随筆集 『さまざまな出会い』追悼 隅谷三喜男先生、山住正己さん
今日で3月も終わになります。〔この文章は2003年3月31日、《編集雑記》8に書いたものです〕今月は、2月に亡くなられたお二人の方とのお別れの会がありました。隅谷三喜男先生の告別式は氷雨降りしきる3月1日、先生がかつて学長をつとめられた東京女子大学の講堂で、〈山住正己先生とお別れする会〉は3月23日に日本教育会館一橋ホールで開かれ、どちらも心にしみ入る思いの集まりでした。
隅谷三喜男先生の告別式では韓国翰林大学校日本研究所の池明観所長、中国社会科学院の李薇さんが切々たる別れの言葉を述べられ、先生が東方学術交流協会会長、アジアキリスト教教育基金会会長といったお仕事を通じ、アジアの人びとと深く心を通わせてこられた事実を再認識させられました。
〈山住先生とお別れする会〉では、ゼミの報告中や教授会の討議の最中に居眠りしながら、最後には全部聞いていたようにコメントされる達人だったこと、お酒を酌み交わして談論風発する座を好まれたことなど、気さくな人柄が紹介されました。また、作曲家の林光さんが中心になってつくられた「国歌を考える会」主催の〈国について 歌について〉と題する列島縦断コンサートで、〈子どもの歌でつづる日本の近代史〉の構成とお話しを担当しただけでなく、「湖畔の宿」の替え歌を大いに楽しんで歌った、積極的な行動の人だったことも紹介されました。ちなみに、岩波新書の『子どもの歌を語る』は、この時の話がもとになって出来た本です。
私が隅谷三喜男先生の名を印象づけられたのは、『日本賃労働史論』(1955年、東京大学出版会)の著者としてでした。この本はそれまで全く知られていなかった史料を発掘された上で書き上げられた日本労働史のパイオニアとしての記念碑的な労作です。これを読んで、それまで続けてきた日本労働史研究を断念し、他の分野に転進した研究者が出たほどインパクトのある作品でした。私もこれを乗り越えることを課題のひとつとして来ました。その後、社会政策学会でしばしばご一緒することになり、さらには先生の事実上の還暦記念論文集の1冊となる『日本労使関係史論』(1977年、東京大学出版会)を準備する研究会で直接お教えをうける機会がありました。また、アメリカでも、カリフォルニア大学バークレー校で先生が報告される研究会に出席し、奥様ともおめにかかる機会がありました。また、拙著『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』が日本労働協会の〈第12回労働関係図書優秀賞〉を受賞した際には、先生が審査委員長でした。
山住正己さんは、大学時代のコーラスの仲間です。どこで初めてお目にかかったのか、はっきりした記憶はありませんが、1953年中だったことは確かですから、半世紀近い知己です。山住さんは教育専門課程の大学院生、私は教養学部の学生でした。東京大学は教養課程と専門課程が駒場と本郷とに分かれていますから、すぐ上の学年とすぐ下の学年の学生とは知り合いになりますが、それを超えるとあまり接する機会がありません。まして学部の違う大学院生の先輩と知り合う機会はほとんどないのですが、山住さんや金子ハルオ氏など合唱団の仲間は例外でした。 3月24日の『朝日新聞』夕刊には、このお二人に対する惜別の記事が並びましたが、ともに素敵な笑顔の写真が付されていました。 〔2003.3.31 記〕 |
|