「向坂逸郎文庫」の寄贈を受けて
二 村 一 夫
このたび法政大学大原社会問題研究所は、故向坂逸郎先生が生涯をかけて集められた図書・雑誌など7万余冊を、ゆき夫人から贈られた。7万冊といえば、地方都市の公立図書館ならトップクラスにはいる数である.個人の蔵書としてはおそらく空前絶後であろう。
なにしろ少年時代から本屋に借金をして本を買いあさったという先生である。ドイツ留学中も大学より古本屋に通ったという。なかでも一番ひいきにしたシュトライザント書店の親父から「あなたは日本に帰って大学教授になるよりドイツで古本屋になったほうがいい」と言われたほどであった。ちなみにシュトライザント書店は、創立直後の大原研究所が図書収集のためドイツに派遣した櫛田民蔵がひいきにし、その後も研究所のドイツ語の本の大部分を買った店でもある。
向坂文庫の価値はもちろんその量だけではない。質的に見ても貴重である。蔵書の中心は言うまでもなく内外のマルクス主義関係文献だが、その内容の豊富さは先生が常々「私が必要とするものは全部揃っている」と言われていたことでも分かる。また、若き日の先生が編集された世界最初の『マルクス・エンゲルス全集』の底本の多くはこの蔵書であった事実にも、その充実ぶりがうかがえる。さらに、先生の蔵書の中には堺利彦旧蔵の〈大逆文庫〉が含まれている。どれもこれも日本のマルクス主義の運動と研究の歴史にかかわる貴重な文献である。
図書ばかりではない。大量の資料がある。いまさら言うまでもなく、先生は単なる書斎の人ではなく、実践の人であった。しかも先生は、生涯にかかわられた運動のさまざまな資料を破棄することなく、保存されてきた。私個人の勝手な印象では、先生はマルクス、エンゲルス、レーニンの原書や〈大逆文庫〉を大事にされたほどには、ご自身が関わった運動の記録を重視されなかったようである。しかし、これから向坂文庫を利用する者にとっては、図書以上にこうした文書類がますます貴重なものとなるに違いない。
先生は本を愛された。だが一部の愛書家にみられるように、その蔵書を大事にするあまり、人に見せることもしないといった方ではなかった。どれほど多くの研究者や活動家が先生の蔵書を利用させていただいたことであろうか。また、先生は常々その蔵書が広く一般に、とりわけ日本の社会主義運動の発展に役立つことを望んでおられた。今回、奥様はじめ関係者の方々が蔵書の寄贈先として大原社研をお選びくださったのは、私どもの大先輩に櫛田民蔵、大内兵衛といった向坂先生の先輩であり、同志でもある方々がいらしたというご縁と同時に、大原研究所が蔵書や資料の閲覧について、利用者の資格をまったく問わない一般公開を原則としていることを評価して下さったものと考えている。かけがえのない文庫をお預かりする私どもの責任は重大であるが、精いっぱい努力したい。同時に、なるべく多くの方が向坂文庫を利用され、大いに学ばれることを願っている。それが、何より先生の望んでおられたことでもあるから。
初出は『月刊労働組合』第227号、1986年2月
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