二村一夫《随筆集》 『さまざまな出会い』 |
「向坂文庫」について二 村 一 夫1 はじめに1985年7月、大原社会問題研究所は、故向坂逸郎氏が生涯をかけて収集された7万冊の図書・資料を、ゆき夫人から寄贈された。じっさいに本が向坂家から大原社研の書庫に移ったのは翌86年3月、研究所の多摩校地への移転と同時である。その後4年間、いまでは図書の仮目録ができ、雑誌や新聞についてもその内容が明らかになりつつある。まだ資料類には手がついておらず、文庫の全容を示すという段階にはないが、図書を中心にその内容を紹介したい。 2 向坂逸郎氏のこと この膨大な図書を収集された向坂逸郎氏は、マルクス経済学者として数多くの業績をあげると同時に、戦前から「労農派」を代表する理論家として論壇で活躍された。戦後も、旺盛な文筆活動とともに、日本社会党左派の理論研究集団である社会主義協会の指導者として、広く知られた方である。いまさら紹介の要はないとも思うが、すでに逝去されて5年がたつので、若い読者のため、その略歴をしるしておこう。
ところで、氏は酒も飲まずタバコもすわず──ただし、蜂蜜一瓶をいっきに空にしたり、ソウメンに砂糖をかけて食べるほどの甘党であったが──、ひたすらマルクス主義の研究と普及にその生涯をささげ倦むことがなかった。しかし、このひたむきで勤勉な「一徹居士」にも「道楽」があった。本の収集がそれである。なにしろ中学一年で古本屋に借金をつくったというから、年季のはいった「道楽」である。それに磨きがかかったのがドイツ留学で、折からの円高マルク安もあり、さらにはマルクス主義関係の図書や雑誌が大量に出回ったこともあって、そのエネルギーと時間と留学費用のかなりを本の収集につぎこんだ。屋台の本屋で第一インターの規約を発見して、親しくしていた古本屋のシュトライザントから「日本で大学教授になるよりベルリンで古本屋になった方がいい」と言われるほどであったという。帰国後も、シュトライザントとの取り引きはつづき、国内でも古本屋まわりはかかさなかった。また、出版社や友人・弟子たちから贈られた書物や資料は絶対に捨てず、捨てさせなかった。向坂文庫は、こうした歳月の積み重ねによってできあがったのである。 3 文庫の内容 文庫の特徴は、なによりも7万冊というその大きさにある。ただしこの冊数は、雑誌1号分も1冊と数えてのもので、図書だけだと和書が約2万1千冊、洋書が約1万冊である。いずれにしても、一個人の蔵書としては空前の規模といってよいのではないか。絶後かどうかは未来のことで確言の限りでないが、これを越えるのは容易ではなかろう。
洋書はドイツ語の本が圧倒的でおそらく9割を越えるであろう。残りの多くは英語の本である。和書が幅広く集められているのにくらべると、洋書はテーマをしぼって収集されている。いうまでもなくマルクス主義を中心にした社会科学書が圧倒的に多く、5807冊と全体の57パーセントを占めている。つぎは歴史書で1966冊19パーセント余、哲学宗教書が843冊、文学書561冊などである。
「私の蔵書のドイツ書の大部分は、第一次世界大戦後に、かの地の大規模なインフレーション時代に買ったものである」と向坂氏は『読書は喜び』の中で書いている。しかし数でみると戦後の本もけっこう多い。1920年代刊行書につぐ洋書のピークは1950年代で1452冊、15パーセントである。ついで60年代の1254冊、70年代1068冊の順である。ただし、このような冊数になるのは、戦前にくらべマルクス・エンゲルスはじめレーニン、スターリン、ウルブリヒト、ホーネッカーなどの全集や著作集が多いためでもある。 〔和書〕 洋書とちがい、和書の収集範囲はずっと幅が広い。最も多いのは、もちろんマルクス主義を中心にした社会科学書で、6682冊と全体の3分の1を占め、だんぜん他をひきはなしている。しかし文学も4331冊と2割を越えている。愛読した夏目漱石、森鴎外、徳田秋声、島崎藤村、ゲーテ、トルストイをはじめ内外の主要な作家の全集、著作集がよく揃っている。次いで歴史の2987冊で、明治維新以降を重点に、史料集がかなりの比重を占める。
和書にも稀覯書に属するものが少なくない。とりわけ明治期に刊行された経済学や社会主義関係の本、たとえばグラハム『新旧社会主義』、福井準造『近世社会主義』、あるいは民友社や平民社の叢書など、今となっては入手困難なものばかりである。 〔堺利彦旧蔵書〕向坂文庫中には、もうひとつ特筆すべきコレクションがある。日露戦争反対の運動で知られた平民社の創設者、堺利彦の旧蔵書である。これは堺の死後、向坂氏が一括して引き取られたもので、その中には、図書だけでなく堺利彦の研究ノートや、片山潜の未発表草稿「在露三年」などかけがえのない資料も含まれている。図書も堺が獄中で読んだ英文の『資本論』や幸徳秋水の旧蔵書など、初期社会主義運動の息吹がつたわるものばかりである。しかし、すでに紙数もつきたので、これについては別の機会に紹介することにしよう。 なお、このように膨大なコレクションの内容が比較的はやく把握できたのは、寄贈を受けた時点ですでに向坂氏の門下生によってカード目録が作成されていたからである。洋書については近江谷左馬之介氏、和書については和気誠氏を中心に社会主義協会の方々が作成されたものである。これをもとにコンピュータに入力したおかげで、昔では考えられない短期間で仮目録が出来上がった。この機会にお礼申し上げたい。
初出は『法政』No.404 1990年2・3月合併号。 |
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