二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(六)

学問文化の中心・長崎

長崎絵図

 房太郎がというより高野兄弟が、長崎生まれの長崎育ちであったことと無関係ではなかろうと思わせる点が、あと一つあります。それは、この二人に共通する学問への関心の強さとその語学力の高さです。東京帝国大学の大学院までいった岩三郎はもちろんですが、房太郎も実業界での成功を夢見る一方で、なぜか経済学になみなみならぬ関心を抱き続けていました。アメリカで出稼ぎ労働者として働き、故郷に仕送りを続けていた時でさえ、いくらかでも余裕があれば経済学書を買い集めていたのです。そればかりか、忙しい勤労の合間に、一読して感銘を受けたジョージ・ガントンの『富と進歩』の翻訳をすすめていました。実のところ私は、才能や適性からいえば、房太郎は実業家や労働運動家などよりはるかに学者に向いていたのではないかと考えています。家庭環境としてみれば学問とは無縁な仕立て職人の家に、あれほどの知的関心をもった兄弟が生まれ育ったのはなぜでしょうか。

 とくに英語力では、房太郎の力量はちょっと信じ難いほどのものがあります。それは彼が中心になって編纂したと思われる『和英辞典』、それに単独の著書『英和商業会話』*1の二冊の内容をみればすぐ分かります。とくに後者は彼の会話力を端的に示しています。また、数多く残されている英文の手紙や通信類から、その英作文の力量をうかがうことが出来ます。いくつか下書きが残っているので分かるのですが、彼が書いた通信はアメリカ人の雑誌編集者によって訂正加筆されることなく、ほぼそのまま掲載されているのです。正規の教育をほとんど受けなかったのに、なぜそれだけの英語力を身につけたのでしょうか。これは単なる努力では理解できません。

 努力というだけなら、彼より優れていた人は少なくないと思います。実は私の母方の祖父も、英語を身につけようと努力した点では房太郎に決して劣らないものがありました。二五歳から英語を学びはじめたという晩学で、しかも信州の山の中にいたというハンディキャップはあったものの、十数年間、毎日欠かさず英語で日記をつけ、一日三つは新しい単語を覚えることを自らに課し、毎週一回は外国人宣教師に英作文を直してもらうなど、涙ぐましい努力を重ねていました。が、ついにそのブロークン・イングリッシュは直りませんでした。
 芸術やスポーツと同様、語学も天賦の才能がものをいう分野だと思います。モーツアルトやマイケル・ジョーダンの例を出すまでもなく、努力だけではどうにもならない限界があります。高野房太郎の英語力には、彼がその面できわめて優れた才能をもっていたとしか考えられないレベルのものでした。彼がそうした語学の才をもちえたことの背景には、長崎という町に生まれ育ったことがあったのではないかと思うのです。

 いまさら言うまでもありませんが、長崎はいわゆる〈鎖国時代〉を通じて日本国内でただひとつ、公的に海外諸国と交流を許された唯一の町でした。この町を通じて生糸や各種織物、薬種など、国内では入手困難な品々が海外諸国からもたらされたのでした。そうしたモノの仕入れだけでなく、長崎はまた海外情勢について、あるいは医術をはじめ西欧の先進的な科学知識を仕入れることのできる〈情報拠点〉でもあったのです。
 こうした海外との経済的・文化的交流を直接的に担っていたのは唐通事、オランダ通詞らでした。通詞というと通訳がその仕事と思いがちですが、実際は通商実務も担当し、通弁だけでなく文書の翻訳もした専門職です。唐通事は中国船との交易を、オランダ通詞はオランダ船との交易がその任務です。唐通事、オランダ通詞とも先祖代々その職を世襲するいわゆる〈家職〉で、その数は唐通事約七〇家、オランダ通詞三六家といわれています*2。人数は、もちろん時代によって異なったようですが、唐通事は二〇〇人から三〇〇人、オランダ通詞は一五〇人前後でした。町役人は全体で二〇〇〇人前後ですから、通詞はかなりの比重といえるでしょう。
 もちろん、こうした通詞がすべて高い語学力をもっていたわけではありません。一六八九(元禄三)年にオランダ商館の医師として来日し、世界に日本を紹介する上で大きな役割を果たしたドイツ人・ケンペルは、彼が接したオランダ通詞について、つぎのようにかなり辛辣な評価をくだしています。

 「この通詞なるものが、概ねすこぶるお粗末な代物であり、辛うじて外国語の単語をでたらめに繋ぎ合わせ、しかもお国訛りで自己流に発音しうる語学力しかなく、大抵何を言おうとしているのかさっぱり判らず、通詞と話をするのにもう一人別の通詞を必要とする有様である」*3

 しかし、時代が経つにつれて、その語学力は高まって行きました。通詞を養成するシステムが整っていったこともありますが、同時に外国語の学習に適性をもつ人びとが増えたからでしょう。通詞の職は世襲制を建前としていましたが、実力がものを言う仕事ですから、実子に後を継がせず優れた力量をもつ若者を養子とした例が少なくなかったのです*4
 そうした通詞の間からは、単なる通訳スペシャリストというより、蘭学者や語学教師、とりわけ医師として高い評価を受ける人びとが生まれました。たとえば一七一一年に死去した楢林鎮山は門弟数百人を擁し、一八〇〇年に没した吉雄耕牛は全国各地から六〇〇人もの弟子を集めたといいます。さらにオランダ商館付きの医師らの間にも、シーボルトやポンペのように優れた先生が存在しました。かくて、江戸中期から幕末・明治初年にかけ、長崎は日本の学問文化の一大中心地となったのでした*5。オランダ通詞の養子たちも、そうした日本中から集まってきた若者のなかから選ばれたのでした。鎖国時代三〇〇年の間に、長崎には学問的関心が高く、語学に特別の才能をもつ人びとが集まったのです。私は、そうした人びとの血が、高野家や母方の山市家のなかに、どこかで混じっていたのではないかと考えているのです。





【注】

*1 法学士高野岩三郎・ヘラルド記者山崎要七郎・アトハタイサー記者高野房太郎共著『和英辞典』(大倉書店、一八九七(明治三〇)年一二月三一日発行)。
高野房太郎著『英和商業会話』(大倉書店、一八九八(明治三一)年一月一六日発行)。第五六回「和英辞典と英会話本」参照

*2 唐通事については『日本歴史大辞典』板沢武雄稿「通詞」、オランダ通詞の家数は、杉本つとむ『江戸時代蘭語学の成立とその展開 IV──蘭語研究における人的要素に関する研究』(早稲田大学出版部、一九八一年)三二ページ。

*3 ヨーゼフ・クライナー編『ケンペルの見た日本』(日本放送出版協会、一九九六年)七一ページ。

*4 杉本つとむ『江戸時代蘭語学の成立とその展開 IV──蘭語研究における人的要素に関する研究』(早稲田大学出版部、一九八一年)四〇ページ。

*5 「長崎に遊学した著名人としては、儒者の林羅山・貝原益軒・頼山陽・廣瀬淡窓などがしられており、洋学者としては野呂元丈・小関三英・前野良沢・平賀源内・大槻玄沢・伊東玄朴・箕作阮甫・高野長英・緒方洪庵、地理学者の長久保赤水・伊能忠敬、俳人の西山宗因・小林一茶、狂歌師の大田蜀山人、文人画家の田能村竹田、幕末から明治にかけての思想家として、西周・吉田松陰・福沢諭吉・森有礼・井上哲次郎など思いつくままならべても限りがない。その中には、江戸時代末期、画家として和洋折衷の画風を打ち立てた司馬江漢もふくまれていた」(瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社、一九七二年)二〇九ページ。




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