された労働者〉説批判(2003.10.16掲載)
1) 自然発生説について
組織性と自然発生性
2) 〈原子化された労働者〉説批判
鉱山労働運動における友子同盟の意義
永岡鶴蔵と友子同盟
結社形成的労働者と暴動
足尾例外説の検討
結びに代えて──暴動後の友子同盟と飯場制度(2003.10.16掲載)
山中委員制度の廃止 飯場制度改革
はじめに(2004.2.7掲載)
Ⅰ 〈出稼型〉論とその問題点(2004.2.7掲載)
〈出稼型〉論 〈出稼型〉論に対する批判論 課題
Ⅱ 飯場制度の定義(2004.2.28掲載)
飯場制度の機能 外見上の雇用主
Ⅲ 山 師 制(2004.2.28掲載)
Ⅳ 飯場制度の生成(2004.8.31掲載)
下稼人 統一的開坑 下稼人制度の廃止
Ⅴ 飯場制度存立の根拠(2004.8.31掲載)
飯場制度と〈出稼型〉論 作業請負存続の根拠
Ⅵ 採鉱法の進歩(2004.8.31掲載)
抜き掘法から階段掘法へ 階段掘法と作業請負の廃止
Ⅶ 飯場制度の変質(2004.8.31掲載)
飯場頭の坑夫統括力の弱化
むすび(2004.8.31掲載)
★ 補論1 飯場頭の出自と労働者募集圏(2004.9.3掲載)
飯場制度の労働力確保機能
飯場頭の出自
足尾銅山の労働者募集圏
★
補論2 足尾銅山における囚人労働(2004.9.3掲載)
囚人労働の始まり
行刑上の制約
囚人の労働条件
鉱業発達史における囚人労働の意義
足尾での囚人労働の終わり
★ 鉱山労働運動の比較史的検討
(未掲載)
1997年12月、デューク大学出版部から刊行した英文版『足尾暴動の史的分析』The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japanのために新たに書き下ろした章の日本語版。鉱山業における労働運動の特質を国際比較的に論じている。
★ 足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に対する一批判(2000.5.14 掲載)
『法学志林』第57巻第1号(1959年7月)。1950年代の日本の労働問題研究に大きな影響力をもっていた大河内一男氏の「出稼型論」を実証的に批判したもの。著者の修士論文。著者の主著である『足尾暴動の史的分析』第2章「飯場制度の史的分析」は本稿を改稿したもの。なおこの論文およびこれを書いた前後のことについては「大原社会問題研究所との43年間」参照。
★ 明治40年の足尾暴動について(2000.3.30)
『労働運動史研究』第12号(1958年11月)。労働運動史研究会1958年7月例会における口頭発表をもとにまとめたもの。いわば著者のオープン戦初登板ともいうべき作品。
★ 足尾暴動(2000.4.7掲載)
初出は『学習の友』第69号(1959年7月号)、その後補正して労働運動史研究会編『日本労働運動の歴史』(三一書房、1960年10月)に再録。
★ 鉱山労働運動小史(2000.11.4掲載)
「鉱山業における労資関係の歴史的概観」の原題で『金属鉱山研究会会報』9号(1975年10月)に掲載。
★ 「足尾暴動の基礎過程」再論(2000.3.25掲載)
『金属鉱山研究会会報』27号(1981年3月)掲載論文。
★ 全国坑夫組合の組織と活動(1)(2000.4.25掲載)
全国坑夫組合は、1919(大正8)年に、佐野学はじめ新人会の会員の指導のもとに友子同盟の繋がりを利用して結成された労働組合。法政大学大原社会問題研究所に残された会計記録などを利用してその組織と活動の実態を明らかにしようとしたもの。『資料室報』159号(1970年2月)掲載論文。
★ 全国坑夫組合の組織と活動(2)(2000.5.6掲載)
法政大学大原社会問題研究所『資料室報』168号(1971年1月)掲載論文。
★ 全国坑夫組合の組織と活動(3)
(2000.5.23掲載)
法政大学大原社会問題研究所『資料室報』185号(1972年8月)掲載論文。
★ 1880年代の鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(1)(2000.5.25掲載)
★ 1880年代の鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(2)(2000.5.25掲載)
古島敏雄氏をはじめ従来の日本経済史、賃労働史研究が「原蓄期」の労働者数について、たまたま残っている統計を吟味せずに使っているため、生産統計などと著しく矛盾した結論を出していることを批判し、新たに発掘したデータによって、この時期の鉱山労働者が通説をはるかに超える数であったことを明らかにした論稿。(1)(2)をあわせて「原蓄期における鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味」(上)のタイトルで法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第289号(1982年9月)に掲載。
★ 1880年代における鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(3)(2000.5.30掲載)
1880年代の鉱山労働者数を各府県ごとに吟味したもの。「原蓄期における鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味」(下)として法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第290号(1982年10月)に掲載した論稿の前半。
★ 1880年代における鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(4)(2000.5.31掲載)
1880年代後半から90年代初頭の産業別労働者数に関する研究が依拠してきた「会社種類別」の職工数が信頼できないことを指摘。最後に1875年の鉱山労働者数についても推計している。「原蓄期における鉱山労働者数」(下)として法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第290号(1982年10月)に掲載した論稿の後半部分。
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