二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(八)

生い立ち──長崎時代


三菱会社沿海航路船

長崎から東京へ

 房太郎が長崎で小学生時代を送っていたちょうどその頃、九州一帯はただならぬ空気に包まれていました。明治七年の「佐賀の乱」、明治九年の熊本「神風連の乱」や福岡「秋月の乱」など〈不平士族〉があいついで反乱をおこしたのです。これら一連の事件の頂点が西南戦争でした。明治一〇年二月一五日、西郷隆盛は「政府に訊問の筋がある」として兵を率いて鹿児島を発ち、九州各地の不平士族はこれに呼応する動きをみせました。主戦場となったのは熊本で、後年、房太郎の親友となる城常太郎の生家も、この時の戦火に遭って焼失しています。
  長崎は戦場にこそなりませんでしたが、九州の最重要拠点のひとつでしたから、いつ西郷軍が攻めてくるか分からず、緊迫した情況に包まれました。西郷軍の進攻に備え、陸には熊本鎮台や同小倉営所の各一中隊、警視庁警官隊六〇〇人などが急派され、港には軍艦四隻が警備に当たりました。臨時海軍事務局も神戸から長崎に移され、政府海軍の本拠地は長崎に置かれたのでした。また大村には長崎運輸局が設けられて軍需物資の調達にあたるなど、長崎は西南戦争の兵站基地と化しました。さらに大浦外国人居留地に海軍仮病院が、長崎市内の一八の寺院と八三戸の民家には、政府側の軍団病院宿舎が置かれたのです。激戦時には長崎に送られてきた傷病兵は一日で数百人に達し、病舎には収容しきれずに片淵郷の畑地に仮小屋が建てられ仮病舎とされたほどでした(1)

 この年に高野一家が長崎を離れたのも、どうやらこの西南戦争と無関係ではなかったようです。再三引用している「兄高野房太郎を語る」で、岩三郎はつぎのように述べています(2)

 「この父この母の下で育ったが、十歳の時、一家をあげて東京に転住した。何故東京へ移ったかと云ふと、丁度明治十年戦役のあった年ではあるし、不景気で仕事がやりにくゝなったらしい。丁度横浜に汽船問屋をしてゐる叔父がゐて、呼びよせたので、東京の神田に移り住むことになった。」

 長崎の不景気は西南戦争の影響だけではありません。もともと日本中で長崎だけが海外貿易を許されていたことが、長崎の繁栄の基礎にありました。開国によってその特権的な地位を失ったため、国際商業都市・長崎の経済は地盤沈下してしまったのです。横浜が開港した安政六(一八五九)年には、早くも貿易総額のうち長崎の占める比率は五六・五%と半減していますが、その六年後の慶応元(一八六五)年になると僅かに七・二%へと落ち込んでしまいました。代わって新たに貿易の中心地となったのが横浜です。安政六年横浜の貿易シェアは三六・八%でしたが、慶応元年では実に九一・〇%と完全に長崎を圧倒し、ほとんど独占的と言ってもよいほどの地位を確立しました(3)。これは長崎貿易が減少したためというより、横浜の輸出入が激増したためにおきたことでした。家業を捨て横浜に新天地を求めた仙吉の兄たち、亀右衛門と弥三郎の決断は正解でした。それにもともと高野家のお得意先は武士でした。維新後はだれも裃などつくるわけもなく、高野家への注文は激減していたに相違ありません。亀右衛門らの横浜移住は、まさに先見の明があったと言うべきでしょう。
 横浜の亀右衛門・弥三郎兄弟は、西南戦争の報に接し、戦場に近い長崎で母のカネや弟一家がどうしているのか、心配となったのに相違ありません。仙吉一家を東京へ呼び寄せることを決意し、房太郎の両親が移住に踏み切ったのも、西南戦争があったからではないでしょうか。
 かくて祖母カネ、父母の仙吉・マス、姉のキワ、房太郎と弟岩三郎の一家六人は東京まで直線距離でも一〇〇〇キロの旅に発ちます。明治一〇年の何時なのか、どの道筋を通って東京に行ったのかも分かっていません。しかし年寄りや幼児を含む一家六人の旅行、それも長年住み慣れた郷里を捨て家財道具まで運ばざるをえない移住の旅となれば、陸路では無理だったでしょう。この年までに鉄道で開通していたのは東京・横浜間、京都・神戸間だけでした。東海道線の新橋・神戸間が全通したのはその一二年も後の一八八九年のこと、神戸・下関間が全通したのはさらにその一二年後の一九〇一(明治三四)年でした。つまり陸路の旅は、徳川時代とそれほど大きな違いはなかったと思われます。維新前、長崎・東京間は約一ヵ月の行程でした。幕末に川路聖謨がプチャーチンとの交渉を終えて江戸に帰ったときは、一月一八日に長崎を発ち二月二二日に江戸へ着いています(4)
 一方、海路は大きく様変わりしていました。江戸時代の和船では外海の航海は容易ではありませんから、通常の旅で使われた海路は下関・大阪間の瀬戸内航路だけだったようです。しかし開国後は洋式の大形船が輸入され、船旅はより安全なものとなっていました(5)。仙吉一家を呼び寄せた高野弥三郎は三菱会社の代理店をしていましたし、また三菱会社は西南戦争の輸送を一手に引き受けていました。そう考えると、長崎まで軍需物資を運んだ三菱会社の戻り船を利用した可能性が高いのではないでしょうか。




【注】

(1) 市制百年長崎年表編さん委員会『市制百年長崎年表』一〇五〜一〇六ページ。

(2) 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一四五号、一九六八年一〇月)、一六ページ。

(3) 藤野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小木代良『長崎県の歴史』(山川出版社、一九九八年)二七六ページ。

(4) 川路聖謨『長崎日記・下田日記』(平凡社 東洋文庫、一九六八年)。

(5)  広岡治哉編『近代日本交通史』(一九八七年、法政大学出版局)二八〜三一ページ。



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