高野房太郎とその時代 (5)「自由奔放な性格」さて、房太郎は満9歳まで長崎に住んでいました。9歳といえば、小学校3年生ですから、いろいろ記憶に残ったこともある筈ですが、彼自身は生い立ちについて何も書き残していません。ですから、彼が長崎時代をどのようにして過ごしたのか、具体的なことは何も分かっていません。ただ、弟の岩三郎が「兄高野房太郎を語る」のなかで、次のように述べているのがいくらか手がかりになる程度です。 「幼年の時期は長崎市で暮したが、この長崎と云う町で育ったと云う事が、後年の兄の運動に大きな関係を持ったのであった。それと云うのが、長崎は天領で当時幕府の直轄であり、わりあいに自由の土地であった。幕府の役人と町人だけで、藩主がないのである。丁度ドイツのフリー・シティーと同じで自由闊達な気風の町であった。その上に貿易港で日常外国人を多く見る国際都市でもあり、この環境に影響されて、兄は自由奔放な性格に育って行った*1」。 まず、長崎が「日常的に外国人を多く見る国際都市」であったことは、あらためて言うまでもなく事実です。1882(明治15)年現在、長崎市在留外国人の数は829人でした。このうち、飛びぬけて多かったのは中国人で600余人、ついでイギリス人の90人余、フランス人33人、アメリカ人32人、その他にもオランダ、スイス、オーストリア、ロシアなどの各国人が長崎に住んでいました*2。在留者のほかにも、たえず外国船が入港していましたから、外国人を見かける機会は多かったでしょう。もちろん、小さな子供に、外国人と直接的で内容のある交流ができたとは思えません。しかし、他の地域の子にくらべれば、外国人との接触を毛嫌いしたり恐れたりすることなく、いつの日か自分の目で外国を見たいという気持ちを育てていったであろうことは十分考えられます。 また、天領が藩主のいる土地より「自由闊達な気風の町」であったことは、岩三郎の言うとおりだと思います。天領を支配したのは幕府に任命され、限られた期間だけ赴任していた奉行や代官です。彼らは在任中にトラブルを起こせばその後のキャリアに響きますから、時代劇の悪代官のような苛斂誅求は避けるのが普通でした。自領内の収入ですべてを賄なわなければならなかった藩主にくらべ、年貢の取り立てなども一般に緩やかだったといいます。とくに長崎は、海外貿易の利銀が町民にも配分されるほど豊かで、実際に町の運営に当たっていたのは地付きの町役人でしたから、他の天領とくらべても自主性が高かったに相違ありません。 しかし「自由闊達な気風の町」だったから「自由奔放な性格に育っていった」と言うのは、論理にやや飛躍があるのではないでしょうか。もっとも「自由闊達な気風の町」で育った人が抑圧的な体制に向き合った時に、これに強く反発するであろうことは予想されますが。むしろここで注目しておきたいのは、明治維新以降の四民平等を中心とする諸改革や〈文明開化〉の雰囲気のもと、町民自治の伝統をもつ長崎で育ったことは、房太郎に国家権力の抑圧的側面についての認識を鈍らせたのではないかということです。後年、労働組合運動を始めるとすぐ、警察による厳しい弾圧を受けることになりますが、彼はそうしたことを、事前にはほとんど予想していなかったように見えます。これは、おそらく長崎で育ったことと無関係ではないでしょう。小学校3年程度の子にそんな影響はないだろう、と言われるかもしれません。しかし、太平洋戦争中に小学生時代を過ごした私には、そう思えてならないのです。戦争中、子供たちの間で流行った言葉遊びに「六条焼けた」「七条焼けた」と交互に言い合って、最後に「九条(宮城)焼けた」を相手に言わせるものがありました。それを知った担任の教師が顔色を変え、生徒をひとりひとり職員室に呼びだして、誰が最初にその遊びを持ち込んだのか詰問したことがありました。あの日の体験はいまなお記憶に鮮明で、その後の私の天皇制や国家権力に対する〈皮膚感覚〉に影響を及ぼしたように思えてならないのです。 話が横にそれてしまいました。さきの岩三郎の回想で注目しておきたいのは、「兄は自由奔放な性格」だったという証言でしょう。弟から見ての印象ですが、おそらく周りの人びとも似たような受け止め方をしていたのだろうと思います。豊かな家の長男として、かなり自由に育てられたであろうことが察せられます。もっとも、子供をわがまま放題に育てるのは、一般に日本の育児に特徴的なことだと言います。キリスト教国では、人間は原罪を負った〈罪の子〉だと考えますから、子供は小さい時に厳しくしつけなければならないと考えるそうです。いわば、性悪説による子育てです。これに対し、日本では、赤子は雪のように汚れのない存在で、それが大きくなるにつれ次第に世の悪に染まっていくと考える傾向が一般的です。こうした宗教的・文化的な違いもあって、多くの外国人が日本の子育てに注目してきました。さまざまな日本滞在記が、この問題を取り上げています。 「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている。見ようによっては、むしろ溺愛しているともいえよう。
昔から日本は「泣く子と地頭には勝てない」国だったのです。おそらく房太郎も、こんな育てられ方をしたのでしょう。 房太郎……陽性、社交的。金遣いもよく人を集めるのが好き。貧乏しながら楽しんでいた。日本ではじめて自転車を買った等といわれた。 ただ、私の体験からちょっとコメントすると、兄弟の場合、実際にはよく似た性格でありながら、外にはまったく違って見えることがあります。実は私の弟は、学生時代に山で遭難死しました。同じ高校の出身だったので、私たちふたりを知る先生がおられ、追憶会で「兄とは違って」「優しい心の持ち主」で「社交的でもあった」などと言われたものでした。私は「確かにそうだ」と思う一方で、「違いもだが共通するところの方が多かったのにな」と、他の人とは違う感想を抱きました。素質は似ていても、育った環境、とりわけ人間関係によって性格の違いが生まれるというべきかもしれません。とくに弟の場合、兄を見習うと同時に、より強く反発しつつ自己形成する傾向があります。高野兄弟の場合も、兄が自由奔放であるのに対し弟は自分に厳しかったというのも、兄を反面教師として弟が自己を形成していったとみるべきではないでしょうか。つまり、見かけほどもちまえの性格には大きな違いはなく、かなり共通する側面ももっていたのではないか、と思うのです。岩三郎を「きびしく、寡黙、人をさける」性格だったというだけでは、あれほど多くの弟子に慕われる存在になった事実を理解できないと思うのです。いずれにせよ、房太郎・岩三郎兄弟の関係は、両者の人生を理解する上で重要な要因であり、今後も折にふれて検討する必要があるでしょう。 【注】*1 『明日』1937年10月号。法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.145、1968年10月に再録。 *2 長崎市小学校職員会編『明治維新以後の長崎』(1925年初版刊、復刻版、1973年、名著出版)刊行83ページ。なお、同年の長崎市の人口は約4万人弱であった。 *3 永田信利訳 カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』平凡社(東洋文庫26)、1964年、203ページ *4 1964年11月2日に、大島清氏が『高野岩三郎伝』執筆のため、原田美代さんから話を聞かれた時のメモ。法政大学大原社会問題研究所の原稿用紙4枚に書かれている。 |
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