トップページに戻る  

随筆集 『さまざまな出会い』


追悼 隅谷三喜男先生、山住正己さん

  今日で3月も終わになります。〔この文章は2003年3月31日、《編集雑記》8に書いたものです〕今月は、2月に亡くなられたお二人の方とのお別れの会がありました。隅谷三喜男先生の告別式は氷雨降りしきる3月1日、先生がかつて学長をつとめられた東京女子大学の講堂で、〈山住正己先生とお別れする会〉は3月23日に日本教育会館一橋ホールで開かれ、どちらも心にしみ入る思いの集まりでした。
  隅谷先生の告別式はキリスト教式の葬儀、山住さんの「お別れする会」は告別の辞とともに「歌で送る」会というように、形式は違いましたが、どちらもお二人が優れた専門研究者であると同時に、種々の社会的活動に献身的に取り組んでこられた事実を反映してさまざまな分野の500人をこえる方々が参加され、告別の言葉もおざなりでなく、真情あふれるものばかりだったことが印象的でした。

 隅谷三喜男先生の告別式では韓国翰林大学校日本研究所の池明観所長、中国社会科学院の李薇さんが切々たる別れの言葉を述べられ、先生が東方学術交流協会会長、アジアキリスト教教育基金会会長といったお仕事を通じ、アジアの人びとと深く心を通わせてこられた事実を再認識させられました。
  会場でいただいた優子夫人のご挨拶状の一節に「私にとっては、聖書が着物を着て歩いていたような人でした」とあるように、敬虔なクリスチャンで、神のほかには恐れる者をもたず、世俗の権威や世評に屈しない信念の方でした。16年前に癌の告知を受けられた後にも、成田空港問題調査団議長をはじめ多くの役職の委嘱をためらうことなく引き受け、全力でこれらに取り組んでこられました。数年前、友人の中西洋が雑談のなかで「隅谷先生は年を追うごとに大きくなられた」という趣旨のことを言ったことがありますが、私もまったく同感でした。

 〈山住先生とお別れする会〉では、ゼミの報告中や教授会の討議の最中に居眠りしながら、最後には全部聞いていたようにコメントされる達人だったこと、お酒を酌み交わして談論風発する座を好まれたことなど、気さくな人柄が紹介されました。また、作曲家の林光さんが中心になってつくられた「国歌を考える会」主催の〈国について 歌について〉と題する列島縦断コンサートで、〈子どもの歌でつづる日本の近代史〉の構成とお話しを担当しただけでなく、「湖畔の宿」の替え歌を大いに楽しんで歌った、積極的な行動の人だったことも紹介されました。ちなみに、岩波新書の『子どもの歌を語る』は、この時の話がもとになって出来た本です。
  〈お別れする会〉では、この他にもシンガーソングラーターの横井久美子さんがギターを弾きながらの追悼の歌、作曲家・林光さんのピアノ演奏、こんにゃく座や音楽教育の会のコーラス、全員合唱の「ふるさと」など、日本のこどもの歌の歴史の先駆的な研究者であった山住さんにふさわしい会でした。
 隅谷夫人は、最後のごあいさつで「隅谷も、こんなに褒めて貰えるなんて、葬式もいいもんだなと言っているに違いない」とおっしゃいました。おそらく、山住さんも「君らだけで歌ってないで、僕にも歌わせろよ」と言っていらしたことでしょう。

  私が隅谷三喜男先生の名を印象づけられたのは、『日本賃労働史論』(1955年、東京大学出版会)の著者としてでした。この本はそれまで全く知られていなかった史料を発掘された上で書き上げられた日本労働史のパイオニアとしての記念碑的な労作です。これを読んで、それまで続けてきた日本労働史研究を断念し、他の分野に転進した研究者が出たほどインパクトのある作品でした。私もこれを乗り越えることを課題のひとつとして来ました。その後、社会政策学会でしばしばご一緒することになり、さらには先生の事実上の還暦記念論文集の1冊となる『日本労使関係史論』(1977年、東京大学出版会)を準備する研究会で直接お教えをうける機会がありました。また、アメリカでも、カリフォルニア大学バークレー校で先生が報告される研究会に出席し、奥様ともおめにかかる機会がありました。また、拙著『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』が日本労働協会の〈第12回労働関係図書優秀賞〉を受賞した際には、先生が審査委員長でした。
  先生の研究分野は幅広く、日本社会とキリスト教を中心とする社会思想史、労働経済論、石炭産業を中心とする産業論、韓国の経済などなど、多数の作品を残されています。その全容は、岩波書店から刊行される『隅谷三喜男著作集』全9巻で知ることが出来ると思います。刊行開始を目前にしての訃報でした。さぞ心残りだったことでしょう。
 私が専門とする労働史研究の分野では『日本賃労働史論』のほかにも『日本賃労働の史的研究』『日本労働運動史』などを執筆されています。しかしそれらより大きな業績と言ってよいのは、さまざまな史料の発掘紹介だったと思います。なかでも《労働運動史料委員会》の中心として、『日本労働運動史料』(全10巻、ただし第4〜6巻は未刊)を編集刊行されたことは、日本の労働史、いや労働問題研究全体にとって、どれほど大きな意味をもったか分かりません。隅谷先生が直接担当されたのは第1巻から第3巻、それに労働組合期成会機関紙ともいうべき『労働世界』でした。これらがななければ、兵藤釗、池田信氏らの労働史研究の古典的な仕事はありえなかったと思われます。もちろん私も、こうした隅谷先生のお仕事の恩恵を受けたひとりです。

  山住正己さんは、大学時代のコーラスの仲間です。どこで初めてお目にかかったのか、はっきりした記憶はありませんが、1953年中だったことは確かですから、半世紀近い知己です。山住さんは教育専門課程の大学院生、私は教養学部の学生でした。東京大学は教養課程と専門課程が駒場と本郷とに分かれていますから、すぐ上の学年とすぐ下の学年の学生とは知り合いになりますが、それを超えるとあまり接する機会がありません。まして学部の違う大学院生の先輩と知り合う機会はほとんどないのですが、山住さんや金子ハルオ氏など合唱団の仲間は例外でした。
  その後、お会いしたのは、音感の同窓会や忘年会など機会は限られていましたが、ご著書『子どもの歌を語る ─ 唱歌と童謡』(岩波新書、1994年)を贈ってくださったり、1995年に『新版 社会労働運動大年表』を刊行した際には、推薦の辞を執筆してくださり、過分に褒めていただきました。家人が美津子夫人やお嬢さまの患者であるため、昨秋のうちに山住さんが癌に罹られたことを知り、回復を祈っていたのですが、思いがけない早さで旅立たれてしまいました。

 3月24日の『朝日新聞』夕刊には、このお二人に対する惜別の記事が並びましたが、ともに素敵な笑顔の写真が付されていました。

〔2003.3.31 記〕





総目次          エッセイ集目次

更新履歴            著者紹介

法政大学大原研究所          社会政策学会          先頭へ



Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org