二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(三)

生い立ち──長崎時代

高野家の人びと

 これまで房太郎と呼んできましたが、実は一〇歳までは高野久太郎でした。まだ幼名などというものが使われていたのです。ただ不要な混乱をさけるため、本書ではすべて房太郎で通すことにします。母ますと房太郎・岩三郎 両親は、父が高野仙吉、母がマス、房太郎はその名が示すように長男でした。もっともこれは戸籍上のことで、高野家には房太郎より年上の男の子がいたようです。これについては後でふれることにします。

高野家は、代々和服の仕立てを家業にしていました。岩三郎は家業を「和服裁縫師」と言っていますが、維新までは(かみしも)など武士の衣服を作っており、職人や弟子もおいて盛大に営業していたそうです。祖父の岩吉(いわきち)は帯刀を許されていたといいますから、長崎奉行所・長崎代官所・長崎会所の御用職人で、おそらく町役人の一人だったと思われます。*1銀屋町の土地と家のほか山林や畑なども所有しており、かなりの資産家だったようです。この点についてもまた後でふれます。
 家族は両親のほか、父方の祖母カネ、姉キワ(貴和)の五人です。祖父は房太郎が生まれる前々年に世を去っていました。また三年たらず後には、弟の岩三郎(いわさぶろう)が生まれます。この岩三郎こそ、後年、大原社会問題研究所の初代所長となり、私にこの房太郎伝を書かせるきっかけをつくった人物です。 高野仙吉肖像(矢崎千代二画)

 父の仙吉は、一八四〇(天保一一)年か一八四五(弘化二)年の生まれです。一八四〇年説は仙吉が明治一二年八月に三九歳で亡くなっているという岩三郎の回想*2から逆算したものですが、果たして正確かどうか疑問です。それは同じ回想記で、岩三郎は「三十七歳の若さで未亡人となった母」と述べているのですが、戸籍簿の生年からみてマスが未亡人となったのは三十二歳の時だったことが明らかだからです。岩三郎が父母の年の差を間違えることは、まずないでしょう。とすれば、仙吉の享年は満三十四歳、それから逆算した生年は一八四五(弘化二)年になります。もっとも、仙吉のすぐ上の兄彌三郎は一八三七、八年頃の生まれですから、それから考えると一八四〇年生まれでもおかしくはありません。ただ姉たちの存在を考え、房太郎の生まれた年なども考えると、私は、一八四五年の可能性が高いと思っています。決め手には欠けますが、ここでは一八四五年説をとって話を進めることにします。
 仙吉は、代々の家業を継いでいるのですが、今も述べたように岩吉の長男ではなく、男四人女五人の九人兄弟の四番目、つまり男としては末っ子でした。高野家には末子相続の慣行でもあったのかとも思いましたが、仙吉の後を房太郎が継いでいますから、まずそれはないでしょう。開国から維新の激動期に、兄たちが家業をすてて長崎を離れたため、最後に残った仙吉が家を継がざるをえなかったものと推測されます。仙吉についてわれわれが知るところは、彼が早く亡くなったせいもあって、あまり多くありません。岩三郎が、「祖父の業をついだが、体が弱々しくて卅九歳で死んでしまった」*3と回想している程度です。あと写真とそれをもとに描いた絵が各一枚残っていますが、どことなく影が薄い感じがするのは気のせいでしょうか。

母ます

 一方、母のマス(「ま寿」、あるいは「満す」も使われている*4)は、弘化四(一八四七)年二月一七日に、同じ長崎の八坂町で山市安平、同ヤスの長女として生まれています。ところで、いま私の手許に高野家の戸籍謄本が二種ありますが、そのひとつ、大阪市天王寺伶人町を本籍とするものでは、彼女の生地を「長野県八坂町」と記しています。これは戸籍係が記入の際に書き間違えたもので、正しくは長崎の八坂町です。マスのことを、岩三郎は「米小売商人の娘」で、「健康無比かつ男勝りの婦人であった」*5、「教育はあまりなかった。しかし仏教の禅宗の信仰を強く抱いてゐた。が、子供には決してそれを強いやうとはしなかったし、私供も既成宗教に捉はれる事がなくしてすんだ。又信仰と結びついて信念を持ってゐた。それは人間は正直でさえあればいい、至誠は天に通じるという信念であった」*5と回想しています。大内兵衞もまた、「たいへんな女丈夫で学生の世話をお好きであった」*6と述べています。一九三六(昭和一一)年三月二六日に亡くなっていますから、享年八九歳、その当時とすればたいへんな長寿でした。姉のキワについては、また後でふれることになりますが、母に似て勝ち気な働き者だったといいます。

 しかし、これだけでは、なかなか高野家の人びとに共通する個性といったものは浮かび上がってきません。ただ、房太郎の伯父たちの生き方をみると、彼のその後に関わる高野家の特徴、高野一族に共通する性格が多少は明らかになるように思われます。もっとも、仙吉の九人の兄弟姉妹のうち、いま名前と経歴が分かっているのは二人だけです。仙吉より一二歳あまり年長の亀右衛門と、七歳年上の彌三郎です。おそらく亀右衛門が長男、彌三郎は三男、仙吉のすぐ上の兄だと思われます。すでに述べたように、上の兄二人ともが家業を継がず、ともに開港したばかりの横浜*8に出て、はじめは貿易業を、最終的には宿屋兼回漕店を営んで、かなりの成功をおさめています。この二人は、房太郎の生涯にも大きな影響を与えましたから、また後でもふれることになります。ここでは、この伯父たちが代々の家業を捨てて、横浜で新事業に乗り出していた事実の意味するところを考えておきたいと思います。

 そのひとつは、亀右衛門と彌三郎の行動が示しているのは、二人の先見性と進取の気性です。いかに開国という新たな条件があったにせよ、代々の家業を継がず、遠く離れた横浜で新たな事業に乗り出した二人は、時代の先き行きを見る目があり、決断力もある、積極的な性格の持ち主であったに違いありません。そうした気性は房太郎にも受け継がれていたのではないでしょうか。また、息子たちだけでなく、父の岩吉が彼らの決断に同意していたであろうことも見逃してはならないでしょう。幕末・維新期のことですから、家長である岩吉の同意がなければ、息子たちは無一文で家を出るしかなく、それでは横浜で新事業を始めることは無理だったでしょう。さらにまた、家を出た二人の兄弟が、同じ横浜で同じ回漕業兼旅館業でありながら、それぞれが亀右衛門は高野屋、彌三郎は糸屋と別個の屋号をもち、それぞれが独立経営を行っていた事実も注目に価します。それは、高野家に、各人の自立性を認める空気が強かったことをうかがわせるからです。
 もうひとつ付け加えれば、亀右衛門と彌三郎が、まったく経験したことのない新たな事業に乗りだし、しかもそれなりの成功をおさめていたことは、単に進取の気性に富んでいただけでなく、それなりの知識・教養を身につけていたであろうことを推測させます。長崎という土地柄もあったのでしょうが、高野家の人びとは知識の習得に熱心だったと思われます。彼らは、開国後の横浜に関する情報を入手し、そこでの商売上のチャンスについて判断し行動するだけの力をもっていたのです。最低限、二人とも読み書きそろばんは出来たに違いありません。もし、家業の仕立て職の訓練だけを受けていたのでは、とても回漕業や旅館業の経営はできなかったでしょう。高野房太郎・岩三郎の兄弟が、学問的な関心が強かったことの背景には、こうした高野家の家風があったのではないでしょうか。

 もうひとつ、亀右衛門と彌三郎の行動は、高野家がそうとうな資産家だったに違いないことを推測させます。二人が長崎から遠く横浜まで移り住み、それぞれ新たな事業を営んで成功したのには、それなりの資金があったからでしょう。亀右衛門は横浜弁天通二丁目四一番地、彌三郎は境町一丁目二六番地という、当時の横浜でも一等地中の一等地で、旅館を営んでいたのです。境町は県庁に隣接し、日本大通りに面した町で、外国商館や波止場も近く、その住人たちは主として貿易商でした。亀右衛門が営業していた弁天通りも当時の横浜の目抜き通りで、しかも亀右衛門宅は二丁目と三丁目の境にある角地です。そうした土地を借りるだけでもかなりの資金を必要としたに相違ありません。しかも『横浜町会所日記』*9の記述によれば、明治四年に高野彌三郎は一〇〇〇両もの金を借りていたのです。もっとも期限内にその金を返せず、したがってこの記録が残ったのですが。でも彌三郎はその後も営業を続け、一八八四(明治一七)年には境町を代表する町会議員になっていますから、借金は無事に返せたに違いありません。ついでに言うと、彌三郎は「絲彌」という屋号を使っています。宿屋としてはちょっと不自然な屋号です。おそらく彌三郎には生糸取引をしていた時期があり、その頃つけたものだと思われます。一〇〇〇両の借金(立替金)も、おそらくそうした取引上で発生したものだったに違いありません。さらに言えば、岩吉にはこの他にも七人の子がいたわけです。そうした数多くの子供を一人前にするにもかなりの費用がかかったはずです。すぐ後に述べるように、仙吉一家は間もなく上京しますが、その際も銀屋町の家も山林も処分せず長崎に残しています。高野家がかなりの資産家だったに違いないと推測するのは、以上のような点からです。

 さて、高野家の人びとの最後に、ひとりの謎の人物についてふれておきたいと思います。誰でも疑問を感ずるところだと思いますが、房太郎と岩三郎という名前から推して、高野家にはもう一人男の子がいたのではないか、ということです。実は、それらしい人物がいます。それはすでに紹介した『要用簿』のなかの戸籍に関する記録で、附籍として高野長二郎(長次郎とも書かれている)の名があるのです。岩三郎が次男であるのに〈三郎〉となった理由は、この人物の存在と関連があると推測されます。ただし、この人物を房太郎と岩三郎の間に生まれた兄弟とみるのは早計です。それは彼が高野家の正式な一員ではなく、附籍というかたちをとり、続柄も山崎末五郎弟となっているのです。さらに問題となるのは、この長二郎の年齢です。房太郎より一〇歳近く年上なのです。つまり長二郎の生年月は安政六(一八五九)年三月と記されているからです。なお、高野長二郎はいつのことか仙吉の長兄・高野亀右衛門の養子となったのですが、亀右衛門の死後に離縁になって高野房太郎を戸主とする戸籍に附籍として入籍し、さらに明治一七年一二月に函館に移っています〔要用簿〕。函館も開港場のひとつであり、ことによると、ここに仙吉の次兄がいたのではないかと想像されます。

 なお、大島清先生が岩三郎の長女で宇野弘蔵夫人のマリアさんから聞いた話のメモに、「房太郎と岩三郎の間に子供がいたが、伯父の家へ養子にやった」とあります。それはおそらくこの人のことでしょう。しかし、長二郎をめぐる謎はまだいくつか残ります。房太郎より先に生まれているのに長二郎となったのはなぜか。また、附籍となっているのはなぜか、などです。いずれにしても、長二郎がますの子でないことは、二人の年の差からみて確実です。あるいは実際は房太郎らの異母兄だったのかもしれません。しかしこれも、仙吉の享年が岩三郎の言うように三九歳だったのであればその可能性はありますが、さきほど推定したように三四歳で亡くなったとすると、一四歳の時の子供ということになってしまいます。山崎末五郎は岩吉の子でだったようですから、おそらく高野長二郎も岩吉が外に生ませた子供、つまり仙吉の異母弟だったのではないでしょうか。あれこれ書きましたが、長二郎はいぜんとして謎の人物です。



【注】



*1 高野岩吉が帯刀を許され、武士の裃を作っていたことは、大島清氏による原田美代さんからの聞き取りメモに記されている。1964年11月2日、芦屋市松の内町の原田昌平氏方における聞き取りによる。

*2  「囚われたる民衆」(初出は『新生』第二巻第二号、一九四五年一二月、前掲『かっぱの屁』、四〇ページ)。

*3  「兄高野房太郎を語る」(『明日』一九三七年一〇月号、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一四五号、一九六八年一〇月に再録)

*4  この時代の女性は、決まった漢字表記の名前をもっていない場合が少なくない。戸籍制度が整備されていなかったこともあり、人びとは発音に合わせて、さまざまな文字を使うのが普通だった。たとえばキワは「貴和」あるいは「喜和」と記されている。また、漢字表記の際に「子」を加える例も少なくなかった。例えば〈キワ〉を「貴和子」と記したのである。

*5 「囚われたる民衆」(『かっぱの屁』四〇ページ)

*6 「兄高野房太郎を語る」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一四五号)、一六ページ。

*7 「社会政策学会と高野先生」(『かっぱの屁』二七ページ)

*8 横浜の開港は、一八五九年七月一日(安政六年六月二日)のことである。2人とも一八七〇(明治3)年には、それぞれ弁天通と境町で宿屋を営んでいることが、横浜開港資料館編『横浜町会日記』(横浜開港資料普及協会、一九九一年)の各所にある記録で確認できる。

*9 横浜開港資料館編『横浜町会日記』(横浜開港資料普及協会、一九九一年)六九〜七〇ページ、同九一ページにも関連記事)。




『高野房太郎とその時代』既刊分目次  続き(四)豊かな町・長崎

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