『二村一夫著作集』バナー、トップページ総目次に戻る


二 村  一 夫

足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に対する一批判──の注部分

 本文と注を1つにするとファイル・サイズが大きくなりすぎますので、注を独立のファイルとしました。「足尾暴動の基礎過程」の本文のファイル名は、http://nimura-laborhistory.jp/kisokatei.html ですが、本文へはブラウザーの〈戻る〉ボタンかマウスの右クリックでお戻りください。


 (1) 塩田庄兵衛稿「さいきんの日本労働運動史文献について」(『歴史学研究』163号、1953年5月、所収)
 (2) 以下主として、大河内一男稿「賃労働における封建的なるもの」(大河内一男著『社会政策の経済理論』日本評論新社、1952年刊、所収)による。そのほか大河内一男稿「〈原生的労働関係〉における西洋と東洋」(大河内一男著『社会政策の経済理論』同上)所収、大河内一男著『黎明期の日本労働運動』(岩波新書、1952年)──とくにその序章、大河内一男著『戦後日本の労働運動』(岩波新書、1955年)、大河内一男稿「労働者の意識」(大河内一男・隅谷三喜男編『日本の労働者階級』東洋経済新報社、1956年刊所収)、大河内一男稿「労働組合における日本型について」『経済研究』第2巻第4号、所収)等参照。
(3) 大河内一男稿「賃労働における封建的なるもの」(大河内一男著『社会政策の経済理論』212頁)。
 (4) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』3頁。
 (5) 大友福夫稿「組織」(遠藤湘吉・舟橋尚道・大友福夫・藤田若雄・大島清共著『統一的労働運動の展望』労働法律旬報社、1952年)73−74頁。
 (6) 舟橋尚道稿「労働組合組織の特質」(大河内一男編『日本の労働組合』東洋経済新報社、1954年、所収)参照。
 (7) この点についても、舟橋尚道氏の明確な指摘がある。同氏、前掲論文参照。なお、塩田庄兵衛氏が「労働運動と社会主義思想との関係を、私は自然成長的要素と意識的要素との相互関係としてとらえ、それを日本の歴史過程に具体的に適用して段階的発展を明かにすることを試みた」と述べられるとき、これは明らかに「出稼型」論の経済決定論に対する批判の上に立っていられるのであろう。前掲塩田論文、及び同氏「社会主義運動の発展」(中央公論社『新日本史講座』第12回、1951年、収録)参照。
 (8) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』4頁。
 (9) 並木正吉稿「農家人口の流出形態」(『農業総合研究』第10巻第3号所収)、並木正吉稿「農家人口の戦後一〇年」(『農業総合研究』第9巻第4号所収)等参照。
(10) 大島清稿「農民層の分解」(前掲『日本の労働者階級』所収)20−21頁、なお高木督夫稿「我国労働者の半農半労的特質について(2)」(『労働科学』昭和29年3月)参照。
(11) この点の重要性は、現在のオートメーションを基軸とする技術革新がひき起している労働力の性格の急激な変化を見れば、直ちに了解されるであろう。
(12a) その一端を示すものとして、つぎに同盟罷工の職種別集計を掲げる〔第1表〕(PDFファイル)。ただし、この統計はかなり不備で、多くの集計もれがある。例えば、明治40年は60件となっているが、現在判明しているだけでも150件近い争議が記録されている。一応の傾向を知ることは出来よう。
(12b) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』207〜208頁。
(13) 同書153〜154頁。
(14) 同書208頁。
(15) 同書214頁。
(16) 同書214頁
(17) 岸本英太郎著『日本労働運動史』(弘文堂、1950年)97頁。
(18) 同書101頁。
(19) 大島清著『日本恐慌史論』上(東京大学出版会、) 317頁「この日露戦後の企業勃興は一九〇六年下半期においてもっとも熾烈で、一九〇七年初めにはやくも反動をみるのであるが、しかし一九〇七年中はまだ企業熱は継続するのである。」
 同書にあげられた表によりその実数を見ると次の〔第3表〕のごとくである。

第3表 1905年下半期〜1908年5月計画資本高(単位1000円)
年次 新設 拡張 合計
1905年下 半 期
1906年     
1907年上 半 期
1907年下 半 期
1908年上5ヶ月
合    計
61,514
781,104
373,971
84,120
33,148
1,333,857
89,428
20,473
61,824
54,863
29,506
556,093
150,934
1,001,568
535,795
135,983
62,654
1,889,950

【備考】『金融六十年史』464頁

 すなわち、1906年(明治39年)の新設拡張額合計は10億を超えるが、翌1907年の上半期にも同合計は5億を超え新設拡張のテムポはさして減退を見せていない。同年下半期に入って始めて、そのテムポは急速な衰退を示すのである。
 なお、同様傍証として、足尾銅山の暴動時の史料をあげておこう。暴動前、大日本労働至誠会創立者たる南助松は「戦後の経営として鉱業事業到る処に勃興し、労働者を待つこと切である。諸君の下山は恐るるに足りず」と鉱夫に説き、これにより鉱夫の意気大いにあがった(『下野新聞』明治40年8月29日付)。他方、暴動後の足尾鉱業所告示中にも「当会社ノ賃金ハ他会社若クハ個人持鉱山ヨリ一層高値テアルモノト認メタルニモ不拘、好況ナルニヨリ其喜ヲ皆様ニ分与センノ考ニヨリマシテ……」賃上げを認めるとしている(宇都宮地方検察庁所蔵『明治四〇年足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』秘第一六八号明治四〇年二月一一日付)。
(20)
第4表 明治40年鉱山における労働運動一覧
  鉱山名鉱山名府県別形態主な要求
1月金属鉱山鴇鉱山岩手スト示威運動足止め積立金反対
2月


足尾銅山
遊泉寺銅山
高根銀山
槇峯銅山
※生野銀山
栃木
石川
岐阜
宮崎
兵庫
暴動
坑夫集会・スト
スト
スト
スト
賃上げ・待遇改善
賃上げ・足止め積立金反対

賃上げ
賃上げ

福井炭礦
幌内炭礦
長崎
北海道
スト
要求提出示威運動
賃上げ・積立金払戻し要求
賃上げ他
3月
金属鉱山※姥沢鉱山福島暴動賃上げ
炭礦
夕張炭礦
幾春別炭礦
北海道
北海道
示威運動
スト

4月炭礦幌内炭礦北海道スト賃上げ他
5月金属鉱山別子銅山愛媛暴動(6月まで)賃上げ他
6月
金属鉱山三森嶽鉱山
帯江銅山
虻川鉱山
北海道
岡山
秋田
連判状にて要求坑夫側委員重役と交渉(7月まで)

スト
賃上げ

賃上げ
非金属鉱山石狩硫黄鉱山北海道  賃上げ
7月


生野銀山
三菱吹屋銅山
飯森鉱山
吉岡鉱山
山戸屋鉱山
船岡鉱山
兵庫
岡山
和歌山
岡山
兵庫
京都
坑夫集会・要求提出
同盟要求
(不穏の形勢)

スト



賃上げ
賃上げ
賃上げ


夕張炭礦
歌志内炭鉱
宇佐見炭鉱
北海道
北海道
茨城
スト(二回)
スト
スト
賃上げ・待遇改普

賃上げ
8月金属鉱山生野銀山兵庫スト(9月まで)払下げ米の値下げ要求

【備考】
(1) ※印は月日が明記されていないもの。推定による。
(2) 『日刊平民新聞』『社会新聞』『大阪−日本平民新聞』により作成。

(21) 物価騰貴を統計的に見れば〔第5表〕の通りである。明治40年における高物価がうかがわれる。
第5表 明治33年〜44年 物価指数 附石建米価
年 次 物価指数 主要市場
平均米価

明治33年
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44

100.00
95.97
96.90
103.09
108.36
116.36
119.75
129.29
124.55
118.76
120.30
124.70
石当り 円
11.32
11.47
12.07
13.68
12.89
12.66
14.44
16.02
15.24
12.54
19.93
16.85

【備考】
(1) 簡易保険局「物価及賃金ニ関スル調査」による
(2) 物価指数は日本銀行物価指数。主要市場平均米価は農林省調、内地産玄米(中米)の卸売価格。

(22) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』207〜208頁。
(23) 大河内氏によれば、原生的労働関係は「資本制経済の発展にとっての特徴ある一時期の指標、すなわち産業革命の進展とともに多数の賃労働が工場工業の中へ入りこみながら而もこれに対する保護はなく、労働者の側からの自主的反抗が禁圧されている時期の労働関係、低賃金と過度労働と総じて権力的=身分的労働関係の支配する一時期を意味している」(「『原生的労働関係』における西洋と東洋」『社会政策の経済理論』所収184頁)。「主としてそれは産業革命の進展中およびその直後の時期であり、工場法等が自主的につくりあげられた労使関係や労働条件に介入干与するに至らない時期」「産業革命前の労働関係とは範疇としても歴史的段階としても別箇のもの」(「“日本賃労働史論”書評」『経済学論集』第24巻第2号所収)とされる。そもそも、ここに言う労働関係なる語が如何なる内容を持つものか理解しがたいが、ひとまずそれは措こう。要するに、氏は[1]賃労働の未成熟な時期=経済外的手段によって低賃金、長時間労働を確保、[2]賃労働の豊富な創出と機械の導入により自由放任の下に低賃金、長時間労働が行われている時期、[3]工場法等によってそれが止揚される時期の3段階の時期区分を構想され、「原生的労働関係」なる語によって[2]の時期を特徴づけているのである。以上見るように、この「原生的労働関係」なる概念は、実体的規定ではなく、単に指標、あるいは特徴によって説明されているに過ぎない。これはその前提にある時期区分が社会政策上の区分であることによるものであろう。
(24) 〔第6表〕は足尾騒擾事件公判の第一審判決によって有罪とされた被告の職種別構成である(なお、実際に暴動には参加したが、未成年のため無罪とされたもの2名を加算している)。このように、暴動が鉱夫の中では相対的に労働条件のよい坑夫、支柱夫が主体で、手子、車夫等の更に劣悪な労働条件の下にある労働者がほとんど参加していないことに注目されたい。この事実は暴動が単に経済的窮迫だけではとらえ得ないことを示している。

第6表 足尾騒擾事件裁判一審有罪被告職種別人数
職種名人 数百分率
坑 夫
同見習
68人
1人

69人

82.2%
支柱夫
同見習
4人
1人

5人

6.0%
雑 夫
其他(8職種)

2人
8人
2.4%
9.4%

84人 100.0%

【備考】 宇都宮地方検察庁「足尾騒擾事件ニ関スル機密書類綴」によって作成。

(25) 足尾では、明治36年末以来、永岡鶴蔵によって鉱山労働者の全国組織結成のための、着実な努力が続けられていた。運動は、資本家や官憲の弾圧のために、困難を極めた。しかし、明治39年末、永岡の夕張時代からの同志南助松が加わって、大日本労働至誠会足尾支部を結成し、従来の相互救済、労働者教育を中心とする方針から脱皮して賃金値上げ、南京米改良など、労働者の切実な要求をとりあげて活溌な運動を展開するや急速に労働者の支持を獲得し、暴動直前には会員700名に及んだ。こうして至誠会は鉱業所に待遇改善の要求を出す一方、友子組合の山中委員を指導して、数年前飯場頭に奪われ中間搾取の具となっていた友子組合の出納権(いわゆる「箱」)を坑夫総代たる山中委員の手に戻すよう要求し、これに成功したのである。この「箱取り戻し」については、米谷市兵予審調書に次のように記されている「……山中委員一同カ自分ノ飯場ニ来リタル実際ノ目的ハ頭役カ箱ノ監督すなわち金銭ノ出納ニ付頭役カ銭ヲ預リ置キ正当ト認メネハ支出セサリシ慣例ナルニ、其監督ノ権利ヲ頭役ヨリ奪ヒタイト云フカ目的ニテ請求アリシ故頭役一同相談ノ上、翌二十八日(一月)ニ至リ、二月五日交代ノ時ニ箱ノ監督権ヲ解クト云フコトニ承認シタリ……」この問題の2月5日の前日暴動が起ったのである。
(26) 当時、足尾銅山の各飯場では、友子組合の交際費(主として共済のために用いる)及び湯代、炭代等飯場の共通費用を一括して「飯場割」と称し、飯場頭はこれを賃金から天引して自由に処分していた。公判廷における検事論告によれば、通常坑夫一人当り月一円50銭の飯場割を取立てる飯場頭は、そのうち50銭は自己の儲けとしていたといい、飯場頭の最大の収入源であった(「足尾公判傍聴録」『下野新聞』明治40年8月二4日付)。「箱」取戻しの結果は当然飯場割中の友子交際費の額の明確化をもたらし、飯場割に基く不明朗な中間搾取を不能にすることが予想されたばかりでなく、一部の大飯場では実際に飯場割が廃止され、他の飯場頭の大恐慌をもたらした。
(27) 足尾騒擾事件公判一審法廷で、被告の一人、大西佐市から次のごとき供述がなされた。「通洞石田喜四郎の飯場より鎌田延四郎が迎へに来り、泉屋旅館に伴ひ……鎌田は飯場の総代として来りたるが怎うか君は男となつて頼みを聞て呉れ其報酬として三百円遣るから今頭役が請願をして居るのだから若者を煽だてゝ呉れと云ふのであった」(「足尾公判傍聴録」『下野新聞』明治40年8月13日付)「鎌田が自分に話しをしたのは……お前が至誠会に入会して居ることは誰れも知らん者がないから飯場の者もよく言ふことを聞くお前さへ承諾すれば飯場の者は怎にでもなるから至誠会に熱くならぬで呉れ卅人位の人は使はして遣るから男と見込んで頼むから若者を指揮して見張を壊せといふた」(同、8月二8日付)。この点につき、公判廷で数回対決が行われたが、結局水掛論となり判決では採用されなかった。しかし対決のために喚問された証人がなかなか出廷せず、しかも「其答弁は始終渋り勝ちにて傍聴者側には如何にも開かぬ風呂敷包の中身を推断するが如き思いをなさしめたり」(同8月16日付)として、傍聴の記者に非常な疑惑を抱かせたほどであった(同、8月17日付)。会員が増大し、発展しつつあった至誠会には暴動を煽動する必然性は全くないのに対し、飯場頭の側では前註に見るような状態の中で至誠会の追放を何より望んでいたのである。もっとも暴動が単なる坑内見張所の破壊に止まらず全山に拡大することは飯場頭も予測しなかったであろう。
(28) 『坑夫待遇事例』は編者を明記していないが、農商務省鉱山局の編纂せるものであることはほぼ確実であり、明治39年現在で、「主トシテ鉱夫五百人以上ヲ使役スル鉱山(金属・石炭・石油)」について、「鉱夫待遇上ノ事例ヲ摘載シテ」いる。後に見るように一般に飯場制度は明治10年〜20年代にかけて形成され、30年代後半には早くも解体の方向をとり始める。したがって、本書に掲げられている個々の鉱山の事例をそのまま飯場制度の典型と考えることは出来ない。しかし、他に殆んど拠るべき史料を持たない現在、これを批判的に処理することによって飯場制度の典型的な姿を復原する他はないし、また、本書の豊富な事例はそのことを可能にしている。なお、本稿で用いたのは九州産業史料研究会の復刻本である。
(29) 同書213頁。
(30) されば前掲『坑夫待遇事例』においても「飯場制度ニ於テ普通利益ナリトスル主要ノ事項」の第1に「鉱夫ノ募集上便利ナルコト」をあげているのである(同書214頁)。
(31) この点は、高島炭坑の事例等によって、一般に飯場制度の主要な機能の一つであり、且つその奴隷制的特質を示すものとしてよく知られている。しかしこの点は従来不当に重視されていたきらいがある。飯場制度の下でも鉱山労働者はかなりの移動の自由を有していたのであり、むしろ〔第7表〕に示すように飯場制度の下における鉱夫の方が直轄制度の下の鉱夫より移動率が高かったことが指摘さるべきであろう。

第7表 明治39年 直轄・飯場制別坑夫移動率
職種 直轄制度鉱夫移動率 飯場制度鉱夫移動率

金属山
石炭山
平均
5.7%
10.0%
8.2%
4.8%
9.4%
7.7%
12.4%
10.0%
7.1%
12.7%
9.7%

【備考】
(1)『鉱夫待遇事例』12頁
(2)移動率は移動者数/在籍者数の百分率。1ヵ月平均値。

(32) 募集−雇傭解雇の権限も「飯場頭が鉱夫供給ノ請負ヲナスモノト、単ニ鉱夫ノ周旋ヲ為スニ過キサルモノ」(『坑夫待遇事例』21頁)を両極としてその内容には多様の相違がある。もちろん 、いずれの場合にも、この権限について飯場頭が資本に対して完全な独自性を有することはない。しかし、通常とくに解雇の場合には、雇傭契約の保証人としての飯場頭の意向は無視し得ない。
(33) 『採鉱法調査報文』第五採鉱法ノ比較研究。
(34) 『坑夫待遇事例』220頁。
(35) たとえば、さきに引用した院内鉱山においても「鉱夫ノ業務監督ノ為ノ左ノ職員ヲ置キ諸般ノ指揮ヲ為ス」として、「採鉱係十四名坑内夫ヲ監督ス……」他、選鉱係、工作係等26名をあげている(『坑夫待遇事例』207頁)。
(36) しかも、この検定が厳正に行われることは殆んどまれで、係員への贈賄が公然と行われる場合が多い、足尾暴動においてとくに現場係員が暴行の対象とされた直接的原因は、彼等の日頃の偏頗なやり方に対する鬱積した不満であった。
(37) 足尾暴動時にも「坑夫百人中六七十人迄ハ飯場頭ニ借金致シオル有様ナリ」と言われた(判決文中「井守伸午第八回予審調書」)。
(38) 小葉田淳著『鉱山の歴史』(至文堂、1956年)五、鉱山の領有参照。
(39) 同書144〜145頁参照。
(40) 同書 六、鉱山の生産組織参照。なお通常「山師」と言うのは本文のごときものを指すが、その他「請主」を「山師」と呼ぶ場合も少くない。
(41) 「犬下り法」とは地表から鉱床を追って斜に掘下って行くものである。西尾_次郎著『日本鉱業史要』(十一組出版部、1943年刊)参照。
(42) 「この足尾銅山は慶長年間から掘続きの山であって八千八坑も坑口があろうと云う殆んど蜂の巣のような山であった」(五日会編『古河市兵衛翁伝』五日会、1926年刊、115頁)。
(43) ここで「基本的には」と言うのは、別子・佐渡等の富鉱を産する一部の大鉱山で、しかもその隆盛期にあっては、当時においても、一応かかる状態を克服し得たからである。そこでは、多数の「つるべ」や「箱樋」を使用し、あるいは、排水・通風坑道を開鑿することによって、かなりの深部採鉱を可能にしたのである。例えば、当時、別子銅山の坑底は地表下千数百尺に及んでいた(平塚正俊『別子開坑二百五十年史話』(株式会社住友本社、1941年刊、177頁)。この排水は主として「箱樋」で行われ、明和6年には掘子491人に対し水夫455人にのぼっている(同書180頁)。だが、これはもちろん 厖大な資本投下を行うことによって始めて可能であった。これが従来の「山師」の力に余ることは言うまでもなく、この場合、領主あるいは請主たる大商業資本が生産過程に介入し、比較的統一的な経営を行うに至る。だが、領主や請主は、ここで生産過程を全面的に掌握していた訳ではない。彼等が干与したのは、主として開坑・排水等に限られ、採鉱、運搬はいわゆる「金名子」(かなこ)の請負いに委された(ここにいわば「金名子制」とも言うべきものが成立する)。
 金名子というのは、坑夫の中の熟練者で、一つの切羽を請負い若干の坑夫・手子を雇って彼等と共に作業に従事した者をいうのである。彼が「山師」と異っているのは、単にその作業が採鉱、運搬に限られているというのみでなく、彼はすでに生産手段の所有者ではなく、経営者的性格を有していないことである。かく見てくれば、「金名子制」が「飯場制」の萌芽的形態であることは明らかであろう。もっとも、萌芽といっても金名子が飯場頭に転化したという系譜的なものではなく、同一の範疇に属するという意味であるが。系譜的にはむしろはじめに述べたように、「山師制」から「金名子制」への発展をとげ得たのは一部の大鉱山のみであり、一般的には依然として「山師制」の段階に止まっていたのであるから──「山師」→「飯場頭」のコースの方が一般的であると考えられる。又一度は「金名子制」への発展をとげた鉱山でも、当時の技術水準では排水問題を完全には解決し得ず、再び衰退に向い、「山師制」に逆行したものも少くなかった。例えば、佐渡においてはすでに享保9年(1724年)「金銀山衰微一方に付き幕府直営山を改めて請負山にせんとす」(麓三郎『佐渡金銀山史話』三菱鉱業株式会社、1956年刊、199頁)る企てがあり、寛政元年(1789年)には採鉱、製煉等の直稼を止めて既往の「かなこ」「買石」の引受稼に改められた(同書284頁)。次に見る足尾銅山の場合もまさにこのようなものであったと考えられる。
(44) 五日会編『古河市兵衛翁伝』94〜97員。
(45) 同書108頁。
(46) 同書119頁。
(47) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』(木村幸二郎、1937年刊)27頁。
(48) 明治初年の生野、佐渡、院内等における鉱山騒擾はまさにこの過程において、官没と近代技術の採用によって旧来の権利を奪われた「山師」等が主導し、これに、失業の脅威にさらされた一般鉱夫が加わったものと思われる。それは決して「奴隷労働的な苦役をめぐる騒擾」(大河内『黎明期の日本労働運動』24頁)とか「囚人労働者を利用し奴隷的な労働関係にあった鉱山労働者もすでに早くから暴動を起している」(岸本『日本労働運動史』15頁)と言われるようなものではない。「奴隷労働的な苦役に対する絶望的反抗」といえるのは明治16年、17年の三池炭坑における囚人暴動のみであろう。なお、明治3年、5年の高島炭坑の暴動は、生野、院内、佐渡の騒擾と同様の性格のものであり、同11年の暴動は賃上げを要求してストライキに立ち上った鉱夫に対して官憲と資本家の側から弾圧が加えられた為に暴動に転化したものである。以上、「工部省沿革報告」(『明治前期財政経済史料集成』第17巻所収)97、102頁及び石川準吉著『生野銀山建設記』、麓三郎著『佐渡金銀山史話』、林基稿「黎明期の火花」(林基著『百姓一揆の伝統』新評論社、1955年刊、所収)等参照。
(49) 『古河市兵衛翁伝』117〜8頁。
(50) 同書119〜210頁。
(51) 同書120頁。
(52) すでに明治14年1月に、出鉱総量15,600貫中、下稼人出鉱のものは3,300貫と僅かに21%強に過ぎない(『木村長兵衛伝』47頁)。
(53) 『木村長兵衛伝』53頁。
(54) 前出「工部省沿革報告」127〜132頁及び『古河市兵衛翁伝』166頁参照。この払下げによって古河は鑿岩機、動力ポンプ等、両鉱山に据えつけられていた数百万円にのぼる最新の鉱山機械や設備を得たばかりでなく、当時まだ数少い大学出身者をはじめとする技術者をも受け入れ、急激にその技術水準を高めた。
(55) 明治21年8月〜23年12月まで古河産銅を売渡す契約。当初、シンジケートによる銅買占めとして計画されたが、古河がそれを拒んだので、直接取引に当ったジャーデン・マジソン商会との契約となり、その為22年シンジケート瓦解後も破綻なく、古河はここに安定した市場と多額の資金の裏付けを得、足尾の各方面の施設を一変し、機械化を為し遂げることが出来た。
(56) この過程は後に検討することとして、ひとまず産銅額の急増にそれを見ておこう(〔第8表〕参照)。明治17年の大鉱脈発見による急増、同21年以後、前述売銅契約に裏付けられての増産が見てとれる。


第8表 足尾銅山産額表
年次 産銅額
明治10年
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25

77,000
81,000
151,000
154,000
290,000
1,089,000
3,349,000
6,886,000
6,052,000
5,029,000
6,363,558
8,146,666
9,746,100
12,704,635
10,889,426

【備考】古河鉱業足尾鉱業所採鉱課蔵『採鉱課月報』より。単位は斤。

(57) 『木村長兵衛伝』43頁。
(58) 『古河市兵衛翁伝』121頁。
(59) 『木村長兵衛伝』51頁。
(60) 『鉱夫待遇事例』217頁。
(61) 同書206頁。
(62) ただ作業請負的機能喪失の時期は、明治30年刊の「足尾銅山景況一班」には、本文で引用したごとき記載があるに反して、同34年刊の「足尾銅山図会」(『風俗画報』)所収の「古河足尾銅山坑夫使役規則」には一類鉱夫、二類鉱夫の別が定められていることから、おそらく、明治30年代前半と推定される。
(63) 大河内一男稿「賃労働における封建的なるもの」(前掲『社会政策の経済理論』所収221頁)。
(64) 同書218頁。
(65) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』12頁。
(66) いま手許にないので、はっきりした数字をあげて論証出来ないのは残念だが、江面利一郎(足尾鉱業所採鉱課員)の「坑山労働事情」(明治43年)には、鉱夫の大半が、北陸をはじめとする農村出身者であることが記されている。なお、傍証として、足尾騒擾事件一審被告181名を出身県(原籍地)別に見れば〔第10表〕の通りである。

第10表 足尾騒擾事件被告出身県別
出身県 人 数 割合 %
富山
栃木
新潟
石川
群馬
福井
岐阜
45
20
18
16
13
10
10
24
11
10
9
7
5
5


【備考】 宇都宮地方検察庁蔵『足尾騒擾事件に関する機密書類』によって作成。

(67) 統一的労働市場の欠如と言われるが、少くとも鉱山労働者(とくに採鉱夫)の場合には明らかに横断的な労働市場が成立していた。これについては友子組合の存在等をはじめ幾多の例証がある。
 大河内氏は、労働力の定着性の低さ=流動性をも出稼型によるものとされているが(前掲『黎明期の日本労働運動』13頁)、横断的な労働市場というのは、賃労働が流動的であって、一企業に定着しないことを意味するのではないか。歴史的事実としても、論理的にも、この点についての大河内氏の見解はおかしい。
 鉱山業においてかかる形の労働力調達を必要とした理由は、統一的労働市場の欠如などではなく、(1)他産業に比しての労働条件の劣悪性、危険性、したがって労働力の消耗率の高さ、(2)山間の僻地という立地条件による労働力獲得の困難と、(3)その反面生産の急激な発展にともな う労働力需要の急増によるものである。もちろん、労働力の生産手段からの分離の不徹底が資本主義的企業への労働力の供給を制約したという一般的な条件も考慮されなければならないが。
(68) 『日本鉱業会誌』第18・25・38・69・78号、「第四回内国勧業博覧会審査報告」、鉱山懇話会編『日本鉱業発達史』上巻、『明治工業史』鉱業篇・電気篇、高岩安太郎著『足尾銅山景況一班』(私家版、1897年)、五日会編『古河市兵衛翁伝』等により作成。
(69) 星野芳郎著『現代日本技術史概説』(大日本図書、1956年)50頁参照。
(70) 的場中稿「足尾銅山視察報告」(『日本鉱業会誌』第38号 明治21年5月)
(71) 星野芳郎前掲書50頁。
(72) 当時足尾銅山が我国の鉱山業の中で如何に進んだものであったかは、その産銅量が全国産銅量のうちできわめて大きな比重を占めていたことのうちに示されている(〔第11表〕参照)。

第11表 全国産銅中足尾産銅の比率 明治21年〜30年
年 次 全国産銅総額(A)) 古河産銅総額(B) (B)/(A)(%) 足尾産銅総額(C) (C)/(A)(%)
明治21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
22,290
27,090
30,190
31,720
34,540
30,030
33,190
31,860
33,460
33,980
9,030
10,640
12,050
15,150
13,230
12,200
14,490
12,430
14,150
13,650
40.5
39.3
39.9
47.8
38.3
40.6
43.7
39.0
42.3
40.2
6,369
8,147
9,746
12,705
10,889
9,452
10,755
9,163
10,964
9,911
28.6
30.1
32.3
40.1
31.5
31.5
32.4
28.8
32.8
29.2

【備考】 『木村長七自伝』290頁より

(73) 火薬使用が如何に重要な意義を有したかは「明治十年西南の役の起った時は、軍事上民間に対する払下げが禁止され、火薬欠乏のため休山した鉱山もあった」(『別子開坑二百五十年史話』297頁)ほどであった。
(74) 鑿岩機が採鉱に使用されはじめたのは、後に見るように(註(107)参照)ようやく明治末〜大正初年のことである。
(75) 「採鉱夫賃支払ノ方法ハ、鉱石買上ノ旧法ヲ変替セシモノニシテ抽籤法ヲ以テ半月毎ニ請負ノ箇所ヲ定メ箇所毎品定目ヲ定メオキ、鉱石ノ品位ニ応シ之ヲ支払ヒ、採掘ノ量定目以上ニ及ブモノハ別ニ余賃ヲ与フルノ法ナリ」(「足尾銅山近況」『同本鉱業会誌』第38号所収)
(76) 後に見るように、階段掘法というのは一定の幅と高さを保って規則正しく掘進されるもので、当然富鉱ばかりでなく貧鉱や岩石をも採掘せざるを得ない。したがってこの場合には賃金は定目法ではなく掘進の延長によって定まる、いわゆる「間代法」によらざるを得ない。「定目法」による賃金支払は明白に「抜き掘法」に対応するのである。
(77) 鉱夫の職種別人員構成は明瞭にこの特質を反映している。〔第12表〕の坑夫、及び手子(切羽撰鉱及運搬夫)の圧倒的に高い比重を見よ。

第12表 足尾銅山職種別人員割合
種別 人員 割合%
坑 夫 2,737 27.3
進鑿夫 24 0.2
支柱夫 399 3.9
手 子 1,290 12.9
撰鉱夫 517 5.1
製錬夫 217 2.2
車 夫 286 2.7
運転夫 172 1.6
器械職 195 1.8
使 夫 1,271 12.7
その他(21職種) 2,967 29.6
10,075 100.0


【備考】 (1) 明治35年10月現在
(2) 蓮沼義意「足尾銅山」により作成

(78) マルクス『資本論』第1巻865頁、青木書店版。
(79) 同書865頁。
(80) 同書865頁、傍点は二村。なお原著傍点は省略した。
(81) 「栃木県足尾銅山点検報告書」(『日本鉱業会誌』第18号、明治19年8月)
(82) 「足尾銅山近況」(『日本鉱業会誌』第38号 明治21年5月)
(83) 塊状鉱床(いわゆる「河鹿」)の場合には切羽の集約は可能である。しかし足尾で塊状鉱床を採掘したのは大正以後のことである。
 明治19年では、切羽は「本口坑道以上運搬便利ノ箇所ニ於テハ直利(富鉱のこと)僅ニ二八箇所、他ノ弐拾七箇所ハ本坑道以下根底ニ在リ、其本番弐拾三箇所ハ底部ニ位シ、他ノ九拾三箇所ハ本坑道以上ニ在リ」(「足尾銅山記事」『日本鉱業会誌』第25号 明治20年3月)総計切羽総数151ヵ所に達している。又、明治30年には「現時主要採鉱場ノ数ハ左ノ如シ、本口坑二十八ヶ所、有木坑二十九ヶ所、新口、出合、大通洞九ヶ所、小滝坑三十二ヶ所、計九十八ヶ所」(前出「足尾銅山景況一班」)
(84) K.マルクス著、長谷部文雄訳『資本論』第1巻597頁、青木書店版。
(85) 単に、作業がツチとタガネによることのみでなく、採鉱法がそれに対応する「抜き掘法」であることは作業の指揮、監督を全くの技能的熟練に依存させる。ここに彼自身熟練労働者たる飯場頭の作業監督を可能にする条件がある。この点は後段の展開との関連で重要である。
(86) 『坑夫待遇事例』214頁。
(87) 蓮沼義意『足尾銅山』19頁以下参照。
(88) 五日会編『古河潤吉君伝』(五日会、1926年)78頁。
(89) 平塚正俊編『別子開坑二百五十年史話』416〜417頁、傍点は二村。
 なお、別子における飯場制度改革の主な内容は、次のごときものであった。「第一、請負頭を廃し、仕事は各人の連帯持と為し、為に掘場は抽籤を以て定むることとし、……第四、従来賃金は請負頭に渡し居りたるを廃止し、各本人若くは委任状所持者に渡すことと為したる等之を要するに坑夫、負夫等が鉱業所直轄の下にあることを明らかにし……」(明治40年当時、採鉱課主任代理、八代田四郎兵衛の別子騒擾事件(四〇年)裁判第一回予審訊間調書、大野盛直『別子労働争議(明治四〇年)の研究』62頁)
(90) 「技能」「技術」の規定については、武谷三男稿「技術論」(武谷三男著『弁証法の諸問題』所収)参照。
(91) 『足尾銅山図会』(風俗画報増刊234号、1901年刊)所収。
(92) 同規則、第一条。
(93) 同規則第9条に「……二類鉱夫ハ組頭ヨリ二号書式ノ願書ヲ以テ主務課科へ願出ツベシ」とある。なお、弐号書式は次のごとくである。
 使役願
   県   郡  村  番地
 属籍職業
   何某
    年齢
   県   郡  村  番地
 属籍職業
   ○○○○
    何歳
   県   郡  村  番地
 属籍職業
   何某
    年齢

 右ハ御当山何々夫志願ニ付御使役被成下度御採用ノ上ハ御規則命令等堅ク為相守職務勉励可為致候仍テ此段願候也
      何々組頭 何 某 印
 年  月  日
 古河足尾銅山事務所御中
(94) 同規則第9条。
(95) 同規則第10条。
(96) 『坑夫待遇事例』205頁、鉱夫ノ監督 足尾銅山の項。
(97) 同規則第2条、二類鉱夫については「組頭ハ其職相当ノ労役ニ服スヘキモノトス、若シ自ラ出業シ難キ事情アルモノハ事由ヲ具シテ代理ヲ立テ主務局課ノ認可ヲ受クヘシ」と規定されている(同規則第2条、下線二村)。
 なお、前掲『坑夫待遇事例』足尾銅山の項に「本銅山ニハ直轄鉱夫(一類鉱夫)ノ作業ニ関スル監督ハ鉱業所員ト頭役、夫頭直接之カ任ニ当レリト雖モ受負組頭(二類鉱夫)ニ属スル鉱夫ニ対シテハ受負組頭専ラ之ニ当リ鉱業所員ハ組頭ヲ通シテ間接ニ監督スルノ順序ナリトス」(同書206頁)とある。
(98) 形式的には請負の廃止と共に賃金は直接会社から鉱夫に支払われることになるが、事実上は債権者たる飯場頭は鉱夫より委任状をとって、賃金の代理受取りを続ける。この事情は、おそらく別子でも同様であったと思われる。森本憲夫『愛媛県における労働運動(黎明期)』78頁「賃金の支払は、本人または委任状の所持者にわたすこととし」。
(99) 明治37年末、足尾で一鉱夫が解雇されかかった時、永岡鶴蔵の指導する大日本労働同志会(前出の大日本労働至誠会〔(100) 暴動前、飯場頭は次のような項目を含む請願を鉱業所に提出している。「明治三八年七月ヨリ入坑手数料一人ニ付金一銭五厘宛御下附相成候ヲ増額ノ件」(大山敷太郎稿「足尾銅山に見る明治期親方制度の実態」『甲南論集』第4巻2号所収)。
(101) 前述の友子組合の出納権たる「箱」(注25参照)が明治36年7月ころより、飯場頭の掌握するところとなり、飯場頭の中間搾取の一手段となったことも、おそらく、この飯場頭の経済的窮迫と無関係ではあるまい(足尾暴動公判における飯場頭石田喜四郎の供述、「足尾公判傍聴記」『下野新聞』明治42年8月22日付)。
(102) 暴動後、足尾鉱業所長より、古河本店監事長宛の飯場制度改正に関する書簡に、「要スルニ、坑夫状態ノ改善元ヨリ忽ニスルヲ得サレドモ、目下ノ急務ハ寧ロ頭役ノ窮状ヲ救治シテ、部下坑夫ニ対スル待遇ヲ革正セシメ、兼テ其ノ威信ヲ保持セシムルニ在ル事ヲ認メタルヲ以テ……」(大山敷太郎前掲論文より、傍点二村)とあることは、これを明瞭に示している。
(103) 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』154頁。
(104) 念のために断っておくが、本稿はあくまでも、明治末期において暴動やストライキが「起り得た」客観的な条件を明らかにしただけであって、決してそれ以上ではない。暴動の起った必然性とか、暴動化したことの根拠がこれで解かれた訳ではない。その為には更に多くの要因が検討されなければならない。また、これらの闘争は飯場頭に向けられただけでなく、むしろ重点は資本に対して向けられていたのであるが、この鉱夫対資本の矛層は、本稿では間接的にしかふれられなかった。この点はあらためて詳細に論じる必要があるが、さし当って次の3点が指摘される。
 (1) 戦時、戦後のインフレによる実質賃金の切り下げ。
 (2) 明治39年から40年にかけての銅価格の急騰(第15表参照)と、輸出増進(第2表参照)にともな う著しい労働の強化。
 (3) 従来の、飯場頭の請負収入に当る部分が賄賂として職員に握られ、二重の中間搾取が加えられたこと。

第15表 銅市価並産額
年次 市価(円) 産額(瓩)
明治34
35
36
37
38
39
40
41
68.76
57.07
61.33
65.14
79.16
87.47
93.96
64.89
27,392
29,034
33,187
32,123
34,895
37,431
39,761
41,037

【備考】『鉱業発達史』上638頁より

(105) K.マルクス著『共産党宣言』国民文庫版31頁。
(106) 飯場制度から世話方制への移行の過程は、作業請負の廃止に始まり 賃金の代理受取り禁止によって完了する。(もちろん 、両者が同時的に行われる場合も少くない)。「世話方」とは労働力供給を請負って紹介手数料を得、かつ配下鉱夫の日常生活の管理、稼行の督励を行って、資本から配下鉱夫の稼働工数に応じた手数料を受けるものである。これは、しばしば、労働力の供給のみに当る「募集請負人」と日常生活の管理のみに当る「世話方」の両者に分離することがある。「世話方制」の形成と同時に、資本は、これまで完全に飯場頭に依存していた労務管理を自らの手で行うようになる。(従来、資本が直接行っていたのは、坑外見廻、あるいは巡視等の警察的職務のものだけであった。明治末期の反抗運動が展開し得た条件の一つはここにもある。すなわち、飯場制度が弱化したのに、資本がそれに代るべき労務管理政策、および労務管理組織を持たなかったことである)。たとえば、足尾では、明治43年模範鉱員制制定、大正2年社内報『鉱夫の友』発刊、同年足尾銅山実業学校及び工手教習所を設けて子飼いの労働者の養成をはかり(もちろん 、これは採鉱過程の機械化にともな う下級技術者養成の意義が大きい)あるいは共済組合、鉱職夫組合(大正9年、労働組合に対抗して作った御用団体)によって労働者を直接掌握せんとする政策をとるに至る。
(107) 明治41年「此等ノ坑道開鑿及ヒ鉱物採掘ハ専ラ人力ニ依ルヲ以テとくに機械的設備ヲ有セスト雖モ当山ニテハ鑿岩機ノ使用ニ適スル開鑿採掘ハ漸次鑿岩機ヲ以テ人力ニ換フルノ方針ヲ執リツツアリ」(『本邦鉱業一斑』足尾銅山の項)、同45年「足尾銅山ニ於テハ近年坑夫ノ不足ヲ補ハンカ為ニ坑道掘上リニ『ストーパー』ヲ使用シタル結果ニ鑑ミ、本年ニ於テハ採鉱用トシテ階段掘ニ使用スルニ至レリ」(『本邦鉱業ノ趨勢』)。かくて、大正7年には全面的に鑿岩機が採用されるに至る。



 初出は『法学志林』第57巻第1号(1959年7月)。のち歴史科学協議会編・梅田欽治編集解説『歴史科学体系25 労働運動史』(校倉書房、1981年)に再録。本オンライン版では誤植の少ない後者を底本にした。なお本文は原則として元のままであるが、句読点を整理し、一部の漢字はひらがなに改めた。また引用文献の書誌事項を追加したほか、傍点を下線に変えた。