誕生日のこと
さきほど「捜査報告書」などと変なことを書きましたが、実は彼の生年月日について、さっそく捜査しなければならない点があります。それは房太郎の生年の西暦による表記です。教科書や人名辞典をふくめ多くの書物は「一八六八年」としています。しかしこれは、当時まだ日本では太陰暦が使われていたことを見落としたための初歩的なミスで、西暦なら「一八六九年」なのです。私は、このことをすでに何回も言っているので、またかと思われる方もおられるでしょう。でも、生年月日は伝記の基本の基本ですし、誤った記述がいっこうにあとを絶たないので、あらためて強調しておきたいと思います。つまり西暦一八六八年は、慶応三年十二月七日に始まり明治元年十一月一八日で終わります。房太郎の誕生日は、旧暦明治元年十一月二四日ですから、西暦なら一八六九年一月六日となるのです。
もうひとつの問題は、生まれ月です。私たちが、房太郎の生涯、とくに生い立ちについて知ることができる確かな材料を残してくれたのは、彼の実弟・高野岩三郎です。岩三郎は、かねてから志半ばに夭折した兄の伝記を書く望みをもっていましたが、実際にその全生涯について書き残したものとしては、『大日本人名辞書』(1)の高野房太郎の項目があるだけです。そこでは房太郎の誕生日を、明治元年一二月二四日としているのです。なぜ、私がこの岩三郎の記述にしたがわず、十一月二四日誕生としたかといえば、それは、高野房太郎が戸主となった頃から、数年間の高野家の重要事項を記した『要用簿』(2)では、房太郎の生まれ月を十一月としているからです。『大日本人名辞書』の記載よりもこちらを選んだ根拠は、岩三郎が旧暦十一月を新暦に換算する便法として一ヵ月遅れを使ったに違いないと考えたからです。
ご承知のように太陽暦採用後の日本人は、陰暦時代の年中行事を陰暦そのものによらず、便宜的に一ヵ月遅れで開くことが少なくありません。「月遅れのお盆」がその一例ですが、旧暦の日付をそのまま新暦にもって来たのでは季節感がまるで違ってしまう、とはいえ年ごとに変動する旧暦そのままでも不便だ、ということで生まれた慣習でしょう。
岩三郎自身がまだ旧暦時代の明治四年の生まれでしたから、旧暦そのままの月日を新暦に使うと、実際の生年月日と大きく違ってしまうことを良く知っていました。実は、高野岩三郎の戸籍上の誕生日は明治四年九月二日ですが、彼の履歴書には生年月日を明治四年八月二日としたものが残っています。また鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』の巻末「年譜」も明治四年八月二日誕生説です。この食い違いは、岩三郎の本当の誕生日は旧暦の明治四年八月二日だったのに、戸籍上では便宜的に一ヵ月遅れにしたと考えるほかありません(3)。
念のため、さらに付け加えておけば、かりに房太郎の誕生月に関する『要用簿』の記載が誤りで、『人名辞書』の一二月二四日が正しかったとしても、生年は間違いなく一八六九年です。
ところで、旧暦=太陰太陽暦から新暦=太陽暦への切り替え問題を調べていて新発見をしました。なんと明治五年は十一月が三十一日まであったのです。このことは、奇人宮武外骨が『明治奇聞』のなかで、「明治五年には十二月なし」として紹介しています(4)。すなわち明治五年十一月九日の太政官布告は、太陰暦を廃止して太陽暦とすることを決め、旧暦明治五年の十二月三日を新暦の明治六年一月一日とすることを宣言しました。ですから、本来なら明治五年十二月には一日と二日が残った筈なのですが、これでは「たった両日でも、十二月という月があることにすると、明治新政府の役人たる月給取り全体へ一ヶ月分の給料を払い渡さねばならぬので、それに驚いて」、十一月二十三日の太政官布告で「今般、改暦については、本年十二月朔日二日の両日を、今十一月三十日三十一日と定む」と宣言したというのです。外骨は「一年が十一ヶ月であったということは、日本開暦以来未曾有の珍事である」と論じています。ただ、元号を使うかぎり、ある年が十二ヵ月に満たないことはありうることで、けっして「未曾有の珍事」ではありません。しかし、十一月が三十一日まであるのは明治五年だけで、文字どおり空前絶後でしょう。
日月火水木金土の七曜を取り入れ、土曜は半日休日=半ドン、日曜日を休みとする制度が始まったのもこの時でした。もっと大きな変化は時間制度でしょう。一日を均等に二十四時間に分割する定時法が取り入れられたのも明治六年一月一日だったのです。それまでは、日の出前の明るくなりかけの時と日の入り後のまだうす明るい時を基準とし、その間を昼夜六等分して
ところで、この暦法の変更が宣言されたのは明治五年十一月二三日ですが、これは新暦でいえば一八七二年一二月九日です。つまり、月日や時間という人びとの日常生活を律するもっとも基本的な仕組みが、予告期間わずか三週間で変更されてしまったのでした。もちろん、人びとがすぐこれを受け入れたわけではありません。しかし明治維新は、長い歴史をもつ生活慣行を一片の布告によって激変させる社会革命、文化革命、生活革命でもあったのです。高野兄弟は〈明治の子〉として、政治的、経済的な激動と同時に、こうした社会・文化・生活面における激変のただ中で幼年期を過ごしたのでした。彼らはまさに〈文明開化の子〉だったのです。
【注】
(1) 『大日本人名辞書』は田口卯吉の編集により一八八六(明治一九)年に初版が刊行され、以後五十年余にわたって改訂が重ねられた貴重な仕事です。最終は一九三七(昭和一二)年の第十一版です。高野房太郎の項目は一九二六(大正一五)年六月に大日本人名辞書刊行会編として世に送られた『新版大日本人名辞書』以降に収録されています。この項目の筆者名は記されていませんがこれが高野岩三郎の執筆であることは、「高野岩三郎日記」の一九一五年八月三日の項に「人名辞彙ニ掲スベキ亡兄ノ略伝ヲ起草シ之ヲ終ル」とあることから明らかです。現在、『大日本人名辞書』は講談社学術文庫で復刻されており、高野房太郎の項は第2分冊の一四九三─一四九四ページにあります。また、鈴木鴻一郎編、高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局刊、一九六一年)にも再録されています(二九一─二九二ページ)。
ただし、その記述にはやや不正確な点が散見されます。そこで、以下に『大日本人名辞書』をもとに全文を記し、明らかな誤りについては〔 〕内に注記しておきたいと思います。なお原文では句読点がほとんど付されていませんが、読みやすさを考え適宜おぎなってあります。
「高野房太郎 我国労働運動の先駆者、長崎の人。明治元年十二月〔十一月〕二十四日長崎市銀屋町高野仙吉の長男として生る。法学博士高野岩三郎の兄なり。十年父母に伴はれて東京に移る。横浜に汽船回漕業を営める叔父〔伯父〕高野彌三郎の招きに応じ、父は其の生業たりし裁縫業を抛ち、東京神田久右衛門町〔移転当時の町名は橋本町、のち久右衛門町に町名変更〕に於て回漕業兼旅宿業を経営することとなりたるにより〔よる〕。十二年父死亡の後も叔父〔伯父〕の保護の下に母の主宰に依て営業継続せられしが、十四年神田の大火災に会い家屋焼尽、依って日本橋浪花町に移り引続き営業す。その間神田〔日本橋〕千代田小学校及び本所江東小学校に学び小学の課程を全部終了、直ちに横浜に赴き叔父〔伯父〕の店に勤め、傍ら横浜市立商業学校〔横浜商法学校別科〕に学ぶ。十八年叔父〔十九年、伯父〕没するや、十九年志を立てて米国桑港に渡航し、小雑貨店を開き余暇を以て桑港市立商業学校に入学〔雑貨店の経営中に商業学校に通ったのではなく、入学は一八九一(明治二四)年一月のことで、翌年一月に卒業している〕其の課程を終る。雑貨店は幾くもなく閉鎖し、其の後は専ら諸種の労務に従事し、其の得る所を以て故国の母弟の生計及び学資に充て、傍ら主として経済学の独学自習に励む。二十九年春〔六月〕帰朝、横浜日刊英字新聞ジャパン・アドバタイザー記者〔翻訳記者〕となる。高野岩三郎〔および山崎要七郎〕共著の袖珍和英辞典(大倉書店発行)を編纂せるは此の時代にあり。同年六月〔十二月〕同社を辞し、片山潜其の他の諸氏と謀り労働組合期成会を起し、口に筆にまた東奔西走、身心を挙げて労働運動殊に労働組合の促進に努力す。同会機関紙『労働世界』に執筆したるもの多し。またこの頃アメリカ労働聯合会の機関紙〔機関誌〕アメリカン・フェデレーショニストの為めに日本の労働者状態または労働運動に関して論文を寄せたること少なからず。三十二年秋労働者的消費組合たる共営社を京橋八丁堀に起し後また之を横浜において営む〔これは順序が逆で、三一年暮に横浜共営合資会社をおこし、三二年に八丁堀で共営社を経営している〕。然るに期成会並に共営社の事業共に漸く衰運に向いしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪、遂に三十七年三月十二日山東省青島の独逸病院において肝臓膿腫の為めに斃る、時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り本郷駒込吉祥寺に葬る。日清戦争当時、未だ一般に労働運動の何たるかを解せられざるの際に於いて率先之に当り、特に組合組織に尽せる如き、本邦労働運動史上没すべからざる先駆者の一人なりとす。」
(2) 『要用簿』は表紙には「明治十三年初冬 要用簿」、裏表紙には「高野氏秘蔵」と記されている。用紙は和罫紙で、折り目に横浜境町 カネ吉 糸彌と印刷されており、伯父弥三郎が作らせた用箋である。おそらく仙吉の死にともない、後見人となった母ますが作成したものであろう。ただし、ますは漢字の読み書きができなかったから(岩三郎から母への手紙はひらがなだけで書かれている)、番頭などに書かせたものと思われる。内容は区役所などへの各種届け出や戸籍の写しなどである。
(3) 大島清『高野岩三郎伝』をはじめ多くの文献で、高野岩三郎の生年月日は一八七一(明治四)年九月二日となっている。しかし私は、明治四年八月二日、つまり西暦でいえば一八七一年九月一六日だと考えている。
(4)
宮武外骨『明治奇聞』河出文庫、一九九七年、八四ページ。
(5)
不定時法、それに太陰太陽暦、つまり一ヵ月の長さは月の満ち欠けで決め、一年の長さは太陽の運行で決めた暦法については、石川英輔『大江戸生活事情』(講談社文庫、一九九七年)が分かりやすく説明している(同書)。