「足尾暴動の基礎過程」再論
二 村 一 夫
「基礎過程」に欠けていたもの
今から20年以上前、私は「足尾暴動の基礎過程」(『法学志林』57巻1号)という論文を書きました。そこで宿題にしていたところを改めて検討してみたいというのが今日の報告の趣旨です。「足尾暴動の基礎過程」(以下「基礎過程」と略します)は、その副題「〈出稼型〉論に対する一批判」が示すように、ただ単に足尾暴動について調べるだけでなく、そのころ日本の労働問題研究に大きな影響をもっていた大河内一男氏の理論を実証的に批判することを意図していました。しかしそのために、足尾暴動の史的分析としては一面的になったところがあります。
というのは、大河内氏は出稼型論にもとづいて、1907年の足尾暴動を「苛烈な原生的労働関係と奴隷制的飯場制度の強度な支配に対する反発」と規定していました。要するに、飯場制度は奴隷制的なもので、その下で、鉱夫は低賃金・長時間労働を強いられていた。その搾取の極限でついに耐えきれなくなった鉱夫は暴動を起した、というのが大河内氏の考えでした。私が疑問に思ったのは、飯場制度はもともと鉱夫を統轄・支配することを主たる機能のひとつとするものですから、もし飯場制度が強度な支配力を保っていたなら、鉱夫の不満がいかに強くても、暴動は起らなかったのではないかということでした。むしろ飯場制が弱体化したところに、暴動が発生し得た原因のひとつがあるのではないか、というわけです。そこで、私は主として飯場制度の歴史的変化を追究することによって、足尾暴動発生の客観的条件を解明しようとしました。そして、ある程度はそれに成功したと思います。もちろん今では、いくつか訂正を要するところがあると考えていますが。
このように「基礎過程」では、鉱夫対飯場頭の対抗関係に焦点をしぼったために、鉱夫と古河資本との関係については間接的にしかふれませんでした。しかし実際には、足尾暴動で鉱夫の主な攻撃目標になったのは、飯場頭ではなく、鉱業所の職員=役員でした。暴動の始まりは通洞の見張所(職員詰所)の襲撃で、これをきっかけに、小滝坑を除く見張所がほとんど壊されました。それがさらに拡がって、本山の鉱山事務所、役員社宅、倉庫などが破壊され、焼かれました。とくに狙われたのは坑内関係の下級職制、いわゆる現場員でした。また鉱業所のトップレベルの役員、南挺三所長、川地庶務課長、木部坑部課長らも襲われています。したがって足尾暴動を分析する場合には、坑夫対古河資本の関係についての検討が不可欠です。「基礎過程」を書いた時にも、このことに気づいてはいましたが、「この点はあらためて詳細に論ずる必要がある」として宿題に残していました。20年ぶりにこの宿題にとりくもうという訳です。
暴動における労資の対立点
その手がかりとして、暴動の3日前に全山の坑夫総代がまとめた24ヵ条の要求(請願書)があります。その内容は広範で、賃金の大幅アップ、最低賃金額の保証、賃金決定の公正化、病気および公傷者の救済、労働環境の改善、安全設備の設置等々がかかげられています。こうした中で、鉱夫の主な不満は、物価騰貴にともなわない賃金の低さであり、ワイロの横行でした。これは、当時の新聞記事や裁判での判決や控訴理由書など、暴動の原因を論じた同時代の資料が一致して指摘しているところです。私もここに問題があったと思います。
まず賃上げ要求ですが、24ヵ条の要求が出される前、1月10日に通洞および小滝の飯場頭から嘆願書が出ています。この嘆願書は、飯場頭が自発的に出したのでなく、資本が頭役を使って出させたものです。暴動の前に、大日本労働至誠会(以下「至誠会」と略します)は、会員1000名に達したら、賃上げと南京米改良を請願するとして、会員を集めていました。鉱業所側も賃上げを認めざるをえないことは分かっていました。ただ至誠会の要求で賃上げを余儀なくされる形になることをおそれて、通洞と小滝の坑場長(坑の責任者)が飯場頭に嘆願書を出すように示唆していたのです。ただ賃上げの金額まで示した様子はありません。それというのも、通洞と小滝では嘆願の内容に若干の違いがあるからです。すなわち、通洞は、坑夫の請負賃金は平均1円20銭、坑夫の本番賃金6割増、手子、選鉱夫その他職工6割増、小滝は、坑夫の本番賃金6割増、本番夫・支柱夫4割増というものです。これと同時に飯場頭の手数料引上げも嘆願しています。
これに対して坑夫の24ヵ条要求の賃上げ関係の項目を拾ってみると、本番夫は従来の6割増、請負者は最低1円20銭とする。最低でも1円80銭を保証せよというものです。
この3つの案は、6割増という点で大筋は一致しています。恐らく24ヵ条作成時に飯場頭の案が伝わっていたと思われますが詳細はわかりません。違っているのは、24ヵ条が出来高賃金の者の最低を1円20銭としたのに対し、通洞飯場頭案は平均1円20銭としていることです。これは、多分坑夫の方に何か間違いがあるのではないかと思います。最低保証額が2通りあるわけですから。何れにしても、6割の賃上げというきわめて大幅な要求であることが注目されます。
足尾銅山の賃金実態
では足尾銅山の賃金の実態はどうだったのでしょうか。暴動の前年、1906年現在の調査『鉱夫待遇事例』によると、平均日給は坑夫72.5銭、支柱夫46.2銭、製煉夫44.6銭等となっています。このうち、坑夫は全国の他の金属鉱山の坑夫と比べて決して低い水準ではありません。1位が小坂で1円1銭7厘、2位の別子83.8銭、足尾は第3位です。4位以下は日平71.9銭、尾去沢63.9銭、院内61銭、吉岡60.1銭と続きます。足尾、別子という高賃金の鉱山で暴動が起っていることが目を惹きます。同じことは炭坑にもあって、夕張、幌内は1円から1円30銭ととび抜けて高い水準です。
もうひとつ注目すべき点があります。それは足尾暴動で主力になったのは坑夫(採鉱・開坑夫)ですが、彼等は最高給を得ていた職種であることです。日露戦争後のインフレは米、塩、味噌といった生活必需品を中心としたもので、これが賃上げ要求の背後にあったことは明らかです。こうしたインフレは低賃金層により打撃をあたえたはずですが、実際に賃上げを要求したのは坑夫でした。これは何故でしょうか。ひとつの、しかし重要な理由は、坑夫が友子同盟および至誠会という組織をもっていたことです。これについては今日はふれませんが、大筋については三一新書の『日本労働運動の歴史』の拙稿「足尾暴動」を読んでいただければと思います。
ところで、先ほどは足尾の賃金水準を他の金属鉱山と比較しましたが、他産業と比べてどうでしょうか。細かいデータは省きますが、同じ1906年現在で軍事工廠や造船所の職工が54銭から64銭です。また熟練職種の職人を高い方から見ると、煉瓦積職82銭、石工、瓦葺き職73銭、大工65銭、鍛冶57銭などで、足尾の坑夫の72.5銭はけっして低くはありません。もちろん、足尾の坑夫は豊かで生活には困っていなかった、と主張している訳ではありません。明らかに彼等は生活に困っていました。しかし、その窮乏は大河内氏などが主張されたものとは質的に違いがあったのではないか、と思うのです。
賃金水準の歴史的推移
この問題をよりはっきりさせるには、どうしても足尾銅山の賃金水準の変化を歴史的に解明する必要があると思います。
ところで、足尾の賃金水準について、今、私が利用しうる最も初期のものは、『古河潤吉君伝』に引用されている1883(明治16)年と84年の「砿業景況取調書」です。これによると、1883年の賃金は坑夫52.5銭、製煉夫45.5銭、雑夫28.3銭、1884年はそれぞれ45.5銭、42.5銭、22.5銭となっています。これに続く時期の資料としては、『栃木県史』近現代9に収められている佐藤家資料です。これは予算書ですので、実際に鉱夫が得ていた賃金額ではありませんが、一応の目安にはなるでしょう。これから1885年と88年の賃金を算出して見ますと、坑夫は85年が48.4銭〜86.3銭、88年が64.9銭〜70銭となります。要するに、1880年代前半の足尾坑夫の日給は平均50銭前後、80年代後半では60〜70銭に達していたと見られます。これはどれほどの水準なのか、まず職人中の熟練職種で坑夫と労働内容に共通性のある石工と比べて見ます。1883年の上等賃金の全国平均で38.4銭、86年で30.4銭、中等賃金の全国平均ではそれぞれ32.4銭、24.8銭です。大工の場合ですと、上等賃金がそれぞれ33.5銭、28.4銭、中等賃金は28.4銭、22.6銭です。
つぎに官営工場の男子職工の平均日給を見ますと、84年から88年の間、東京砲兵工廠を除くすべての工場で、30銭から40銭の間に収まっています。東京砲兵工廠だけはやや高く、84年は63銭、85年52銭、86年44銭となっています。
いずれにせよ、1880年代の足尾銅山の坑夫の賃金は、大まかに言って熟練職人の2倍近い、高賃金であることがわかります。
労働条件を比較する上では労働時間も問題ですが、1880年代の足尾では坑夫は6時間・4交代、支柱夫・掘子は8時間、坑外労働者は10時間程度で、これも他と比べてかなり短いことは明らかです。
これまで、ともすれば鉱山労働者は炭坑、金属鉱山を問わず、男子不熟練労働者の典型とされ「低賃金・長時間労働」が一般的であったとされてきました。その「常識」からすると、1880年代の足尾坑夫の「高賃金、短時間労働」はすぐには信じられません。そこで念には念を入れて、さらに検討してみたいと思います。
まず、依拠した資料の性質ですが、ともに経営の内部資料で、信頼度は高いと思います。それだけでなく、この当時、いくつか発表された足尾銅山の視察報告も、これを裏付けています。そのひとつは1884年の栃木県勧業報告(『県史』9頁)で「坑夫一人六時間の操業にして賃金平均五十銭、同人足二十銭」とあります。また同年の『工学会誌』掲載の大原順之助「足尾銅山現況」には、「坑夫、ノ掘普請坑夫等賃銭六時等平均五十銭、掘子、運搬夫手伝等平均二十銭」とあります。これらは第三者の報告ですから比較的公正なものといえます。しかし、いずれにしても古河の資料に依拠しているのですから、会社資料と一致するのは当然と言うべきかもしれません。その点からいうと、一坑夫の証言の方が重要な意味があります。他ならぬ永岡鶴蔵の自伝「坑夫の生涯」です。
彼は1884年生野鉱山から古河に雇われ、草倉銅山にいくのですが、その状況についてつぎのように述べています。
「労働時間は六時間のものは間切と云ふて一間幾等に掘る方の坑夫である。中には四時間の者もあった之れは急速の場所を掘る時きは一日六交代して働らかす。採鉱と云ふ者は三時三十分つつ二度に午前と午後に働くのである。実際坑夫の働きは一日四時間が適当である。時間斗り長く居ても夫れ以上は働けるものではない。深ひ坑内は往復に時間がかゝるから其の割に長くする必要がある。其の頃如何に金が儲ったかと云ふに一ヶ月五十円七十円の収入があるので、なかなか贅沢であって、下帯と白足袋が飯場の隅に少しく穢れたのを山の如く捨てあつた」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』御茶の水書房、1977年、206〜7頁)。
草倉銅山は、古河が最初に手がけた鉱山で、1880年代には足尾とならぶドル箱鉱山でした。足尾、草倉、別子の3山で全国産銅の6割を占めたことがあります。しかも永岡はのちに足尾で組合を組織した人物だけに、その証言は大きな重味があります。もっとも、彼のいう50円、70円は坑夫全体の平均ではなく、最高給者の月収と考えるべきでしょうが。
そのほか、いくつか新聞報道をあげておきましょう。1885年3月23日付の東京日日新聞では、「わが国の銅山にては下野国足尾銅山にほとんど指を第一に屈す。坑夫は目下殆んど三千人にして採掘時間は一昼夜二十四時間を四分し六時間毎に坑夫を交代せしむ。また工銭は採掘の目方の多寡によるものなるが良き場所を掘当てたる者は7円、少きものは一円五十銭程なりと、されば坑夫は就業中を除くの他は何れも美服を着し金側時計を持つ有様は月俸五六〇円の官吏若しくは会社役員の如く」といっています。
また1896年の国民新聞には注目すべき記事があります。書いたのは松原岩五郎で、彼は横山源之助の師匠格にあたる人で、つぎのように書いています。
「この如く住所の汚穢なるを以て坑夫の生活を直ちに貧人と一様に見るは甚だ誤れり、坑夫は所謂富める貧人にして、活計上に驚くべき奢侈あること想像の外といふべし、蓋し力役労働者の報酬として凡そ坑夫程裕かなる賃銀を得るものなくして、今こそ左程になきとはいえ一時鉱山の全盛を極めし時の如きは、眇たる一坑夫の身を以て殆んど高等教育を受けたる技師相当の給分を得、山子に特有せる奢りの分限、一時は世の人知らぬ大名暮らしを為したる事さえありしほどなれば、その境界は貧人中の最貧人なれども飲食活計の裕かなることは普通富人の知らざる奢侈にして平日の境界とは天地雲壌の差ありと云うべし」
この「富める貧人」という言葉は、坑夫の生活状況をよく言いあてているように思います。 これらすべての資料は一致して、足尾の坑夫が6時間という短時間労働でしかもかなり高給であったことを示しており、これを否定するデータはまったくないのです。
では、この相対的な「高賃金・短時間労働」は足尾だけの例外であったのでしょうか、それとも金属鉱山に共通するものだったのでしょうか。足尾が全くの例外とはいえないことは、永岡の草倉についての証言があります。それにもうひとつ別子について『日本労務管理年誌』に記録があります。これはもともと住友の「垂裕明鑑」によるものですが、別子銅山の坑夫賃金ついて1870年以降の数値がのっています。1880〜85年では、63.5銭、66.3銭、62.6銭、48.5銭、45.8銭、41.5銭と、低下傾向を示してはいるものの、足尾と同様に高い水準にあったといってよいでしょう。
ただ金属鉱山の坑夫の賃金が一般的に高い水準にあったかというと、必らずしもそうではありません。データは断片的ですが、官営鉱山や半田銀山については、かなり信頼しうる統計があります。そのほか『日本鉱業会誌』などに掲載された各鉱山の視察報告から、80年代の民営鉱山の労働条件について調べてみました。今日はこれを詳しく紹介している余裕はないので、とりあえず結論だけ述べておきます。まず第1に、1880年代の足尾、別子、草倉は50銭前後と他を大幅に抜いてトップグループを形成していました。この3鉱山の産銅シェアは、1884年56.7%、1886年63.3%に達しています。
第2にその他の民営鉱山の坑夫は30〜40銭の範囲にありました。これは、官営軍事工場の男子職工とほゞ同じ水準です。
第3に、官営鉱山の坑夫は20銭〜30銭で最も低い。ただ、鉱山の賃金の比較には火薬代、道具代が含まれているか否か、さらに米、味噌など現物給与の有無などを考慮する必要があります。官営鉱山など、この点が必ずしも明らかではないので、以上は主として現金給与を中心にした一応の傾向を示すものとご理解いただきたいと思います。
高賃金の背景
ここで問題となるのは1880年代の足尾や草倉では、何故「高賃金・短時間労働」であったのかということです。結論から言えば、この時期の足尾・草倉における労働力需要の急増にあったと思います。後掲の「足尾銅山基本データ」のうち、労働者数の欄を見ていただきたい〔オンライン版では省略します〕。
古河引継当初の総数215人(内坑夫120人)が、横間歩発見の翌年、1883年には1075(415)人、1890年には1万6720人に達しています。これは当時とすれば驚くべき数です。たとえば1888年の工場職工数をみると、当時最大の産業である製糸が、705社、7万5000人あまり、金属機械が87社、5985人です。同年の鉱業は、114社約4万人です。実際より若干低目の数字ではないかと思いますが、これでも重工鉱業の男子労働者のうちで鉱業の占める比重の大きさがわかると思います。その鉱業のうち4人に1人は足尾に集まっていたのです。これより以前を見ても、1884年、すなわち横間歩発見後、通気の問題が解決し、産銅が前年の3.5倍になる年ですが、この時の足尾の鉱夫数は3067人で、これは、官営5鉱山の総数とほぼ同じです。
ところで、1890年の鉱夫総数は『栃木県統計書』から算出したものですが、信じ難いほど大きいので、はじめは何かの間違いではないかと思いました。しかし、どうもそうではないようです。というのは、この年は古河がジャーデンマジソン商会と、古河産銅だけで1万9000トンを売り渡す契約の最終年で増産に必死になっていたのです。それと同時に、そのためにも四大工事といわれた鉄索、水套式熔鉱炉、鉄橋、水力発電所などの建設に総力をあげてとり組んでいた年だからです。おそらく、総数1万6000人のうち、採鉱関係は、1万人から1万2000人程度だったと思います。もちろん、この人員のうち半数程度は不熟練労働者で足りる運搬関係の作業に従事したと思われます。しかし、ある程度の熟練を要する坑夫だけでも、3000〜4000人は必要だったに違いありません。これだけの数の坑夫を、短期間に自山で養成することは不可能で、結局、他山から引き抜くほかはなかったでしよう。これが、足尾、草倉の高賃金の背景にあったのです。
坑夫引抜きの問題
古河の坑夫引抜きを裏づける資料がいくつかあります。そのひとつは、永岡鶴蔵の記述です。永岡は明治17年の2月に生野鉱山から古河に引抜かれたのですが、神戸から横浜まで船で運ばれ、横浜で役員の出迎えをうけ、小舟町の宿で大御馳走になり案内者つきでの3日間の東京見物をしています。この時の仲間は170人だったとのことです。この頃、関西方面の坑夫が何千人も古河に雇われており、なかには吉原で遊び過ぎて金がなくなった坑夫も古河に助けられている。古河は稼ぎ人の心を理解し、大切にしてくれるから、恩返しに精々忠実に働かねばならんと口々に嬉しがっていた、云々と述べているのです。
これは「上方坑夫」引抜きの記録ですが、引抜きは関西ばかりでなく、佐渡や岐阜など各地に及んでいます。そのことを示しているのは、1889年に『日本鉱業会誌』で数号にわたっておこなわれた論争です。口火を切ったのは佐渡金山の渡辺渡です。彼は「鉱業家須ク徳義ヲ重ス可シ」との論説を発表し、古河の草倉から「鼠賊」がやってきて坑夫を窃取していると非難し、このため給銀の増大や諸職工が勤続を欲せざるようになっていると劇烈に攻撃しました。
『会誌』の次号には、古河草倉坑長の青山金彌、古河幸生坑長の鈴木誠介が反論する。第三者もこれに加わって論争が発展します。この論争自体なかなか面白いのですが、それは省きます。この間に明らかになったのは、草倉から鉱夫の募集人が佐渡にはいりこんで、前貸金で釣って坑夫を募集していた所を、佐渡の人夫頭がとりおさえ、詫び証文をとったことです。しばしば飯場制度は「労働力の拘置制」としての側面だけが強調されますが、反面では労働力の移動を促進していたことも見ておく必要があると思います。なお、この論争に加わった生野鉱山の栗本康が「一時ハ生野市街ニ空舎軒ヲ列ヌルニ至レリト。而シテ其ノ行ク所ヲ穿鑿スレバ何ゾ料ラン十中八九ハ皆ナ足尾銅山ニ在リ」と書いています。当時の『生野鉱山局事業年報』にも「坑夫ノ欠乏」が「本年度障害ノ大ナルモノ」と記されています。このように数千人の規模での古河の引抜きが、一方では他鉱山の坑夫不足となり、引き抜く側では、高賃金を提示することになったのです。同時に、足尾が高賃金を提示しえた背景には、横間歩大直利のような高品位の大富鉱があった事実も見落すことはできないと思います。
1900年代の賃金水準
その後、1890年代の足尾の賃金水準を示すデータはまだ見つかっていません。ただひとつあるのは、前述の松原岩五郎の1896年の記事です。要するに、月給100円以上の技師5人と50円以上の技手、監督、機械師、事務員28人、その他日に30銭より少からず、2円より多からざる給料を以て働らく坑夫族をはじめとし、間接工手、建築工手、諸種の女工あわせて7000〜8000……といっているのが唯一です。
これでみると、1883〜4年ごろの役員の給料に比べて、このころの技術者の給料のあがり方が極めて高いといえます。1883〜4年の「礦業景況取調書」では、役員と坑夫の賃金はほぼ同じです。もっとも、この役員には小使まで含まれていること、ボーナスは除かれているので、実際には相当高いものがあったと思いますが。それが1896年には、100円の技師が5人でています。これは、阿仁など官営鉱山払い下げの際に受け入れた工科大学出の技術者の給与水準が高かったことも影響しているのかも知れません。
坑夫の賃金について信頼できるデータがでるのは、暴動の直前です。ひとつは、1903年の「坑夫、職工の賃金および勤続年数に関する調査」で、各鉱山毎に鉱夫の労働条件がでています。すなわち、採鉱夫は平均75銭(最高1円85銭、最低35銭)、製錬夫42銭とあるのがそれです。なお、坑夫賃金の特質の1つに、同職種内での賃金格差が極めて大きいことも注目したいと思います。もう1つは、最初にのべた『坑夫待遇事例』の数字です。
ところで、1890年代の数字がないので、充分に賃金の推移を追うことはできませんが、1880年代と1900年代とを比較すると、いくつかの点がはっきりします。その第1は、製錬夫の賃金が実額でも落ちていることです。この間、物価は2倍以上になっていますから、実質的には半減し、1903年の水準は雑夫並みです。その理由は、明らかです。
1880年代前半頃まで、製錬の最高技術者は吹大工でした。当時の製錬法は徳川時代そのまゝでしたが、近世の吹大工は坑夫より高度の熟練を要求され、鉱山労働者のなかでは最高の賃金をとっていました。
ところで、1870年代から80年代前半の鉱山業における技術進歩で大きな意味をもったのは、ダイナマイト、火薬の使用により坑道を短期間で深部へ掘鑿できるようになったことでした。これによって排水、通気の困難が解決し、新たな鉱脈が発見されたのです。足尾でもこれによって採鉱量は急増し、製煉がこれに対応できなかったのです。このため、当初は吹大工の不足が著しく、さまざまな優遇策をとって、全国から吹大工を集めます。「足尾製煉所沿革記」によれば「種々ノ懸賞法ヲ用イ金銭ヲ給シ時ニ酒肴ヲ以テ是レヲ労ヒ、又焼ハ吹等ニ至リテハ一日六百貫ヲ処理スル時ハ本番賃金五十銭ノ外、酒二升、鯡一把ヲ給シタ」(『県史』116頁)とあります。
一方、1880年代には選鉱、製錬の技術革新が進みます。まず砕鉱での水車使用、吹床のふいごの動力も手押から足踏式へ、さらに水車、蒸気力へと変化しました。さらに焼鉱での洋式高炉採用により焼鉱夫が大幅減となる。一大画期は水套式熔鉱炉の導入です。この新しい炉は、1880年代に導入され、1890年には旧式の吹床を一掃してしまいます。これによって、吹大工の熟練が不要になったのです。これが製錬夫の賃金低下に直接関わってきます。「足尾製煉所沿革誌」はこれを次のように述べています。
「二十一年十二月ニ至リ其本番賃金ヲ従来ノ如ク一日五十銭トシ、是レニ従来ノ懸賞中其木炭使用量定率以下ナル時ハ是レヲ買上ケ給与スルコト旧ノ如クナリシモ、若シ定率以上トナル時ハ是レヲ買上ケ、価格ニ相当スルモノヲ本番賃金ヨリ差引シタルコト、並ニ従来道具代トシテ一日十七銭ヲ給与シタリシヲ十二銭ニ改良シタリ、茲ニ於テ当時前大工飯場ノ経営者藤助ナルモノ中心トナリ、数回事務所ニ往復シテ是レニ不服ヲ称ヘシカ、終ニ到底容レラレザルヲ察シテ、旧吹大工一同(小滝ヲ含ム)就業セザルコトトナリ、又丸形西洋式熔鉱炉ニ従事セル者モ是レニ加ハリ、事件容易ナラザルニ至リ、旧吹炉ハ凡テ其業ヲ中止スルコトトナリ、熔鉱炉ノミハ坑部課ヨリ掘子等ヲ集メテ之レカ操業ニ当ラシメ、一面ニハ就業セザル吹大工約二百余人ヲ解雇シ、即日其住宅ヲ追放シタリヲ以テ漸ク彼等其非行ヲ感ズルニ至リ(中略)終ニ一同罪ヲ謝スルニ至リタルヲ以テ、事務所ハ藤助飯場ヲ解散セシメ其他凡テ罪ヲ問ハザルコトトナシテ事了レリ、是レヨリ製煉夫一般ノ風俗一変シ、且ツ旧吹床モ漸次其跡ヲ絶チタルヲ以テ、茲ニ今日ノ如キ等級ヲ有スル本番製煉夫トナリ今日ニ及ベリ」(『県史』117頁)
ここで明らかなことは、吹大工の熟練は洋式熔鉱炉の導入により無意味となり、吹床廃止の見通しができていた。売銅契約完遂のためには、吹床製錬ではどうにもならないということがこの背後にあったのですが──。
こうした製煉技術の大転換を背景として旧吹大工の賃金が切り下げられ、これに抵抗した者に対して、古河はきわめて強硬な姿勢で対応します。そうした対応を可能にしたのは、洋式炉なら技術者がいれば、不熟練労働者である掘子を使ってでも製煉作業が可能だったという事実があります。こうして製煉夫は名目賃金まで切り下げられたのです。データがないのではっきりとは云えませんが、1888年を境に賃金は下がり1890年代には雑夫並みとなったのではないかと思われます。
一方、坑夫はどうかというと、名目的にはやや上昇しているものの、1890年をピークに横ばい乃至低下しています。すなわち総労働者数も1890年の1万6720人が92年には5427人と減少しています。1892年の労働者数の急減は、銅価が暴落したため大減員して後に備えたものかもしれません。いずれにしても1890年代には熟練坑夫に対す需要は減ります。坑夫の育成は、必ずしも長期間の訓練を必要としないので、年をおうごとに熟練労働力は蓄積される傾向を示します。つまり坑夫に対する需要が減る反面で、供給は年々増加することになります。これは、足尾だけでなく、全国的に進展した事態であろうと思われます。全国の産銅量の横ばい傾向がこれを示しています。
ただ坑夫の場合に製錬夫のような急激な賃金低下がなかったのは、おそらく採鉱部門での技術変革が製錬ほど大きくなく、切羽の主人公は依然として坑夫で、古くからの熟練が意味を持ち続けたからでしょう。もう一つの要因は、この時期は石炭業の急速な発展期に重なっており、かなりの数の坑夫が炭坑に流れたためと思われます。その一例を院内銀山から80人の仲間といっしょに夕張に移った永岡鶴蔵の事例に見ることができます。要するに坑夫の場合も、長期的には労働市場は売手に不利に変化する傾向をみせたが、製錬夫ほど急激ではなかったのです。
このように見ると、1907年に足尾の坑夫が賃金に対して大きな不満を抱いたことも理解できるのではないでしょうか。彼等は、かつては肉体労働者としては最高給をとり、劣悪な作業環境、住宅環境に苦しみながらも、衣・食の面では、かなり豊かな生活を享受していました。ところが1890年代以降、賃金上昇はストップし、インフレが彼等の生活水準を押し下げたからです。
経営方針の転換
一方、坑夫等が古河資本に対し不満を抱いたのは、この間古河が厖大な利益をあげ、暴動直前に、百万円余を国立大学新設のために寄附するといった事実がありました。後掲の一覧表に明らかなように、足尾の利益は1900年代に入って急増しています。これには1897年、第三回鉱毒予防工事命令を機に、古河の経営方針が転換したことが背景にあります。工事費を融資した第一銀行の要求もあり、古河家は市兵衛主導の生産拡大第一主義から潤吉のもとで「守成」の方針に転じたのです。潤吉は1897年には古河鉱業事務所を創立し、さらに1905年には古河鉱業会社を設立します。この組織改革と並行して会計制度も整備されました。この時期、足尾が毎年100万円を越える高利益をあげえた背景には、大規模な設備投資が一段落し、また銅価が底価から上昇しはじめたことがあります。ただそれだけでなく、「守成」の方針のもとに、産銅量を増大してシェア拡大をはかるよりも、コストを削減し長期的に安定した利潤をあげること、そのため鉱夫の賃金をおさえ労働時間を延長するなどしたことが大きく影響しています。
一審の判決で裁判官は暴動の原因として、1903年に南挺三が鉱業所長になってから「鉱夫ヲ遇スル苛酷ニシテ」、市兵衛存命の頃とちがって、罰則を強化して出勤を強制し、労働時間を延長し、賃上げをストップするなどした、として役人上がりの南挺三の規則づくめのやり方が鉱夫の反感をまねいたことを強調しています。『古河虎之助君伝』も南の「封建的官僚臭」を指摘しています。おそらくこれは事実だったでしょう。しかし、労働時間が6時間から8時間に延長されたのは南の所長就任前のことです。規則づくめも南の個性によるというだけでなく、古河全体の経営方針の転換と密接に関連していたと思われます。暴動当時、坑夫対資本の対立の焦点となった低賃金とワイロの横行も、こうした変化との関連でとらえる必要があります。
というのは、実質賃金の低下は、坑夫賃金の決定方式の変化にともなって生じたのですが、これはまた、ワイロ問題とも深くかかわっていたのです。
賃金決定方式の変化
これ迄、古河が足尾の経営を引き継いた当初は下稼人から産銅を買上げた、とされてきました。しかし実際に買上げたのは「精鉱」で、「産銅買上げ」は精鉱価格決定のための形式だったと思われます。つまり下稼人が採掘した精鉱を各下稼人ごとに製煉し、その産銅額から製煉経費を差し引いたものを各人の収入としたのです。しかも、そこでは各下稼人の採掘した精鉱からの産銅量が一定量を越えれば買上げ単価が累増するという、きわめて能率刺戟的な方式でした。要するに、下稼人が直利を発見すれば厖大な収入になる仕組みです。創業の初期で、また富鉱が見つかっていない場合に適合した方式といえます。
鷹ノ巣直利、横間歩大直利の発見にともなってこの方式は変化します。一番重要な点は、特定の下稼人が特定の切羽の操業を排他的に独占する「持間歩」をなくし、いわゆる「廻り切羽」にして、半月ごとに就業切羽を交代させるようになります。これは、富鉱脈が発見され、長期間の操業の見通しがつくと、「持間歩」制はマイナス面の方が大きくなるからです。すなわち富鉱脈をもつ下稼人とそうでない者の間で、またその配下の坑夫の間で所得の格差が余りに大きくなり、対立の原因となるからです。また、計画的な開坑、採鉱をおこなう上でも「持間歩」は障害になります。これと同時に、精鉱の買上げ価格も産銅量でなく、直接、採取した精鉱の量と質に応じて支払われるようになります。さらに、切羽の優劣による賃金の格差を減らすために、個々の切羽ごとに、半月間の採掘精鉱量を予想し、直利では単価を低く設定し、予想採鉱量が低い切羽では買上げ単価を高く設定する、いわゆる「鑑定」制度を導入します。ここでも「鑑定鉱量」をこえた「過鉱」には単価が高くなり、能率を刺戟しました。また1884年12月には、臨時の制度ですが、「本月中に出鉱五〇万貫に至れば、各飯場に牛五頭給与」といった「奨励賞与仮規則」を設けて、出鉱を奨励しています。
こうした制度のもとでは、当初は切羽の条件がよくないために鑑定鉱量が低かったが途中で切羽の状態が好転した場合に、坑夫は非常な高賃金を得ることになります。これを変えたのが1897年のいわゆる「小鑑定」の導入です。従来の月2回の鑑定のほか、5日毎にチェックして、鉱況の変化に応じて単価を変更するようにしたのです。この小鑑定の導入と古河の経営方針の転換がともに1897年であったことは、偶然ではないでしょう。これが坑夫に何をもたらしたかは、「数年前までは一坑口を一人にまかせ置きたるに、大直利として 幅土の如く、鉱石岩の如く露出し、一日十金、二十金と一獲せしものありしも、近年は(中略)再びかかる奇貨に遭遇せず」(足尾銅山図会」43頁)という坑夫の証言に明らかです。
次に賃金決定方式が大きく変ったのは、階段掘の採用によるものでした。これは、鉱石だけを採取した従来の抜き掘法に代えて、一定の鉱画ごとに坑夫を配置し、一定の幅と高さ(通常3尺に6尺)を保って掘り進むものです。ここでは、坑夫の賃金はそこで採取された鉱石の量だけでなく、掘進の延長に応じた「間代」との組み合わせで決定されます。このように複雑な賃金決定方法が用いられたのは、足尾銅山が、切羽の条件の変化がきわめて激しい鉱山だったからです。しかしこのような賃金決定方法の問題は、予想採鉱量の決定や、岩盤の硬軟によって異なる間代の査定などに、現場係員の裁量の余地がきわめて大きいことです。1870年代から80年代はじめまでのような単純な精鉱買上げ方式の場合であれば、賃金は比較的客観的な基準で決定されます。しかし、鑑定鉱方式や、間代方式になると、査定はあくまでも採掘前の予想にもとづくものですから、完全な客観的基準は本来あり得ないわけです。しかも現場係員は、一般に坑夫の間から登用された者ですから、坑夫と現場員の間にとかく情実がからみやすかった。もし足尾が小さな鉱山であれば、管理者が絶えず鉱況の変化を掌握することが出来、ワイロの介入を阻止することも出来たでしょう。しかし、大鉱山で、しかも鉱脈の変化が激しい足尾では、現場員が賃金決定をかなりの程度まで左右しえたのです。だからワイロをなくすことは容易ではなかったのです。まして、足尾鉱業所の南挺三所長はかつての東京鉱山監督署長で「鉱毒予防工事命令」を出した本人であることが端的に示しているように、古河全体にいわば「ワイロ体質」が存在していたのです。坑夫から現場員に登用されるにはワイロを使わなければならず、しかも現場員の賃金自体が、必ずしも高くなかったことも、ワイロがはびこった原因の一つとして指摘されています。
以上、暴動を手がかりに、1880年代以降の古河資本と足尾鉱夫の関係を、労働条件を中心に歴史的に追究してみました。「基礎過程」では欠けていた部分を多少は明らかにしえたのではないかと思います。
【後 記】
本稿は二村の口頭報告を村上安正氏が筆記されたものをもとに、筆者が加筆、訂正した。なお、12ページの「足尾銅山基本データ」〔このオンライン版では省略した〕は古河鉱業株式会社『創業100年史』、『日本帝国統計年鑑』各年、『栃木県統計書』各年、『日本労務管理年誌』、『古河潤吉君伝』、『商工政策史』第23巻などから寄せ集めたもので、必ずしも相互に比較可能な数字ばかりではないので注意願いたい。どの数字が何によったかは、いずれ別の機会に発表することにしたい。
(参考文献)
『栃木県史』史料編・近現代2および9(足尾)栃木県(1980)
『古河潤吉君伝』五日会(1926)茂野吉之助編『木村長七自伝』木村豊吉(1938)
『足尾銅山図会』風俗画報増刊234号、東陽堂(1901)
『日本鉱業会誌』の該当各号
茂野吉之助『木村長兵衛伝』(1937)
初出は『金属鉱山研究会会報』第27号(1981年3月)。
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