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座談会 《政経ビル時代の思い出》
         ──戦後初期の大原社研──

政経ビル、左手のビルが明治大学大学院



 【出席者】

浅原 巌人  五十嵐 仁  石島 忠
上杉 捨彦  高垣 佑(誌上参加)
谷口 朗子  田沼 肇
中林 倭子(旧姓 松本)  舟橋 尚道
森下みつ子(旧姓 田中)  二村一夫
(司会)


〔はじめに〕

 二村 来年2月に研究所は創立70周年を迎えます。大原社会問題研究所というと,古い歴史のある研究所ということで,すぐ高野岩三郎や櫛田民蔵といった先生の話になります。そうしたすぐれた先輩の存在はわれわれも誇りとするところですが,研究所の存続さえ危ぶまれるような困難な状況を乗り越えて,活動を続けてきた戦後の研究所のことは必ずしも十分評価されていないように思います。『大原社会問題研究所五十年史』も戦前のことはわりあい詳しく記録していますが,戦争中や敗戦直後の時期についてはあまり触れていません。資料は若干残っていますが,今のうちにお話しをうかがっておかないと,その内容も分からなくなってしまうように思います。そこで今日は,戦後初期,政経ビル時代の研究所についてお話しいただきたいと思い,皆様にお集まりいただいたしだいです。どうぞよろしくお願いいたします。



〔大原社研とのかかわり──入所のいきさつ〕

 二村 戦時中から,研究所の庶務をされていた泉さん──残念ながらお名前がわかりません──が記入された簡単な日誌が残っていますが,それによると戦災で大久保の研究所が焼けてから,仮事務所は高野岩三郎先生のお宅におかれ,経理などは久留間鮫造先生のお宅で処理されていたようです。しかし,研究所としての活動が再開されるのは,旧東亜研究所,のちに政治経済研究所になりますが,この研究所が所有していた駿河台の〈政経ビル〉,いまは明治大学の大学院の隣,富士銀行のところにあったビルの一室を借りてからではないでしょうか。政経ビルへ移転したのは1946(昭和21)年5月14日のことと記録されていますが,そこに移ってすぐ開かれた研究所の委員会で上杉先生の採用が決っています。そこで,政経ビル時代の最初の研究員である上杉先生から,入所に至るまでのいきさつなど,お話しいただければと思います。
 上杉 大久保の研究所が焼けた日,1945(昭和20)年の5月25日には,僕は東京湾にあった高射砲部隊にいました。東京大空襲というと3月10日のことがよく言われますが,この5月25日も大変なもので,あれで東京はすっかり焼けてしまった。それで,東京にもう高射砲はいらない,北から攻めてくるのに備えるということで,貨物列車で新潟に送られた。間もなく敗戦で,何ヵ月かたって僕は東京に帰り,もとの職場の東京市政調査会に戻りました。
 兵隊にとられる前,大学は昭和17(1942)年の9月に2度目の繰上げ卒業で出て,大内兵衞先生の口ききで日比谷の東京市政調査会に入ったんです。日比谷公会堂のちょうど裏側にあたるところが書庫でね,僕はいつも書庫にもぐって,壁越しに聞こえる音楽を聞きながら本を読んでいました。その頃からかな,大内先生に「もし大原が再建されるのであれば,採っていただけませんか」とお願いしてあった。大内先生とは息子の大内力と中学校,東京高等師範学校の付属中学の同期で,よく家にも行っていたから。東大に入ってからは,内々に先生のお宅で,僕と力と勉強会みたいなものをした。確か一番はじめは舞出長五郎先生の『経済原論』,それからレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』を読んだかな。そういうこともあって,ずいぶん大事にしていただいた。
 敗戦後,政経ビルにはいろんな研究所が出来ましたが,その中のひとつ世界経済研究所は事実上,有沢先生がなさっていた。「大原がいつ始まるか分からないから,世界経済研究所に入ったらどうか」というので,テストまがいのものを受けて,成績とは無関係に採ってもらった。その次の日だったか,大内先生が「大原を再建することになったから,大原に来てくれ」といわれた。そこで久留間先生に引き合わされた。その時,まずお聞きになったのは,何をこれまで専門に勉強してきたかということ。採ってもらう所で,まずそういう話を聞かれるのに僕はびっくりしてね。後で気がついたんだけど,例の『レキシコン』の基礎になったカードの仕事を誰かに手伝わせたいと思っていらしたんじゃないかな。僕は労働問題と答えたように思うのだけど,おそらくガッカリされたのではないかと思います。もちろん『資本論』なども勉強してましたから,その方を言えばよかったのかも知れない。ともかく次の日から出ることになった。
 二村 なぜ大原に入りたいと思われたのですか?
 上杉 いま考えても,あまりハッキリしないんだけれど,僕は他人の金勘定するのも嫌だし,役所も嫌だから。それに昔から大原には憧れていたからね。
 二村 大内先生のお宅でレーニンを読まれていた頃,大内先生は主に柏木の大原研究所で仕事をされていたと思いますが,その時に大原へいらしたことはありませんか? 研究所は大内先生のお宅のすぐそばだったと思いますが。
 上杉 ぜんぜん行ったことはない。ただ,その仕事と名前で知っていたくらいだな。『労働年鑑』を知っていたからね。大原に行ければ最高だという気持ちだった。
 二村 50年史によると,上杉先生が入られてすぐ後,1946(昭和21)年の6月に高松朔子さんが,8月には堀三四三氏が事務担当者として入所しています。この方々についてご記憶のことをお話しいただけませんか。僕がちょっと気になっているのは,この年の4月に総選挙があって,森戸辰男さんが社会党から立候補し当選されたのですが,その時にカンパを集めているのです。そのカンパの袋のあて先が大原研究所高松様となっているんです。そうなると,高松さんは上杉先生より前に大原に入られたことになるのじゃないかなと思うのですが。
 上杉 高松さんがどういう経緯で大原に来たのかは知らない。誰れかのコネクションで,何かの仕事を手伝っていたのじゃないかな。あそこに事務所が出来る前に事務的な事をやっていたのかどうかは分からない。ただ,高松さんについては,昔の日日新聞にお兄さんがいたから,何かで調べれば分かるんじゃないかと思います。
 二村 庶務日誌が高松さんの字で始るのが6月11日なんです。5月13日までは,泉さんが書かれている。ですから僕は政経ビルに移るのを機会に泉さんが辞められて高松さんになり,高松さんの後任が堀さんだったのかなと思っていたんです。
 二村 上杉先生が入られてちょうど1年後に斎藤泰明さんが統計研究所から移られ,さらにその翌年に舟橋さんが研究員として入所されています。斎藤さんは今日はご欠席ですので,次に舟橋さんから入所当時のことをお話し下さい。
 舟橋 私は昭和23(1948)年2月に入っています。東大の法学部を出ましてから全日本炭鉱労働組合の書記をしていました。この全炭が改組されて全石炭になったんですが,それが炭労との合併で解散することになり,どうしようなかと思っていたところに上杉先生が声をかけて下さったんです。忘れもしないのですが,全石炭の事務所に先生がいらして,階段の所で「君,来てくれないか」と言われた。どうして僕のところに来られたのか,いまだに分からないので,この機会に上杉先生にうかがいたいんですが…。 じつは僕は卒業するとき雇ってもらおうと思って,政治経済研究所へ行ったんです。磯田進さんのところへ行きましたら「とても君なんか雇えない」と言われました。たまたま友人の三島彰君が全炭におり,彼が「どこにも行くところがなければ来いよ」ということで行ったんです。上杉先生がどこで僕のことを聞かれたのか,それを知りたいですね。
 上杉 むしろ僕は,なぜ僕が君のことを知っていたのかというこを聞きたい。全石炭はどこにあったっけ?
 舟橋 港区六本木でした。
 上杉 苦労して探して行ったことは覚えてる。たしか久留間先生にも前もってお話しはしてあったと思う。君はそれ以前に大原に出入りしていなかったかな?
 舟橋 ぜんぜん出入りしていないんです。
 二村 研究員を採るという大事なことを,久留間先生でなく上杉先生が決められたのですか?
 上杉 『日本労働年鑑』を復刊するために,とにかく筆の早い奴を見つけないと駄目だということでね。栗田書店からうるさい催促がくるんです。出版契約があったかどうか分からないけど,栗田から『日本労働年鑑』の再刊第1号を出すっていうことでせっつかれていたわけですよ。もちろん,制度的には人を採るのは委員会に責任があるから,僕だけでは決められない。
 田中 上杉さん栗田書店から電話があると「いません」て言えって,ドラ焼き食べに行っちゃって。そういうときには,ちゃんとお土産に買ってこられるんです(笑)。
 舟橋 僕は上杉先生のことは知っていたんです。東大新聞に短い論文を書かれたでしょう。印象に残っていたものですから,「上杉先生とはこの人か」と……。
 二村 でもスカウトの話を階段でされたとなると,お互いに顔見知りでないと無理でしょう。前にどこかでお会いになったことがあるのじゃないですか?
 田中 私も昭和23(1948)年2月に入ったのですが,しばらくして,舟橋さんがいらしたんです。1週間か10日ぐらいたった後,炭労の話で舟橋さんの名前を出しながら上杉さんが久留間先生とお話ししていたのを記憶しているんです。その話と前後して,舟橋さんが大原に「上杉先生おいでですか」と訪ねていらしたことがあるんです。私は「上杉さん,上杉さん」て言ってたものだから,先生と言われて「ああ上杉さんは先生で偉い人なんだ」(笑),偉い人は久留間先生だけだって思ってたんだけど,「みな大学の先生なんだ,偉いんだなー」と感心したんです。その時は,上杉さんがいらっしゃらなくて,「また来ます」といって帰られた,その時応対したんで覚えています。
 舟橋 どこでどうなっていたかは知らないけれど,一も二もなく「来い」ってね。そして久留間先生のところへ連れていかれた。久留間先生は何もおっしゃらないんですよ。ただ「君は定年までいるね」て言われるから,「ハイッ」て。上杉先生のお話しがなかったら大原研究所のことは考えてもいなかったから,人の運命はおかしなもんだなあと思うんですよ。
 田中 舟橋さんが来週から見えるというんで,すごく喜んで,机をどこにしようかと,いろいろ整理したことを覚えています。
 二村 どうもお話を伺がっていると,政経ビル時代の大原研究所の事実上のボスは上杉先生だったようですね。
 舟橋 久留間先生は,上杉先生のことを,「あれは天才だよ」とほめておられました。「仕事は遅いけれども」と(笑)。
 二村 では森下さん,でもここでは田中さんの方がいいかな,自己紹介と大原に入ったいいさつなどお話し下さい。
 田中 私は凸版印刷の秘書課にいたんです。入った当時346円の給料で,1年たたないうちに1300円になりまして,毎月のように賃上げを要求するストライキをやっていました。ただ,秘書課の者は組合に入れて貰えず,何か仲間はずれにあったような気がして,労働組合と聞くと羨ましいなと思いましたね。会社側は財政的にいってそんなに賃上げ出来ないといっておきながら,重役達は,すごい勢いで自分達の給料を上げるし,これは矛盾してると思い,「嘘をついている」といったら怒られたんですね。秘書課の人間がそんなことをいったと。それから一般の組合員とは接触できないようにし,監視までつけられまして,それで「頭にきた」という話をクラス会に来た松本昭子さんにしたんです。「あんた,そんなことで怒っているのなら面白い,良いところを紹介するよ」とね。上杉さんは「そういうことで怒る子は面白いから連れてきなさい」と言われたそうで。それで向こうに辞表も出さないうちに逃げてきちゃった。上杉さんは覚えていらっしゃるか知りませんが,「怒ることから始めるのはいいことだ」と。私は腹を立ててほめられたのは初めてだったのね。(笑)「あなたさえ良ければ給料は同じだけ出すよ」と。それであくる日すぐ辞表を出しました。上杉さんがまず最初に,「いま何に一番腹を立てていますか?」,私は「父に女らしくないと叱られることです」と言ったら,「女らしさとは作られた言葉だ」と。その話を舟橋さんにしたら「女らしさとは何か研究するといいね」て言われたんです。
 舟橋 僕が?
 田中 それでね「女だからといって蔑視しないように努めていく,だけど男には古い思考がたくさんあるから気づかないうちに蔑視しているかもしれない。だから田中さんも気がついたら批判して下さい」て。批判してくれなどという男の人に会ったのは初めてだったから,「面白い人種の人たちがいるんだな」て,本当にね驚きましたけれど。まあ入ったいきさつはそんな所です。
 二村 つぎに中林さん,もっとも当時は松本さんでしたね。中林さんは,堀さんが辞められることになったので入られた訳ですね。
 中林 私は昭和23(1948)年7月に入ったので,研究所で堀さんにお会いしてないんです。辞められた後,久留間先生に退職金を届けるようにといわれ,お宅にうかがい,その時お会いしただけです。
 田中 何回か,堀さんが休まれて,皆さんもご不自由なすって,でも生活のことがありますから,上杉さんがついたての向こうですごく苦労して捻出してね。私もお使いで堀さんのお宅へお給料を届けたことがありました。《大原社会問題研究所シリーズ》を出し始めてた頃でしたからとても大変で,上杉さんも「こんな事までやってられない」からって。それで本職の庶務会計の人が必要だということで。
 中林 大原社研には妹の松本昭子がアルバイトに来ていたんです。妹は女子医専にいたのですが,東大の歴研の荒井信一さんが上杉さんに頼まれていて,その紹介で大原に来たそうです。私はすっかり忘れていて,こんど妹から聞いたのですが。
 上杉 僕はつい先ごろまで,あなたが先で,その紹介で妹さんが来たと思っていました。ところで,何で僕は荒井君に頼んだのかな。
 田中 荒井さんはときどき,上杉さんを訪ねて見えてましたよ。
 上杉 当時,政経研究所には荒井美都子さんがいた。お姉さんですか,そういうつながりから顔を出していたのかな。
 二村 政経ビル時代のことは,大原だけでは分からないようですね,ビルに同居していた他の研究所の人脈も知らないと。
 中林 久留間先生から「家計簿をつけるような調子でしてくれればよい」ということで。でも始めたらとんでもなかった(笑)。
 二村 大原に来られる前は?
 中林 田町の沖電気にいました。妹に「大原社研というところで人を探しているけど,どう?」と聞かれたので,それで来たんです。
 二村 沖電気では何をなさってたんですか?
 中林 労働組合をやっておりました。労務部にいたんですけれど,労務部から組合の専任になったんです。
 上杉 婦人部長ですごい闘士,そのことは久留間先生には黙っていたんです(笑)。
 二村 それでは石島さん。
 石島 学生の頃に一度だけ大原に顔を出したことがあるんです。一高の社研で上田建二郎,今は不破哲三で通っている,といっしょに何の年表だったか作るバイトをしたとき,古い新聞が残っているところはおそらくあそこだということで,政治経済研究所に向山寛夫さんと磯田進さんをたずねました。磯田さんの甥がやはり仲間にいましたのでね。そのへんから政経ビルに通って年表作りをやってたんです。その時に,大原には『労働年鑑』があると,「それじゃー俺が借りてこよう」と上田建二郎がいった。この大原の図書の貸出簿に彼の名があるのは,それだと思います。昭和24(1949)年に一高を卒業したのですが,アルバイトをしなければならない。政経ビルの一階の奥に信夫清三郎さんがやっていた産業労働調査局があったんですが,そこでアルバイトに使ってくれるというので。そのとき実は舟橋さんに連れて行って貰ったんです。ところが「僕の所はいらない」というんです。そしたら舟橋さんが「田中ミッちゃんが辞めちゃって,資料整理の仕事がある」ということで大原に来たのです。
 中林 私は石島さんが入った日はよく記憶しているんです。お兄さまの石島泰さんが連れていらして。海軍の短い紺の制服を着ていらしたのをよく覚えています。
 石島 半分アルバイトのつもりで,使って貰えるならと言うことで行ったんですけど,学籍がなかったから本職で採用され,月給4500円でした。
 上杉 田沼君は大原との関係は? 駿河台の頃から勿論いたね。
 田沼 いいえ,法政へ移ってからです。
 田中 私,田沼さんが角帽かぶって出入りしていた記憶があるの。
 浅原 相当スマ−トだったよな,田沼さんは。
 田沼 私は終戦直後の学生時代から先輩として上杉さんを知っていましたけど,それがどういうきっかけで知り合ったのか,大原に上杉さんがいらしたこととなにか関係があったのか,どうもはっきりした記憶がありません。政経ビル時代の大原に出入りしたかどうかさえ思い出せないのですが,就職の時に商工省調査統計局のポストを紹介して下さったのは上杉さんでしたから,学生時代からの知り合いであることは確かです。私は東大の社会科学研究会で大河内一男先生をはじめ,亡くなった氏原正治郎さん,薄信一さんの指導を受けていましたから,その中で政経ビルに出入りする機会ができたのではないかと思います。当時の学生社研には,邱永漢(炳南)なども有力なメンバーでした。
 私が勤めた調査統計局は,正木千冬さんが局長で,上杉さんの長兄,上杉正一郎さんが工業統計の仕事をしておれれました。同僚には,いま経済評論家として活躍している金森久雄さんなどもいました。当時の研究者の集団は,いわば家族的で,なにかほほえましい雰囲気すら一面で感じさせるものがあったように思います。上杉捨彦さんは,大原だけでなく,もっと広い,そうした研究者のネットワークのなかで,若手のリーダーとしての役割を担われていたように思いますね。



〔アルバイト群像〕

 二村 浅原さんは何時ごろ,大原研究所に入られた,というかアルバイトを始められたのですか?
 浅原 大原のアルバイトを始めたのは,私が東大に入った昭和22(1947)年のことだと思います。最初は,政経ビルの家主である政治経済研究所のアルバイトをしていたのです。政経研究所は農林省の依託で農業センサスをやっていたんですが,その仕事のアルバイトが学校を通じて募集があったのです。長野県の塩尻村に行き,農家の実態調査というか,聞き取り調査をしました。政経研究所の方と一緒で,センサスというのはこういう風にやるものかと思った記憶がございます。農村調査は田植の後でしたね。7月くらいかな。そうすると,大原は23年の可能性もありますね。
 二村 ここに浅原さん自筆の領収書があります。昭和22年7月の束の中に残っていましたから,その時には大原にいらしたのではないですか。
 浅原 これはまぎれもなく僕です。何しろアルバイトしないと生活できませんでしたので,政経研究所にいらした上杉さんのお兄さん重二郎さんを通じて,大原の方に仕事があるから行ってみないかといわれましてね。ただ,大原で何をやっていたのか記憶にないんです。
 舟橋 やっぱり切抜きなんかお願いしていたんじゃないですか。
 上杉 いや,切抜きじゃない,何か調べてもらっていたと思う。
 浅原 『労働年鑑』はもう少し後でしたね。とにかく私が大原に入ったのは,舟橋先生よりは前でした。久留間先生から「今度,舟橋と言うのが来るから,そのつもりでおれ」という話を伺ったことがあります。
 上杉 アルバイトは割と短期間が多かったね,長かったのは高垣佑君とか高橋毅君…。
 二村 では,この辺でアルバイトをなさった方々についてお話しいただけますか。高垣さんは今日ご出席くださるはずでしたが,急なご用でお見えでないので,浅原さんの方からお話いただければ…。
 浅原 彼は名門の出の息子なんですよ。今も大銀行の専務ですからね。高等学校からの知合です。高垣は大学で2年留年して28(1953)年に出ているから…,石島さんや富塚良三さんの入った前の年の23年にきてね。安本の依託調査を一緒にやりましたが,23年の調査は彼が掛け合ったんです。
 中林 高垣さんは,ませてらしたのよね,感じとしては。浅原さんがお年より若く見えるので,高垣さんはいっそう老けて見えたのかも知れませんね。先日テレビで拝見しましたが,ちっともお変りなくて。あの頃から「ひょうひょう」としていたけど,どっしりして,何とはなしに大人っぽかったですね。
 浅原 高垣の親父・勝次郎さんは,財閥解体の前と後の三菱商事の社長です。
 中林 よく高垣さんの洗足池のお宅に行きましたよね。物が豊富だったもの,チョコレ−トが出てきたことを覚えてるわ。
 浅原 兄貴が僕と同級なんですよ,大学で。卒業して三菱化成に入りましたね。
 二村 それじゃ高垣さんは,アルバイトする必要は全然なかったんじゃないですか?
 中林 あの時はね,送金が無かったってこともあったって云っていらしたわよ。戦争中から御両親が外国に行ってらしたんですよ。自転車に乗っていて,窓ガラスを壊したので弁償に時計を渡したというのが記憶にあるのね。だからアルバイトしなければならない事情はあったようですよ。その後,私の妹が,ドイツ語を教えるという名目で高垣さんのお宅で何回か夕食をご馳走になったの。おなかを空かせていた当時の妹にとって忘れられない思い出のようです。
 高垣(誌上参加) 私の両親は,昭和21年9月に旧満州から引き上げており,それ以来私は両親と同居しておりました。私がアルバイトをした動機は,学園だけでは充されなかった社会への関心と,親から相対的,経済的に独立したいという願望からでした。ただ,私は中林さんにそこまで正確に自分の状況をお話ししてはいなかったと思います。
 浅原 彼はとてもよく人の世話をするね,今でもそうですよ。
 中林 さっきもいいましたが,私の妹も大原でアルバイトしていたんです。私は政治経済研究所にいたとばかり思っていましたら,「ばかねー,私は大原よ」と言うんです。妹は新聞の切抜きをしていたそうです。上杉先生や舟橋先生が赤鉛筆で指示されたのを。
 上杉 それでね,中林さんの妹さん,あきちゃんだったっけ,彼女がまたぞろぞろ女子医専の連中をアルバイトに連れてきた。
 田中 関口さんや私も,昭ちゃんの紹介で来たんです。
 中林 昭子の同級生の妹さんなんです。
 二村 かなり多くの方がアルバイトをされていたようですね。1948年の領収書や会計メモに残っている分だけでも,浅原さん,高垣さんの他に高橋毅,稲垣皓三,松本節子,神保幸代,松村淑子,吉村,大西,勝股,森山,鈴木,五木田といった名が見えます。
 浅原 五木田さんは女性です,日本女子大の学生でした。
 二村 全部で何人くらいアルバイトがいたんでしょうか? どうも10人や20人じゃきかないようですね。
 浅原 延べでいえばね。
 五十嵐 そんなに多くては,名簿を作るなんて大変ですね。
 上杉 谷口さんはいつからなの?
 谷口 私は,法政に移ってからです,昭和25(1950)年です。
 上杉 僕の印象だと,ずいぶん前からいた気がするな。
 谷口 遊びに来てたの。駒場高校の生徒だったんですけど,クラブ活動に社会部ていうのがあって,顧問の先生に連れられて大原に行ったんですよ。その時,高垣さんが一通り大原についての説明をして下さったんだけど,「何か質問ないですか」と聞かれて,私は大原なんて全然しらないわけね。「質問はないですか,僕なんてこれだけ聞いたら一杯質問がある」ってね,大原美術館だってそんなに知られてない頃だし,ずっと後に有名になるわけでしょう,普通の人は知りませんよね,大原っていわれても。それがきっかけで高垣さんが社会部の講師に来て下さったの,『空想より科学への社会主義の発展』なんかを読んでたんですね,いま読んでもよくわからない本を。
 上杉 松本節っちゃんは?
 谷口 彼女は,家が困っていたもんで,学校を休学じゃないけどサボって図書整理をしたりしてたのね。
 上杉 それはどういう経緯で?
 谷口 千坂雅子さんという,すごくはなし好きの女性がいたのをご記憶だと思いますが,彼女が大原のアルバイトを探してきたんです。松本節子さんは社会部には入っていなかったんですけど,お金を貰えるということで,千坂さんが世話をしたのです。英語も出来たのね。「上杉先生に翻訳の下請をさせて頂いた,私に小遣い稼ぎをさせてくれてるって事よく分かっているんだけど,とても嬉しかった」ってよく云ってました。数年前に乳癌でなくなりましたけど。
 谷口 松本さんの後に,大西喜久子さんという同級生も行ってたはです。
 田中 いろんな資料を作るようになったら新聞の切抜きとか資料の仕分けとか,もう追いつかなくてね。
 上杉 高橋君は東大だろ?
 浅原 割と理屈っぽい人だったと思うな。
 上杉 あの頃大原には主として東大の学生がアルバイトや何やらで来ていたのだが,何の時か鉄鋼労連から「アルバイトで有能なやつを出せ」と僕に言ってきたんだ。ところが五月祭で人がいない。鉄鋼労連に電話したら東大生が一番いいと言うんだ。僕は腹を立ててね,で法政の僕のゼミの学生を紹介したんだ。そしたらえらく重宝してね,今でもいってますけど能力がある。
 田中 稲垣さんは身体の大きい方でしたね。上杉さんが細いから「僕が守ってやるよ」って,明治の学生さんで。
 上杉 柔道か何かしてた…,身体の大きな人?
 田中 「上杉さんが,どっかで酔い潰れたら電話ください,僕が行って抱いて帰ってきますから」と云ったりね。
 浅原 そうそう大きな,あまり大原的じゃない人だった(笑)。
 中林 あんな狭い部屋にそんな身体の大きい人なんていた?(笑)
 田中 だって,あれだけ机を並べていたのだから,そんなに狭くはない。
 二村 10年くらい前まで僕らが使っていた,緑色のレザーを張った大きな机でしょう?
 上杉 あれが8つ入っていたんだから。
 浅原 奥行があったね。
 二村 ちょっと図を描いてみて下さいませんか。
 政経ビル内大原社研・室内配置図


 石島 他の研究所にどんな人がいたか,なんてこと覚えてる?
 中林 大蔵省の人で大森さんて方がいらしたでしょう。
 五十嵐 ここに「政経ビル内調査研究機関所属調査・研究員」という名簿があります.政治経済研究所が国際,産業労働,農業の3つの班に平館利雄,中林賢二郎,水田博,前野良,安藤敏夫,大友福夫,上杉重二郎といった19人の研究員,資料室は鈴木清,森田義雄,小西健二郎,横尾美智子,中山歌子,羽山緑,上村良子さんの7人です.中国研究所は政治経済の担当者として具島兼三郎,岩村三千夫さんら9人,社会文化の担当が野原四郎さんなど9人.世界経済研究所は岡倉古志郎,平田重明,杉本俊朗さんら9人.国民経済研究協会が小林義雄さん以下22人ですが,これには商工分室勤務,安本勤務,非常勤の人も含まれています.日本農業問題研究所が内海庫一郎,石島泰さんなど4人。それに大原社研は上杉,斎藤,舟橋のお三方です.
 二村 政経ビルに来れば,何かアルバイトがあるということだったんでしょうか。あえていえば〈左翼学生〉向きの良いアルバイト,収入はもちろんですが意義のあるアルバイトともいうべきものが…。
 浅原 僕なんか就職してから大減収になってね,往生した覚えがあります。
 五十嵐 そんなにアルバイトの収入は良かったんですか?
 二村 この1947(昭和22)年現在の会計関係のメモですと,浅原君13日分455円,高橋君2日半87円50銭,鈴木さん3日半122円50銭などとなっています。皆さん1日35円ということになります。その他に交通費が出ていますけど。その翌年1948年には日給が50円になり,さらに6月頃から100円に値上がりしています。ただ,浅原さんや高垣さんは日給であったのかどうか,48年後半で浅原さんは半月で850円,高垣さんも同じく半月1350円の領収書が残っています。
 浅原 よく働いたのかな,そんなこともないけど…。
 二村 アルバイトの方がよく仕事していたんじゃないですか?
 浅原 『年鑑』作りじゃそうかもしれないね。
 二村 原稿料ではなく働いた時間で? 原稿は時間でなんていう具合にはなかなかいかないでしょう。
 浅原 どういう契約だったかな。役所からの調査費は,原稿料1枚いくらで貰った記憶がありますね。出来高で,厚さでね。だから一次資料の手書きのものをつっこんでふくらました記憶がある。
 二村 かなり後まで『年鑑』の資料はいったん原稿用紙に写して,読み合せながら直していましたよね。僕が書きはじめた後ですから,1960年代の後半はまだそんなにコピーが普及していなかった。
 谷口 その前は切抜きでやっていたから,終戦直後の新聞はみんな穴があいているのね。『年鑑』の第22集はみんな新聞の切抜きを使いましたね。
 石島 高垣君は法政に移ってからも来ていたけど,貴方も来てました?
 浅原 ええ…,移ったのは8月ですね?
 二村 移るのは8月です。7月29日に正式な話合いがついたんで…。
 浅原 だから後も少し手伝った気がします。
 石島 どこへ行かれました?
 中林 総長室の上,4階のね。
 浅原 あまり人に話したことが無いんだけど,僕は就職問題があって,銀行とかみんな落ちちゃったんだ。公務員試験を仮に受けたらあっさり通ったんだ,今でいう〈滑り止め〉だな。で久留間先生に話をして,研究所に残ってもいいか聞いたら即答なさって「ああ,いいよ」ってね。でも研究所の,大学の研究室にしても少しシンとしているでしょ,あの雰囲気があわなくて役所に入いっちゃったんだ,25(1950)年ですね。
 中林 じゃあ移ってからですね,法政にね。
 浅原 今くらいの,こういう立派な所なら完全に残ったな(笑)。いま入ってきて,凄いなあ…と思いました。
 二村 学生アルバイトに来た人は,主に学生運動のつながりでいらしたのですか?
 浅原 そうでもないです。大学の研究室のつながりもあった。阿利莫二さん…,あれはホッケのバクちゃんていってたんだ,何故かわからなかったけど。彼は非常に迷っていて研究所に入るのか,大学の研究室助手か,それとも大学院に行くのか,それで悩んでいた気がしますね。
 二村 いずれにしても研究者になろうかとか…。
 浅原 そうした臭いのする人が多かったですね。



〔日常の仕事〕

 二村 ここに政経ビル時代の事業計画があります。もっとも,ただ補助金をとるために文部省に出した作文かもしれないのですけど,実際の計画も入っていると思うんです。その中にこういう風に書いてあるのです。

  1946年度

翌年度事業計画 
1)我国労働状態ノ現状ニ関スル調査研究(担当者 森戸辰男)(日本労働年鑑 昭和20年〜21年版ノ編纂刊行ヲ含ム)
2)失業問題ニ関スル調査研究(担当者 大内兵衛)
3)産業社会化ニ関スル調査研究(森戸辰男)
4)戦時ニ於ケル労働状態ニ関スル調査研究(森戸辰男)
5)インフレ−ションと労働問題ノ関係ニ関スル調査研究(久留間鮫造)
6)労働者教育ニ関スル調査研究(森戸辰男)
10)日本統計学史ノ編纂刊行(高野岩三郎)
11)社会科学辞典ノ編纂刊行(久留間鮫造)
12)社会問題ニ関スル図書資料ノ収集整理・編纂刊行(久留間)


  1947年度

翌年度事業計画 
1)戦後労働運動の実勢調査継続
2)『日本労働年鑑』編纂
3)失業問題に関する調査研究  
4)産業社会化に関する調査研究
5)インフレ−ションと労働問題に関する調査研究
6)労働者の教育に関する調査研究
7)日本統計学史ノ編纂
8)社会科学辞典の編纂継続
9)図書資料の収集整理
10)賃金形態に関する理論及び実際

 上杉 これは恐らく委員会で「一人一人何かを出せ」という形で集めたものだと思いますね。
 舟橋 ここで『社会科学辞典』とあるのは『レキシコン』のことですか?
 上杉 いや,それは違うと思う。以前そういうプランがあったんだ。一番最初はガリ版刷りか何かで『資料室報』が出る。
 二村 昭和23年です。1948年6月8日に『資料室報』が創刊されています。舟橋先生が入られてすぐの時期ですね。戦後の研究所の出版物で最初に出たのは《日本社会問題名著選》で安部磯雄の『地上之理想国瑞西』という明治の本が,権田さんの自伝的解題を付けて1947年5月25日に出ています。
 上杉 戦前に出ていた『統計学古典選集』の復刻版は,かなり後ですかね。
 二村 ずっと後,1968年です。ただ元版でも『神の秩序』だけは戦前は出ずに,1949年の8月15日付で出ていますが。
 舟橋 ところで,庶務日誌に「46年8月13日(火)上杉先生,厚生省へ」と書いてありますが何かご記憶ありますか?
 上杉 資料集めに行ったと思います。あの時はまだ労働省になっていなかった。労働省が出来てからかな,婦人労働少年局が出来たのは。労働省の偉いところに小学校時代の同級生の女性がいて,彼女に口をきいて貰い,後に古本屋で高価がついたような資料を貰いに行きました。紙の上の資料だけじゃなくて,実際上のことも見ておかなくてはいけないと思って,2・1ストの時,全官公の闘争本部のあった昔の国鉄会館に潜り込んで,ストップ命令の出た直後でしたね。ちょうど階段を上って行く途中に徳田球一がいた。闘争委員でも何でもないから中には入れないけれど,階段の所で陣取って大声を張り上げていた。
 二村 そういう所に行ってビラを集められたり,話を聞かれたりしたわけですか?
 上杉 話を聞くというより見てくるだけなんだけど,僕はかなりビラを集めた気はするな,大原にないかな。
 舟橋 ビラはかなり集まってますね。
 上杉 僕が絵を描くなんていうと誰もが笑うと思うけど,戦後最初のメ−デ−の時,日比谷の公会堂側の四つ角でスケッチしたんですよ。
 舟橋 その絵はまだ残っていませんか。
 上杉 この間発掘しましたよ。
 二村 是非研究所に寄付してください(笑)。
 上杉 そういう風に,随分外にも出ましたけどね。
 二村 図書を集める仕事というのは先生のお仕事らしくて,先生が本を選ばれたり買われたりした時の記録が随分残っているんです。ご記憶ありませんか。
 上杉 僕じゃないんじゃないかな,特に記憶にないですね。
 舟橋 新聞の切抜きは上杉先生が始められたのでしょう。
 上杉 あの頃資料を集めるといっても,あんな時期だから,官庁にしても労働組合にしてもちゃんとした資料は無い。だから『労働年鑑』も相当程度は新聞記事に頼って作ったわけです。久留間先生の提案なのか,新聞がちゃんと取ってあったのです。まず,それを日付をあとに戻りながら切抜きをし,段々と追いついてきて,その日その日でやるようになる。
 舟橋 あれは大変な仕事ですね。
 上杉 あんな馬鹿な仕事を,という人もいるのだけれども。
 二村 そういう指示を出されたのは,ほとんど上杉先生だったのですね。
 浅原 後の『労働年鑑』のことは舟橋先生ですね。
 上杉 久留間先生が直接そういう指示をなさる,という事はまずなかった。
 田中 戦後の資料自体が集っていない時で,統計局によく行ったわね。くれるわけじゃないの,全部書き写してくるのね。家から紀伊国屋の横から出る都電に乗って,河田町で降りてね。手回しの計算機で計算してね。
 二村 手回しの計算機は,かなり後まで使っていたじゃないですか。
 田中 あれは捨てちゃった?
 谷口 残念ながら,たび重なる引っ越しで処分してしまいました。
 二村 そうですか,統計まで手書きで写されたわけですか?
 田中 全部手書きでした。それを又先生方の注文で何を100として計算するとか,全部やるんですよね。それがよく判るようなグラフを書けとかね。
 浅原 田中さんは,速くて正確で,頼りにされていたんだよね。
 田中 私,面白くてね。自分で数を出しながら「やあ,実質賃金はこんなに下がっているのか」とね。それから単産の争議の資料,争議件数とか要求は何かとか。おしまいには,こっちも要領が良くなってね。新聞見てどこかで争議やってると,「上杉さん,単産行きますか」と聞くと,「ああ,行け行け」って。「官報出ましたよ」って云うと「ああ,行け行け」。
 二村 もう自発的にやるように仕向けられたわけですね。
 田中 人数が少ないから何でもやるんですよ。新聞の切抜きも,その日迄に追いつくにはどうすればよいか,探す時に一番探しやすい整理の仕方とか,綴じ方なんかも色々考えたのよね。
 浅原 そんなに苦労していたんですか。ちっとも手伝わないで,どうも済みませんでしたね。
 田中 ちっとも苦労じゃないの,楽しかったのよ。皆さんがご覧に見えるでしょう「卒論を書くために」とか。そうした時にこんな仕舞い方では使いにくいと考えたりね。暗中模索はしていたのね,それを上杉さんに相談して…。
 二村 その頃ですね,情報センタ−構想は?
 中林 そんな話はありましたね,久留間先生と…。
 田中 「誰が来ても,ここに来れば労働者の動きがわかる,権利がどう侵害されてるのか,事実をもって分かるようデ−タを揃えておこう」とね。私はそういう良い仕事をする所なんだ,来て良かったとね。
 中林 研究所の中ではそんな話をされていましたよね。
 田中 私は,それこそ秘書課にいたから,皆さんが難しい仕事をするのにお茶を入れたり居心地を良くするだけだと思っていたの。ところが「怒り方を教えてあげる」とまず言われたのと,「ここは自分で考えて仕事を広げていかないと,黙っているだけでは何の仕事もない」というの。だから今週はどういう目的でやるとか,この資料は何に使うから必要かとか,仕事の内容に,偉い人から小娘まで全部含めて討議に参加させて呉れるんです。私は,取り敢えずその資料が何に生かそうとされているのか判るわけだから,いわれたこと以外に,これを渡した方がもっと役に立つんじゃないかと判るわけだから,やることが広がるのね。そういう点で,上杉さんの人使いは意識してされたのなら凄かったと思います。
 二村 上杉先生にそんなにマネ−ジャ−の才能があるとは知りませんでした。今の話ですっかり見直しちゃいましたね(笑)。
 中林 研究所では差別は無かったですね。だから久留間先生が大学に来て「先生,先生」と呼ばれると「人間とはおかしなものだな,先生と呼ばれると良い顔になって,久留間さんだと何となしにムッとくる」と。この頃,私も先生と呼ぶようにはなりましたが,それ迄は久留間さんでしたから。
 二村 そうしますと,その頃の一番の仕事は,やはり『労働年鑑』を出すための準備作業をしていたということですね。資料集めをしたり,新聞の切抜きをしたりで…?
 上杉 『労働年鑑』という意識を離れて大原に資料を集めるという気もあったと思いますね。
 五十嵐 『社会科学辞典』ですとか資料集は大原の名前では出ていませんね。
 二村 先ほどもちょっと言ったことですが,前から上杉先生にお伺いしようと思っていたのは,先生の書かれた,大原を労働問題文献情報センタ−にしようというプランのことです。今になって私たちがようやく始めようとしていることを先取りした計画で,このプランを見つけた時は,実に先見の明があったと感服したのですが。この計画はどの程度実行されていたんですか? いつ頃書かれたものかご記憶にないですか?
 上杉 僕にはちょっと記憶が無いですね。僕の字には違いないけどね,全く僕のアイディアで書いたのかは判らないです。
 舟橋 こういう考え方は,あの当時確かにあったんです。資料を収集する時…。
 浅原 僕は,その頃上杉さんの言葉で,忘れられないのは23年か4年に労働省ができまして,その話をしていたのです,当たり前のことなんだけど厳しい言葉がありましてね。「悪いことをしないでくれりゃいいがな」ってね。労働省全体に対して批判があったようですね。



〔日本労働年鑑の復刊〕

 二村 それでは,このへんで舟橋先生の方から,研究員としての活動のことをお話し下さい。
 舟橋 やはり一番の仕事は上杉先生から強くいわれていた『労働年鑑』ですね。しかし書く人が少ないので…,斎藤泰明さんと私と浅原君,高垣君,それくらいでしたね。4人か5人かな。とにかく分担して書いてまとめめようと。どこをどう分担したのか,今はもう記憶がないんですけれど。
 浅原 僕のやった仕事のことで少し思い出したんですが,事業計画の中で経済安定本部依託事業で労働運動の実勢調査というのがあるでしょう。これで労働組合の本部を随分歩きましたよ。資料を貰って,この報告を高垣が,高垣というのは,こういう事を上手くまとめるのが天才的なんだな。これで10万円になるんだとか…。また彼は翌年の調査も話をつけて貰ってきたんですね。皆さんに,上杉先生や舟橋先生によくやったと褒められてね(笑)。その報告書というのは,汚い原稿用紙に書いた記憶がありますが,安本に持っていったのが十何センチかあったでしょうか。それをまとめたので「こいつらに『労働年鑑』の手伝いもさせてみようか」と思われたんじゃないかと思いますがね。組合のことを書いたから,そのことを私どもが担当したのかもしれません。
 舟橋 浅原さんが東宝争議か何かやられたんじゃないかな。高垣君が2月1日,2・1ストですね,これが力作なんですよ。高垣君の力作だと思います。
 浅原 彼は大河内ゼミだと思うんですね,だからそっちの方にも役に立ったんじゃないかな。
 舟橋 労働協約は上田誠吉君に頼んだんじゃないのかな。
 二村 上田さんとはどういうつながりですか?
 舟橋 僕の友人だったんです。僕の家のすぐそばでね,僕は高等学校の時から,割合小さい時から知っていたもんですから。
 石島 戦後最初のこの赤い表紙の年鑑が出来た時,久留間邸でお祝いをして,今でいう一気飲みを久留間さんとやって,どちらが強いかと。結局私が酔い潰されて泊ったことがあります。
 中林 あの時はすき焼きだったのよね,で,みんな残ったのを持って帰ったの,覚えてる?
 次の年鑑を出した時は,私たち全員徹夜しましたよ,椅子を並べて寝ましたもの。
 田中 スキヤキの時は,久留間先生のお宅で,奥の和室でね。
 五十嵐 何人くらいの方が?
 田中 研究所全員よ。でも10人もいなかったんじゃないですか?
 中林 全部で7〜8人ね。
 二村 床の間に本を置いて先生が喜ばれたというのはその時ですか?
 中林 ホッとされたんじゃないですか。ご自分が責任者で,研究所が何も動いていないという事を気になさっていらしたから。あの先生,人一倍気になさる方だから。



〔大原社会問題研究所シリーズのこと〕

 上杉 『年鑑』を作りながら《大原社会問題研究所シリ−ズ》を作る仕事を並行していったんだと思います。
 二村 そのシリ−ズの計画というのは,上杉先生中心につくられたわけですね。久留間先生は,こういう中身にもタッチされたのですか? テーマはちょっと久留間先生の守備範囲外のように思いますが。
 上杉 久留間先生は大原の名前で本が出ないということは工合が悪いと,えらい気になさっていたと思うんです。だからこういうシリ−ズのようなものも作ろうと。ただこの話は,どういう経緯で出てきたのかはっきり覚えていない。
 舟橋 上杉先生を中心にして計画をたてたんですよ。自分のことを申して何ですけど,『賃金統制と賃金闘争』というのは,いま社会学部にいる秋田成就君ですね,彼が鎌倉文庫の編集をしていたんです。彼がこれを読んで,僕の所に来まして「論文を書け」って言いまして。僕が外に初めて発表した処女論文は,彼の勧めで,鎌倉文庫の『社会』って雑誌がありましたね,あれに出したものです。秋田君とは縁があるんです。
 二村 しかし,入ってすぐ本を出すというのだから,さすがに筆の速さを見込まれた先生ですね(笑)。
 舟橋 久留間先生に全部原稿を見ていただいて…,シリ−ズの原稿は全部見ていただいた。非常に細かくね。インフレのことなど書くと「こういう書き方じゃ駄目だ」とか(笑)。
 中林 人によってはずいぶん直されてましたね。真っ赤な書き込みでね,書き直されるのは大変だなあと思いましたね。
 上杉 そのくせ自分の書いた原稿を僕に直せってね。例えば『図書展望』とか大原の蔵書のことを書いたものとか,何かの論文でも僕のところに持ってきて「読んでみて変なところがあったら直せよ」ってね。何回かそういうことがありました。ご自分でも推敲に推敲を重ねた上で,なおかつ僕等にもね。最後には 「もう,お前に任すから直してくれ」と,何の時だったかな?雑誌に出すものをやったことがありますよ。文章なり,文章の前後関係なり,表現なりに実に厳しい方だったから。
 舟橋 あれは本当に勉強になりました,直していただいたのは。 
私は『賃金統制と賃金闘争』というのを一番はじめにやったんですけど。上杉先生が『就業規則と職場規律』というのをまとめられて…。どういうものを出すか,ということについてはずいぶん議論した。
 二村 全体で10巻のプランが出来ていますね。
 舟橋 このうち第4集までしか出せなかったんですね。
 二村 法政大学に移ったあとで『都市と農村における労働力の移動形態』が《シリーズ》の第5集,第6集として出ています。
 舟橋 このシリーズの表紙にある壺のマ−クね,これは大原社会問題研究所のマ−クなんです。僕の友人で美校を出たのがおりまして,染谷安永という男なんです。ちょっとおとなしいけれど,まあいいなと思いまして。この字は割合いい字なんですよ。なかなか字のうまい人でしてね。



〔柏木の土蔵〕

 田中 私,いろいろ聞いた中で,大原研究所を資本家が作ったというのが不思議だったのね。大原美術館のことも上杉さんから聞いて,良心的なブルジョアはこういうものなんだ,と。でもそうしたことに金を注ぎ込む目的は何んだろうと半信半疑だったの。でもお蔵に行って,あの戦前の資料をみたときに「大原研究所という凄いものを作ってくれた人なんだな」と思いました。
 谷口 どんな資料のこと? 例の原資料? 開けてそのまま又閉めたわけ?
 中林 開けて,2度ほど風通ししたのよ。
 谷口 じゃあそれを又,二村さん達が開けたわけだ,初めて開けたと思ってたのにね。
 田中 第1回メ−デ−のビラが活版で出ているの,上杉さんが箱の年
代をみて「資料室に出せ」って,上杉さんの指示で出したの。
 二村 昔の資料も,運んで来られたのですか? 僕は本だけ,昔の洋書やなんかだけ取りに行かれたのかと思っていましたが,そうでもなかったんですね。
 上杉 一つには,保存の状態を時々みるというのはありました,個人的な興味もあったり,古い洋書を探す,と。久留間先生にもいわれたことがあるけれど多くは自分で必要で。だから原資料にはなるべくノ−タッチでいる原則でいたわけです,例外はいろいろあるけど。
 中林 浅原さんはお蔵へ行ったことがありますか?
 浅原 何回もある。自分の興味もありましたしね。『ロ−テ・ファ−ネ』なんてズラッとありましたから,ああ,これが本物か,なんて思って(笑)。
 二村 大久保の土蔵から政経ビルに何を運ばれたかご記憶ありますか?
 浅原 何かを探せといわれて持ってきたんじゃないですか。上杉先生,何かオ−ダ−なさったご記憶がありませんか。
 上杉 最初は僕自身が久留間先生から鍵を預って,わりと頻繁に通っていたんです,後でお願いしたんだな。
 中林 まだあのお蔵はあるんですか?
 谷口 あの土地は売っちゃったの。
 二村 お蔵も最後の頃はボロボロなってしまいました。火をかぶっていたから,壁に完全に穴があいちゃって。
 上杉 あのお蔵に惚れ込んであの土地を買ったんだ。
 二村 先見の明がありましたね。
 上杉 戦火で研究所の本体の方が焼けて,そのあとお蔵を開けるのに一週間くらい待ったんですね,つまりうっかり開けるとお蔵に火が出ると。久留間先生は何回もその話をしていましたね。



〔役員会のこと〕

 二村 上杉先生がおられた時には,他には久留間先生とか,委員の先生で日常的に出ていたのは,どなたですか。
 上杉 委員会がない時に,ふっらと来られる先生もいたけれど,日常的に来られるのは久留間先生ひとり。
 二村 そうすると,久留間先生が見えない場合には,ほとんど上杉先生お1人だったんですね。
 上杉 高松朔子さんがすぐ見えたわけだからね。
 舟橋 この頃の研究会というのは,何をやっておられたんですか?
1946年の庶務日誌に「6月25日,研究会,久留間・三宅・大内・鈴木・上杉」とありますが。
 上杉 これは役員会じゃない所員の集りという位の意味なんですね。
何かを勉強したという事でもないんです。所員が勉強する研究会というのは,もう少し後のことなんです。そういった事は庶務日誌には記録されていないでしょう。僕はこの日の事を憶えているけど,恐らく昔から習慣的にそう呼んでいたんだな。
 二村 役員会ではない会議のことを研究会と呼んでいたのですか?
 上杉先生が一番最初に出られた〈研究会〉は放送会館で開かれたものですか?
 上杉 いや,もっと前にでていると思うな。恐らく5月21日の採用決定のすぐ後に出ていったんじゃないのかな。6月11日以前に,新しい政経ビルで〈研究会〉をやった記憶があります。
 二村 その〈研究会〉に出られた方々はどんな顔ぶれでしたか?
 上杉 そうですね,初のうち割合よくみえていたのは…,高野先生はまずお出にならない,僕の知っている限りで放送協会でやる時には時々顔を出されることがあった位で…。久留間先生はいつもいらっしゃる,森戸さんも初期には割によく出られた。権田保之助さんもたまにだけ。三宅晴輝さんはしょっちゅう来ていた。大内先生も必ずしもいつもという事ではなかったですね。鈴木鴻一郎氏は出たり出なかったり。
 二村 〈研究会〉が研究の集まりでないとすると,何を主として議論されていたのですか? 
 上杉 仕事に関する話や,給料の話なんかもしたかな。とにかく研究会というのは,よもやま話的だったんじゃないのかな。



〔久留間先生のこと〕

 二村 では,ここで戦後の研究所を所長として担ってこられた久留間先生のお話をうかがえたらと思うのですが。部屋のボスは上杉先生でも,もう一つ上の神様がいらしたという感じだったんでしょうか? 政経ビルに移られた時,久留間先生は52歳ですから,歳からいえば今の皆さんよりはるかに若く,僕よりも若干お若いのですけれど。
 上杉 でも頭は真白でしたよ。僕が初めてお会いしたのが50歳位でしょう。
 二村 久留間先生は,若いうちに老けられて,後はほとんどお変りにならなかった方じゃないですか。僕がはじめてお目にかかったのは1956年ですが,亡くなられた時とほとんど同じだったような気がします。
 舟橋 僕は吉祥寺で家が近くだったもんですから,帰りによく誘われましてね,「一緒に帰ろう」って。もう嫌だったんだけどね(笑)。その間何だか難しい話ばかりでね,資本論の事とか。でもあれは勉強になりましたね。「コ−ヒ−飲もう」って御馳走してもいただきました。お酒じゃなくてコ−ヒ−でしたね。上杉先生のことは,えらい期待していたようですね。
 上杉 期待外れだったよ(笑)。
 舟橋 先生とは『資本論』の研究会を開きまして,かなり続けましたね。
 中林 あれは政経ビルの頃だけでしたね。法政に移ってからは中止になっちゃたのよね,外部の方の出入りがなくなっちゃいましたものね。
 田中 火曜日の午後だったわね。
 二村 記録を見ると,どうも大原は戦争中から,火曜日にそうした会議をやる習慣だったようで…。委員会でもみな火曜日にやっています。政経ビルへ移転直後は〈研究会〉といっても,実際はほとんど仕事の会議で,それが段々『資本論』の研究会に変っていったのでしょうか?
 上杉 いや全く別ですね。その大原の〈研究会〉というのは,いわば役員会でしょう。いま出ている『資本論』の研究会というのはサ−クルみたいなもので,『資本論』は長谷部訳の日本評論社から出ていたザラ紙のやつで,あれで確かやっていたんだな。研究所の若い人達,アルバイトも含めて時々は外部からも人が来たりはしていましたけどね。久留間先生にも出ていただいて,1回毎に報告者をきめてやっていた。斉藤泰明君など克明な報告をしていたことや,久留間先生が時折り問題を出されて,答えるのに四苦八苦したことなど,印象に強く残っている。その時僕が使っていた本には,それらのことが書き込んであります。
 舟橋 シュロッスの本を読んだの覚えておられますか,シュロッスの『メソッド・オブ・レミュネレイション』。藤牧新平君がチューターをやってくれましてね。
 上杉 ああ,藤牧君,あのロシア語の達者な。彼は何で飛込んで来たのかね?
 舟橋 それが,よく分からないんですよ。
 二村 その資本論の研究会というのは,舟橋先生が入られた頃には始まっていたのでしょうか?
 舟橋 もう始まってました。
 田中 資本論の研究会の前,昭和23年の3月頃から毎週火曜日に『賃労働と資本』などの学習会をやっていたんです。6月頃から『資本論』を読もうということになりまして,忙しい週は休みながらでしたが,法政に移るまで続け,「商品」が終わったところで休止になりました。出席されていたのは所内では上杉,舟橋,斎藤,浅原,高垣,田中,外部の人では上田誠吉さん,白井徹子さん(舟橋夫人),藤牧さん,弓家やまとさん,川上さんなどでした。ときどき出席されたのは松本昭子さん,神保(藤牧さんの友人で東大の哲学の学生)さん,稲垣さんなどだったと思います。私は24年4月には辞めましたが,体調のよいときには出席していました。
 舟橋 ところで,上杉さんがお辞めになったのは何年でしたか?
 上杉 法政に来る前の24年頃。『労働年鑑』がほぼ出来る,シリ−ズも僕のやつが,ほぼ出来たという頃に…。
 中林 でもダブッてましたよ,1年くらい。
 上杉 僕が法政に行くことになったという点については,久留間先生は非常に憤慨されたわけです。大原にずっといてもらうつもりでいたのに……,両方やれると思うのは大間違いだと。ご自分は,とっくに法政に行ってらっしゃるけれども,それは意味が違うからね。しかも「俺にちゃんと断るという事をしなかった」と随分怒られたね。僕は,必ずしも無断でとは思っていなかったが,久留間先生にはそう映った。それにもう一つ,法学部の中村哲さんが「来ないか」と随分早くからきてたんです。断る前にいろいろ話を続けてたところで経済学部から「久留間先生から,貴方は大学の先生にはならないと聞いていたから今まで黙っていたんだ」と経済学部の錦織理一郎さんが研究所に押掛けてきたんです。「法学部に行くというのなら,経済学部の方が先にプロポ−ズしていたんだ」と。僕も困ってね,そういうプロセスがあって法政に行くことになった。しかも『年鑑』もちゃんと出るしね。
 舟橋 そうか,それで中村哲さんは今度は僕に「来い」って云ってきたんですね。その時は哲さんは久留間先生にも相談されたらしいんです。久留間先生から「中村さんが,ああ仰ってるし,お前行ったらどうだ」と云われたものですから。
 上杉 扱いが違うな(笑)。
 舟橋 哲さんが非常に強く云ったんだと思うんです。法学部の中に労働学科が出来ましたから,あの時。上杉先生がいらっしゃらないとなると科目が空いてたんですね。
 上杉 久留間先生というのは非常に偉い先生だけど,同時に子供みたいに素朴なところがあってね,ものすごく純粋なんだ。だから時々こっちとピントが合わないような所がね(笑)。政経で仕事の始まった頃は,煙草がなかなか手に入らないし,コ−ヒ−も飲めないような時期でしたが,僕はアメリカ製の罐に入ったパイプに詰めるやつを,どこからかせしめて来て久留間先生にみついだ覚えがあるよ。(笑)。コ−ヒ−は神保町のね。
 浅原 そうそう,初めてあんな旨いコ−ヒ−飲ませて貰ったな。
 上杉 新宿あたりにも,大原が法政に行く頃は飲み屋があって,先生が一番気に入っていた飲み屋は,二幸の裏にある〈菊正〉っていう地階にある穴蔵みたいなね店でね。そこに飲み屋のおばさんにしては歴史がありそうな,風格のあるおばあちゃんがいたんだ。そこに飲みに行って,蛎の酢づけを,普段ああいうものは食べない方なんだけどね,よく注文されていた。飲み屋が気に入ったのか,おばあちゃんが気に入ったのか分からないんだけど(笑)。ずいぶんそこへ行った。僕がご案内しなくなってからも,大島さんなんかと,ひとりでも行かれたみたいです。
 マルクスの『グルントリッセ』の原本が初めて日本に入ってきた時,大原が法政に移ってからだけど,僕が割合早くに手に入れて,ご覧にいれたら,それが運のつきで「よこせ」って持っていかれちゃったんだ。そいう強引さも有るんだな。欲しいって云ったら,もう手放さない,子供みたいなところが。その日はもう実に感動してね。帰りの電車の中で拾い読みしたという話を後で聞きました。今でこそマルクスのものは沢山出てるけど,あの時はもう大変な騒ぎだった。鈴木鴻一郎氏みたいに手の早い人でも中々手に入らないくらい大変なものだったんだ。僕に買ってくれと頼んだ事があるくらいだ。久留間先生は理論上の事でも,前からご自分で考えておられた事が,恐らく『グリントリッセ』の中にあるんじゃないかと思っていらしたんじゃないか。ある意味で、久留間先生は実に多面的な方だった。
 二村 僕のひとり勝手な印象ですけど,久留間先生はある意味では戦争中の方が幸せだったんじゃないか。マルクスを読んで,抜き書きのカードを作って給料を貰ってた学者なんて,日本中に他に誰もいない。しかし戦後には,最も学究的な方が研究所のマネ−ジメントをやらざるを得なくなった。先生には,あまり相応しくない仕事をする立場に追込まれたのではないかと。
 舟橋 でも政治的,或いは社会問題に対する判断は,ものすごく的確でしたね。あんな関心のないような顔をしてても,話をするとね,ものすごく的確でビックリしました。
 二村 森戸さんが最初の頃出てみえたという以外は,他の委員の先生方は,あまり研究所へ出てこられなかったのですか?
 上杉 森戸さんも大臣になった頃というか,社会党の仕事を始めてから来なくなったし。みっちゃんなんか誰を覚えてるかな?
 田中 色々な通信物を送ったりしました。直接おいでになった方はほとんどいらっしゃらない訳ですけれど,連絡出したり,お使いに行った人は,それこそ権田さんやら森戸さんとか。大内さんの所はよく行きました。
 浅原 久留間先生や大内先生に直接教えを受けるような立場にありませんでしたから,研究会で接触したくらいなんですけれど,大内先生がいらっしゃって話をしていた時のことで幾つか覚えているのは,戦争の話になってお2人の意見が一致したんです。その前に2人でドイツに留学をなさったわけでしょう,ドイツがインフレの時で非常によかったという話なんです。2人で音楽会によく行ったらしいんだけど,久留間先生に言わせると「大内君はいつも寝ていた」というんですよ。久留間先生は非常にセンスのある方だから聴いている内に興奮してくるらしいんですけど「大内君は寝てたよ」と。大内さんは困った顔をしてましてね,反撃したとは思うんだけど,そっちは覚えていないな。それともう一つが戦争の話。僕らはまだ若くて単純な平和主義者だけど,2人の先生の意見が一致したのは「戦争が終ったのが早すぎる」と。ソ連とアメリカ双方がへとへとになるまで,やり合っていれば世界はよかったんだ。そういう事を言われてビックリしたことを覚えています。
 二村 他の皆さんの印象はいかがですか? 中林さんは久留間先生とは,ずっと後まで傍におられたわけですから。
 中林 これは,どなたも聞いていないと思いますけど。一緒にお酒を飲んだ時にね,「僕にレ−ニンぐらいの能力があれば,実践活動をやりたかった」っておっしゃってましたよ。私ビックリしちゃって,お酒の上とはいえね。当時の日本のコミュニストには批判的でしたけれども,やはり自分の心の中にはそういうものがあったんだな,と。
 石島 それで箱根で,あんなに怒ったのか。歴史に残る大喧嘩をやったよ。
 中林 もう怒るなんてもんじゃなかったわね。
 石島 大原で旅行に行ったんだよ。その時「あなたは普段偉そうな事を云っているけれども実践活動は何もしてないじゃないか」と云っちゃったんだ。
 中林 あの時,何か凄かったわね,怒られて。
 石島 まわりが皆,謝れって言いに来るんだよ。俺,絶対に謝らんと言って。
 谷口 皆さん,とにかく謝れ,何でもいいから謝れってね。
 石島 それでね,何日か経ってから土手で会ったら,向うから謝ったんだよ(笑)。
 谷口 久留間先生が大島先生に相談に行ったんですってね。こういう事件があったけど,どうしようかって。
 中林 久留間さんは,女の人を大事にして呉れたわよ。大事っていうより平等なの。
 浅原 区別するすべを知らないんですよ。
 田中 こびとかかけひきとかないのよ。
 上杉 基本的には平等だったけど,少し女の人にヒイキ目だったな(笑)。
 谷口 女の人は,いたわらなければならない,みたいな所はあったわね。大掃除や引越しの時なんか,もう君等は止めなさいって言って下さった事なんかもあったわよ。石島さんにヒガまれた,「僕等は言って貰えないって」。
 上杉 僕は来月70歳になるけど,まだ女の子を好きになりたいっていう気持がありますよ(笑)。久留間先生にもそういう気持があったと思う。
 中林 長女を亡くされてね,「それがすごく悲しかった」と。それがあるでしょう。
 二村 僕は久留間先生の追悼号で年譜を作ったのですが,その時,先生は家庭的にはずいぶん不幸な方だったなと思いましたね。お子さん3人を,皆さんお小さいうちに亡くされている。奥様も敗戦の前年に亡くされていますし。
 上杉 住友銀行にはどのくらいいたんだろう?
 二村 3ヵ月くらい…。1918年7月に入られて,秋にはもう辞めていますから,米騒動の年ですね。
 中林 銀行でお金を数えるのが嫌になっちゃったって…(笑)。
 上杉 誰がいっていたのか,久留間先生はヨーロッパに行っていた時もあまり旅行をしたがらない。
 二村 久留間先生は,本を買うので少しくたびれて,精神的にも参ってらしたんでしょう。それで櫛田さんが心配して「あのままロンドンに1人で置いておくとよくないから,久留間をハイデルベルグへ呼べ」って,それでドイツへ行かれたと聞いています。ドイツには,当時大内さん,森戸さんが来たり羽仁五郎さんなど日本人が大勢いましたし,すでにかなりの研究蓄積もあった櫛田さんが,ドイツで図書を集めるのは,それほど難しくなかったと思うんです。それに比べて久留間先生は,イギリスにお一人で,しかも大学出たばかりで予備知識もあまりない。そんな状態で,1人で外国で本を買って来いといわれたら大変ですよ。ロンドンだけでなくマンチェスターなど方々を廻り,本屋の地下倉庫にロ−ソクを持って入って探されたり…,先生はほんとうに真面目な方だから,肉体的にも精神的にも大変だったと思います。
 田沼 ロンドンで地下鉄の駅の名前がキップを買う時に通じなかった,と。ショックだったと云ってましたね。
 上杉 大内先生が,これは久留間先生の話だけど,ドイツへ呼んで,凍った川でスケ−トした話を「大内君は転んでばっかりいたよ」と笑っていたけど,自分はどうだったのか? 中林さんが写真を撮ったというのは何処?
 中林 ロンドンの久留間先生が住んでいらした家。7,8年前,ロンドンにいたとき私宛に先生から古い写真を送っていただいたんですの,そして,ハイゲートのそのお宅を訪ねたら,全く同じ樹が10倍位大きくなってるの。
 上杉 僕はハイデルベルグで久留間先生が住んでいたという家を撮って。その時ドア−をたたいて,おばあちゃんが出てきたから「何十年前に…」って聞いたら「そんな人は泊めた覚えがない」と。代が替っちゃってるんだな…。そうだ,その家で下宿していたのに大内兵衛,三木清などがいて,フローキングって家だったかな。語学の勉強に,ゲーテかハイネを読んでくれたのを聞いてた,と話してくれましたけどね。
 田沼 しかしモダンだったよな。
 上杉 すごい洒落者ですよ。
 谷口 お洒落っていえば,政経の頃はいつもベレ−をかぶってらしたわね。みんな流行りで…みっちゃんもかぶっていたわね。
 中林 久留間先生は,ご自分で寄付を頼みに行くとか,そういうことが本当にお嫌だったのね。
 石島 私は49年の4月に入って7月に合併でしょう,それまで何をやっていたかというと,当時研究所の財政を支えるために,維持会員制度というものがありましたよね。大口の会員には『労働年鑑』と『労働資料月報』を届けた。普通会員には『資料月報』だけかな。何かそういう制度がありまして,お偉い方々があちこちに口をかけたのだと思いますが郵船の会社だとか自動車工業会の会社だとか「話はついているからお前行って金を貰ってこい」と。だいたい小切手ですよ。
 中林 私も経団連の石川さんね,あの方の処に上杉先生から言われて訪ねて行って,お金を貰ってきたのか何なのか,とにかく行った憶えがあります。
 舟橋 大内先生の関係じゃないですか?
 中林 高野先生の所へは私はしょっちゅう行っておりました。もうかなりお身体が悪かったものですからNHKにね,久留間先生に頼まれて,恐らくそれも維持会員の仕事だったと思いますけどね。
 二村 維持会員はどの位いたのですか?
 石島 どっかに記録がなきゃ,おかしいと思うんですがね。
 田中 権田さんとかの紹介状を頂いて,私も経団連や日経連に行って…,階段に赤い絨毯があって,私なんかお雛様しか知らないから(笑)。ああ!凄いもんだなと思いながら上がって行った事なんかも覚えています。
 石島 とにかく,財政的にはどうにもならないような状態だったわけで,切売りをしましてね。
 舟橋 スタンフォ−ド大学のフ−バ−研究所だ。
 二村 『国家学会雑誌』を売ったという…。
 石島 そういう状況なんで,法政大学から合併の話が持上がりましてね。



〔森戸辰男先生のことなど〕

 上杉 久留間先生だから今の大原があって,森戸先生や大内先生じゃ違うふうになっちゃたよ。
 二村 それはそうでしょうね。
 上杉 久留間先生の大内先生なり森戸先生に対する評価は…。
 浅原 相当厳しかったね。僕は上杉先生にも聞いたことがある。「大内なんて!」っていうのを聞いた気がする。
 上杉 それは生きかたについての問題だけじゃない。経済学の理論上の問題もあった。前に話したわれわれの研究会ではなく,後で『資本論研究』になる例の雑誌『評論』の研究会,沢山有名な人が来ていた研究会で僕は痛烈に感じたのですけれども,久留間先生は殆ど黙っているんだ。他の先生方は,大内先生も,相原茂,対馬忠行,鈴木鴻一郎氏などはよく喋ったな。僕自身は,自分のデスクに座ったまま,確かすこし離れて,一方で研究所の仕事を氏,他方でこの討論を聞いていた。時折り,宇野弘蔵先生も見えていた。そういう人達との研究会が終ると,皆解散したあと先生と一杯飲むことがよくあったんだけど。
 二村 僕は率直にいって,森戸さんに対する大原の諸先生の評価は,ちょっと厳し過ぎるように感じますね。僕は大原研究所は,森戸さんのおかげで生き延びたところがあるんじゃないかと思っているんです。たしかに久留間先生は財政的にも一番困難な時期に,研究所の維持運営に努力され,しかもスジを通された。しかし,戦時中にしても,戦後でも,森戸さんの役割は大きかったのではないでしょうか。大原研究所が,文部省からあの当時で20万円も引出すことができたのは,やっぱり森戸さんの力がある。さまざまなタイプの人の微妙なバランスが大原研究所を存続させたということではないですか?
 上杉 今のことを含めて,久留間先生はお見通しだった,という事ですよ。その人の役割は知っていて,別に,それに嫌悪感を示したわけじゃない…。だけど批判は批判として,ちゃんと持っている。特に『資本論』についての理論上の問題については,非常に厳しかったですね。
 二村 僕は『大阪労働学校史』を編集した時と,櫛田民蔵から森戸辰男あての手紙を読んだ時,森戸さんを見直ししたんです。森戸先生だけなんですよ,大阪労働学校で講義を全部無給,無休なのは。奥さんがもらった遺産2万円を,全労会館と大阪労働学校に寄付していますしね。高野先生の追悼会でお目にかかっただけですから,お人柄まではわかりませんが。
 上杉 世俗的な事は不可欠だけどね。その点は無視できないんだけど。昔,鈴木鴻一郎さんと森戸論をやったんだ。初期のクロポトキンの翻訳や,『オウエン,モリス』を書いた時期などの生き方と戦後の生き方,特にある時期以降の急激な変化をどう見るかを。鈴木鴻一郎さんは「変った」と,僕は「もともとである」と。
 二村 僕ももともとだと思います。森戸さん自身そういう評価のようです。「私は変らん,世の中が変っただけだ。世の中が右の時は私は左だったし,世の中が左になったから私は右になったんだ」と。主観的には,森戸さんがそう思うだけのことはあったんじゃないかと思います。ただ,ある時期に変わってはいる,戦後ではなく戦時中に。大原の運営の責任者でしたから,かなり軍部などにも妥協したと思いますね。またそうでなかったら,大原はあるいは生き延びられなかったのではないか,という気がします。
 上杉 大原にはいろんな人材がいたから,それぞれの役割を果した,と云えばそれで済むんだけど…,大原といえば久留間先生の存在がどうしても出ちゃうんだな。戦前でも翻訳の仕事で『剰余価値学説史』など,あれは非常に貴重な仕事だったと思っているんだけど。あの仕事を,実際上ひっぱったのは久留間先生じゃないかね。
 浅原 森戸先生が教壇を追われた時に,京大に僕の伯父がいたんです。京大の農学部に。森戸支持派だったようだ。その伯父は,京大から同志社にゆき,反軍ということで同志社を追われて戦争中はアメリカに行っていたんだけど,帰ってきてまた同志社を経てICUを創ったんです。湯浅八郎っていうんですが,私にも多少その血が流れているという事でね。
 二村 そうでしたか。
いや僕はぜひ一度,森戸論を皆さんから伺いたいと思っていたんです。戦後の大原では,森戸さんへの評価がちょっと辛すぎる。皆さん,久留間先生の目を通して森戸先生の評価をしてきているんじゃないかと。あるいは森戸さんがいなかったら,大原はもたなかったかも知れない,そんなところが戦中戦後を通してあったんじゃないか…と。
 上杉 僕はその事は否定しないよ。学者としてなり,人間としてなり,云ってみれば大原を離れての話。



〔政経ビルの青春〕

 二村 政経ビルそのものの様子を聞かせて下さい。
 上杉 あそこは見かけより中は狭くてね,入口からすぐに階段があり,2階の曲ってすぐ左の所に大原があった。
 二村 ここに政経ビルの研究機関の名簿があるんですが,これで見ると,店子は中国研究所,世界経済研究所,国民経済研究協会,金属工業調査会,大原,日本農業問題研究所,民主主義科学者協会などです。
 中林 あそこには連絡協議会というのがあったんです,研究機関のね。しょっちゅう若者たちが会ってました。
 田中 資料も交換したりしてね。
 二村 その連絡協議会は,組合かなにかのつながりですか?
 中林 私が覚えているのは青年部でしたね,民擁同っていいましたかね。文化工作隊といって,政経ビルの若者たちが埼玉県でしたか,農村に入って交流したのです。その時農家の人から出されたお握りが美味しかったこと,今でも思いだします(笑)。
 二村 それは大原と直接は関係ない,政経ビルの青年部の集まりですか?
 中林 民擁同,民主主義擁護同盟ね,あれの前身。
 二村 政経ビルに外の人がしょっちゅう出入りしてたというのは図書館的な機能のためですか?
 上杉 必ずしもそうではなくて,研究会とか何となく集るというね。
 田中 いつも,いろんなお友達を紹介されたわよ。浅原さんは,本当にいろんな方を連れてらしたわよね。
 石島 国会図書館なんか行くよりも,あそこに行けば手近かに何かあるって。
 二村 それは東亜研究所の図書が非常によく揃っていたということですか?
 石島 そうでしょうね。
 二村 図書室はどこにあったんですか?
 石島 バラバラに置いてあったみたいですよ。
 二村 何で政経ビルにそう集ったんでしょうか? 政治経済研究所自体が,貸さないと財政的に成立たないというようなこともあったんでしょうが。
 上杉 占領軍が,とにかく東亜研究所を接収したわけでしょう,図書もかなりの部分を,アメリカへ持っていったはずです。制度上はどうなっていたか知らないれど,末広巖太郎さんが今でいう管財人になって,あそこの管理権をもったんですね。小林義雄,安藤敏夫とか,渡部一高といったひとびとがいた。渡部さんは英語がペラペラで,向うの人が来ると接待してた。何人かのスッタフを持ち,例えば世界経済なら有沢先生だし,そうしたグル−プの人達が話合って,ああいう風になっていったんじゃないでしょうか。
 二村 あのような建物は,東京中にもなかったでしょうね。
 上杉 ひょっとするとGHQの方で何らかの示唆があったのかもしれませんね。GHQといえば,比較的早くGHQに呼ばれてね,ニュ−・ディ−ラ−のわりに名前の有名な中佐がいたな。
 二村 『労働年鑑』を一本にしろ,という話ですね。中労の『労働年鑑』は昭和22年の1月付けで出ているんですね,そっちが出ているのに『労働年鑑』を出す必要があるのか…。
 上杉 そうなんです。協調会は存在して,スタッフもいて仕事も続けられていたけわけだからね。久留間先生が呼ばれて「一緒にしろ」と云われ「ノー」と言ってきたわけでしょう,その後,細かい話を代りに僕が行ってしたことがあるんです。これはもう大失敗したんだけど,入口に入っていったら「通訳を付けるか」と聞くんだ,「いらない」って云ったんだ,それで入っていったらペラペラしゃべる…,それも,その年鑑云々の話の続きでね。
 二村 政経研究所はかなり活発に資料を出していたんじゃないですか。研究所シリ−ズで講座ものみたいな…。労働争議とか,労働協約,賃金形態など,僕も4〜5冊持っていますが。
 上杉 そうした本にならないもので,いろんなレポ−トを出したな。
 二村 婦人労働の紡績の調査があったでしょう,その中にも何か,大原にお世話になったというような趣旨のことが書いてありました。
 政経ビルというのは,戦後の日本の科学運動史を考える上で非常に重要な場所ですね。誰か「政経ビルの社会史」を書くといいんじゃないかと思うくらい。今日の話を聞いても,さまざまな人のつながりがあったことが分かりました。中林さん達も,そもそもの馴れ染めは政経ビルが舞台でしょう。当時の様子が分かるような写真はありませんか?
 中林 写真なんか撮りませんよ。そんな余裕ってのは無かったわね,あの1〜2年間はね。政経ビルの中で結婚式をやって下さったんだけどないのね。写真なんか撮るような世相じゃなかったのよね。中林は自分でカメラを持っていたから,結婚した直後の本当に小さいのが残ってますね。今の感覚だったらカメラくらい持って行きそうなものだけど,あの頃フィルムが買えなかったのね。
 浅原 さっきの最初のアルバイトの時の話で,農村調査に一緒に行ったのは中林賢二郎さんだったと思うな。彼は政経研究所といっても国際関係でしょう,だからおかしいとも思ったんだけどね。塩尻村へ何か手伝いに行かれたんじゃないかな。
 上杉 あそこも,国際とか,国内とか,必ずしも境がはっきりしていたわけじゃないよ。
 二村 中林さんの他にも政経ビル仲間で結婚したっていうのは多いわけでしょう,上杉先生のところが第1号ですか?
 中林 上杉先生は何年でした? うちは23年の11月なんです。
 上杉 うちは翌年。あなたの所はどうか知らないが,うちの所は旅行したわけじゃないし,式も挙げてない。
 中林 うちだって旅行してませんよ(笑)。お式しませんでしたか?
 上杉 研究所でしてくれた…。
 中林 うちだってあれだけですよ,同じですよ。
 田中 お祝いに皆んなでお金出しあってね,御飯蒸しね,買ったの。ジュラルミンみたいなアルマイトの。上杉さんとこも私が買ってきたの(笑)。
 石島 私も御飯蒸し貰ったよ(笑)。
 上杉 僕んとこでは今も使っているよ(笑)。いや,本当。蓋がキッチリ閉まらなくなっているけど,使ってますよ。あれは,あの時貰ったのか。
 中林 石島さんの時の結婚式の写真はあるのよね,研究所でやったの。
 谷口 あの頃は,もう写真を撮ろうという位に世の中が落着いていたのよね。
 二村 政経ビルに結婚式が出来るような広い部屋があったんですか?
 田中 研究所の右側に会議室があったんですよ。
 中林 その時に民擁同の仲間で,若林さん達が中労の代表で2人が出てきてたんですよ。あの後ですよね,章雄さんと茂野さんが結婚したのは。おまけに,大原社研が法政に入った後に,中央労働学園も法政と合併して,同じ職場で働くことになったんですけど。あの2人が,私の時に花束を持ってきてくれたのを覚えていますよ。テ−ブルもきれいにしてくれてね,おせんべいか何かを並べてね。
 田中 マコロンとね。マコロンが出始めた頃でね,覚えてるでしょ。
 谷口 美味しかったわ。
 浅原 今でも美味しいよ。
 五十嵐 マコロンって何ですか?
 二村 マコロンってのは,砂糖にピ−ナッツを粉にして加え,ベイキングパウダーかなにか発泡剤的な物を使って焼いたクッキイー。
 石島 カルメ焼の小さいみたいなやつ。
 上杉 恐るべき記憶力だね,あなた方は。
 二村 何しろ子供の時に甘いものに飢えてましたから。食べることというと,大原ではアミダくじやりませんでしたか?
 中林 やった,やった(笑)。ボ−引張ってね。
 田中 お金を出す方に当るといいんだけど,買いに行くのは,すごく嫌でね。
 中林 こっちに移ってからだってやりましたよ。
 五十嵐 3時のおやつか何かで?
 二村 薯花林糖とか塩豆くらいでしょ?
 田中 あと今川焼ね。
 二村 今川焼なんて何処で売ってたんですか?
 上杉 近くにドラ焼のおばさんの店があった。それに大原から出て丁度反対側の角の一軒先か何かに昼飯を食わす処があって,あすこにはよく行って昼飯食ったけど。
 二村 お昼を食べに行く処はあったわけですか?
 上杉 大原の反対側の政経研究所の反対側角の一軒向うかな,そこに小さな店で…。
 田中 雑炊みたいなものね。
 田沼 外食券食堂っていうのがあった。
 上杉 戦争後すぐ方々に闇市ができて,僕が通っていた日比谷の市政調査会,あの新橋の方へ行くとバ−ッと闇市がね。そこへ軍隊から唯一持って帰った飯盒を持っていって雑炊みたいなものを昼飯用に入れてもらい勤めに出て食って…。闇市なんて便利だったけどね。
 田中 上杉さんの飯盒が電熱器の上に置いてあったもの。乾麺を適当に折っておつゆ作って食べたとか,お米が少し手に入ったから電熱器で煮て食べたとか,徹夜しなきゃならない時は,ちゃんとそれが置いてあって,朝行くと,ふきこぼれたのが周りにこげついていた。
 石島 久留間先生のお宅に泊ったでしょう,その時お茶を立てて頂いて,ちゃんとしたお菓子が出たんだ。
 谷口 あの頃にお茶を立てられるというのは,ずいぶん恵まれているというか…。
 中林 戦災で焼けてなかったものね。
 あの頃はお茶の水あたりで,踊る宗教というのが流行っていたのよね,駅前で踊っているのよ,覚えていらっしゃらない?
 石島 知っています。
 田中 だって石島さんは,それこそ正式な職員になる前から出たり入ったりしていらした方でしょう。
 中林 じゃ鈴木東民さんの所なんか…。奥さんがドイツ人の人。あそこで紅茶かコ−ヒ−を飲ませてましたけど,入ったことない?
 石島 鈴木東民さんの喫茶店は,政経ビルの1階にあったけど,中からは入れなくて,外から入った。1階といっても感じは半地下のようだった。
 上杉 東民さん,何時だったか塩釜市長に出ましたね。
 浅原 読売争議の時の編集局長だったね。
 二村 いずれにしても,政経ビルは誰でも割合自由に出入り出来て,本や資料も見られる。しかも大原だけじゃなくて,東亜研究所の資料やら他の団体のもあったり,人もいたり…。いま思うと戦後の科学者運動の梁山泊みたいな所だったんですね。戦後日本の青春の一断面を象徴する建物,非常に面白いビルだったんですね。
 中林 そうよ,皆さん生き生きしていましたもの。




 初出は『大原社会問題研究所雑誌』363・364号、1989年2月3月合併号、「創立70周年・合併40周年記念特集 大原社会問題研究所の歴史と現状」所収。文責:二村一夫。




法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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