文明開化の子
先に、高野兄弟を〈文明開化の子〉と呼びました。それは何も、彼らが旧暦から新暦への切り替えで自分の誕生日さえ分からなくなったり、これまで全くなじみのない定時法で日常生活を送らざるをえなくなったという激動の時代に育ったからだけではありません。何よりも彼らは、文明開化の象徴ともいうべき新しい学校制度によって教育を受けた第一世代だったのです。教育は人を変え、人をつくります。身分制度のもとにある藩校や寺子屋で学んだ人と、「必ず
新しい学校制度を誕生させたきっかけは、明治五年八月に布告された「学制」でした。この新「学制」の基礎にあった考えは「学問は身を立つるの財本」とするものでした。勉強しさえすれば立身出世できる、誰でも偉くなれる、これが新たな学校教育の基本になっていました。この布告に応じて、わずか一年間に一万二五五八校もの小学校が全国各地に誕生しています。
ただ実のところ、房太郎がいつ小学校に入学したのか、その正確な年次は分かっていません。それどころか、彼が長崎で小学校に通ったのかどうかさえ分かっていません。弟岩三郎の追憶も、彼ら兄弟の長崎時代の教育については全くふれず、「私どもの小学校教育は共に近くの〔東京市日本橋区〕千代田小学校で受け」た(1)。「兄は浅草橋の千代田小学校から、つぎに〔東京市本所区〕江東小学校に転校し〔明治〕十四年に高等小学を卒業した」と述べているだけなのです(2)。しかし、この記述だけでも、房太郎が長崎時代に小学校教育を受けていたことは一〇〇%確実といってよいでしょう。
それというのも、当時の小学校は半年ごとの進級制度が採用されていたからです。前半四年が下等小学、後半四年が上等小学で、現在の小学校一年生が下等小学第八級と第七級、二年生は第六級と第五級というように数が少ないほど上の学年でした。半年ごとの試験に合格すれば進級し、四年目の後半に第一級を終え、さらに卒業試験に合格すれば下等小学卒業となりました。上等小学も同じように四年間で八回の試験を経て上のクラスに進みました。
ですから、明治一四年に高等小学校を卒業したという岩三郎の回想に間違いがなく、八年間かかって卒業したとすると、房太郎は長崎時代の明治六年に入学したことになります。これでは満四歳で入学ということになりますが、房太郎は明治元年の生まれですから数え年なら六歳でした。また当時、長崎では四月だけでなく、毎月二回、一日と一五日に入学を認めていたのです(3)。ですから、一一月か一二月ならば明治六年に入学した可能性も皆無ではないでしょう。
また当時は、上のクラスの試験さえ合格すれば短期間で昇級する〈飛び級制度〉がありました。したがって、仮に明治七年入学でも明治一四年に卒業することが可能でした。現に房太郎と同じ明治元年生まれの内田魯庵は、明治七年の入学、明治一四年の卒業です(4)。明治一〇年に東京に移住した時に近くの千代田小学校の下等小学のクラスに入っているのですから、入学年月はいくら早くても明治六年末でしょう。正規の学齢で入学したとすれば翌七年末です。
もし明治六年の入学だとすると、彼は日本に小学校制度が誕生したまさにその年の小学生、つまり〈明治新制小学校第一期生〉ということになります。その前年の明治五年八月三日(一八七二年九月五日)、いわゆる「学制頒布」があり、大学、中学、小学の「学制」が定められました。これに応じて明治六年に全国各地で小学校設立が相次ぎます。長崎でも同年三月一一日、
なおそれとほぼ同時の明治六年九月一五日に、長崎県全体で二九の家塾が設立を許可されています。このなかには旧島原藩内の塾も含まれており、旧天領の長崎町内の塾だけなら二〇前後です。おそらく新設はわずかで、大部分は既存の家塾が、新制度による開業許可を求めたものと推測されます。その中には、銀屋町の松下文平の塾が含まれており、生徒数は二五人と記されています(6)。明治七年になると、啓蒙学校は舊川小学校と改称され、周辺の四家塾は同校の分校になっています(7)。ですから、仮に房太郎が松下文平の塾で学んでいたとしても、明治七年には啓蒙学校改めの舊川小学校分校の生徒になったわけです。
【注】
(1) 高野岩三郎「囚われたる民衆」(『かっぱの屁』四一ページ)。
(2) 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一四五号、一九六八年一〇月、一六ページ)。
(3) 長崎県教育会『長崎県教育史』(上)(元版は一九四二年の刊行、ここでは一九七五年、臨川書店刊行の復刻版による)四八〇ページ。次に掲げる『魯庵日記』に付された内田魯庵の年譜は、当然のことのように四月入学、三月卒業と記しているが、これは検討を要する。卒業の月もたとえば、東京市京橋区城東小学校の第一回と第二回(明治一三年、一四年)は、ともに一一月であった(『城東尋常小学校要覧』、一九三五年九月、創立六十周年記念誌)。
(4) 内田魯庵『魯庵日記』(講談社文芸文庫、一九九八年)、二五五ページ。
(5) 長崎県教育会『長崎県教育史』(上)(一九七五年、臨川書店復刻版)五三八ページ。
(6) 前掲書、六三一ページ。
(7)
長崎市小学校職員会編『明治維新以後の長崎』(元版は一九二五年の刊行、ここでは一九七三年、名著出版刊行の復刻版による)九四ページ。